第4話 瑠衣
文字数 1,708文字
五月の公園のベンチ。
カラリとした心地よい風が、あたりの草木を撫でさすっては去っていく。
街灯が一度だけ瞬きをして黄色い灯りを落とすと、目の前の花壇に植えられた花がザワリと身震いをしたように見えた。
昼過ぎから僕はここに座っている。そして隣には瑠衣が居た。
「もうダメだと、まだ行けるの境界線ってどこなんだろう」
「みんな、どの時点で判断するんだろう」
「どうやって SOSって出したらいいんだろう」
私の頭の中は闇だと瑠衣は言う。
溺れた人間が最後の一呼吸の泡を吐き出す寸前だと。ゴボリといってしまったらもう二度と浮かび上がれない。人は周りにたくさんいる。しかし誰もこちらの様子に気づくことはない。
大勢の人の中で何も言えず、誰にも気づかれずに、海の底に沈んでいく。そして、誰もそのことを悔いたりはしない。人の多さの分、罪悪感は薄められる。皆が、自分じゃなくても誰かが気付いた筈だと口を揃えて言う。
瑠衣は、それすら目に浮かぶと乾いた口調で吐き出した。
「助けてって、ひと言言えばいいのに」
本当に言えなくなる前に、そんなに息が細くなる前に言えばいいのに。僕は彼女がそれを言えない訳を充分に知っていながらも他に言葉がなかった。
群衆の中の孤独。生きながらの幽霊にように声もあげずに叫んでいる。
彼女は弱いわけじゃない。彼女は卑屈なわけじゃない。彼女はむしろ他人に頼られ必要とされてきた。そして生に対して貪欲に向き合ってきた。
僕はそんな彼女にいつも気後れし圧倒され卑屈になった。
瑠衣は僕を必要としていない。そう心で呟いて逃げた。
しかし僕は知っていた。彼女に刺さっているたった一つの棘が彼女を一瞬で引き戻すことを。何度あがいて浮かび上がっても引き戻される。冷たく光の届かない海の底へ。
「久しぶりだったのに、ごめんね」
「あした仕事だからもう帰るよ。ありがとう」
公園の花壇に咲く、名も知らぬ黄色い花。
殆どの時間、瑠衣はその花に視線を向けていた。大きな目を見開いて、怒りと哀しみがない交ぜとなった顏で。
歳を経るごとに何も言えなくなったという姉。高架下の泥水だと思った僕。そして、自分は死なない金魚だと言った瑠衣。
あの手帳を手にした翌日に再会した瑠衣。
「結局、戦わなくっちゃいけないのは分かってんのよ」
「みんな必死で生きてんだから、甘ったれたこと言ってらんないのはさ」
「まぁ、ちょっと落ちてる時に会っちゃったのは運悪かったね」
瑠衣の笑顔に、僕はもう何度も騙されてきた。
彼女はほんの上澄みを吐き出しただけで自分は大丈夫だと言う。物分りのいい綺麗な言葉で本音に蓋をする。
本当は何一つ吐き出していない筈。本当に言いたいことを言ってない筈。
踏み潰され切り刻まれ血まみれの肉片になった者にすら他人は言うのだ。
人を信じないお前が悪いからだと。
「瑠衣」
今日はじめて僕が名前を呼んだので、彼女はちょっと驚いた顏になった。
ずっと視線を向けていた黄色い花を背にすると、彼女は慌てたように立ち上がる。
「メールしていい?」
僕の台詞に彼女は小さく笑った。
「アドレス変えたよ」
「じゃあ電話する」
「それも変えた。こうちゃんのデータは全部消した。もうこっちに来ることは殆どなかったよ。今日だって半年ぶりくらい」
捨てても戻ってくる手帳は人も呼び戻すのか。棘の刺さった人間を。
返事のかわりに僕がニッと笑うと、訝しげな顔をした瑠衣は公園の出口に足を向けた。
「次は飯、食いにいこう」
僕の誘いには振り返らず、片手をひらひら振った瑠衣が視界から消えた。
一人取り残された僕は、瑠衣に何も言えなかったと思っていた。
僕は彼女の横顔を見つめるだけで、彼女はずっと目の前の花を見ていた。
あれだけ切実な話をしながらも、瑠衣は結局、自分で蓋をした。
僕は彼女を抱きしめてあげることも出来なかった。視線を合わすことすら殆ど出来なかった。
彼女の流している血がまざまざと見えていたのに、僕は何もしていない。その傷みを知っているはずなのに、僕は目を背け続けている。
「次なんてあるのかな」
ひとりごちる。ベンチに置いた仕事鞄の中には、あの手帳が入っていた。
カラリとした心地よい風が、あたりの草木を撫でさすっては去っていく。
街灯が一度だけ瞬きをして黄色い灯りを落とすと、目の前の花壇に植えられた花がザワリと身震いをしたように見えた。
昼過ぎから僕はここに座っている。そして隣には瑠衣が居た。
「もうダメだと、まだ行けるの境界線ってどこなんだろう」
「みんな、どの時点で判断するんだろう」
「どうやって SOSって出したらいいんだろう」
私の頭の中は闇だと瑠衣は言う。
溺れた人間が最後の一呼吸の泡を吐き出す寸前だと。ゴボリといってしまったらもう二度と浮かび上がれない。人は周りにたくさんいる。しかし誰もこちらの様子に気づくことはない。
大勢の人の中で何も言えず、誰にも気づかれずに、海の底に沈んでいく。そして、誰もそのことを悔いたりはしない。人の多さの分、罪悪感は薄められる。皆が、自分じゃなくても誰かが気付いた筈だと口を揃えて言う。
瑠衣は、それすら目に浮かぶと乾いた口調で吐き出した。
「助けてって、ひと言言えばいいのに」
本当に言えなくなる前に、そんなに息が細くなる前に言えばいいのに。僕は彼女がそれを言えない訳を充分に知っていながらも他に言葉がなかった。
群衆の中の孤独。生きながらの幽霊にように声もあげずに叫んでいる。
彼女は弱いわけじゃない。彼女は卑屈なわけじゃない。彼女はむしろ他人に頼られ必要とされてきた。そして生に対して貪欲に向き合ってきた。
僕はそんな彼女にいつも気後れし圧倒され卑屈になった。
瑠衣は僕を必要としていない。そう心で呟いて逃げた。
しかし僕は知っていた。彼女に刺さっているたった一つの棘が彼女を一瞬で引き戻すことを。何度あがいて浮かび上がっても引き戻される。冷たく光の届かない海の底へ。
「久しぶりだったのに、ごめんね」
「あした仕事だからもう帰るよ。ありがとう」
公園の花壇に咲く、名も知らぬ黄色い花。
殆どの時間、瑠衣はその花に視線を向けていた。大きな目を見開いて、怒りと哀しみがない交ぜとなった顏で。
歳を経るごとに何も言えなくなったという姉。高架下の泥水だと思った僕。そして、自分は死なない金魚だと言った瑠衣。
あの手帳を手にした翌日に再会した瑠衣。
「結局、戦わなくっちゃいけないのは分かってんのよ」
「みんな必死で生きてんだから、甘ったれたこと言ってらんないのはさ」
「まぁ、ちょっと落ちてる時に会っちゃったのは運悪かったね」
瑠衣の笑顔に、僕はもう何度も騙されてきた。
彼女はほんの上澄みを吐き出しただけで自分は大丈夫だと言う。物分りのいい綺麗な言葉で本音に蓋をする。
本当は何一つ吐き出していない筈。本当に言いたいことを言ってない筈。
踏み潰され切り刻まれ血まみれの肉片になった者にすら他人は言うのだ。
人を信じないお前が悪いからだと。
「瑠衣」
今日はじめて僕が名前を呼んだので、彼女はちょっと驚いた顏になった。
ずっと視線を向けていた黄色い花を背にすると、彼女は慌てたように立ち上がる。
「メールしていい?」
僕の台詞に彼女は小さく笑った。
「アドレス変えたよ」
「じゃあ電話する」
「それも変えた。こうちゃんのデータは全部消した。もうこっちに来ることは殆どなかったよ。今日だって半年ぶりくらい」
捨てても戻ってくる手帳は人も呼び戻すのか。棘の刺さった人間を。
返事のかわりに僕がニッと笑うと、訝しげな顔をした瑠衣は公園の出口に足を向けた。
「次は飯、食いにいこう」
僕の誘いには振り返らず、片手をひらひら振った瑠衣が視界から消えた。
一人取り残された僕は、瑠衣に何も言えなかったと思っていた。
僕は彼女の横顔を見つめるだけで、彼女はずっと目の前の花を見ていた。
あれだけ切実な話をしながらも、瑠衣は結局、自分で蓋をした。
僕は彼女を抱きしめてあげることも出来なかった。視線を合わすことすら殆ど出来なかった。
彼女の流している血がまざまざと見えていたのに、僕は何もしていない。その傷みを知っているはずなのに、僕は目を背け続けている。
「次なんてあるのかな」
ひとりごちる。ベンチに置いた仕事鞄の中には、あの手帳が入っていた。