第2話 雨を降らせよ

文字数 2,784文字

 新しい年が明け、イルミネーションもそろそろ終わりという時期。
 ターミナル駅の電飾にも、名残惜しそうにカメラを向ける人達が集う。
 雪こそ降らないが陽が陰ると足元にジンジンと冷たさが突き上げて、動いていないことにはとても時間を費やせない。

「なんでまた、こんな所で待ち合わせかな」

 僕は眼下の人の波を見るとはなしに見ながら、恨みごとを呟く。
 この場所に三十分は居ただろうか。ようやく、ぶんぶんと手を振りながら小走りに走ってくる姉が見えた。
 まあいいか。珍しく急いでいるし。ちょっと申し訳なさそうな顏にも見える。
 にしても、相変わらずマイペースな……。

「ごめん。ごめん」

 そう言う相手にちょっとだけ顏をしかめてみせて、僕はすぐ駅ビルの中に足を向けた。ドアを抜けると途端に気温が上がる。
 律儀に外になんて居ずに、珈琲でも飲みながら待ってれば良かった。
 僕はいつもこうだ。ほんと要領が悪い。

「エレベーターで上。奢るよ」

 上階の飲食街は、高級な店ばかりだ。
 それで気分が上がる自分も自分だが、油断しちゃいけない。こういう時の姉は、厄介事を持ってきている。

 もつ鍋屋の個室に通されて一通り注文を済ませると、見覚えのある手帳がテーブルの上に置かれた。

「これ」
「そう。警察に届けたあれよ」

 あの桜の季節。姉が古道具屋で買った和箪笥に潜んでいたという手帳。
 二重になったひきだしに隠されていた手帳。

「なんで戻ってきたわけ?」
 僕の言葉に、姉はこっちが知りたいわと顏をしかめ、しかし真顔に変わると妙なことを言った。

「この手帳ついてくるのよ」
「は?」
「捨てても捨てても戻ってくるの」

 何のオカルトだ。

「所有権は放棄したから、二度と戻ってくるとは思ってなくて」
「だったよね」
「でもどういうわけか、あっさり手元に戻ってきて」
「はあ」
「それから中身を全部熟読しちゃってさぁ」
「おいおい」
「言ったよね。ほんっと胸くそ悪くなる内容なのよ」
「物好きとは思ってたけど」
「悪かったわねっ」

 なんで戻ってきたんだ?
 胸くそ悪いと言いながら、熟読するってどういうことなんだ?

 運ばれてきたハイボールをグイッと半分あけると、それから姉は奇妙な話を始めた。
 姉は手帳の中身を熟読しようと常に持ち歩いていたそうだ。最初に置き忘れたのが図書館。次は行きつけの珈琲ショップ。
 うっかり忘れて帰っても必ず連絡が来る。ならばと意図的に放置してみたらしい。それでも手元に戻って来るという。
 記名などしていない手帳だというのに……。

「そんなバカな」
「そう思うでしょ。だからこれ、あんたにあげるわ」
 にやりと笑って、分厚い手帳が差しだされた。

「バカなことかどうか、ちょっと経験してみてよ」
「う……」
「この半年これに振り回されて、それはそれで面白かったけど、やっぱ気味が悪いわ」

 いつものように姉の迫力に押されてはいたが、しかし僕は思っていた。
 面白くは……ないと思うが。興味は……ある。

 手にした手帳をパラパラとめくる。桜の栞を鋏んだページに何と書かれていたのか、もう思い出せないけれど。

「大人になってからさぁ」
「うん?」

 ぐつぐつと煮える鍋の湯気に視線を泳がせていた姉が、頬杖をついていた両手を首の後ろに回し、いきなり伸びを始めた。
 中身はまるでオヤジだ。てか、かなり疲れてるのか。

「四十も越してからハタチの頃みたいに当然分かってることをいちいち言われると腹たたない?」
「そりゃあ、たつよ」

 腹はたつけど、言い返せないのは昔から変わらないけどね。
 僕はそう思いながら、ハタチの頃からどれだけ変われただろうかと溜息が出た。
 世の中の四十歳なんて、結婚とかして子供なんていて、ガンガンに働いててすごくエネルギッシュに見える。
 僕の中の時間は姉みたいに速くはない。他の同僚みたいに忙しくもない。
 色んなことが僕の内側には届かずに、表面に触れてはすり抜けていく。

 姉は、仕事で嫌なことでもあったのだろうか。僕には、ちょっと苛々しているように感じられた。

「逆によ。いい大人に対して、自分の満足のためや不安を解消するために、あれやこれや言いたくないわよね」
「……だね」

「無口にならない?」
「え?」
「何も言えなくなってない? そりゃあ周りにはいるわよ。始終、自分の感情を撒き散らして喋り倒してる人間は。ウザイけど羨ましくもあるわね。どんだけストレス発散しまくってんだって。でも。でもよ。そういうの見てると余計に無口になるのよ」

 姉にもそんな気分になることがあるんだと、僕はちょっと意外に思っていた。しかしそれは、僕にとってはいつものことだ。

 アスファルトの上に降った雨。
 土に沁みこむことも出来ず、低く低く流れ集まって、やがては水路に落ちる雨。
 清流の上に落ちようが、路地裏のごみ溜めに落ちようが、雨は雨だ。
 いつかは巡り巡ってまた雨になる。

 排気ガスに煤けて薄汚れた高架下。その端の溝に流れる濁った雨水。
 ただゆっくりと低く低く流れ、みるみる黒く変わっていく水。
 自分はあの雨水だ。汚いものを飲み込んで、ただ黙して地を這うだけの雨水だ。

 僕はいつも何も言えない。
 大事なものが通り過ぎてしまってから、それが大事だったことに気づく。そして気づいたからといって、縋りつくことすらしない。
 どんなことも僕のまわりでさらさらと流れていって、僕はいつも、茫然とそれらを見送るだけだ。

「ちょっと貸して」

 そう言うと僕から手帳を取り上げた姉は、真ん中あたりを開いた。
 二、三枚ページをくっただけで目当ての箇所を見つけたあたり、本当に熟読したらしい。

「ここ読んでみてよ」
 戻された手帳に目を落とすと、間もなく僕の口から乾いた笑いが漏れた。

『黙って動いて口はつぐんでおくべきだ。これ見よがしに喋ったばかりに言ったことの尻拭いを全てしなくてはならない。
 思い通りに動いてくれる人間を探している者がいる。その人はいつも「いい人」だ。うっかりはめられた人間だけが馬鹿を見る。
 やってることの責任を取れるのが大人だ。それを子ども扱いして、自分の満足のためにあれやこれやと騒ぐのが、はたして「いい人」なのか。
 その劇場。その虚栄心の照明に満たされた野外劇場の上に、棘の雨を降らせよ。
 春雨でもなく夕立でもない。冬の、二月の、刺すような雨だ。
 傷みはやがて薄らいでも、いつまでも気になる疼きが残る雨だ』

 また刺さった。
 僕はどうやら、いい人になりたいらしい。
 人に干渉するほどの余力なんてないけれど、僕の場合は何もしないで黙っているだけのいい人だ。
 そんな僕のことを優しいと勘違いする人達がいる。僕が人の心に触れるのを怖がっているだけなんて思いもしないで。

「この手帳。……ちょっと借りてくよ」

 そう言った僕に、姉はもう一度ニヤリと笑った。
 どうやら僕は、はめられたらしい。

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