第9話 画家とモデル

文字数 5,559文字

 年が明け、一月も十日は過ぎた頃だった。
 仕事が終わる時間帯にはしんしんと冷え込み、一月のキーンと張りつめた空気がオフィス街を凍らせる。僕は、ビル風を避けるようにして地下鉄の駅に向かっていた。

 途中、全国チェーンのコーヒーショップの前を横切る。人気店ではあったが全面禁煙の店なので、姉と一緒の時には決して入らない店だ。僕は、その店のカウンター席に見知った人を見つけた。

 佐野先輩だった。
 彼はカウンターにノートパソコンを置いて作業に没頭していた。仕事帰りにここに寄って、一息つきながらといった雰囲気だ。
 僕は吸い込まれるように店内に入った。

「いらっしゃいませ」
 にこやかな店員のいるカウンターに向かうと、新商品の載ったカラフルなメニュー表には目もくれず、僕はいつものやつを注文した。

「ダブルトールノンファットカプチーノをお願いします」

 僕は、この瞬間のちょっとだけ面食らったような店員の顔を見るのが好きだ。トールサイズのショットを倍にした無脂肪のカプチーノ。それだけのことだが、このカロリー低めのコーヒーを頼む人は少ないのだろう。
 僕にしてみても、ネットでこのカスタマイズのカロリーが低いと知り、よく飲むようになっただけのことだ。

 平均体重の僕にしてみたら、たまに激甘の商品を頼んだところでどうということもない。しかし、この店のおすすめ商品はどれもこれもクリームてんこもりで、僕の趣味とはかけ離れている。

 会計を済ませると、苺のような赤いライトがぶら下がった場所で注文の品が出てくるのを待つ。すぐに蓋をされた紙のカップがトレイに置かれた。カップには「2NC」とマジックで書かれている。

 僕はトレイを持つとカウンター席に向かった。先輩はまだノーパソの画面を睨み付けている。

「先輩」
 僕が声をかけると、先輩は驚いたように顔を向けた。
「角田くん……」
 先輩は少し怯えたような表情に変わった。

「隣、いいですか?」
「あ、ああ」
 先輩は隣の座席に置いていた仕事鞄をパソコンのディスプレイの向こうに置き直し、席をあけてくれた。

「何してたんですか?」
 問うた僕に、先輩は口角をまげて返す。
「ずいぶん仕事を休んでたからね。取引先のデータ整理をしていたんだ」

 先輩は営業課に勤務していた。社内で一、二を争う業績だ。
 瑠衣のことがあるまで彼は社内になくてはならない存在で、女好きで軽い印象はあったが、表立って疎まれたり嫌われるような人ではなかった。

 先輩の口癖のような口説き文句も、営業という職種では武器になっていたし、彼と話す女性はそうそう悪い気分にはならないだろう。
 先輩の言葉はあっさりしていてジョークまじり。少し濃いめの整った顔つきも手伝い、彼はよくもてていた。
 妻子持ちなので一線を踏み外すことはない。ま。僕が内情を知らないだけかもしれないけど。

「瑠衣ちゃんのことだろう?」
 先輩は僕の目を見ずに、ノーパソの顧客名簿の方を見つめていた。仕事などどうでもよくなっていることは明らかだったが。
「はい。先輩が戻ってきたら、瑠衣の最期の時のことを聞きたいと思ってたんです」

 先輩にかけられていた疑いは、完全に晴れていた。ただ、そのことがもたらした影響は大きかった。
 年明けに復帰した先輩に待っていたのは、降格と今まで受け持っていた営業先の削減。実質、干されたと言ってもいい。
 彼はプライベートでも大きな痛手を受けた。彼の妻は一人息子を連れて実家に帰ってしまったらしい。

「離婚届が送られてきたんだってさ」
 噂好きの同僚が僕に耳打ちした。それが本当か嘘かは分からなかったが、ありがちなことではあったし、嘘だと突っぱねる義理もない。
 他の同僚からしてみれば、僕は元恋人を妻子持ちに奪われた情けないやつでしかなかった。

「角田くんの趣味はなんだい?」
 先輩の言葉に僕は面食らった。いぶかる顔をしていたのだろう。佐野先輩は再び苦笑をこぼすと、私は絵を描くことが趣味なんだと付け足した。

「絵ですか。油絵ですか?」
 僕が応じると先輩はスマホを取り出した。画像ファイルアプリをタップすると、小さな画面上にたくさんの絵が並ぶ。

「これ全部、先輩が描いた絵なんですか?」
 僕は手渡されたスマホをまじまじと見つめた。一つの絵を選択すると精緻に絵描かれた果物の絵。プロ顔負けの出来栄えだった。
「佳作くらいならもらったことあるよ。さすがに一番にはなれないけどね」

 先輩は僕の手からスマートフォンを取り戻し、一つの画像をタップした。
「これ。誰だかわかるかい?」
 ヌードだった。それは紛れもなく瑠衣だった。
 瑠衣が一糸まとわぬ姿でクラシックな寝椅子に横たわり、こちらに淫靡な視線を投げかけていた。

 片方の腕をあげて頭の下におき、もう片方の腕は自然に身体に添わせている。小ぶりの乳房は瑞々しく隆起し、ふっくらとした腹部の下には秘密の場所を覆うように淡い体毛が波打っていた。
 彼女は少しだけ足に隙間をあけて角度をつけている。その僅かな隙間に僕の視線は完全に奪われてしまった。

 こんな妖しい彼女の姿を僕は見たことがなかった。三年も付き合っていたというのに、ただの一度も。
 彼女はいつも、僕との情事を仕事でもするかのようにこなした。だからといってつまらない様子を見せるわけでもない。僕は彼女に会うたびに当たり前のようにベッドに誘った。恋人どうしというのは、そんなものだと思っていた。
 ベッドの上での戯れも、回を重ねると日常生活の一部。それが『普通』の恋人たちの過ごし方だと僕は思っていたのだ。

「私はね」
 佐野先輩が再び口を開いた。
「本当は、絵で食っていきたかったんだよ」
 優秀な営業マンの口から出る言葉とは思えなかったが、佐野先輩は真顔だった。

「ただ、結婚して息子が産まれて。そんな甘えたことを言ってられる状況じゃなくなったからね。夢を諦めたんだ」
「だから、趣味にされたのですか」
 僕の言葉に先輩は頷く。
「自宅を建てる時に小さなアトリエを作ったんだ。六畳くらいのね。コンクリート打ちっぱなしで床材も貼らなかった。どうせ絵具で汚れてしまうしね」
 先輩はそういうと、コーヒーを一口飲んだ。

「ずっと静物画をやってたけど、ほんとうはヌードをやりたかったんだよ。でもモデルを雇うほどの金はないしね。息子の教育費も馬鹿にならないし、妻の関心は全て息子に向いてたから、モデルを頼むわけにもいかなかった。というか、そんな金のかかる趣味なんてやめて、もっと家庭のことを考えてほしいと言われてたくらいだ」

 先輩の話を聞きながら、僕は自分に趣味なんてあるのだろうかと思った。それだけの時間と労力を費やしたいと思うものが。
 いつも仕事とマンションの往復。たまにこうしてコーヒーを飲んだり、同僚と少しばかり酒を飲んだり。僕の日常はそんなものだ。とても軽薄なものに見える。

「瑠衣ちゃんとは、一緒に食事でもって誘ったのが最初でね」
 先輩はそう言うと、ただのプレイボーイが転落に至る過程を話し出した。

「彼女は最初から色々話してくれた。出会ったのはACの自助会だったしね」
「え?」
「知らないかい? アダルトチルドレンのための自助グループがあるんだ。ネットで知って、ちょっと興味を持ったんで行ってみたんだよ。夜にあるし仕事にも差し障らないしね」
「先輩の親ってアル中だったんですか?」
 僕の言葉にギャンブル依存症だよと先輩は返し、細く溜息をついた。

「パチンコと株もやってたね。私は運よく大学まで行かせてもらったけど、本当は美術系の大学に行きたかった。しかし、ああいう所は本当に金がかかるんだ。親父がギャンブルで金を使ってたから選択肢がなかったんだよ」
 先輩も僕たちと同じだったのか。僕は、複雑な気持ちで先輩の吐露を聞いていた。

「瑠衣ちゃんも自分の父親を憎んでいたよ。浮気相手が後妻になって、瑠衣ちゃんの母親は追い出される形になったしね。後妻には連れ子もいたから、瑠衣ちゃんに居場所はなかった。出会った場所が自助会だったから、お互い過去のことを話すのに躊躇はなかった。傷を舐めあったようなもんだ」

 僕は瑠衣に僕の父親のことを話したことがなかった。ただの一度も。
 過去よりも、今こうして得られた幸せをどうにかして維持したいと思っていた。

「先輩」
 瑠衣に話せなかったから代わりに、というわけではなかった。ただ、先輩にだけ辛い過去を話させてしまったこと。それ以上に自分の仲間を見つけられたことを知らせたいと僕は感じていた。

「僕の親父はアルコール依存症だったんです」
「……そうだったのか」
 佐野先輩はそれだけ返すと、深く溜息をこぼしてコーヒーに口をつけた。話の続きを促しているようだった。

「典型的なアル中でした。仕事は出来たけど、家の中では飲んだくれて暴れて、最後は大量に血を吐いて救急車の中で死んだ。母親は共依存でした。親父の尻ぬぐいは全て母親がやっていた。足も立たなくなった親父に酒を買い与えて機嫌をとって、僕や姉より親父のことを優先してました」

「君と瑠衣ちゃんは、呼び合ったのかもしれないね」
 先輩はそう返し、話題を瑠衣のことに戻した。僕の傷のかさぶたを触らないように。そんな意図が見えた。

「彼女にモデルを頼んだとき、ヌードモデルだと最初から話したよ。彼女は躊躇なく受け入れてくれた。今になってみれば、私はその時から彼女の策略にのせられていたのかもしれない」

 策略? 物騒な言葉に僕が眉をしかめたのを先輩は見て取ったらしい。
 小さく頭を下げるとこう続けた。

「悪いね。恋人だった君に、こんな言い方して。彼女がモデルをしてくれてる間、ドアの鍵は閉めてた。妻はパートで働いてるし、息子も学校に通ってる。とはいえ、いきなりアトリエに入られては困る状況だからね」

「そうですね……」
 なんとなく、先が読めるような気がしてきた。

「ポーズは最初に決めて、三か月かけて仕上げていったんだ。狭いアトリエで素っ裸の女性と向き合っているとはいえ、モデルってのは画家にとってはマネキンと同じだよ。質感を知るために触って確認することもある。生々しい感情なんて入る余地はないんだ」

「けれど瑠衣ちゃんは、三か月の間に少しずつポーズを崩していった。私が直しても、またすぐに崩してしまう。それがこの足の隙間だ。淫靡だよね。きちんと揃えられているより、ほんの僅かに隙間があるだけで見るものを釘付けにしてしまう。終いには彼女のすることに慣れて、私は当初のポーズを変えたんだ」

 瑠衣は先輩を誘っていたのだろうか。そう思って、僕はふつふつと嫉妬の感情が沸き上がるのを自覚した。

 画家とモデル。その関係性を僕はまるで知らない。しかしモデルがマネキンであったとしても、狭い密室でずっと長い時間対峙しているのだ。
 そこで消費される膨大なエネルギーに僕は嫉妬した。絵を描くことは、こころを写し取る作業だ。僕と瑠衣との間にあった『普通』の恋愛関係にはない、ヒリヒリするような関係性。僕では決して与えられない、瑠衣の求めていた痛みと癒しの狭間。

「絵が仕上がって、彼女にモデルの必要性がなくなったと言ったんだ。その時の顔を今でも覚えてるよ」
 先輩はそう言うと、瞼を閉じた。

「絶望した顔だった。私は念願が叶って、あとは妻が言うように家庭を大事にしなければと思っていたからね」
「それで……」
「私がアトリエを出たほんの僅かの間に、彼女はロフトの柵にタオルを結び付けて、ぶら下がってた」
「……」
 その時の先輩の心情は、僕には到底推し量れなかった。

 瑠衣は書いていた。『わたしの血は残せない。ごめんね』と。
 先輩が家族を思う気持ち。この先の平凡な未来。それは、家族を忌み嫌う彼女にとって、憎悪に値する裏切り行為に見えたのだろう。

 逆恨みだった。最初から妻子持ちと分かっていてモデルを引き受けたのだから。しかしその日が来た時、瑠衣は現実を受け入れられなかった。
 結果、発作的に行動を起こしてしまったのだ。

「先輩は瑠衣と寝たんですか」
 口をついて出た僕の言葉に、佐野先輩は、まさかと小さく笑う。
「神に誓ってそれはない。私は彼女のことをモデルとして見ていた。彼女が私のことをどう思っていたのかは、もう分からないけどね」

 長い沈黙が続いた。やがて先輩は深く息をつくと、ノーパソの電源を切ってディスプレイを倒した。その途端、向こうに隠れていた物が僕の視界に入りこんだ。以前の姉のように僕はヒュッと息を吸い込む。

 あの手帳だった。千鳥格子の表紙がかけられた分厚い手帳。ぎっしりと書き込まれたことでページが膨らんだ、あの手帳。それが今、目の前に現れていた。

「せ、先輩。その手帳」
 僕の声は震えていたかもしれない。不思議そうに僕を見た先輩は、手帳を手に取るとパラパラとページをくった。

「よく分からないんだけどね。自宅のポストに押し込まれてたんだよ。持ち主の情報は書かれてないし、ちょっと読んでみたらまるでアダルトチルドレンの人が書いたような文章があったりして。交番に届ける前に読んでみようかなと思ってさ」

 年末に篠田さんに渡した手帳だった。篠田さんは僕たちの話を聞いたあと、知り合いの神主に頼んでみると後のことを請け負ってくれたのだ。
 僕はそれで何もかもが終わったと思っていた。この奇怪な手帳も成仏して、もう妙なことには巻き込まれないと安心しきっていた。
 なのに、なぜ……。

 棘の刺さった人間を喰う手帳。その悲しみを餌にしている手帳。執拗に追いかけてくる手帳。
 棘の刺さった人間を、棘の刺さった人間の元に呼び寄せる手帳。

「先輩」
 僕は次の犠牲者に問わずにはいられなかった。

「二月。有休取ってもらえますか?」

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