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 さあ、これで主要な二つの障害がなくなった。ここまでたったの一か月だ。アメリカの女社長と約束した期限まであと二か月もある。嘘みたいな上首尾だ。我ながら大したもんだと思ったよ。
 ここからは、より具体的な実務面の調整だ。まだお互いの内部でも機密扱いだったが、公表までにどこまで詳細を詰めておけるかが大事だ。それができていないと実際に動き出してから現場が混乱し、結局はスムーズにいかなくなる。
 東洋はA、帝都はおれが交渉窓口となった。
 思った通り、Aはかなりタフな交渉相手だった。筆頭役員のくせにあらゆる実務の細部にまで精通していて、出資の条件だといって、帝都内部の実務の細かいところまで変更や譲歩を求めてくる。しかも即断せよと言う。「この程度のことは今ここで決断してくれ。決めるべきことはまだ山ほどあるんだ」という調子だ。こんなことが毎日、いくつも続いた。――くたびれたなぁ、あんときは。
 一度だけ、あちらからサポートを求めてきた。「想定外のことが起こった。今まで賛成していた常務が健康問題で退任し、後任者に説明したところ強硬に反対している。帝都は信用できない、不良債権はもっと多いに決まっている、専務は騙されているに違いないと言って聞かない。君の助力が欲しい」というわけだ。おれは秘かにあちらの新常務に会いに行った。
 さすがに居酒屋というわけにはいかないから、築地の料亭でAと三人で会って、おれは誠心誠意説明した。新人さんは相手方の頭取が出てきたというんでびっくりしていたが、何とか納得してくれた。
 翌日、初めてAからほめられたよ。「君もなかなかやるじゃないか。昨夜の話はよかった。常務は君の熱意に感動したと言っていたし、僕も発表後の行内向けの説明に夕べのフレーズを使わせてもらおう。
 先日の君の新規事業計画プランもよく考えられていた。銀行はともかく、君は少しは成長したようだな。厄介なわりにメリットの小さい仕事をここまで予想外にうまくやっている。発表後は引退するつもりだと言っていたが、どうだ、東洋の子会社の非常勤役員として残らないか」ってな。引責辞任するんだからそんなことできるわけがないだろうと断ったら、「無理にとは言わない。こちらも人材に困っているわけではないからな」だとさ。
 実務面の準備も順調に進んでいった。
 主要部門の各部長に、最も信頼できると判断した課長と実務力の高い職員を極秘で提携準備事務局に任命した。選定後、おれから直々にお願いして回ると、みな感激して絶対に秘密は守ると約束してくれた。
 総務部と法務部は、監査法人や顧問弁護士への根回しと相談をして対株主や対取引先の説明に向けた理論構築をした。
 経理部や経営企画部では提携交渉で東洋が求めてきた店舗の統廃合などの合理化、組織改正や人員シフトの計画などを策定した。マスコミ発表後の株価変動のシミュレーションもやった。提携のシナジー効果が十分に期待できる形での計画ができあがった。
 広報部を中心に、マスコミ発表の準備を進めた。発表日や記者会見会場を決め、読み上げとリリースの原稿を数種類作成し、詳細な想定Q&Aも準備した。
 主要株主に対しては、事前に伝えるわけにはいかないが、リリースと同時に人を差し向け、丁寧に説明をするよう手配した。主要な取引先にも連絡の遅延が生じないよう最大限の配慮をした。発表は金曜の夜にして、株式市場への影響を最小限に抑えるよう設定した。
 そして行員向けには、経緯説明と提携に伴う手続き等を詳細に記したマニュアルを、部門別に作成した。退職希望者にはできる限り手厚い上乗せ退職金を準備した。そして管理職の連中には、管理職の何たるかをもういっぺん考えろという意味で、管理職用のマニュアルを大幅にリニューアルして準備した。
 提携の条件が救済される側にとって厳しくなるのはやむを得ないが、最後はAがかなりの配慮を見せてくれた。普通なら給与の削減を含めた大規模な経営合理化が求められるところだが、Aはこれ以上の人材流出を防ぐためという理屈をつけて、給与規程の見直しを最小限に抑え、最終的な決定権を帝都側に残してくれた。これならこちらの行員たちの不満も何とか抑えられるだろうと思った。
 準備は常にAと連絡を取りながら進めた。情報とアイディアを交換し、お互いの意見を遠慮なく戦わせた。充実した時間だった。おれは、Aとおれの間に信頼関係が築かれていくのを感じていた。
 思えばあの三か月間、おれは入行以来最大のやり甲斐を感じて仕事をしたな。頭取になってからこんなに働くとは、それがこんなに充実しているとは夢にも思わなかった。受けるんじゃなかったと後悔したのが嘘のようだった。
 後は、両行の内部での取締役会と株主総会での承認決議、両行合同での当局あて提携の認可申請へと進んでいくだけだ。
 本当は、帝都側としては当局への耳打ちを早くしておきたかった。
 何しろ十年前に当局を欺いたという負い目がある。まずその謝罪と、落とし前は頭取の引責辞任でつけますという方針を伝え、新たに発覚した不良債権は東洋との資本提携によって処理する――という対応方針をセットで提示し、内々に了承を得ておくのだ。マスコミ発表はその後にする。そうしておかないと当局の心証が悪くなる。その後の手続きもスムーズにはいかなくなるだろう。
 だが、それは両行の取締役会での決議が済んでからのほうがよいだろうとAは言った。ここまで来れば否決されることはないし、負い目があるからこそ、決議後のほうが当局に本気度を示せる。説得力が増す。その通りだとおれも思った。
 九月の……ありゃ、日付を忘れちゃってるな。あれだけ重要な、おれの運命を決めた日だってのに、人の記憶なんてあいまいなもんだ――定例の取締役会の日がXデーと決まった。東洋でもその日に取締役会を開催することになっていた。決議の直後に当局あて申請を行い、平行してなるべく早期に臨時株主総会を招集し、合併承認の決議をする。そういう段取りだった。
 あんなに重要な日付だというのに、まったく……。

 そうだよ。失敗したんだ。
 提携は実現しなかった。帝都は潰れた。
 ここまでうまくいっていたのに、何故しくじったのかって。
 それはな――
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