第6話 棘を狩る

文字数 2,815文字

「聞いたよ」

 冬のカフェ。人のまばらな喫煙ルーム。ガラス越しに人並みを見つめていた僕の背中に姉の声がかけられた。硬い口調だった。

 姉の手には珈琲カップが置かれたトレイ。しかし姉は、僕の隣に座るなり煙草に火をつけた。ふぅと大きく煙を吐き出す音が溜息混じりに聞こえる。

 目の前を通り過ぎる大勢の人。師走の華やかさと忙しなさ。ガラス一枚隔てただけの人並みがずっと遠い存在に見える。自分だけ音のない空間にとり残されたように。

「ショックなのは分かるけど」
 姉は二本目に火をつけながら釘を刺した。
「次に自己憐憫なんての持ってこないでよ」

 確かにそうだ。もう結果の出てしまったこと、決して変えられない事実に、何を言ったところで……。けれど。

「瑠衣が死んだって聞いた後、パソコンにメールが来てたことに気付いたんだ」
「え? 瑠衣ちゃんから?」
「うん。わたしの血は残せない。ごめんねって、それだけ」
「そっか」

 あの手帳を姉から預かってすぐ、偶然瑠衣に再会したことを僕は話した。
溺れる寸前なのに助けを求めない彼女のことを。死なない金魚だと言った瑠衣のことを。

「これ、返すよ」

 千鳥格子のカバーのついた分厚い手帳。僕が窓際のカウンター席にそれを置くと、姉は手を出さずに頬杖をついたまま首をこちらに傾けた。

 荷物の置かれた椅子ひとつ分を挟んで、僕と姉は次の言葉を見つけようとした。数秒の沈黙のもどかしさ。言い訳のように僕らが手帳に視線を向けた時……。それは起こった。

 ヒュッと姉が息を飲む音がした。そして僕も確かに見ていた。

「う、動いたよね」
「……う」
「今、動いたよね。表紙が持ち上がったよね?」

 地震? 車の振動?

 いや。外部からの要素で動いたのではないことは明らかだ。分厚いページの一枚一枚が、まるで息を吸い込むように膨らんで、それに伴って 表紙が持ち上がったのだ。

 まさか。

「……そんな」
「今まさに見たことくらい、信じなさいよ!」

 むしり取るように手帳を取ると、姉は最初のページから一枚一枚目を通し始めた。僕はその行動の意味が分からず、呆然と見守る。

「ほら、ここ」

 だから、姉に手帳の後ろのページを突き出された時にも、僕は訳が分からずに目を見開いたままだった。

「いいからここ、読みなさいよ」

 ぐっ、と目の前に押しやられた手帳のページは、他のページ同様に少しだけ黄ばんでいる。黒いボールペンのキッチリとした文字。それは記憶の中の他のページと変わらないように見えた。

 しかし。

『いつまで経っても死なない金魚のようだ。同時期にもらったやつは、とっくに死んだのに、最後の一匹だけがいつまでも残っている。餓死させるわけにもいかず仕方なく餌を与えられ、その気まぐれだけに頼ってそいつは生きている。感情のない目を見開いたまま惰性を絵に描いたように仕方なく生きている。それが私だ』

「そんな、まさか……」

 脳天にハンマーを打ち落とされたようだった。

「私、言ったよね。その手帳、熟読しちゃったって」
「う、うん」
「なんかさ、薄っすらと思ったのよ。ここに書かれていることって、一人の人が書いたことというよりも、何かの寄せ集めのようだなって」
「寄せ集め?」
「そう」
「見聞きしたことをメモしたってこと?」

「筆跡は同じだけど文体が違うというか、性別不明というか」
「あ」
「一貫性がないというか、アンビバレンツというか」

「まるでこいつ自体に意思があるというか。弱った人間を待ち伏せてるというか」

 棘の刺さった人間を。喰うために。

「この手帳に持ち主なんていない。この手帳自身が動き回って獲物を探してる」
そこまで言うと姉は苦笑して、そして小さく声に出して笑った。

「ばっかみたい。とんだ妄想だわ」

 こいつが餌を喰う瞬間を僕らは目撃し、その餌が何だったのかも確認したというのに、それでも、くだらない妄想と片づけなければ収集のつかない現状。どちらが馬鹿げているだろう。

「場所、変えよう。飲むよ」

 姉はそう宣言すると、椅子をサッと後ろに引いた。その手が、忌々し気に手帳を掴むとバッグに入れる。



 水炊き屋の個室に陣取り、いつものように注文を済ませると、早速運ばれてきたハイボールを姉は一気に干しておかわりを頼んだ。

 鍋の湯気の間に沈黙が落ちる。
 過ぎ去った二年。共にいた三年。取り返せないこれから。

「奈緒ちゃんとは会ったの?」

 やはりそう来たかといった顔を、僕がしたのだろう。
「別にいいけどね」
 そう付け加えた姉に、僕は気まずい気持ちになった。

「お通夜には行ってない。まだ会ってないよ」
「そっか」

 奈緒は後妻の連れ子。
 瑠衣の母親は夫の浮気相手に追い出され、瑠衣の親権も奪われ、自殺したと聞いている。
 瑠衣は短大入学と同時に家を離れ、ずっと一人暮らし。

 瑠衣に出会ったのはほんの偶然からで、義妹の奈緒が僕と同じ会社に勤めていると知ったのは、ずいぶん後になってからだった。僕の勤め先を知った時に、瑠衣が意図的にその話題を避けていたのだろう。

『いもうとを切りたいから』

 別れる理由にそう言われた時、僕は彼女の抱える荷を半分請け負う勇気が持てなかった。彼女に刺さった棘は、最期の瞬間まで彼女を捕えて離さないだろうと思った。僕は物分かりのいいふりをしながら、怖気づいていたのだ。

「お墓参り、行くの?」
「いや、まだ……」
 それだけ言ってビールに口をつけた僕を、姉は追及しなかった。
「いつか行くんなら、付きあうよ」
 白い湯気の向こうで、視線を逸らしたまま姉が呟く。

 言いたいことはあっても、それがどう伝わるのか分からない時、人は言葉を飲み込む。相手の気持ちを想像しろと言われても限界がある。無暗に口を開くことは危険なことだと、僕らはもう痛いほど知っている。でも……。

「あんたたち、結婚するつもりだったの?」
「少なくとも僕はね」
「そっか」
「二人で歩いてて、子連れ夫婦なんか見た時の温度差がさ」
「うん、分かるよ」

 瑠衣は家族という存在が大嫌いだった。自分の家族に留まらず、全ての家族を軽蔑してた。
 彼女のなかには『生き恥』という言葉が生々しく存在していた。
 家庭を作ること。そして子供を産み育てること。瑠衣にとってそれらは、欲望のままに生きる獣の所業であり、汚らしいものだったのだ。

「奈緒ちゃんは瑠衣のこと嫌ってなかったのにな」
「だからって好きになれとも言えないしね」

 姉の返しに何度目かの溜息がこぼれる。僕の気持ちも瑠衣にとっては重かったのだろう。そう言われた気がして。

 まったりとアレンジされたクリスマスソングが店内に流れている。固くなりかけた鶏をとんすいに引き上げていた姉が、器を僕に差し出して言った。

「取りあえず食べなさいよ。これから考えなきゃいけないことがあるんだから」
「考える?」

 何のことかと顔を上げた僕に大仰に肩をすくめると、姉はバッグの中からあの手帳を取り出した。

 まだ何も、終わってはいない。

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