第7話 生贄
文字数 3,097文字
「とにかくコレ、寺か神社におさめたり出来ないのかな」
「うーん」
姉が四杯目のハイボールをあおりながら提案したが、僕はただ生返事を返すとエノキと糸こんにゃくをごっそりととんすいに掬った。
「あんた、相変わらずエノキ好きよね」
「うん。鍋はエノキと糸こんがあればいいよ」
「カロリー低っ」
僕は、味の沁みた糸こんの威力を知らないのかと姉を不憫に思いながら、何があっても、この世の終わりの日にも、きっと食べたり飲んだりはしてるのだろうなぁと妙に冷めた心地になる。
ブルッ。ジャケットのポケットに入れていた携帯がふるえる。着信だ。こんな時間に? 相手を見ると会社の同僚。あまり電話を寄越す人でもない。
「誰?」
とろっとろの鶏を頬張りながら、姉が不満顔になった。
「会社の同僚。あんまり電話してくるタイプでもないんだけど」
「出たら?」
「うん。ごめん」
言いながら携帯のボタンを押す。
「はい」
「こっ……。え? 佐野先輩? え!?」
「ふっ……。い、いや、何も」
電話に出て僕が口を開けたのは三回だけだった。高揚した同僚の声が瞬く間に音の刺激だけになり、僕の脳裏には瑠衣の何かを諦めたような笑顔が浮かぶ。
やがて言いたいことを言い尽くした電話が切れると同時に、姉が煙草に火をつける音が耳に届いた。
「あ」
何かを言わなければと口を開きかけた僕を手で制すと、姉が大きな目をぐっと見開いた。
「瑠衣ちゃんの新情報よね」
刺すような視線に僕はコクリと頷く。やはりこの人にはかなわないと思いながら。
◇
「瑠衣ちゃんも呪いをかけられた子供よね。私らと同類」
「呪いね」
僕と姉を何らかの言葉で説明するとしたら、アダルトチルドレンと言えば通りがいいのかもしれない。
親父は酒に憑りつかれた狂人だった。母はそれに輪をかけた共依存。仕事は出来る父だったが、家庭では悪魔だった。言うことはコロコロと変わる。嘘が不条理な逆切れでひっくり返される。物を壊す。約束を破る。尻拭いをするのは当然のように母だった。
早期退職という名で会社を都合よく追い出されてからは、飲むことしかすることがなくなって、後は早かった。足も立たずに失禁しても飲み続けた。
その酒を買い与えたのは勿論、母だった。部屋の床が真っ赤に血に染まるほど吐血して、病院に搬送の途中で終焉を迎えた。
やれやれ。その言葉しか出て来なかった。葬儀でも涙どころか苦笑いしか出て来ない。腑抜けのようになった母親に対しても、労わりの気持ちは湧かなかった。曲がった愛情の矛先がこちらに向くのを恐れて、僕も姉も実家に寄り付かなくなった。
子供の頃。父親に庭に蹴り飛ばされて肋骨を折ったことがある。病院に行こうとする母をそんな必要はないと怒鳴る父。
あの時、僕は何日放置され痛みに耐えたろう。何より守ってくれない母が信じられなかった。
嫌なことを思いだした。
「ちょっと、お手洗い行って来る」
「あ、うん」
立ち上がった僕をチラリと見上げた姉の表情も、どこか上の空だった。僕以上に嫌なことを思いだしていたのかもしれない。
個室の座敷を出て店の奥のお手洗いに向かう。忘年会だろうか。賑やかな団体客がけっこう入っている。僕の小さな感傷など失笑にも満たないような重い日々に生きている人も沢山いるのだろう。
それにしても、さっきの電話は……。姉に話したらなんと言うだろうか。
◇
「ごめ……ん」
ちょっと目が赤いかなと思いながら座敷に戻る。しかし遅れたことを謝る相手は消えていた。
既に火の落とされた鍋の中で、くたくたになった水菜が浮いている。もみ消された煙草。テーブルに置かれたままの、あの手帳。
どこに行ったんだろうと思いながら、取りあえず座布団に座り直した。
両隣の部屋から聞こえる賑やかな声。沢山の座敷が仕切りを隔てて並んでいる中で、僕だけが所在なくぼんやりとしている。師走の華やかな、しかし追い立てられるような時間から捨て置かれたような気分。
「エアポケットか」
そう呟いた時、僕は見た。目の前に置かれた手帳が、大きく息をして萎むところを。バンッ。今度こそ飛びのいた僕は、座布団に足を引っかけると、したたかに尻を打った。
生きてる。こいつは生きてる。空になったテーブルの向こうに視線が動いた。まさか。まさか?
靴を履くのももどかしく、座敷を出るとカウンターに向かう。忙しそうに出入りしている店員を呼び止めようとするが、唇がわなわな震えて声にならない。何度か口を開きかけては閉じる僕にようやく気付いた店員が、こちらに歩いて来た時。
「あー。ごめん。私もお手洗い」
姉の声がして僕は緊張の糸が切れた。さっき、やっとの思いで拭い終わった涙が再び溢れて止まらなくなった。
「もお。どうしたのよ」
困り顔の姉に背中を押されて、座敷に戻る。
「手帳に」
「え?」
「あの手帳に喰われたのかと思った。マジで思った」
「なによそれ」
「また見たんだよ。あの手帳が、手帳が何かを喰うところを。それで姉ちゃんが」
「ああ。ああ、そういうことね。大丈夫。私は大丈夫だから」
昔、姉から何度も聞いた言葉。大丈夫。私は大丈夫。あんたも大丈夫よ。その言葉にすがって僕はなんとかやりすごして来た。長い時間をやりすごしてきた。その拠り所がなければ今はなかった。
「佐野先輩ってだれ?」
気恥ずかしい涙をようやく拭い去った後に、賑やかな周囲の声が戻ってきた。しかし姉と二人のこの座敷だけは、他とは違った空気に満ちていた。
「隣の部署の人。仕事は出来るけど、挨拶がわりに口説き文句言うやつ」
「いるね。そういう人」
頬杖をつくと、姉が鼻で笑う。
「で、瑠衣ちゃんと?」
「付き合ってたらしい。瑠衣は自殺じゃなくて、先輩に殺された疑いがあるって」
「こっ? え?」
「先輩の家で瑠衣は死んだんだって」
事実は当人にしか分からない。他人が評価することじゃない。けれど僕は悔しかった。悲しさよりも悔しかった。
なぜ長年付き合っていた僕ではなく先輩なんだという思いが、胸の内でドロドロと渦巻いて情けない気持ちにさせる。
「瑠衣ちゃん。あんたのこと分かってたんだよ。あの子の優しさだよ」
姉はそれだけ言い置くと、席を立った。
「当初の目的を大きく外したわ。明日休みよね? も一件行くわよ」
その目的である手帳を手に取ると、姉は財布と入れ替わりにバッグに投げ入れた。今度は何を食べたのかしらねと付け加えながら。
色んな人の小さな憐憫。最期の瞬間まで続く、情けなく無様で、不器用で、みっともない感傷。
「また、どこかのページに書かれてるよ。きっと」
愛情と依存の違い。冷静と臆病の違い。嫉妬と常識の差し替え。自尊心と保身のすり替え。
二月の棘が雨のように降る。今は小さな痛みでも、いつかは致命傷になりうるような棘が。
◇
レジに並んで、ちょっとだけ多めに姉が払ってくれるのにお礼を言う。
「あんた、エノキばっか食べてたもんね」
ぼそりと言う姉に苦笑いを返し出口に向かおうとしたが、先に歩き出した姉がすぐに足を止めた。
僕も気付いていた。さっきからずっと、一人の老人がこちらに話しかける機会をうかがっていたことに。
洒落た丸眼鏡をかけた教師のような顔だちの男性だった。綺麗に整えた白髪交じりの頭の上に黒い中折れ帽。連れはなく一人だ。
「なにかご用ですか?」
怪訝そうな顔の姉に会釈をすると、老人は真っ直ぐに姉の目を見てから、ニコリとした。
「私があなたに会うのは、これで二度目ですよ」
きっちり三秒後に、姉が『あ』と声を出して口をおさえる。
その老人こそが、問題の手帳が隠された箪笥を売った道具屋の主人だった。
「うーん」
姉が四杯目のハイボールをあおりながら提案したが、僕はただ生返事を返すとエノキと糸こんにゃくをごっそりととんすいに掬った。
「あんた、相変わらずエノキ好きよね」
「うん。鍋はエノキと糸こんがあればいいよ」
「カロリー低っ」
僕は、味の沁みた糸こんの威力を知らないのかと姉を不憫に思いながら、何があっても、この世の終わりの日にも、きっと食べたり飲んだりはしてるのだろうなぁと妙に冷めた心地になる。
ブルッ。ジャケットのポケットに入れていた携帯がふるえる。着信だ。こんな時間に? 相手を見ると会社の同僚。あまり電話を寄越す人でもない。
「誰?」
とろっとろの鶏を頬張りながら、姉が不満顔になった。
「会社の同僚。あんまり電話してくるタイプでもないんだけど」
「出たら?」
「うん。ごめん」
言いながら携帯のボタンを押す。
「はい」
「こっ……。え? 佐野先輩? え!?」
「ふっ……。い、いや、何も」
電話に出て僕が口を開けたのは三回だけだった。高揚した同僚の声が瞬く間に音の刺激だけになり、僕の脳裏には瑠衣の何かを諦めたような笑顔が浮かぶ。
やがて言いたいことを言い尽くした電話が切れると同時に、姉が煙草に火をつける音が耳に届いた。
「あ」
何かを言わなければと口を開きかけた僕を手で制すと、姉が大きな目をぐっと見開いた。
「瑠衣ちゃんの新情報よね」
刺すような視線に僕はコクリと頷く。やはりこの人にはかなわないと思いながら。
◇
「瑠衣ちゃんも呪いをかけられた子供よね。私らと同類」
「呪いね」
僕と姉を何らかの言葉で説明するとしたら、アダルトチルドレンと言えば通りがいいのかもしれない。
親父は酒に憑りつかれた狂人だった。母はそれに輪をかけた共依存。仕事は出来る父だったが、家庭では悪魔だった。言うことはコロコロと変わる。嘘が不条理な逆切れでひっくり返される。物を壊す。約束を破る。尻拭いをするのは当然のように母だった。
早期退職という名で会社を都合よく追い出されてからは、飲むことしかすることがなくなって、後は早かった。足も立たずに失禁しても飲み続けた。
その酒を買い与えたのは勿論、母だった。部屋の床が真っ赤に血に染まるほど吐血して、病院に搬送の途中で終焉を迎えた。
やれやれ。その言葉しか出て来なかった。葬儀でも涙どころか苦笑いしか出て来ない。腑抜けのようになった母親に対しても、労わりの気持ちは湧かなかった。曲がった愛情の矛先がこちらに向くのを恐れて、僕も姉も実家に寄り付かなくなった。
子供の頃。父親に庭に蹴り飛ばされて肋骨を折ったことがある。病院に行こうとする母をそんな必要はないと怒鳴る父。
あの時、僕は何日放置され痛みに耐えたろう。何より守ってくれない母が信じられなかった。
嫌なことを思いだした。
「ちょっと、お手洗い行って来る」
「あ、うん」
立ち上がった僕をチラリと見上げた姉の表情も、どこか上の空だった。僕以上に嫌なことを思いだしていたのかもしれない。
個室の座敷を出て店の奥のお手洗いに向かう。忘年会だろうか。賑やかな団体客がけっこう入っている。僕の小さな感傷など失笑にも満たないような重い日々に生きている人も沢山いるのだろう。
それにしても、さっきの電話は……。姉に話したらなんと言うだろうか。
◇
「ごめ……ん」
ちょっと目が赤いかなと思いながら座敷に戻る。しかし遅れたことを謝る相手は消えていた。
既に火の落とされた鍋の中で、くたくたになった水菜が浮いている。もみ消された煙草。テーブルに置かれたままの、あの手帳。
どこに行ったんだろうと思いながら、取りあえず座布団に座り直した。
両隣の部屋から聞こえる賑やかな声。沢山の座敷が仕切りを隔てて並んでいる中で、僕だけが所在なくぼんやりとしている。師走の華やかな、しかし追い立てられるような時間から捨て置かれたような気分。
「エアポケットか」
そう呟いた時、僕は見た。目の前に置かれた手帳が、大きく息をして萎むところを。バンッ。今度こそ飛びのいた僕は、座布団に足を引っかけると、したたかに尻を打った。
生きてる。こいつは生きてる。空になったテーブルの向こうに視線が動いた。まさか。まさか?
靴を履くのももどかしく、座敷を出るとカウンターに向かう。忙しそうに出入りしている店員を呼び止めようとするが、唇がわなわな震えて声にならない。何度か口を開きかけては閉じる僕にようやく気付いた店員が、こちらに歩いて来た時。
「あー。ごめん。私もお手洗い」
姉の声がして僕は緊張の糸が切れた。さっき、やっとの思いで拭い終わった涙が再び溢れて止まらなくなった。
「もお。どうしたのよ」
困り顔の姉に背中を押されて、座敷に戻る。
「手帳に」
「え?」
「あの手帳に喰われたのかと思った。マジで思った」
「なによそれ」
「また見たんだよ。あの手帳が、手帳が何かを喰うところを。それで姉ちゃんが」
「ああ。ああ、そういうことね。大丈夫。私は大丈夫だから」
昔、姉から何度も聞いた言葉。大丈夫。私は大丈夫。あんたも大丈夫よ。その言葉にすがって僕はなんとかやりすごして来た。長い時間をやりすごしてきた。その拠り所がなければ今はなかった。
「佐野先輩ってだれ?」
気恥ずかしい涙をようやく拭い去った後に、賑やかな周囲の声が戻ってきた。しかし姉と二人のこの座敷だけは、他とは違った空気に満ちていた。
「隣の部署の人。仕事は出来るけど、挨拶がわりに口説き文句言うやつ」
「いるね。そういう人」
頬杖をつくと、姉が鼻で笑う。
「で、瑠衣ちゃんと?」
「付き合ってたらしい。瑠衣は自殺じゃなくて、先輩に殺された疑いがあるって」
「こっ? え?」
「先輩の家で瑠衣は死んだんだって」
事実は当人にしか分からない。他人が評価することじゃない。けれど僕は悔しかった。悲しさよりも悔しかった。
なぜ長年付き合っていた僕ではなく先輩なんだという思いが、胸の内でドロドロと渦巻いて情けない気持ちにさせる。
「瑠衣ちゃん。あんたのこと分かってたんだよ。あの子の優しさだよ」
姉はそれだけ言い置くと、席を立った。
「当初の目的を大きく外したわ。明日休みよね? も一件行くわよ」
その目的である手帳を手に取ると、姉は財布と入れ替わりにバッグに投げ入れた。今度は何を食べたのかしらねと付け加えながら。
色んな人の小さな憐憫。最期の瞬間まで続く、情けなく無様で、不器用で、みっともない感傷。
「また、どこかのページに書かれてるよ。きっと」
愛情と依存の違い。冷静と臆病の違い。嫉妬と常識の差し替え。自尊心と保身のすり替え。
二月の棘が雨のように降る。今は小さな痛みでも、いつかは致命傷になりうるような棘が。
◇
レジに並んで、ちょっとだけ多めに姉が払ってくれるのにお礼を言う。
「あんた、エノキばっか食べてたもんね」
ぼそりと言う姉に苦笑いを返し出口に向かおうとしたが、先に歩き出した姉がすぐに足を止めた。
僕も気付いていた。さっきからずっと、一人の老人がこちらに話しかける機会をうかがっていたことに。
洒落た丸眼鏡をかけた教師のような顔だちの男性だった。綺麗に整えた白髪交じりの頭の上に黒い中折れ帽。連れはなく一人だ。
「なにかご用ですか?」
怪訝そうな顔の姉に会釈をすると、老人は真っ直ぐに姉の目を見てから、ニコリとした。
「私があなたに会うのは、これで二度目ですよ」
きっちり三秒後に、姉が『あ』と声を出して口をおさえる。
その老人こそが、問題の手帳が隠された箪笥を売った道具屋の主人だった。