エピローグ

文字数 2,989文字

 探偵がかつて所属していた探偵会社の社長は、五十代半ばの大柄な男である。学生時代はラグビーをやっていたという。今でもトレーニングを怠らず、がっしりとした体型を維持している。人懐こい笑顔の陽気な性格だが、時折、物思いにふけるような横顔を見せることがある。
 社長の過去を探偵はよく知らない。探偵会社にいた頃、同僚たちもそうだった。それでも経営は盤石だったし、仕事に支障が出ることもなかったので、誰も深く詮索しなかった。きっと今もそうなのだろう。
 その社長が、今日は探偵事務所の革張りのソファで麦茶を飲んでいる。冬ならばミルで挽いたコーヒーを淹れるところだが、夏なので冷たいものにした。近くまで来たついでというのは口実で、病み上がりの様子を見に来てくれたのだと探偵にはわかっている。
「それで、百年史はどこに置いてきたんだ」
「理髪店です」
「理髪店」
「地下に一軒、あるのを見つけたんです。そこなら本棚の一つくらいあるんじゃないかと思いましてね。客として髪を切ってもらった後で事情を話したら、ご主人はこれも縁でしょう、喜んで保管させてもらいますと言ってくれました」
「それで髪がさっぱりしているのか。いつもの千円床屋じゃないのはすぐにわかったが、丸の内とはね」
「普段なら予算オーバーですが、料金も入りましたから。久しぶりにヒゲも剃ってもらいました。腕のいい人にやってもらうと一日伸び方が違うと言いますが、本当ですね」
「それは気になる。ぼくも行ってみるかな」
「ご主人、きっと喜びますよ。売り上げを心配していましたから」
 社長はさっそくスマホを取り出して、スケジュールをチェックしている。
「かつての帝都銀行本店ビルの中で、社史編纂室は地下一階にあったようです。もしかしたらあの理髪店は、彼が仕事をしていた場所に近いのかもしれません」
「ふむ。依頼人も喜んでいるんじゃないか」
 社長は満足そうにうなずいた。探偵も、われながらこれ以上の答えはなかったと思う。
 探偵は熱が引いた後、奥付にある印刷会社に連絡して注文主のことを訊ねてみた。羽生は見本の六冊を受け取って間もなく病に倒れたらしい。そこまでの代金は事前に支払い済みであったというのが、律儀な羽生らしいと探偵は思った。印刷会社では注文主の死後、心優しい医師から伝言を聞いて以降の注文をキャンセルとし、原稿も版下も廃棄したという。
 羽生は六冊のうち一冊を手許に置いて、残りを探偵と四人の男たちに発送した直後に発症したのに違いない。四人も同時期に倒れているから、きっと読むことはなかっただろう。彼らのもとに届いた本がそのまま遺品と一緒に整理――廃棄――されてしまったとすれば、この世に残された帝都銀行百年史は、探偵事務所と丸の内の理髪店にある二冊だけということになる。
「変わったケースだったな」
「二十年前の銀行倒産の犯人を捜せなんておかしな依頼を、我ながらよく受けたもんです。無事に遂行できたのは会社のおかげです。ありがとうございました」
 探偵は、五人の男たちの居場所を調べるのに古巣の力を借りていたのだ。ノウハウがあるとはいえ、短期間で全員分を突き止めるのはむずかしかった。
「その分の料金はもらうんだから、礼を言うのはこっちだよ。そっちはいくらも残らないんじゃないか」
「一人なので何とかなります。似たような状況には慣れていますし」
「ちゃんと食べているのか」
「まだ米や醤油まで困っているわけじゃありません」
「干上がる前に言ってこいよ。手間のかかる仕事はいくらでもあるんだ」
 孤独死の遺体が元うちの社員だとわかったら企業イメージが悪くなるからな。社長はそう言って笑った。
 しばし元同僚たちの噂話に花が咲いた。
「それにしても……」
 社長は視線を上げた。窓から見える商店街の屋根より遠くを見ているようだった。探偵には、かつて同じ場所に座った羽生が貧しい子ども時代を語ったときの姿と重なって見えた。探偵の視線に気づいたのか、社長は目を壁のエアコンに移した。
「音が大きいばかりでぜんぜん効かないな。そう言えば去年、買い替えるって言っていなかったか」
「金がないんです。それにもう少し暑くなると、不思議と効くようになるんですよ。普段は手を抜いても、さぼりすぎたらお払い箱になるってことがわかっているんです、こいつ」
「古くなって妖怪化したか」
「近いかもしれません」
「本当にだいじょうぶかな、この店」
「ぎりぎりですけど赤字にはしません。経理の腕はいいんです」
「粉飾はするなよ」
「そうなる前に社長に泣きつきます」
「それがいい」
 社長は笑った。そして再び窓を見上げた。
「もしかしたら、誰でも一生に一度くらいは出遭っているのかもしれないな。理不尽で、不条理で、得体の知れない

に。それが当人も気づかないほどかすかなものか、耐えられないほど重くて苛酷なものか、その違いがあるだけで」
「……はい」
 社長はそれを悪意と呼んだ。
 まだ許すことはできない。その思いを、社長には打ち明けている。
 ――まだ。
 おれは、どれだけ待とうというのだろう。
 遠い空を見つめながら、社長が何かを思い出しているのはわかっている。が、それが何かはわからない。周囲に告げない過去のうちには、闇のような後悔もあるのかもしれない。
 ――この人は……許したのだろうか――
 しばらく雑談を続けた後、社長は会社からの電話を受けて帰って行った。
 一人になった探偵は、デスクの上の書籍を手に取ってみた。
 巨大企業の激動の人生――破滅に至る伝記。
 これを熟読すれば少しは近づけるだろうか。
 許しに。
 両親はそれを望むだろうか。
 そんなことを考えていると、スマホが震えた。
 次の依頼のようだ。
 (了)


【参考図書】(五十音順)
「生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後」小熊英二 岩波新書
「会社はなぜ事件を繰り返すのか 検証・戦後会社史」奥村宏 NTT出版
「史上最大のITプロジェクト「三度目の正直」みずほ銀行システム統合、苦闘の19年史」山端宏美 岡部一詩 中田敦 大和田尚孝 谷島宣之 日経コンピュータ
「ドキュメント 銀行 金融再編の20年史―1995-2015」前田裕之 ディスカバー・トウェンティワン
「バブル経済事件の深層」奥山俊宏・村山治 岩波新書
「人びとの戦後経済秘史」東京新聞・中日新聞経済部編 岩波書店
「仏像のやさしい見方」岩崎和子 主婦と生活社
「兵士たちの戦後史(戦争の経験を問う)」吉田裕 岩波書店
「本邦銀行合同史」後藤新一 金融財政事情研究会
*以下、ネット記事等
・「昭和初期における普通・貯蓄銀行業の集中・合同について」白井博之 甲子園短期大学紀要 No.26(2007)  https://www.jstage.jst.go.jp/article/koshient/26/0/26_69/_pdf
・「戦後復興期の金融政策と金融機関の再建・整備について」白井博之
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/koshient/29/0/29_35/_pdf/-char/ja
・㈱Land Price Japanウェブサイトから 埼玉県さいたま市浦和区
 https://tochidai.info/saitama/saitama-urawa/

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