因果のこと始め

文字数 3,041文字


村の外までの道のりを何とか踏破すると、これまでの緊張の糸がきれたのか、堰を切ったように疲労がドッと出てきました。

身体中から、活力がすうっと、抜けていくのが、わかります。

我が身ながら、体を思い通りに動かす事も出来ません。

生まれて初めて感じた、極度な消耗感でした。

もはや、喉もカラカラです。

水筒を持って来れば良かったと後悔しました。

鉛のように、重く感じる我が身を、引きずるようにして、兎鉢達と打ち合わせしていた場所まで、ほうほうのてい、で、何とか到着すると、前もって先回りをしていた多比野が周辺に誰も居ないことを確認して、荷車の道具箱の箱を開けます。

多比野が私の方を見て、黙ってうなずくと、私はゆっくりと、道具箱の中に入ります。

道具箱の中は、木工物特有の、ひのきの匂いに満ちていて、意外と居心地がよく快適でした。


「千歳様!なるべく揺らさずに走りますから!うおお!」


小柄な身体で、多比野は重い荷車を、軽々と引いて、走り出しました。

私は道具箱の中で横になり、膝を抱えたまま、静かに目を閉じています。


多比野が、道具箱の中にいる私を気使いながら、荷車を走らせてくれているおかげでしょうか。

荷車は早く進む割に、少ししか揺れません。

その僅かな揺れが私には、とても心地よいのです。

ここまでの疲労もあった為か、だんだんとウトウトし始めて来ました。

穏やかに揺れるゆりかごのような、乗り居心地の良さは、ついに、私を居眠りへと、いざなってしまったのです。



そのまま、七町(約750m)ほど行くと、やがて、八幡山の入口まで着ました。

「千歳様、八幡山の入口まで着きました!」

私は少々、寝ぼけまなこで、道具箱から出ます。

短い刻ながら、深い眠りだったおかげでしょうか、大分、疲労がとれて、心がスッキリしているのです。

「今から、僕が社まで行って来ますので、千歳様は、この辺りでお待ち下さい!」

そう言い残すと、多比野は社を目指して、ひと思いに石段を駆け上がってゆきます。


肝心の鈴を荷車の道具箱に忘れたまま、行ってしまいました。

何とも慌て者の多比野です。

途中で、鈴を忘れた事に気づいて戻ってくるのでしょうから、私は多比野が戻って来るまで、儀式用の鈴を小指に巻いて身に付ける事にしました。

私自身が鈴を無くしては大変ですからね。


『春風』

フッと、涼風が桜の花びらを運びながら私の頬を撫でて来ます。

なに気なく辺りを見回すと、山の入口と、周辺の木々、山の峰の風景は何とも美しく情緒に溢れています。

春の野山とはこれほど滋養に満ち満ちて、暖かく賑やかなのですね。

何か心身共に、清められて行くような気分。



春の野山に魅入っていると、なにやら、足元にすり寄ってくるものがありました。

足元を見てみると、兎鉢が以前、拾って来た猫がいるのです。

三毛猫のオスなので、当家の猫だと、すぐにわかりました、広い村の中でも、三毛猫のオスは、当家にしかいないのですから。

猫は喉をゴロゴロと鳴らしています。

私の事が分かるのでしょうか。


それにしても、この場所は当家より半々里(約1km)も離れている場所、猫とはこのような遠いところに来るものなのですね。

ここも、この猫の縄張りなのでしょうか?

いつも家の周りばかりをウロウロしている印象しかありませんでしたから、猫の、思わぬ行動範囲の広さを、まの当たりにして、少しだけ、見識が開かれた気分になります。

ややあって、猫は、気ままに、ふらっと何処かへ行ってしまいました。

「(どこに行くのだろう…?)」

私は、猫の行き先が、気になって、後をつけてしまいます。


ただし、万が一にも、多比野と、はぐれては大変ですから、私は持参した水灰を撒きながら、歩みだすのです。

この水灰は兎鉢の発案のもので、水に灰をある程度馴染ませ、そこから水気を抜いて、程よい重みを持たせたものです。

これを撒けば、足跡の目印になりますし、風が吹いて目印が消える事もありません。

数日もすれば、そのまま土の養分になるので一石二鳥らしいのです。


私は水灰を撒きながら、猫の後をついていくのですが、
猫は苔付きの岩場もすいすいと渡って行くので、いつまで経っても追いつけず、ついに私は歩みを止めてしまいました。

この辺りで、水灰も無くなりそうですし、戻れなくなってしまっては本末転倒です。

猫は自分で家に戻ってくるでしょうから、私は、そろそろ山の入口に戻って、再び、多比野を待とうと思いながら、入口までの帰路につくと、足元の岩の苔に足を取られてしまい、岩場近くの川に転落してしまったのです。

不意に落ちてしまったので、水中で、無意識に息をしようとしたら、容赦なく水が、口や鼻から入ってきます。

吐き出そうとしてバタバタもがくのですが、もがけば、もがくほど、意識は、遠のいてゆくのです。


水中は思いもよらない程、流れが強く、抗いようがありません、私は流れに翻弄されるままとなっていました。

上下前後が不覚になりながら、溺れ死ぬ寸前で、運良く振袖の袖が、水中の木片か木の枝に引っかかり、私はもうろうとした意識の中で、その袖を頼りにして、何とか川から丘に這い上がる事が出来ました。


川からあがると、途端に身体が重くなり、まるで、吸い寄せられるように、地面にへたり込むと、そのまま、しばらくは、立ち上がることも出来ませんでした。

川の水を吐き出しながら、ひたすら咳が止まりません。

息をするにも難儀しています。


肩で息をしながら、私が思案するのは、八幡山の入口からどれくらい離れた距離まで、流されてしまったのだろうか?、という事です。

せめて転落した場所まで戻らねば、多比野も私を見つけようがなくなってしまいます。


些細な好奇心が、またもや仇になってしまいました。



自身の立ち位置を知るために、辺りを入念に見渡していたのですが、この場所は何となく、見覚えのある場所です。

我ながら、不可思議です。

六歳から、十年間屋敷の外にも、出たことがない私が見覚えている場所…。

どういう事なのか困惑してしまいます。

そして、先程から背中のキズが、微かに、痛み始めていました。

何故か手足も震えて来るのです。


よくよく、前方の木々を見てみると、見覚えのある理由がよく分かりました。

そこにあったのは、ぽっかりと穴の空いた巨木…

そして、巨木のそばには、浅い崖があります…。

これは私が、幼少の頃、熊に背中をかすられ落ちた場所でした。


どうやら私は、巡り巡って、おのれが自覚もせぬままに、再び、この忌まわしい、場所に来てしまったようです。



幼い日の私は、こんなに遠い野原まで、一人で駆けて来ていたのですね。

眼をカッと見開いたまま、半ば忘我しながら、その場にへたり込んでいると、前方の茂みから熊の威嚇する声が聞こえてきました。

脳裏には、十年前のあの時の光景がふつふつと蘇って来ます。

茂みから、のそりと出てきて、私を威嚇し、睨みつけてくる大熊が、あの時と同じ熊なのかは分かりません。



さりとて、恐ろしい運命の重複であり、

恐ろしい宿縁です。



飼い猫の後をついていった。

猫よ、どこに行くのだろうと、ついて行った…。


それは微々たる好奇心。

運命は、そんな、微かな好奇心すら、許さないのでしょうか。


悔しいやら、

悲しいやら、

恨めしいやら、

狂おしいやら…。


予見出来なかった理不尽に、我が胸中は千々に乱れて行くのです。

今、私は無意識に川の水と、冷や汗に濡れた、こぶしを握りしめます。


その時、小指の鈴がチリンと小さく鳴りました。


まるで、何かの始まりを暗示するかのように…。


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