文字数 3,534文字

 矢口が寺にいるというのは傑作だな。修行してこいと誰かに言われたのかな。それとも心を入れ替えたか。まさかな。
 あんたが聞いた話のうち本当のことは、きっと実家が寺だったってことくらいだぞ。
 帝都銀行がその晩年に内部の分断を深めて、優秀な人材をどんどん失っていったのは、あいつのせいなんだ。おれに言わせりゃ、帝都崩壊の戦犯、ダントツのナンバーワンはあいつだ。
 篠田の悪口を言っただろう。派閥をつくって悪事をはたらく黒幕、真の悪人だと。そう言っておけば自分のことを覆い隠せるからな。お得意の印象操作だ。
 自分が本部に入ってからやってきたことは言わなかっただろう。
 表向きは、周囲に担がれて仕方なく。自分ではそんなことに興味はないんだが。そんな顔をして、あいつこそ派閥政治が大好きなんだ。マニアだよ。自分がお山の天辺にいないと気が済まない。だからそういう状況を意図的に作り出す。その手口は実に巧妙で、多彩だ。篠田なんか目じゃない。
 自派閥以外の人間が伸びてくると足を引っ張る。早めに潰す。最初はあることないこと、小さなスキャンダルの気配を噂話みたいにバラ撒いて、女性行員の間での評判を落とす。次いで若手の男性行員だ。そうやって若いほうから中堅、管理職と崩していく。並行して相手の私生活まで調べ上げて弱みを握る――あんたみたいな探偵を使ってな。
 頃あいをはかって、巧妙に仕組んだ事件を起こす。ちょっとした額の横領だったり、事務ミスだったりする。それが発覚したときに、矢口は陥れるべき相手を猛然と攻撃するんだ。そのときには、相手とその一番の側近以外は全員が矢口側についているのだから、追い落とすのは造作もない。
 相手はたちまち失脚し、派閥の勢力はあっという間に塗り替わる。相手にしてみれば何が起こったのかもわからないうちに転落し、気づいたときには味方は一人もいない――そういうのがあいつの趣味だったんだ。単純に金を使って蹴落とすようなことはあまりしなかった。それじゃ面白くなかったんだろうな。何たって趣味だから。
 忌々しいことに、その手法が管理職たちの間で流行った。一種の成功モデルとみなされたんだ。本部で瞬く間にのし上がった矢口を見て、目ざとい部長クラスが真似を始めて、あっという間に広がっていった。
 まるで反社のやり口だ。根回しが巧みと言えば聞こえはいいが、ようするに罠と恫喝による裏工作だ。――まあ、流行るのも当然だった。楽に出世できるし、やらなければ自分がやられるんだからな。
 あいつはそれで役員になったんだ。
 そんな陰謀マニアだから、不良債権の処理方針をめぐる役員会で篠田に出し抜かれたときは悔しかっただろうな。部下の筆頭、経理部長に裏切られるなんて、得意の寝技をきれいに返されたようなもんだ。
 しかしいくら腹が立ったって、仕返しするのに当局の検査官を巻き込むなんて方法は、普通は思いつかねえ。思いついてもできねえ。処分権限を持っている監督当局に自行の管理態勢の不備、機能不全の体たらくをアピールするってことだからな。リスクが大きすぎる。
 下手すりゃ後になって、それをネタにいびられたり、行政処分を食らうことだって考えられる。それをあいつはやったんだから大したもんだし、結果につながったんだからそれは功績と言えるだろう。
 不良債権処理をさっさとやってしまおうって方針も、それ自体は正しかったと思うよ。たとえそれが、篠田が先送りを主張したから逆張りに出ただけだったとしても。
 おれはあいつが大っ嫌いだけど、帝都が最後の悪あがきをしている間、最前線に立って不良債権の一括処理に道筋をつけ、長年の課題だったシステムの統合に果敢に立ち向かったのは間違いない。見事に失敗したわけだが、実行力は評価せざるを得ない。ほかの役員たちはやろうとすらしなかったんだから。
 矢口が、増田や橋本と決定的に違っていた点は、妙な言い方かもしれないが、帝都銀行に対する愛だろうな。何しろ国内最大の銀行だ。派閥プレイの舞台としちゃあこれ以上のものはちょっと考えられない。なくなっちまったら大好きなお遊びができなくなっちまう。
 そういうよこしまな動機だったとしても、とにかく帝都の存続にむけて具体的に行動したってことは認めてもいいと思うよ。皮肉にも、それが最期を早める原因になっちまったんだけどな。

 篠田か。あの人は銀行を辞めて死んじまった。海外への飛ばしの黒幕はあの人だった――そういうことで落ち着いた。諸悪の根源、最後の黒幕ってとこだな。悪いことは全部あの人のせいになった。そういう悪い話ばかりを聞いたろうが、そいつは――ふん。まあ、いいや。
 矢口は、システム更改さえうまくいっていたら帝都は危機を乗り越えられたはずだって言ったろう。
 だが、おれの考えは違っている。組織の分断のほうがダメージは大きかった。最後の危機を乗り越えられなかったのは、さっき言ったクソみたいな派閥闘争ブラックゲームが蔓延したせいだ。組織間の分断が修復不可能なほど深まっていたからだ。
 おれたちは存亡の危機に臨んで一致団結しなかった。力を合わせて難題に立ち向かおうとしなかった。役員たちは世論とマスコミの攻撃を恐れて沈黙し、他人の陰に隠れて嵐をやり過ごそうとした。各部門の管理職たちは失敗の責任を押しつけあった。
 多少なりとも責任ある立場の者たちがみな、他者攻撃と責任転嫁、自己弁護と保身だけにエネルギーを使った。そこかしこで発生した小さな火種が小火になり、やがて大きな炎となって帝都銀行という巨大な城を焼き尽くのを、みな何もせずに眺めていたんだ。
 中には小火のうちに気づいて、
 ――このままでは焼け落ちてしまう――
 自分たちの手で壁を壊し、バケツリレーの列を作ろうとした行員たちもいた。だが、管理職連中がそれを許さなかった。
 ――おまえがそんなことをしたら、この小火はうちの部の責任だと認めたことになるじゃないか。まずはうちよりも重い責任を負っているはずの○○部と××部がやるべきだ。少なくともうちが最初に始めるのは駄目だ。絶対に許さん――。
 くだらねえ。断じてくだらねえ。多くの部長連中は、城が焼け落ちた後、焼け出された先でも同じ議論を続けていたんだ。ああ――くだらねえ。
 帝都がそんな風になったのは、矢口のせいなんだよ。どうやったって消せない、あの男の罪だ。自分ではそんなこと夢にも思ってないだろうがな。
 創業から終戦までの半世紀をかけて、帝都銀行は他の銀行や信用金庫を次々と吞み込んで巨大化していった。その寄せ集めの組織が、その後の半世紀をかけて少しずつ融合し、一つにまとまろうともがいていたのを、あいつが派閥政治でぶっ壊したんだ。だから帝都銀行は潰れた。
 おれが思うに主犯は矢口だよ。あの天性の極悪人、不細工なチビデブ野郎。
 ――え。痩せこけていたって。
 病気。手術。……そうか。
 天罰だな。

 おれたちの世代は、多かれ少なかれ戦争の影響を受けている。育ったのが戦後、物心がついたのが焼け野原だからな。物がなくて貧しかった。いつも腹が減っていた。それでも生きているだけましだろう、死んじまった人たちもたくさんいたんだから。さんざんそう言われた。確かにそうだろうよ。今はもう死ぬのを待つだけの身だが、こうなるまでは生きられたんだからな。
 だがな、親父に訊いてみたことがあるんだ。戦争なんて不幸な時代を生きて気の毒だったな、今の若い連中と替わってほしいんじゃねえかって。そんなのは御免だと言われた。たしかに戦争はろくなもんじゃなかったが、これから先のほうがましだなんて、一体誰が言えるんだ、とな。
 言われてみりゃあその通りだ。
 少子化に財政難に、経済格差に異常気象、世界を見渡せば飢餓や戦争、それに例の得体の知れない新型ウィルスだ。世の中が悪くなっていく要因はいくらでもある。極めつけがネットだな。今の時代、世の中はネットなしには成り立たないが、その中には何がいるかよくわからないんだから。インターネットっていうのは、世界中の素晴らしいものとつながれる一方で、この世のあらゆる悪を一つにつなげて自分の手元に導いてもいるんだ。
 原爆や空襲とは無縁になったはずのこの国で、ごく普通の人たちがいつのまにか、世界中のむき出しの悪意と対峙する最前線に置かれている。防御の盾も防毒マスクもなく、敵を見分ける術すら知らずに。獲物として狙われたらあっという間にすべてを奪われ、破滅させられてしまう。
 これから先の世代は戦争どころじゃないかもしれん。
 おれだって、子どもに戻って今からの時代を生きたいかと訊かれたら、謹んで遠慮申し上げるね。
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