第5話 追われる者

文字数 2,259文字

 梅雨と夏の境目。
 水月瑠衣は、じとじとした雨の降る日に集合住宅のポストを開け、転送シールの貼られた封書を取り出した。
 こうして一年ものあいだ無料で転送してくれる郵便局は偉大だ。しかし大半はどうでもいいようなダイレクトメール。彼女が待っているものではない。

 転送届を出したのは自分だというのに、まるで監視されてるようだと瑠衣は思う。
 どこに行っても追ってくるのは手紙だけではない。携帯を使えばGPSで監視され、ネットで買物をすれば次はこれを買えとメールが来る。そうやってどんどん囲い込まれ窮屈にされていく。本当に欲しいものは殆ど手に出来ないというのに。

 部屋に入った瑠衣はダイレクトメールの封筒をシュレッダーに通してから、中身は一瞥もせずゴミ箱に放り込んだ。

 しかし紘一は私を見つけた……。
 彼と別れたのは随分と以前だった。それ以来一切連絡をしていない。携帯の電話番号を変え引っ越しをした時点で、もうキッパリと何もかもをリセット出来たと思っていた。

 それなのに紘一は、昔となんら変わらない笑顔であの日片手をあげた。
 彼の顔には、偶然に対する驚きもなければ計算の色もない。待ち合わせの日時を最初から決めていたとでもいうような、確信の笑顔。

 ストーカーにでも出くわしたような顔をした瑠衣を見て、紘一は一瞬寂しそうな表情になった。だがすぐに人懐こい笑みを取り戻し、すごい偶然だねと穏やかに目を細めた。

 瑠衣は紘一を恐れてわざわざ引っ越しをしたわけではない。携帯の番号を変えたわけでもない。
 紘一は瑠衣が別れを切り出した時にも優しい笑みを浮かべたままだった。ただもちろん理由を問うた。
 瑠衣は返事に窮した。自分の感じている『感じ』が彼に正確に伝わることはないと知っていたからだ。直接原因は彼との関係ですらなかった。

「義妹(いもうと)を切りたいから」
 瑠衣の言葉に、紘一は『あ』の発音をするように口を開けて少しだけ目を泳がせると、 寂しそうにそっかとだけ言った。
 二人の関係は、それで終わった。

 珈琲を淹れながら瑠衣は昨日の朝の出来事を思い浮かべる。
 彼女は近所の住宅街を歩いていた。すると足元に茶色のふにゃふにゃした物体が落ちてきたのだ。

 瑠衣はギョッとして、アスファルトの舗道に叩き付けられた小さなモノを凝視した。
 鳥の雛だった。しかしまだ、むしられたような産毛が僅かに生えただけ。雛はカエルのような腹を上にして、もぞもぞと僅かに動いている。

 飛んできた方向を見ると、見事な紫陽花を垣根にした民家だった。
 門柱の向こうの石畳にもう一匹雛が落ちていて、それには既にアリがたかっている。どうやら玄関の軒下に巣があるらしい。

 瑠衣は暫くの間、足元の雛をどうしようかとその場に立ち尽くしていた。
 まだ息はあるが、あんな高い所から投げられてはまるで無事とも思えない。しかしすぐに巣に戻したらどうだろう。もしかしたら助かるかも。
 そんなことを考えながら、彼女は雛と民家をかわるがわる見ていた。

「何かご用ですか?」
 後ろから声をかけられ、瑠衣はびくりと振り向いた。散歩から戻ってきたのだろう。大きな白い犬を連れた老人が立っていた。
 丸眼鏡をかけた教師のような雰囲気の男だった。
 老人はすぐ瑠衣の足元にある異変に気付いた。ああダメでしたかと乾いた声が歩道に放られる。

「あそこに、もう一匹」

 瑠衣が門柱の内側を指さすと老人はゆっくりと頷き、瑠衣の足元に落ちている雛を拾い上げた。

「巣に戻すのですか?」
 期待をこめて瑠衣は問うたが、老人はにべもなく無理ですねと返す。

「雄の燕が死んだのかもしれません。新しい父親は前の親の子を殺してしまうんです」
「どうして」
 ギョッとした顔の瑠衣に、老人は変わらず乾いた声で告げた。

「自分の血を残すためです」

 ──自分の血を残すためです。
 ふうと大きく溜息を漏らすと、瑠衣は珈琲に口をつけた。
 その後、あの老人と何を話したのか……瑠衣は覚えていない。
 自分の血を残すためという言葉がぐるぐると渦を巻き、やっとの思いで閉めた記憶の蓋をこじ開けようとしていたので、それを阻止することに必死だったからだ。
 瑠衣は老人の家の石畳の脇に植えられたリュウノヒゲを見ていた。
 小さな紫の花が咲いているのを見て、この植物にも花が咲くのだということを初めて知った。

 私は雛を手に取ることもしなかった。あの人の言葉が棘のように刺さったまま、その意味に引きずり込まれないように、小さな花を凝視した。

 瑠衣の小さな感傷を老人は見透かしたらしい。薄く笑って会釈をすると門を開け、もう一匹の雛を拾い上げて自宅に入って行った。
 彼の飼い犬もこの小さな事件に何の関心も向けず、主人について玄関に消えた。

 瑠衣は思う。何もなかったことには出来ない。どんなに逃げても、それは執拗に追ってきて私を囲い込み追い詰める。何故ならそれは私の中で起こっていることだからだ。世界中逃げ惑ったとしても逃げおおせるはずがない。

「すごい偶然だねぇ」
 紘一は言った。あの再会は必然だったのかもしれない。私がそう思えばそうなるのかもしれない。
 瑠衣の視線の先には白いノートパソコンがあった。今や買物でもしない限りは見ることもないパソコンのメール。
 そこに紘一からのメールが届いているのを見つけたのは、昨夜のこと。

 瑠衣はメールソフトを立ち上げる。しかし彼女の返信は、次の再会のためのものでも、紘一との関係修復のものでもない。
 彼女が書いたのは、本当の別れの言葉だった。

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