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 多くの銀行がそうであったように、帝都銀行もバブルの後始末に苦しみました。
 回収困難な投融資、不良債権が多くありました。それらは決算上、回収確率によってⅡからⅣの不良債権に分類され、回収不能分には引当金を計上しました。帝都銀行の財務内容は著しく悪化しました。
 経済の根幹、産業の土台たる金融業の使命を忘れ、私利私欲に走った結果ですから、おのれ以外に恨むべき相手はありません。ですが行員たちの中には、世間や時代のせいだ、自分たちは運が悪かったのだと本気で考える者たちも少なからずいました。すべての人間が人格者ではありませんからやむを得ないこととはいえ、思い出すと今でもこの貧弱な胸が痛みます。
 E社が破綻して、Tが亡くなり、橋本は海外に爆弾を隠して銀行を去りました。帝都銀行は、瀕死の深手を負いながらも、何とか存続を許されたのです。
 首の皮一枚で命をつないだ私たちの次の試練は、目の前の不良債権の最終処理でした。公的資金なしで存続を許されたとはいえ、保有する不良債権がなくなったわけではありません。再び不動産価格が暴落したり、債務者の破綻が続いたりすれば、危機はたやすく再燃します。今は問題のない融資先でもこれから経営が傾けば不良債権になります。追加で引当金を積まなくてはならなくなります。不良債権がある限りそのリスクはなくならないのです。そして景気の見通しはどこまでも続くトンネルのようでした。
 いかに迅速に、かつ円滑に不良債権問題を最終的に片づけるか。これは帝都に限らず、当時の金融機関経営上の最大の課題でした。
 東京丸の内の本店ビル十五階の役員会議室で、私たちは、対応方針を決めるための議論をしました。何度も何度も。消耗する時間でした。
 簡単に結論が出ることはありませんでした。みな先のことなどわかりませんし、失敗したときの責任を取りたくない。役員会では「一体誰のせいで」「決裁の手続きがおかしい」「私は最初からやめておけと」等々、保身のための発言ばかりが聞かれ、議論はなかなか進みませんでした。
 選択肢が二つしかないことは、みなとっくにわかっているのです。不良債権の償却を即時一括でやってしまうか、先送りするかです。
 篠田は先送りを主張しました。
「一括処理などすれば、確かにことはいっぺんに済むかもしれないが、その年の決算は大赤字になる。配当が出せないから株主の不興を買うだろうし、財務諸表もひどいことになる。風評被害もすごいだろうし、格付にも悪影響があるだろう。結局は現場の行員たちが苦労することになる。経営陣だって、赤字決算の責任を取らなくてはならないじゃないか。頭取に、決算発表の記者会見や株主総会で頭を下げろと言うのか。そんなことをさせようというのか。
 ここはひとまず最終的な対応を保留して、もう少し様子を見るべきだ。相場が以前よりよくないのは確かだが、足元では、見ろ、落ち着いてきている。毎年、赤字にならない範囲で少しずつ償却していけばいい。多少時間はかかるかもしれないが、その間に相場が回復すれば、そもそも不良債権ではなくなるのだから、トータルの償却額も少なくて済む。考えてみろ。一括処理で大怪我をしたその次の年に、相場が急回復したらどうする。他行に笑われる。帝都だけが馬鹿をみることになる」
 篠田はそう言って役員たちを説得しました。がんがんと壁に響くような高圧的な声でした。
 頭取のことを言っていますが、実のところは自分が会見で頭など下げたくないということだと私は理解しました。不動産事業部は篠田の傘下で、橋本は篠田派の実質的なナンバー・ツーでしたから、篠田はこの件ではかなり主犯に近い立場と見られていたのです。
 それまでに築き上げた政治力のおかげでまだ一定の発言力を維持してはいたものの、彼にしてみれば、不良債権による業績悪化と自分を結びつける行内世論が勢いづくことを恐れていたのでしょう。不良債権のことはできるだけ行員たちの意識から遠ざけたいのだと私は解釈しました。
 そしてこう反論しました。
「この先、不動産の相場が上がればいいが、そんな保証はどこにもない。さらに下落したらどうするのか。傷はどんどん大きくなって、帝都銀行は、ようやく回避したはずの債務超過の危機にもう一度直面することになる。もし相場が今のまま安定したとしても、この先何年も財務諸表に不良債権が残り続けることになる。その間は格付けの好転など期待できないし、それはすなわち、私たちの世代の負の遺産を、次の世代に引き継ぐということだ。トータルで見れば、それがもっともマイナスの大きいやり方だ。私たちが最も重視すべきは時間だ。一日も早く不安の根を断ち切り、新しく生まれ変わった帝都銀行を、世間に向かってアピールするのだ」
 役員会では意見が真っ二つに割れました。総じて会長や専務など、古参の役員たちは篠田について先送り派となり、年次の若い常務層は、私と共に一括処理を主張しました。頭取は立場をはっきりさせませんでした――当初は。じっと黙って、私たちの議論に耳を傾けていました。
 初日は、平行線と堂々巡りの議論が続きました。若手組が論理的に議論を積み上げようとしても、古参組は感情論で反対します。このままでは埒が明かないと思ったので、私は傘下の経理部長にいくつか、経済シナリオごとのシミュレーションを作らせ、二日目はそれを使って、帝都銀行がいかに危うい崖の上に立っているのかを説明しました。これで何人かが考えを変え、多数決でいえば、一括処理派が少し優勢になりました。
 二日目の会議が終わった後、私は副頭取――篠田に呼び出されました。銀座の和食屋の個室でした。
 言い忘れましたが、篠田と私は同期入行です。東京タワー竣工の年でした。日本は高度成長の真っただ中で、第一回の東京オリンピック、東海道新幹線の開通、大阪万博など、世の中に明るい言葉がたくさんある時代でした。帝都銀行も、国の経済成長を上回る速さで成長を続けていました。私たちにとって世界は輝いていて、未来には希望しか見えませんでした。
 私たちは入行式で知り合い、隣りあう支店で営業成績を競ったり、同じ時期にニューヨークとロンドンの駐在に出たりして、切磋琢磨を繰り返した仲でした。お互いの実力と努力と、何よりも成長しようとする姿勢を、若い頃は認め合っていました。少なくとも私はそう信じています。
 入行から十年ほど経って日本が世界第二位の経済大国になった頃、私は本部に入り、総務部や経理部といった一般管理部門の所属となることが多くなりました。一方、篠田は不動産を中心とした資産運用部門に軸足を置くようになりました。このようなことは人事が決めることで、当人の意思とはあまり関係がないのですが、お互いが役員になって、不良債権処理の議論で対立することになるとは、因縁を感じたものです。
 むかしみたいに腹を割って、ざっくばらんに話そうや。篠田は宴席の冒頭でそう言いました。
「おまえの言い分もわかるが、本当にそんなやり方でいいと思うのか。相当な荒療治だ。株主総会も記者会見も収まりがつかなくなるぞ」
「そっちこそわかっているのか。最大の難所を越えたとはいえ、峠はまだいくつも残っている。一つでも対応をしくじれば帝都は潰れるのだ。そうなったらおれたちは、大銀行を潰した経営者として不名誉な名を残すことになるんだぞ」
 そんなやり取りが何度か続き、正面からの説得が無理だと悟った篠田は、私に酒を注ぎながら――私はぐい飲みをそのまま卓に置きましたが――こう言いました。
「今日のシミュレーションだがな、経理部長が数字にミスがあったと言っていたぞ」
 私は耳を疑いました。そしてすぐに悟りました。篠田は経理部長に手を回し、懐柔したに違いありません。
「Oに――経理部長に何をした」
「何もしないさ。算出根拠を聞いただけだ。詳しくな」
 本当のことをしゃべるわけもありません。――ポストをチラつかせたのか、部長層なら叩けば出てくる過去のホコリをネタにしたのか、あるいは私生活の不祥事を掴んで揺さぶったのか。
 私は、篠田が同期である私を相手にそこまでやってくるとは思っていませんでしたし、部下である経理部長の矜持を信じてもいました。甘かった。迂闊のひとことです。
 会議というのは大きなものになればなるほど、その結論は会議の外で決まるものです。あるいは休憩時間に。水面下での駆け引き、根まわし、ロビイングというやつです。
 進行中はグダグダと退屈な議論ばかりが続き、傍聴していて何とつまらない会議だろうと呆れていたのが、休憩時間が終わった途端、先ほどまでの勢力図ががらりと変わって一気に結論が出たりするのです。それは何も日本に限りません。国際的な会議などでも同じです。始まる前に終わっていることも多い。
 篠田が本部に入ってから勢力を大きく伸ばしたのは、こうした寝技に持ち込むような懐柔戦術に長けていたことと無関係ではありません。そのことを私は忘れていました。いえ、忘れたかったのかもしれません。若い頃のことを思い出して、知らず知らずのうちに彼の良心を信じたがっていたのかも……。
「経理部長は、明日の会議で修正版を出すと言っていたから、おまえも承知しておいてくれ、ただし修正版は、おれが担当する不動産事業部の市場予測も加味したものだから、おれから説明するよ。経理部担当のおまえに無断でいきなりそんなことをしたら申し訳ないから、事前に伝えておこうと思って、今日は来てもらったのだ」
 そう篠田は言いました。
 彼の言う通り、経理部は私が担当している部署ですから、経理部長の裏切りは私にとって腹立たしいものでした。弱みを握られたのだとしても、せめて先に報告がほしかったという悔しさもありました。これで経理部長は篠田派に取り込まれてしまったようなものです。私は別の戦術を考えなければならなくなりました。
「篠田、おまえは間違っている。帝都銀行は、図体はでかくなっても、内部はまだ合併企業特有の無駄が多い会社だ。出身行ごとの派閥意識が強くて一体感がない。そのせいで効率化が進まない。今はこれに最優先で取り組むべきだ。不良債権というマイナス要素はできるだけ早く、完全に断ち切って、過去のものとする。そうして従業員が一丸となって未来へ向かっていくのだ。そのための具体的なビジョンを明確に示すことが経営の責任だ」
 もちろん、これで動くようなら篠田も初めから先送りなど主張しません。そんなことは百も承知なのです。その夜は結局、経理部長を奪われた私の失点に終わり、翌日の役員会では先送り派が優勢となりました。
 篠田が先送りを主張するのは、自分が屈辱的な会見に出たくないからだと私は思っていました。しかし銀座の夜の後、本当にそれだけだろうかと考えました。何故かと言われても説明は難しく、具体的にどこがどうとは言えないのですが、その夜の言動がほんの少しだけ引っかかったのです。
 そして――ずっと後になってから、あることに思い当たりました。
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