家紋無しの侍
文字数 3,527文字
私が、大熊に遭遇していた、その頃、多比野がようやく儀式用の鈴を忘れた事に気づいて、慌てながらに、道中を引き返していました。
「あ、鈴を忘れてた!!」
兎のように素早く駆けて、八幡山の入口まで戻って来ると、主人の姿がありません。
それで、入口付近に撒かれた水灰を確認すると、必死で私の跡を追うのですが、コケ岩が積み重なっている、川のそばで水灰の足跡が途絶えていたのです。
「千歳様、まさか川に落ちて…」
多比野の顔がみるみる青ざめます。
不吉な予感に囚われて狼狽し、立ちすくんでいると、遠くから微かに鈴の音が聞こえて来ました。
「千歳様!!」
多比野は大急ぎで、鈴の音の方に向かいます。
その頃、私は大熊と対峙していました。
大熊は鼻息を荒らげて、私を睨みつけています。
隙を見せれば、今にも駆け出して来そうなので、私も迂闊には動けません。
もはや、どうにもならず。
進退極まった私は、心の中で、見えない何者かに問いかけていました。
それは運命と言う名の何者かです。
それは天運と言う名の何者かです。
どなたか、天上より、私を見ている方があるなら、このような理不尽な仕打ちが、またと、ありましょうか?
迂闊に場を動いた私が悪かったのは素直に認めますが、そもそも人と言うものは、好奇心の塊ではありませんか
ああ、十年の時を経て、私はこ奴の餌食になりに、わざわざ溺死しそうになりながら、ここまで来たのでしょうか?
どの道、横死する命運ならば、いっそ、あの時に食われていれば、この十年、無為に苦しむ事も無かったでしょうに。
天神様…人はこの世に沢山いるでしょうに、何故、私だけが、このような惨い目に遭わなければならないのでしょうか?
…何故、何故。
…私だけが、…私だけが。
…… ワタシダケガ
これは愚痴。
行き場のない愚痴です。
その時、大熊に石を投げる者があります。
熊はギロリと、石の飛んできた方向を睨みつけます。
「千歳様!お逃げ下さい!!」
多比野が私を見つけてくれたようで、石を投げながら、熊を私から引き離そうとしてくれているのですが、熊は多比野のいる木の方に向かい、そのまま登り始めました。
「熊って木登りするのか!?」
多比野は慌てて木の上から降り、自分に熊を引きつけるために、手持ちの石をくまに当て全速で走るのですが、熊はあっという間に追いついてしまいます。
「うぎぁ!」
多比野は牛車に、はね飛ばされたが如く、すっ飛ばされ、そのまま動きません。
この時まで、多比野と私は、熊が人よりも遥かに早く走り、木登りなど平気でやってのけることを知らなかったのです。
動かなくなった多比野をよそに熊は私の方に、にじり寄って来ます。
ほんのり抱いた、生還の希望は泡と消えました。
大熊がにじり寄ってくるごとに心の臓が、張り裂けんばかりに鼓動するのに、私の脳裏には、この世に生を受けてから、今に至るまでの記憶が慌ただしく呼び起こされていくのです。
それは、奇妙な集中力でした。
人は臨終の際に、これまでの一生を走馬灯のように見ると言いますが、今、私が、まさに、そのような状態なのです。
「……………ぅぅうぁぁああぁぁ……!!」
私は無心に叫んでいました。
死を拒み、生を求める手負いの獣のように。
普段では出せないほどの大声です。
それは辺りに木霊しました。
大熊はピタリと歩を止めます。
死にゆく餌の最後の断末魔のように聞こえたのかも知れません。
野生の獣は、死にかけた獲物に無駄な害を加えないと聞きます。
ほおって置いても息絶えると勘違いしたのでしょう。
断末魔の悲鳴と勘違いした大熊は、私の声が止んでもなお、私が生きていたら、止めを刺しに駆け出して来るに違いありません。
延々と、叫び初めてから、どれくらい刻がたったのでしょうか、
とても長い時が経ったように思えました。
悲鳴を上げながら、私は思うのです。
…畜生……
やがて私の声は枯れ果ててしまいました。
辺りには詫びしい空気が流れます。
物悲しく、惨めな空気です。
無常にも小指の鈴の音だけが、微かながら伸びやかに響くのです。
私が動かない事を確認すると、大熊は、頃合と見たのか、のそりと近づいて来ます。
私は、頭を垂れて、恐怖とも、悲しみとも、わからぬ涙を無性に流していました。
『土をこするわらじの音に千歳は頭を上げる』
聞こえるはずのない音に、顔を上げると、恐ろしい大熊の前に、威風堂々と立つ者がありました。
その者は恐怖でひきつる私の前で、背中に引っさげていた強弓を手に取り、矢をつがえ始めました。
あえて、私の方を振り返らず、その者は言います。
「お下がりを…」
涼やかな声で、力強い響きでした。
強弓をつがえて大熊を前に怯む気配も見せない。
この勇敢な御方は何者なのか、私は測りかねていました。
ただ、腰の辺りに成人の儀式用の鈴が見えますので、成人の儀に来た同じ村の方だとは察しが付いたのですが、今は、それどころではありません。
その方と、大熊との無言の戦は既に始まっていたのです。
大熊は思い切り立ち上がり、大の字に体を広げて、立ちはだかる者を威嚇し始めます。
今の現状を見るに、大熊が有利にあるのは私の目にも明らかでした。
熊は分厚い肉におおわれていて、矢が命中したところで、大抵はかすり傷に等しく終わるのです。
逆に、この御方は矢を下手なところに当ててしまえば、その瞬間たちまち熊に食い殺されてしまうのです。
そもそも熊とは、本来、大の男衆、数人がかりで、長槍を持って退治するものなのですから。
『凍りつくようなピリピリとした場の空気』
殿方は強弓に矢をつがえたまま、大熊が動き出す刻を待っています。
大熊も、その事を本能的に察知しているようでした。
この御方は、恐らく、大熊が動き出す瞬間に、大熊の眉間を狙うつもりなのでしょう。
弓で射る側からすれば、自身よりも巨体な相手が、立ち上がって、こちらを見下ろしている方が眉間を当て辛く、巨体で前のめりに攻めて来た方が、頭部を狙いやすくなるのです。
現状では、眉間を狙うぐらいしか退治をする方法がないのです。
ですが、それは針に糸を通すかのような刹那の隙に過ぎなかったのです。
弓をつがえた御方が、ちらりと私の方を見ました。
その時に何故か、私はその御方の意図を汲み取る事が出来たのです。
「(この方が欲しているのは大熊の僅かな隙…ならば…)」
私は、前にサッと出ると、水灰の残りを袋ごと大熊に投げつけました。
水灰入り袋は大熊の胸辺りにあたり、水気を含んだ灰が一瞬、熊の顔を覆います。
大熊は一寸退くと、気を取り直して、猛然と襲いかかって来ます、しかし、先程の水灰の為か、ほんの少し躊躇いが残っています。
「勝負!!」
その方はカッと目を見開いて、弓を構え矢を放ちます。
刹那の隙を通すように、御方の矢は、見事に熊の眉間を撃ち抜いたのです。
それでも熊は襲いかかる事を辞めず、その爪はこちらにまで届かんばかりだったのですが、その御方は両手を広げ、私を庇う姿勢を取りました。
その瞬間、熊はピタリと動きを止め、ゆっくりと崩れるように倒れていきます。
ゆっくりと、崩れるように倒れゆく熊ごと、私の忌まわしい十年前の記憶も私の中で崩れていきます。
大熊が、完全に地に伏した刻に、私は、すでに忌まわしい過去と決別していました。
空を見上げると、夕刻の夕陽が沈みながら輝いています。
それは私には新生の朝日に見えたのでした。
大熊を一矢で仕留めた御方は、私を見て言います。
「山里家の方ですか、なんとも災難でしたな」
「…ご助勢を賜り…あ、ありがたく…」
殿方との会話に慣れていない私は、まともに、この御方のお顔を見る事も出来ません。
それでなくても、なんと言うか、とても端正なお顔をしていて、眼差しは精悍そのもので、背丈はゆうに6尺(約180cm)はあり、隆々な体つきで、気品があるのです。
気恥ずかしくて、気遅れ致します。
身なりからして、武家の方のようなのですが、不思議な事に、着物には家紋が刺繍されていないのです。
「助勢と言うならお互い様です、貴女が袋を投げねば、拙者の弓の矢は的を外れていたかも知れませぬ」
「…はぁ、左様ですね…」
我ながらなんとも気の効かないお返事です。
自分が自分で歯痒いほどです。
私は、どうかしてしまったのでしょうか?
両ほほが、ほんのり熱く感じ、なにか、頭がポッとなって、上手く思案が出来ないのです。
なんとか次の言葉をひねり出します。
「貴方様はどこのお家の方でしょうか?武家の方とはお見受けしたのですが」
「うん、拙者は加賀美家のものです」
「加賀美家?…」
「加賀美家が四男、加賀美、千代丸と申します」
加賀美家の四男と聞いて、私はハッとしました。
この方こそが、「愚図郎殿」とあだ名される、
加賀美千代丸様であったのです