文字数 3,990文字

 おれの親父は、東京のはずれにある信用金庫に勤めていた。小さくて地味な信金で、地場で細々と商売をしていた。父も、仕事そのままの地味で真面目な男だった。
 穏やかな性格で、怒った姿を見た記憶がない。母親にも優しかった。子どもの頃のことでうっすら覚えているのは、自宅の濡れ縁で母親と日向ぼっこをしている光景と、親父がいつも決まった時刻に帰ってくる、つまらないほど平穏な日々だ。
 やがて戦争が始まっていろいろと滅茶苦茶になった。親父は戦争の終わり頃に兵隊に取られたが、戦地には送られず、福岡だか久留米だかで終戦を迎えて戻ってきた。
 親父が不在の間に、勤務先の信金は帝都銀行に吸収されていた。戦時中の荒波を小さな信金は乗り切れなかった。帝都銀行による救済合併だった。
 救済合併で、救済された側の人間が冷遇されるのはごく自然なことだ。そして冷遇したほうは気にも留めず、されたほうは深く覚えているのも、ごくごく自然なことだ。
 合併前、親父は経理の課長だった。合併後は帝都銀行の経理部の一職員になった。経理部にはもっと前に吸収合併された銀行の人もいた。同じように冷遇――というか差別――されていたが、先に吸収された方がえらいみたいな妙な序列があった。
 元の信金の経理部のメンバーは、合併までにあるいは退職し、あるいは戦死して、帝都の経理部に移ったのは親父一人だった。仕事場で親父は孤独だった。年齢でいえば親父より若い行員もいたが、みな親父よりも先の合併組だったり、帝都生え抜きだったりで、親父は部の誰よりも低い立場に置かれた。
 戦後の混乱とインフレへの対応、それに合併の後始末が加わり、経理部は膨大な事務作業を抱えていた。部員は三十名ほどいたが、合併にかかる仕事は親父一人におりてきた。それ以外の業務とあわせ、親父は他の人たちの倍もの業務を背負うことになった。早朝から深夜までの勤務が続き、昼休みもまともに取れなかった。それでいて残業代などなかった。だが何しろ最下層だ。不平や文句など思っても口に出すことはできなかった。
 今の時代ならどれもコンプライアンスの面でアウトだが、むかしはそれが普通だった。労働者の権利など確立されてはいなかったし、嫌なら辞めろと言われるだけで、辞めたって行き先などない。だからどれだけ仕事が多かろうがやるしかない。当時の常識にしたがって、親父は頑張った――おふくろと幼いおれがいたからな。
「みな心が荒んでいた」、後に親父はそう言った。まるでそこにそいつらがいるみたいに病室の壁の奥をじっと眺めていたな。
 親父の信金の前に帝都に吸収されたのは、埼玉のS信金だった。明治期にできた小さな信金で、昭和恐慌を乗り越えたあたりで経営が傾き、戦争が始まると同時に帝都に身売りを申し入れた。帝都からすればその他大勢、どうでもいいような小さな合併だったろう。
 親父が加わったとき、経理部にはS信金出身の男が一人だけ残っていた。親父がくるまではその男が最下層民だった。頭も性格も要領も悪くて、なのにやたらプライドだけは高くて、口が臭くて背広の肩にフケを散らした、実に不快な男だったそうだ。定年間際の使えないその男は、職場ではほとんど無視されていた。
 そのクズ男がここぞとばかりに親父をいじめ始めた。それまでの鬱憤が溜まっていたんだろうな。周囲は見て見ぬふりだ。というか、みな手一杯の仕事を持っていたから、最下層の二人が何をしていようと、構っている余裕なんかなかったのだろう。
 そのクズ男を仮に――あえて最低とは言わねえぞ、もっと下が絶対いたはずだからな――Zと呼んでおく。直前に合併の後処理の事務をやったのはZだから、親父はZに指南を乞うた。
 Zはただじゃ駄目だと言った。親父は呆れて、どうしろというのかと訊ねたら、教えてやるから金を払うか自分の仕事を肩代わりしろと言ってきた。親父は相手にするのを止め、時間は少しかかったが、自分で調べて合併事務をやり切った。
 大変な仕事を一人でやり切った親父を、上司である課長は褒めるでもねぎらうでもなかった。ただ小さな声で今回は早いな、とつぶやいたそうだ。それ以上の関心が払われなかったことについて、親父は別に気にしなかった。長時間労働には慣れていたし、仕事は他にも山とあった。
 収まらなかったのはZだ。親父が自分より要領よく合併事務をこなしたことが気に食わなかったに違いない。
 数日後、執務室内の金庫で保管していた現金がなくなった。大金だったので経理部は大騒ぎとなった。Zがそれを親父の仕業だ、金庫の管理簿の記載に親父の開閉記録があると言った。むろん親父はそんなことをしていないし、管理簿の記載も身に覚えがない。言いがかりだ。
 ほどなく親父の疑いは晴れ、真犯人はZだと判明した。現金は親父の机から見つかったが、Zがそこに入れるところを見ていた行員がいたのだ。管理簿もZによる虚偽記載と判明した。親父の仕事ぶりを見ている人も何人かいて、そろって「そんな馬鹿なことをする人だとは思えない」と証言したことも大きかった。Zについては逆の評判ばかりが聞かれた。
 Zは定年を目前にして懲戒解雇になり、職と信用と退職金まで失った。親父に悪態を突きながら去って行った。――完全な逆恨みだ。何という理不尽。
 ところが、もっと理不尽なことが親父の身に降りかかった。課長から、君も辞めてくれと言われたのだ。
 課長の言い分はこうだった。大企業である帝都銀行の経理部にはこれまでいろいろなことがあったが、これほどの不祥事は初めてだ、自分は部長から管理不行き届きをこっぴどく叱責され、原因究明と再発防止を徹底せよと厳命された、そこで一応確認したいんだが――君にも落ち度があったんだよねえ。
 親父は唖然とし、すぐに反論した。感情的になったら相手の思うつぼだとわかっていたので、冷静を保ち、言葉を尽くして説明した。だが課長の言は決定事項だった。
 親父は追い出された、さすがにばつが悪かったのか、課長は水面下で再就職先を紹介してくれた。少額の融資取引はあるものの、大銀行とは較べるべくもない小さな金属部品工場だった。そこの経理職だ。
 どうして蹴らなかったのか。やっぱり家族がいたからか。親父はそのときの気持ちを死ぬまで語らなかった。そんなことは他人にしゃべるもんじゃないというのが戦前の男の矜持だったのだと思う。あるいは臆病さ。
 わからないもので、追いやられた先の会社は高度成長期に業績をぐんぐん伸ばして、何と上場を果たした。今でも立派に存続している中堅企業だ。ふん、帝都よりだいぶ長くもってるじゃねえか。ざまあみろ――って言う相手がもういねえな。その会社の経理部長というのが親父の定年時の肩書だった。
 最後はおふくろと二人――おふくろも何だかんだで長生きしたな――、穏やかな老後だった。二人とも二十世紀の終わり頃、だから帝都が潰れたのと同じ頃に死んだ。もう、大むかしだな。
 就職先が帝都銀行に決まったとき、おれは親父が帝都銀行にいたことを初めて知らされた。親父が、そう言えば――という感じで話してくれたんだ。おれはびっくりして、息子が帝都銀行に入ったら嫌だろうなと訊いたが、親父は別に反対もしなかった。好きにすりゃいい、おまえの人生だ、ってな。気持ちの整理なんかとっくについていたんだ。別の場所でしっかりと人生を取り戻していたから。
 それから三十年以上経って、おれが頭取の内示を受けたとき、病院のベッドで寝ている親父に報告したら苦笑していたな。「まったく何の冗談だ。気をつけろよ、ありゃろくな銀行じゃねえぞ」と言うからおれは「知ってるよ」って答えたもんだ。
 ――ああ、そうか。
 おれは帝都に入って、親父の仇を討つつもりだったのかもしれねえな。
 頭取になって、見事に潰して、目的は果たしたことになるんだろうか。

 しかしあのとき、おれは帝都銀行の存続に燃えていた。そのためには何でもするつもりだった。
 つぎはぎ組織の寄せ集め集団で、だから非効率的なところがたくさんあって、ものごとはなかなか決まらないし、出身行だけじゃなく出身大学の派閥もあったりして、足の引っ張り合いや面倒くさいことがたくさんあった。
 だがな、国内最大の銀行での仕事はやっぱり面白かった。たまたまだろうが、おれの若い頃の上司や部下にそれほど嫌なやつはいなかったし、仕事を離れれば気持ちのいい同期連中もたくさんいた。
 むかしの日本企業には、勤務時間が長いとか、上下関係が厳しすぎるとか、私生活まで干渉するとか、今から見ればもっともな批判もたくさんあったがな、みなが同じ方向を向いて突き進んで、自分と会社が成長して、生活がどんどん良くなっていくことを実感できて、日本という国が世界の信任と尊敬を次々と勝ち取っていったあの時代、あの高揚感と達成感の中で仕事ができたことを、おれは人生の幸運だと思うんだよ。
 つらくて腹の立つことだってたくさんあった。とくに破綻のときはな。
 メディアで叩かれ、国会で吊るし上げられ、株主総会や記者会見で頭を下げ続けて、およそ思いつく限りの暴言と罵倒を浴びた。罪人扱いされ、預金者や株主、取引先、そしてほかでもない行員たちから恨まれた。家族はしばらく外出もできず、それでもおれを気づかってくれた。飯も食えず、眠れず、何キロもやせた。昼も夜も昨日も今日もわからなくなって、頭の中がぐるぐる回って、体も心も追いつめられた。
 だが、それも時間が経てば止んだ。どんな嵐も過ぎていくものだ。今はもうすべてが遠い思い出だ。死を前にして心を乱すものはない。
 おれの人生は、あの時代、あの場所にたしかにあった。あの場所にしかなかった。親父が言っていたせりふの意味が、この年齢になってよくわかる気がするんだよ。
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