文字数 1,310文字

 篠田は東京の生まれです。家は下町で商売をやっていたと聞いています。雑貨屋だったか駄菓子屋だったか、いずれ小さな店屋だったと記憶しています。
 さっき私の父のことを言いましたが、篠田の父親も戦争で苦労したようです。あの年代の方々はみな同じようなものでしょうが――空襲で生活の基盤を失い、苦しい時期を闇市でしのいだ。篠田の父親の場合は、そこで裏の社会の人たちとつながりができた。その稼ぎで金は回るようになったが、夫婦げんかが絶えなくなった――そう言っていました。
 彼の母親はもともと武家の血筋でした。時代が昭和に降り、自分は下町の店屋に嫁ぐほど没落してもなおその家柄を誇りに思っていて、曲がったことが大嫌いだったそうです。
 その影響でしょうか、彼自身も父親のことを軽蔑していて、母親は早いうちに離婚してよかったとか、父親を反面教師にして自分は猛勉強をしたのだ、この銀行で絶対出世してやるのだとか、酔っぱらうとよく言っていました。
 それでも自分たちが飢えずにいられたのは父親の汚い稼ぎのおかげということもわかっていたし、嫌な思い出ばかりではなかったのでしょう、父親に対してはちょっと視線を逸らしながら非難するようなところもありました。
 両親は離婚し、彼は母親と二人で暮らしました。詳しく話そうとはしませんでしたが、裕福な子ども時代ではなかったはずです。それでも現役でT大法学部に受かり、優れた成績で卒業して、国内トップ銀行の副頭取にまで昇ったのですから、やはりその頭脳と行動力は恐るべきものです。
 篠田について覚えているのは、若い頃のことと役員になってからのことが多いのですが、一つだけ、空襲のときの話がちょっと変わっていて印象に残っています。そのとき彼は九歳でした。私と同い年ですから、すぐにわかるのです。
 彼の家は隅田川の近くにありました。今も大地震や水害が起こったら大きな被害が出るのではないかと言われている、木造家屋の密集地域です。彼は経済的な理由で学童疎開には行っていませんでした。
 あの夜、彼は母親と二人で燃え上がる街の中を必死で逃げたそうです。
 ――家の前の路地から広い道へ出ると、火災による熱風が襲ってきた。飛ばされそうになるのを母親が捕まえてくれた。近くの家が焼けるゴーッ、バチバチバチという轟音、その中で途切れ途切れに聞こえる男たちの怒鳴り声、女と子どもの悲鳴。それらが混ざり合って火の粉と一緒に渦を巻き、どこまでも高く舞い上がっていった。
 どこをどう走ったのかわからないが、気がつくとどこかの空き地にいた。なんとか火の手からは逃れることができた。周囲には同じような人たちがたくさんいて、不安そうに身を寄せあっていた。彼は恐ろしくて、ガタガタ震えながら、いつまでも母親にしがみついていた――。
 ところがしばらく後、彼が中学生になってから、母親に、あの夜は本当に怖かったねと言うと、何を言っているの、あの日はたまたま浦和の叔母さんちへ行っていたから空襲には遭わなかったでしょう、何て運がよかったんだろうって何度も話したじゃないの、と言われて愕然としたそうです。

「浦和、ですか」
「落ち着いた、よい街だそうです」
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