y o r u  n o  o w a r i   (中編)

文字数 26,079文字

 
 よく晴れた日の午後、忘れもしないあの日のこと。7月の肌が焼けるような日差しの中、ランドセルを背負って必死で家に走った。無我夢中で、つまづきそうになっても必死に走り続ける。
 やがて坂道を越えて家にたどり着く。そこには・・人の影はなく、静寂と冷たい空気だけが広がっていた。父親に電話をかける。母さんは・・母さんは・・涙を堪えながら、受話器の父親の声を聞き続けた。よく晴れた日の午後だった。

 目にぼんやりとした光が入ってくる。はっと目が覚めて、知らない家の2段ベッドの上にいることに気がついた。天井が近く、体を起こしただけで頭がつきそうだった。ここはどこなんだろうか。
 下から寝息が聞こえてくる。辺りを見回してみると、ピンク色のクッションや毛布が部屋のあちこちにあることから、おそらく女性の部屋だろうと予想した。
 不意に誰かが部屋に入ってくるのがわかる。そして2段ベッドのハシゴを登って、ピンク色の寝巻きを着た女の子が現れる。そして「私の寝床、占領させないから」と僕の右隣に横になり、僕が被っていた毛布を引き寄せ、被った。全く見覚えのない女の子が急に隣で寝始めたので、僕は薄い目を開けて聞く。
「誰・・ですか」
「あなたの妖精」
「え・・?」
「まだ6時だよ」 
 彼女はそう言って毛布を首元まで被り、僕に背を向けて寝てしまった。僕はまだ外が薄暗いことを確認し、彼女の隣で再び眠りに落ちる。
「2人ともー! そろそろ起きてよ!」
 僕と、隣で寝ている彼女のところにクッションが飛んできて、目が覚める。そしてウェーブのかかった茶髪を肩まで伸ばした女性が僕らのところまでやってきて、ベッドを覗き込む。僕は起き上がった。
「・・誰です」
「もう・・私だよ」
 彼女は銀色のカツラを手に持って僕に見せた。驚きだった。朝日に反射して、銀色が眩しく光る。
「あれカツラだったの。これが本当の私」
「そうですか。すいません分からなかった」
「ん、お姉ちゃん・・」
 隣の寝巻きの彼女はそう言って、目を擦りながらアヤさんの方を見る。アヤさんは彼女が被っていた毛布を剥ぎ取った。
「起きた? あ、この子。昨日言ってた妹」
「ああ、妹さん・・」
「そうだよ」
 彼女はそう言ってゆっくり起き上がり、僕の顔をチラッと見る。ショートの黒髪で、キリッとした眉毛が印象的な顔だった。
 玄関のチャイムが鳴り、ドアが開く音がする。そしてめぐさんのあの声が聞こえてきた。
「功一くん生きてる〜!?」
 アヤさんは「生きてるよー!」と大きな声で答える。そして部屋にめぐさんがやってきて、僕がいるベッドの方まで来る。
「もう大丈夫なの?」
「もう大丈夫です。あの、ここは・・」
「アヤの家。昨日あなたが寝ちゃって起きなかったから、みんなで一番近かったこの家に運んできたの」
「そうなんですね。すいませんでした」
「良いんだよ。私こそゴメンね。あんなのに付き合わせちゃって」
 めぐさんはそう言うと、僕の隣にいるアヤさんの妹に気がつき、「久しぶりじゃーん。元気?」と話しかける。
「元気だよ。めぐちゃんこそ」
 アヤさんはめぐさんと連れて部屋を出て行く際に、「あんたたち、私とめぐみが朝ごはん作ってる間に釣りでも行ってきたら? 目が覚めるよ」と言った。
「釣り?」
「この近くに池があるの。そこでよくやってる」
 隣で寝ていた彼女はそう言って僕を跨いでベッドを降り、僕もそれに続いて下に降りた。
「あなた功一くんっていうんだ」
 彼女は小さい壁掛けの鏡で、寝起きの髪を整えながら僕に話しかけた。
「カメラマンなんでしょ。昨日突然運びこまれてきてびっくりしちゃった」
「急に来てごめんなさい。ベッド占領しちゃって」
「良いから」
 彼女は鏡越しに僕を見る。そして櫛を置き、寝巻きを脱ぎ始めたので、僕は急いで後ろを向く。
 水色のワンピースに着替えた彼女は「さ、行きましょう」と言ってドアを開ける。僕はそのままの格好で寝ていたので着替える必要がなかった。 
 僕は彼女と一緒に、2人が料理している広い部屋に入った。バンガローの中のように木をふんだんに使った建築で、机も一枚板でできていた。広いキッチンでめぐさんとアヤさんが朝ごはんの準備をしており、「やっと起きたね」とアヤさんが僕らに言う。
 アヤさんの妹は壁にかけてある釣り竿とクーラーボックスのようなものを手に取る。そして料理をしている2人に彼女が「釣り行ってくるね」と言い、「行こうよ」と僕を呼んだ。
「すぐ帰ってきてね」
「池に落ちちゃダメだよ」

 僕らは池まで続いている林の中の小道を進んで、魚がいるという池まで向かった。僕が釣竿をもち、彼女は空のクーラーボックスを持っている。
「初めましてだね」
「うん、よろしく」
「私は・・ユミ。あなた15歳なんでしょ? 私と同い年だね」
「うん。知ってるんだ」
「昨日聞いたよ。『あなたのベッドに寝かせるけど、あなたと同い年の男の子だから安心してね』って」
 めぐさんかアヤさんか、どちらかがそれを言ったんだろう。正直言って同い年でもあまり安心しない方がいいんじゃないかと思った。
「めぐちゃんを取材してるんだってね。なんの取材?」
「ドキュメンタリー映画の撮影取材」
「すごいじゃん。あれだっけ、お父さんが画家なんだよね」
「そうだよ」
 彼女は15歳とは思えないほど落ち着きのある喋り方をする。どちらかと言うとゆっくりとした話し方で、声もずっと一定の落ち着いたトーンだった。ポーカーフェイスがよく似合う顔で、あまり表情を変えない。
 僕は昨日会ったばかりの人の妹と話していると思うと、もはや何がなんだか分からなくなってしまった。ここ数日で次々と知らない世界に飛び込んでいる。目まぐるしく新しい景色を見続けるので元の感覚が分からなくなっている。
 彼女は美しい水色のワンピースを揺らしながら歩いている。
「あいたた・・」
 僕は昨日のせいか、頭痛がして頭を抑える。そんな僕を横目で見て、彼女はクーラーボックスを持ち替えて言った。
「2日酔い・・昨日お酒飲んだんでしょ」
「なんで分かったの?」
「私も飲むから。未成年だけど」
「そんな・・」
「慣れたら美味しく感じるって」
 同い年の彼女まで・・僕は呆れるが、自分も昨日飲んでしまっているので咎めることはできない。だがもう頼まれても飲むことはない。
 林を通り抜け、池に出る。池というより小さい湖という方が正しかった。澄んだ水で、鳥が向こうで群れを成している。
「ここにしよ」
 彼女は池に面したベンチにクーラーボックスを下ろし、ベンチに腰掛けた。僕はその隣に座る。
「こんなに自然があるんだね。釣りもできるなんて」
 僕は釣り竿の準備をする彼女に言う。彼女は「そう?」と言って針に餌をつける。
「都会からも結構近いんだよ。それにこの池もバス釣りのための池じゃない」
「こんなところに住んでみたい」
「気に入ってくれた?」
 彼女は釣り糸を遠くまで飛ばし、針をゆっくりと泳がせた。僕はその涼しげなその後ろ姿を眺める。
「・・あんた大変だね。めぐちゃんとずっと一緒にいるってね。大丈夫? めぐちゃんにセクハラとかされてない?」
 彼女は少し間を置いたあと、釣り竿の先を見ながら僕に聞いてきた。僕は苦笑いで答えた。
「うん・・それは大丈夫」
「ホント?」
 彼女は僕の方を向いて初めて笑顔を見せる。2本の犬歯を見せて可愛らしく笑った。
 大きなあくびをしたあと、彼女は目を擦って言った。
「マジで眠たい。寝そう」
「変わろうか?」
「いやいや、大丈夫。それより功一くん」そう言ってまた僕の方に振り返る。
「なに」
「寝言で小さく『お母さん』って言ってたど、なんなの」
「ああ・・いや・・昔のことを夢に見たのかも」
「昔?」
「うん。よく見るんだ。気にしないで」
 彼女は聞きたいけど今はやめておこうといった感じで、「そう」と呟く。そして釣り竿を左右に振った。
「私も小さい頃の夢をよく見る。でもいつも幸せなところで途切れる。それでこの現実に帰ってくる」
「一番楽しいところで?」
 彼女は釣り糸の先を見ながら小さく頷いた。
「儚くて空虚なものだってね。私の夢もあなたの夢も」
 僕はなにも言わずにただ水面を見つめる。水面に映った青い澄み渡る空が、釣り糸が作り出す僅かな波で細かく揺れる。
「人の夢と書いて『儚い』って読むじゃん。夢は崩れるためにあるんだよ」
「そうだね」
「なんでこと話してるんだろうね。私らなんの話してたっけ」
「忘れた」
 僕はついさっき会ったばかりの女の子とこんなにも話している自分に驚く。なぜ今ここでこんな話をしているのか、どっちにしても僕らは初めて会った感じがしない。同い年だからなのか、テンションが同じだからかもしれない。
 彼女と僕の間にしばらく沈黙が続いたあと、彼女は僕の目をまっすぐに見て言った。
「私のこと忘れないでね」
 いつもなら、なぜ今そんなことを言うんだろうと、きっと聞き返すだろう。だがこのときは不思議と彼女の言葉を聞いてなんの疑問も浮かぶことなく、むしろまっすぐに受け止めることができた。しばらく間を置いたあとに「忘れないよ」と言った。
 僕らはしばらく無言で見つめ合った。釣り竿の先が振動するまで、彼女は僕から目を逸らそうとしなかった。
「かかったね」
 彼女は釣り竿のリールを巻いて魚を釣り上げる。薄い灰色の、5センチほどの魚が掛かっていた。
「なんの魚?」と僕は聞く。
「分かんない。よくここで釣れるの」
 彼女は魚が掛かった釣り糸を目の前に持ってくる。淡水の名前のわからない魚をどうするんだろうと思ったが、彼女が「箱に入れる」と言ったので、僕はクーラーボックスを開けた。彼女がそこに魚を糸から外して中に入れると、魚はピチピチと何度も跳ねる。
「こういうのって普通水に入れるんだっけ」
 跳ねる魚を見ながら彼女は僕に聞く。
「分からないな」
「いつも箱にそのまま入れちゃってるけど。大丈夫だよね」
 彼女は箱を閉じて、また釣り竿に餌をつけて池に投げた。今度は少し遠いところに届く。池の反対側で僕らのように釣りをしている家族が見えた。こんな朝早くから、なぜこんなところに来たんだろう。
 彼女はそのあと6匹ほど同じ種類の魚を釣った。家を出てから30分ほど経っていたので、僕が「そろそろ戻らないと」と言うと彼女は「そうだね。もう戻ろっか」と釣り糸を池から回収する。
 僕がクーラーボックスを持って、彼女は釣り竿を背負って、来た道を戻った。家まで戻る途中で聞いてみる。
「その魚どうするの」
「もちろん・・」彼女は僕の顔を見る。
「食べるよっ」
「本当に?」
「私の家で出る魚はいつもあそこで釣ってるよ」
「絵本の中みたいだ」
 家に戻ると、大きな机に豪華な朝ご飯が用意されていた。僕はクーラーボックスをユミさんに渡し、ユミさんはそれをどこかに持っていった。
「お帰りなさい。食べようよ」
 めぐさんはもう席について新聞を読んでいた。僕は彼女の正面に座った。
「魚釣れた?」
「釣れました。僕は何もしてないですけど」
「あの子の見た目からはあんまり想像できない趣味だよね」
 アヤさんは台所でコーヒーを注ぎながら「あの子、3ヶ月くらい前に急に釣りに始めたいって言い出したの」と教えてくれた。
「功一くんって趣味とかあるの?」
 めぐさんは新聞をたたんで僕の方を見る。そして新聞を近くの丸椅子の上に置いた。
「趣味・・映画とかですね」
「あ、映画観るんだ。どんなの観るの?」
「一昔前の映画とか好きで、よく観てますね」
「サイレント映画とか?」
「それは昔すぎますね。もっとあとの映画です」
「ツッコミうまいね。さすが功一くんやるじゃん」
 めぐさんは笑って僕を見る。朝日が彼女の顔を美しく照らしている。僕は逆に彼女に趣味はあるんだろうかと気になって聞いてみる
「めぐさんはあるんですか。趣味」
「私はね〜、絵を描いたりとかもそうなんだけど、オリジナルの写真集作ったりしてる」
「写真集?」
「雑誌に載ってる写真を切り抜いて、スケッチブックにひたすら貼っていくのよ。それはもうずっとやってる」
「雑誌っていうのは?」
「私の家の近くに紙類の回収ボックスっていうのがあって、そこに毎日大量に雑誌が捨てられていくんだけど、暇な時はそこにある雑誌をもらっていってるの」
「それをするためにですね」
「そう。旅の雑誌とかマンガとか、ポルノ雑誌とかも結構あったりして。切り抜き写真集って呼んでるんだけど、もう10冊くらいになったと思う」
「・・いい趣味です」
「本当に思ってる?」
 めぐさんは頬杖をついて顔を傾け、目を細めて笑う。その彼女の顔を見たとき、確かにこんなに綺麗な人なら世の男性が放っておかないだろうだと思った。それだけこの人は人を惹きつける自然な魅力があるに違いない。
 リビングにパジャマ姿の男性が入ってくる。ボサボサの頭を掻きながら眠たげに「おはよー」と言う。アヤさんは「やっと起きた。朝ご飯できてるよ」と言って彼にコーヒーのカップが乗ったお盆を渡す。彼は僕らのテーブルまでお盆を持ってきて、僕に言った。
「功一くんだっけ。昨日は大変だったね」
 僕のことを知っているんだろうか、そもそも彼は誰なんだろう。僕はとりあえず「ええ、でももう大丈夫です」と言った。
 めぐさんは彼をポンと叩き、僕に彼を紹介してくれた。
「この人アヤのお兄さんだよ。大学を辞めてニートになった人」
「そう、清一です。よろしくね」
「ええ。よろしく」
 お兄さんだったんだ・・と僕はここで改めて彼を見る。妹のどちらにも似ていない顔立ちで、人が良さそうな雰囲気を醸し出している。話す声のトーンも穏やかで、安心感のある話し方だった。
「昨日はオレが功一くんを運んだんだぜっ」
「ああ、そうなんですね。すみません、なんか」
「いやいや、全然軽かったから余裕だったよ」
 彼はめぐさんの隣にどっしりと座る。彼の大きな体と、めぐさんの細いスラッとした体が対照的に僕の目に映る。めぐさんは彼のお腹をポンポンと叩いた。
「あんた、また太ったんじゃない? このお腹!!」
「いや、そうなんだよ。ずっと食べてるからさぁ、痩せないと」
「本当に・・このボロっちいパジャマも何年着てるの? クソダッサイ」
「クソダサくて悪かったよ」
 そこへユミさんが戻ってきて、僕の隣に座った。前髪を赤いピンでとめていた。
「なんか新鮮な光景だよね」
「いやほんと。いいツーショットだわ」
 前に座る2人が僕らが並んで座っている光景を珍しがるようにして言った。ユミさんは僕の方に少し体を向け、僕の目をまじまじと見てくる。僕も彼女の目を見つめるが、恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。
「あ、そうだ。僕のカメラを入れたバッグ」
 僕は思い出してあたりを見回す。そういえばすっかり忘れていた。もしかしたら忘れてきたのではないかと不安になる。
「ああ、それなら玄関に置いてあるよ。取ってこようか?」
「あ、すみません」
 清一さんは玄関にある僕のバッグを取ってきてくれた。僕はカメラを取り出して昨日の映像の確認をする。
「それがカメラ? めちゃカッコいいね」
 ユミさんが僕のカメラを興味深そうに眺める。僕はカメラを手にしたことでようやく自分の置かれた立ち位置を思い出した。僕は取材にきたスタッフだった。ふと、昨日、めぐさんが話していた強烈な下ネタの話を思い出した。
 僕はカメラをユミさんに向けた。
「やめてっ」
 ユミさんは笑いながら目元を手で隠す。そして手をどかしながら「よく写ってる?」とレンズを真っ直ぐに見る。
「私も持ってみたい」
「いいよ」僕はそっとカメラを彼女に渡す。
「ありがとう」
 彼女はカメラを前にいる2人に向ける。そして席までやってきたアヤさんにも向ける。アヤさんは「何取ってるのよ」とカメラを持った妹に微笑む。
「これ今録画はしてるの?」カメラのモニターを見ながらユミさんが僕に聞く。
「いや、録画はしてない」
 アヤさんがカメラを持ったユミさんに「ほらほらもう食べるよ。それ功一くんに返しな」と言った。彼女は僕に「はい。ありがと」と僕にカメラを渡し、僕は電源を切ってバッグの中に入れた。
 みんなで朝ご飯を食べながら、いろんな話をする。僕は人の家庭に勝手に入り込んでいるような罪悪感がずっとあったが、僕をよそ者とは思わずに優しくしてくれるので、肩の力を抜くことができた。
「わたし今日美術館に行くんだけど功一くんも来る?」
 めぐさんが僕に言った。
「美術館ですか」
「こないだ急に館長さんから電話が掛かってきてさ。大橋雄一の娘だって知ってたみたいで、見せたいものがあるから都合のあるときに来て欲しいって言われてね」
「すごいですね。そんなこと・・」
「でも私ひとりじゃ嫌だから、あなたにも来て欲しい。取材っていう名目で」
「いやでも・・そんな僕が」
「私も行きたい!」ユミさんが目を輝かして彼女に言う。
「あんたは行く理由ないじゃん。それに学校から呼び出されてるんでしょ」アヤさんは妹を睨みつけるようにして言った。
「そうだけど・・」ユミさんは不貞腐れた表情を見せる。
「功一くん行く?」めぐさんがまた僕に聞いた。僕はとりあえず「じゃあ行きます」と言った。
 僕とユミさんは同じタイミングで食べ終わった。隣のユミさんはまた僕の方を向いて、僕の顔をじっと見ている。僕は彼女に聞いてみる。
「・・顔になんか付いてる?」
「いや、綺麗な目だなぁって思って」
「目?」
「うん。透き通ってて、茶色っぽいんだね」
「初めて言われた」
 3人は僕らが会話している様子を、興味深そうに眺めている。
「2人ともなんか似てるね」
 アヤさんはそう言って僕らを交互に見る。ユミさんはそれを言われてどう思ったんだろうと、彼女の方をチラッと見る。だが、彼女からは感情を読み取ることができなかった。
 めぐさんが「チューしてあげて」とユミさんに向かって言った。するとユミさんは僕の手を握って近づき、僕のおでこと左頬にキスをした。
 僕はその瞬間、魂が抜かれたようになる。目の前が白くなり、なにを考えていいのかも分からなくなる。目の前の3人は「本当にやるんだ・・」というように、驚きと照れ笑いが混ざったような表情を浮かべた。ユミさんは僕の手を握ったまま、僅かに微笑む。
 僕がめぐさんと一緒に家を出るとき、アヤさんが「また遊びにおいでよ」と言ってくれた。
「ええ。お邪魔しました」
「気をつけてな」
 清一さんが玄関で靴を履く僕に言う。めぐさんは肩にカバンを掛け、僕が出発できるまで待ってくれていた。
「じゃあね。バイバイ」
 ユミさんは僕に手を振った。僕は「うん。バイバイ」と言ってめぐさんと家を出た。
 駅前まで2人で歩いていき、ロータリーでタクシーを待っている間、僕は彼女に聞く。
「どうして連絡先を知ってたんですかね。しかもなんで今電話を?」
「パパは昔あの美術館と交流があって、よく館長と連絡を取ってたの。だから、なんでか知らないけど今その電話に掛けたんだろうね。当時から家も替えてないし、番号も一緒だから」
「お母さんが出たんですね。じゃあなんでめぐさんの方に?」
「ママは美術館に出向くのが嫌で、代わりに娘に行かせてくださいって言って私の番号を教えたんでしょ。なんの用か知らないけどね」


 美術館に向かうタクシーの中で、僕はまた昨日のようにカメラを回し始めた。彼女は今までビスチェを着ていたが、今日は白いTシャツだった。肌の露出が少なくなったので、僕は安心感を覚える。
「あの子どう? 色々話してたでしょ」
「ああ、そうですね。釣りしてました」
「一緒におねんねしてたね。同じ毛布被って」
「それはまあ・・」
「あなたことが好きなんだよ。あの子」
「どうしてですか」
「あなたにチューしてたじゃん」
 僕が持つカメラにニヤニヤと笑う彼女の笑顔が映る。やはり僕を一歩引いた目で観察することを楽しんでいるんだろうか。
「めぐさんが言ったからですよ」
「でも2回もしてたよ。チュッチュッって」
「まあ・・ちょっと不思議な子です。ほんとに」
「あなたが言うの面白いね。あなたもあの子と似たような感じだと思うけど」
「そうですか?」
「なんとなく雰囲気が似てるのよね。フワフワしてて、それでいて可愛らしい感じがね」
 カメラが僕らの話をどんどん記録していくが、撮影者との会話なんて使わないに決まっている。
 なので僕はこれを撮影する意味がるんだろうかと何度も疑問に思う。昨日のことにしても、一体自分は何をしているんだろうと言いたくなる。いずれにしても、僕は体験したことのないものに触れ続けている。
 タクシーは美術館に到着した。時刻は11時になっており、宮殿のような外観の美術館の前で写真を撮る人たちが多くいた。
「着いたね。私も初めて来た」
「そうなんですか」
「高木さんって人がここの館長なのよ。私のパパの旧友ってところ?」
 日本では珍しい回転ドアを抜けると、大きな吹き抜けの西洋建築が広がっていた。ここを抜けて中庭を通ると、順路沿いに大量の美術品を鑑賞できる本館があった。大きな庭にある噴水と綺麗に整えられた植木を横目に、僕らは建物に入っていく。
「めちゃくちゃデカい美術館じゃん。すごいね」
 彼女は招待券を係員に見せると、係員はめぐさんと僕を展示スペースに案内した。拾い順路に間隔を空け現代美術品が展示されている。人は多くはなく、中は静まりかえっている。
「ここカメラ回して大丈夫?」
「撮影OKって書いてました。ここだけ」
「そう」
 彼女がそう言ったとき、後ろからスーツ姿の名札をつけた男性が「これはこれは」と言って近づいてきて、丁寧にお辞儀をした。
「この度はお越しいただきありがとうございます。私は副館長の永井と申します」
「あ、どうも。わたし高木さんに呼んでいただいて」
「それについてなんですが、高木は急用で他の場所におりまして。代わりに私から見せたいものが」
「なんですか?」
「奥の方にございます」
 めぐさんと僕は彼に着いて、美術館の関係者しか通れないようなところを歩いていく。彼は歩きながらめぐさんと僕に話してくれた。
「急に連絡させていただき申し訳ありませんでした。お母様が体の調子が良くないとおっしゃられてたもので、代わりに連絡を」
「そうなんですか。私は全然良いんですけど、父親のことで何か?」
 彼女はスタスタと歩きながら、初めて会った人にも物怖じすることなく冷静に話す。僕はその様子をカメラでずっと撮っているがいいのだろうか。バックヤードのような場所ではあるが、この人は何も言ってこない。
「実は先月、当美術館の地下倉庫からお父様の作品を発見しまして。昔企画展をやらせていただいたときのものかと」
 薄暗い廊下を抜け、広い倉庫のような部屋に出る。そこには大量の絵画などの美術品があり、部屋の真ん中にはひときわ目を引く大きな布を被ったものが置かれている。
「こちらですが」
 彼がそう言って布を取る。それは異星人のような見た目をした銅像だった。あまりに常人離れをした人が作ったのだろうと思わせる、異様な空気感を纏っている。
「ああ、知ってます。父が一生懸命作ってました」
「本当ですか」
 彼は驚きと感動の表情を見せた。確かにそりゃそうなるよね、と言いたくなる。世界的芸術家の娘が証言しているんだから。
「ここにあったんだ。懐かしい」
「やはり、本当に娘さんでいらしたんですね・・」
 彼は改めてそのことを実感したのだろう。僕は初めて彼女にあったとき、世界的に有名な人の娘と聞いて、あまりの緊張で頭が回らなかったが、今は自然と話すことができる。だが、やはり今もどこか緊張はする。
「この作品をお贈りたいと考えたもので。今は亡き大橋氏の作品でありますので」
「これをですか? いやいいですよ。パパの作品だけど、私が持つよりここにあった方がいいです」めぐさんはあっさりと言う。
「しかし・・せっかく見つけたものですから、是非ご家族の元に」
「これはここの美術館にあげますよ、ママの家にも私の家にも置く場所ないもん」
「はあ・・さようですか」
 館長はこれのために彼女を呼び出したんだろうが、あっさりといらないと言われてしまうとは思いもしなかっただろう。めぐさんは意見を変える気はないようで、彼はそれを了承したようだった。
 そして彼は彼女の方に向き直って、「ついでと言ってはなんですが・・」と彼女にこんな話を持ちかけた。
「実は当美術館が出版している雑誌がありまして、そこで大橋氏の作品の特集をやろうかという話が進んでいまして」
「雑誌ですか?」
 彼女は銅像から彼に視線を変える。僕は銅像を写していたが、隣の彼女の立ち姿がすごくカッコよく思え、少し下がって銅像と彼女を同じ画角に収めた。
「それで・・是非今度の雑誌で、お父様の作品についてコメントしていただきたいんです。彼は作品のほとんどを自宅で制作していて、是非その詳しい話なども」
 彼女はそれを聞いて床に視線を落とし、そしてキッパリと言った。
「お断りします」
「えっ」
 僕も驚いた。悩んだ挙句に断るならまだしも、こんなに早く断るとは思わなかった。彼女は彼の方をしっかりと向いて話す。
「私は父の作品にコメントはできません。というか私じゃなくても、もっと他に芸術分野に詳しい人の方がよっぽどコメントする価値がありますよ」
「しかし、折角の機会だと・・」
「私より彼のことをよく知っている人はもっといます。その人たちにコメントはお願いしてください」
 彼女はそう言って部屋の出入り口へとスタスタ歩いて行ってしまう。彼はポカンとしたまま立ちすくんでいる。
「行こう、功一くん」と僕の方を振り返って言った。
 僕は彼女に急いでついていく。扉を出て、廊下を早足で歩く。
「なんであんなこと・・」
 僕は彼女の横を歩きながら聞く。彼女は怒った様子はなかったが、もうあの場所にいても意味はないと思ったのだろう。
「いいんだよ。残念だけど私は彼に協力できない」
「お父さんのことじゃないですか」
「私なんかが答えても意味ないって。帰ろう」
 僕はそんな彼女をカメラを持ったまま追う。高木さんという人の代わりに彼女をここまで案内した彼が不憫でならなかったが、めぐさんは全く気にしていないようだった。
 

 美術館から出た僕らは、若者で溢れた繁華街をしばらく歩いていた。僕と同じような年齢の友達連れの人が多くいて、心を躍らせたような笑顔で、上を見上げながら歩いている。そして僕が彼女を撮影している様子が様子が珍しいのか、すれ違う人の多くに視線を向けられる。
 彼女はそんな人目を気にする様子もなく毅然(きぜん)とした様子で歩いていた。僕はさっきの件について聞いてみる。
「お父さんの作品も、受け取らないんですか?」
「うん。運んでもらうのも申し訳ないし、何よりあれはあそこにあるべきなの」
「形見じゃないんですか」
「それは私に向けてパパが残したものに言うやつでしょ」
 彼女はそう言いながら高い建物の看板を見上げた。
 めぐさんはこの後の予定は考えてなかったらしく、僕は「これからどこに行くんですか」と聞いた。
「そうね。暇になったし、映画館でも行く? いい映画があればだけど」
「映画ですか」
 僕らは大きなデパートの最上階にあるシアターに行った。この辺りでは一番有名な場所らしく、月曜にも関わらず多くの若者で賑わっている。春休みのアニメ映画の影響なのか、小中学生も多くいた。映画館いっぱいに充満したポップコーンの香りが懐かしく感じられる。
 チケットを購入しためぐさんと僕は、ポップコーンを持ってシアター室に入り、後ろから三列目の席に座った。上映までまだ時間があるらしく、まだ電気がついていて明るかった。
「映画館とかよく来んの?」 
 彼女は早速ポップコーンを食べながらカメラをバッグにしまう僕に聞いた。僕はバッグのチャックを締め、バッグを膝の上に置く。
「2ヶ月に1回、とかですかね」
「じゃあ、今年で4回目?」
「大体それぐらいです」
「そうなんだ。いつも彼女と来んの?」
「いやその・・彼女いないですから」
「え!? そうだっけ!」
 彼女はわざとらしくそう言って、眉を上に上げる。
「昨日言いましたよね」
「そっかぁ」
 めぐさんは僕と話しながら、またニタニタと笑う。無邪気さと意地の悪さが混ざったような笑顔でこちらを見る。だが次に僕に話すときには、もう普段の優しい顔に戻っている。
「こんどウチにおいでよ」
「いいんですか。お邪魔して」
「いいよ。ちょっと今はメチャクチャに散らかってるから、また片付けて待ってる」
 そんなことを話しているうちに、徐々に映画館が暗くなり始めた。
 僕は映画を見ている最中も、暗闇の中で隣の彼女がポップコーンを噛み砕く乾いた音を聞いていた。
 2時間以上ある映画が終わり、ようやく僕とめぐさんは席を立って外に出た。長いこと暗闇にいたせいか、外がまだ明るい時刻だったことに違和感を覚える。
 僕らはデパートの下りのエスカレーターで映画の感想を話した。僕よりエスカレーターの2段下にいるめぐさんが、僕を見上げるような形で喋る。
「結構グロいっていうか、エグかったね」
「あの監督はそういう人ですね。大体」
「詳しいんだねぇ」
 僕と彼女は映画館の一つ下の回にあるカフェに行き、僕は彼女を再び撮り始めた。鼻歌を歌いながらメニューを捲る彼女を僕は撮る。
 映画館のガヤガヤとした喧騒から逃れたように、このカフェは静かで落ち着いていた。
「映画館ってなんかドキドキするよね」
「そうですか」
「なんか始まる前に電気が消えるところとかさ、ポップコーンの匂いとかも。分かる?」
 僕は分かります、と言ってモニターの彼女を見続けた。
 そして僕は少し間を置いてから、さっきのことを聞いてみた。 
「なんであれを断ったんですか」
「ああ、それね」
 彼女は椅子にもたれてから足を組む。
「私はパパの仕事には口出ししないようママから言われてたの」
「え、それは・・」
「小さい時からだよ。パパからはなんとも言われてなかったけど、なぜかママからはそう言われてたの。だから私にはパパの作品について話したこともないし、わざわざ話そうとも思わなかった」
「じゃあなんで取材を受けてくれたんですか?」
「あなたは私自身を取材しに来たんでしょ。それに私は別に昔のことを話すのが嫌なわけじゃない。今はね。でもパパの芸術がどうとかは話す気はなかった」
 2つ隣の席の女子高生2人組が、僕らの方をチラチラと見ていることに気がつく。あの人たちには一体僕らがどう映っているんだろうか。
 僕は他人の人生を覗き見しているという罪悪感がまた蘇ってきた。全くの他人の僕が人の過去や生き方を知ろうとしていることは、たとえ仕事であっても許されることなのか。
 でもこれは自分の仕事だと言い聞かせ、勇気を出して今までずっと気になっていたことを聞くことにした。
「今はお母さんとはどうしているんですか」
「・・ママとは私が家を出て以来ずっと会ってない。色々あってね」
「家を出たのはいつです」
「去年だよ。飛び出したって言う方が近い。専門学校を途中でやめたこと以外にもまあ・・何かと揉めちゃって、ママとはそれっきりなの」
 めぐさんは僕が心配していたよりすぐに答えてくれた。僕はそれで少し安心したが、彼女はあまりこれについて話したくないのかもしれないと思った。彼女のような人でも、他人に話したくないことはあるだろう。それもまだ知り合って間もない高校生に話すなんて。
 彼女は机に両肘を置いて前屈みになり、不意に僕にこんなことを聞いた。
「あなたは私をどう見てるの?」
「えっ」
 僕はこれが何を意味するのかが掴めず、オロオロしていると、彼女は僕が答えるべき内容を明確に提示してくれた。
「私をただの有名人の2世として見てるのか、それともひとりの人間として見てるのか」
 彼女は今まで以上に真剣な眼差しで僕を凝視し、問いかけた。僕がどう答えるかを心待ちにしているような表情だった。
 僕はこの質問の答えがこれから先の未来を大きく変える気がした。僕はこんなときに一体なんて言えばいいのか。短い間に考えることが求められる。
 そして慎重に悩んだ末に、今出た一つの答えを言った。
「僕は・・めぐさんがどんな人なのか知りたいです」
 僕がそう言うと、めぐさんは顔を少し傾けて頬杖をつき、「私自身がね?」と表情が少し和らぐ。
 そして彼女は椅子に座り直してから、
「カメラを持って取材するって言うから、最初から最後までずっとカメラ向けられると思ってた。まあ今は撮ってるけど」
 と丸い大きな目でレンズを見て言った。
「ああ、これはその・・密着取材ではないんです。僕は『記録映像をたくさん撮ってくれ』って言われただけなんです」
 僕はカメラを片手で持って、そのカメラで自分の顔を少し隠すようにした。今になって、彼女と目を合わせて話すことに緊張が込み上げてきたからだった。
「なるほどね。撮影するかどうかは全部あなたが決めてたんだ」
「はい」
 その後も僕らはさっきの映画の話や色んな話をしたが、彼女はそれ以降は家族や父親については話さなかった。僕は今日はもう十分撮ったからいいだろうと思い、店を出るタイミングでカメラを切ってカバンの中に入れた。
「これからどこ行く?」
 通りに出てた僕らは、これから先に行く場所を全く決めていなかったので適当にその辺りを歩いていた。めぐさんは映画館にいたときよりもテンションが上がっているようで、軽い足取りで街を歩いている。
「お腹減った。またなんか食べに行こうよ」
「いいですね」
「そういえばさぁ、このあたりに焼肉屋あったよね。功一くんそこ行かない?」
「行きましょう」
「あなたのお金でね」
 僕らが行ったのは全席が個室の焼肉屋だった。よく考えるとまだ7時にもなっていなかったが、なぜかその場の勢いで僕らは焼肉店に来てしまった。掘りごたつになった2人掛けのテーブルで、個室のドアを閉めると外の騒がしい音が遮断されるので、今まで以上に落ち着くことができる。
「人のお金で食べる焼き肉は最高だねっ」
 そう言って、前髪をゴムで束ねて焼き肉を焼いている彼女からは、今までに感じたことのない愛嬌が感じられた。年上の女性ではあるが、まだ20歳にも満たない少女なんだと気がつく。
 僕は昨日から着ている黒いボタンシャツを開けて、慣れない手つきで金網に肉を乗せていく。
「カメラ持ってないときのあなたは、本当に静かでおとなしいね」
 彼女はトングで焼き上がった肉を皿に入れて、僕に渡す。僕は受け取って「そうですか?」と言った。
「カメラを持ってる間は仕事なんで、まあバイトですけどね」
「バイトでもこれを任されるってすごいよ」
「いやまあ、どっちにしても僕はいつもはこうです」
 僕はめぐさんと向かい合わせで、カメラを持っていない状態でも話せていることに気がつく。女性の目を見ることすら出来なかったあのときとはまるで違って思える。緊張はしているが、目の前にいる彼女にどこか親しみを感じてきたからかもしれない。
「あなたが私のパパと会ったのって、何歳?」
「えっと・・5歳くらいのときに会ってたと思います。でもよく覚えてなくて」
「そのときだよ。私がちょうど9歳で、あなたのパパによく会ってたとき。そのときに会ってたら、私たち幼馴染だった」
「そうですね。なんか・・変な形で会いましたね」
「本当にね! 人生ってこんなこともあるんだって思った」
 本当にそうだと彼女の言葉を聞いて思う。似たような日々を何年も繰り返してした僕が、今はこうしてめぐさんと一緒に焼き肉を食べている。幼馴染だったかもしれない人と。
 めぐさんは焼き肉をひっくり返しながら軽快に話を続ける。
「それが5歳で、初AVが12歳?」
「いやもう・・その話やめてください」
「なんでよ。あなたが昨日そう言ってたじゃん。恥ずかしくないよ」めぐさんはニヤっと口角を上げた。なんで昨日あんなことを喋ってしまったんだろうか。胸が張り裂けるほど恥ずかしくなるが、めぐさんはお構いなしに話し続ける。
「どういう系が好きなの?」
「どういう系って・・答えませんよ」
「またまた、そんな可愛らしい、大人しそうな見た目してHな動画見てるくせに」
「だとしても、そんな事どうでもいいじゃないですか。聞かないでください・・」
「ほんっとに恥ずかしがり屋さんだね。堂々としてりゃいいんだよ」
 今さら彼女と一緒に焼肉を食べに来たことを後悔し始めた。昔から今まで、ずっと自分をガードし続けてきた壁を彼女が無理やり壊して、中の僕を引っ張り出そうとしている感じだった。
 白い煙越しにめぐさんの目が大きく見える。彼女こそ、清純な美少女のビジュアルとは裏腹に、焼肉を食べながら下品な話をできる人なのだ。
「恋もしたことないって言ってたもんね。した方がいいよ」めぐさんは焼肉を頬張りながら言う。
「その・・女の子と会話ができないんです。言葉が詰まってしまって」
「そうなの? 私にはそうは見えない。本当に普通に思えるけどね」
「今・・は前よりはマシです」
「私もそんなにおしゃべりは得意ではなかったけど、中学以来ずっと彼氏はいたしね。出会いが多いのかもね、私は」
 やはり彼女は自分とは全く別の世界の人なんだろう。自分はもちろんのこと、自分の周りにもそんな人は少数派だった。今は遠巻きに見ていた別世界の人を目の前にして、圧倒されている。
「初めての彼氏が中2でしょ。出会ったときに一瞬で夢中になって、彼を離したくなくなる。そういうもなの」
「そうですか」
「そう、それで付き合うことになったその日の夜に彼とヤった。彼の家のベッドでね」
「はあ・・」
 平静を保とうとする僕の心に衝撃が走る。これが現実だなんて本当に信じられない。こんなことがあっていいのだろうか。彼女の声のトーンから察するに、これは紛れもない事実なんだろうと思う。今嘘をつく必要もないだろうし。
「でも別に珍しいことじゃなかったの。特に私の通ってた学校ではね。誰が誰とヤったとか、そんな話ばっかりだったし」
「・・すごいですね」
 話を聞いても動揺していないふりをしているつもりだったが、おそらくなんの意味ももたらしていない。結局は勘の鋭い人に見破られ、恥ずかしい部分を指摘されるだけなんだろう。
 めぐさんはニヤっと笑いながら、また目を細めて言った。
「あなたもあのバーの界隈の女の子に頼んだら、簡単にエッチさせてくれるよ」
「いいですよそんなこと」
「遠慮がちだね。イケメン君とはタダでヤらせてくれるのに?」
「本当にいいですから。もうやめましょう、こんな話」僕はできるだけ早くこの話を早く終わらせたかった。
「なんでよ」
「僕が女の子とそういうことしたい、不純な人間みたいじゃないですか」
「だってそうじゃないの」
「違いますよ。僕は」
「違うの? クールでいたいみたいな、なんなのそのプライド」
 彼女はトングを右手に持ったまま、肉をひっくり返す手を止めて白い煙越しに話す。段々と僕らの会話が軽い言い合いに近くなり、めぐさんも意地になって早口になる。
「プライドとかじゃないですよ」
「じゃあなによ。あなたも十分に汚れを知った人間でしょ。なのに、それを隠そうとするのダサいよ!」めぐさんはトングの先で僕を差して、トングを上下にゆらゆらと揺らした。
「普通は表に出したくない部分じゃないですか。なんでオープンなんです?」
「じゃあ逆に聞くけど、あなたはなんでそんなかしこまった感じでいたいのかってことよ。自分を曝け出すのが怖いんでしょ!」
「違います。僕は別に自分を偽ってはいないです。ただそんな下ネタとか卑猥な話はしないし、したくないっていうことです」
 気がつくと躍起になって身振り手振りで話している自分に気がつく。年上の女性と、なんでこんな意地の張り合いのようなことをしているのか自分でも分からない。
「あ〜らお利口さんだこと。育ちがいいお坊ちゃんは違いますわねっ」めぐさんは挑発する目つきで片方の眉を上にあげる。
「そんな言い方やめてください」
「風呂場でシコってるくせに」
「あんな話するんじゃなかったって後悔してます」
「おっぱい触ってみたいなぁとか、SEXしてみたいなぁとか、そんなことばっかり考えてんでしょ。15歳の男子なんて」
 めぐさんは声のボリュームが大きくなる。僕は隣の個室の人がこの会話を聞いて静かになった気がした。この最低の会話が聞こえたら隣の人はどう思うんだろう。それが家族連れだったら悲劇以外のなにものでもない。
「隣に聞こえます」
「別に聞こえたっていい。恥ずかしいと思う心が恥ずかしい」
「それに・・そんなワードあんまり言わない方がいいですよ。それも19歳の女の子が」
「あ〜! そうやって私が女だからとか、そういうこと言っちゃうわけ??」
「そういうつもりじゃないです・・でも」
「でもなによ。生意気だね。童貞のクセに」
「童貞は今関係ないです」
「だってそうなんでしょ? 女子の裸を見る勇気すらないんでしょ、あなたには!」
 そんなやりとりの末、僕と彼女の間にしばらく沈黙ができてしまった。こんな下らないことのために、なぜお互い意地になっていたのか。静かな空間に焼き肉の焼ける音が寂しく響いている。
 僕はこの人に取材をしに来たのに、これじゃもうこの先取材ができないのではないかと、絶望に近い感情を抱く。
 しばらくの間を置いて、めぐさんが僕を上目遣いに見ながら言った。
「私、今日こんな感じで終わるの嫌だよ」
 僕は俯いたまま、膝に置いた手を見ながら「はい・・」と小さく返事をした。
「私言いすぎた」
 めぐさんは下を向いたままでいる僕の方に手を差し出した。
「仲直り!」
 僕は「ごめんなさい、僕が悪いです」と言って彼女の手を取った。彼女は「ううん、私が悪かった。ごめんね」と言った。
 僕らはその後、再び前のように和やかに話すことができた。強引でも、彼女と握手をしたことでお互いのギスギスした空気がなくなった。
 しばらくして焼肉屋を出たあと、彼女は「功一くんの家に行きたい」と何度も言ったので、僕はタクシーで彼女を家まで連れて行くことにした。公道を走るタクシーを拾い、ここから1時間ほどの自宅まで向かった。


「ここがあなたのお家?」
 家に到着し、僕の家の外観を眺めながら彼女が言う。もうすでに夜の9時を超えており、あたりは真っ暗になっていたため、家は暗闇の中のシルエットだった。
「マジの邸宅じゃん」
「大袈裟です」
 僕は門を抜け、庭を抜けて玄関前まで彼女を案内する。彼女は異文化に触れるかのように周辺をキョロキョロを見回し、「すごいねぇ」と言った。
「洋館みたいな、とりあえずめちゃくちゃ豪華な家だね」
「全然ですよ。3階建てですけど、古いだけです」
「すげ〜。3階建てって・・」
 家の中に彼女を通し、一階の電気をつける。綺麗でもなんでもないリビングだが、広さだけはあるので、十分パーティーもできる場所だった。
「ねえここで格の違い見せつけてくるの? すごいねホント」
 彼女は荷物を下ろし、3階まで吹き抜けになっている天井を隅々まで見回す。1階しか電気はつけていないので、上は真っ暗になっている。
「くつろいでください」
 僕も荷物を下ろし、台所に行って何か出せそうなものはないかと冷蔵庫を開ける。
「いいの? いや、これはすごいね。私この家に住みたくなった」
「そんな住みやすい家ではないですよ。めぐさんのアパートの方がいい場所です」
「そうかなぁ」
 彼女はリビングの大きいソファに深く腰かけて大きく伸びをする。そして今度は床や隅にある階段をじっくりと見る。
「これ全部、木で出来てるの? 手すりとか、床とか」
「はい」
「すごい・・エッチだね」
「そうですか?」
 冷蔵庫にコーヒーとミルクを見つける。棚の中にしまっておいたケーキもあったので、僕はそれを切り分ける。来客なんていつぶりだろうと思い、いつものソファーに彼女が座っている光景が新鮮でたまらなかった。
「コーヒーでいいですか?」
「あ、そんなことまでありがとうね! コーヒーでいいよ」
 めぐさんはソファーに大胆に寝転がり、感心するような目で家の中と台所でコーヒーを注ぐ僕を見た。僕は彼女が座るソファーの前にある机に2人分のコーヒーとケーキを運び、机を挟んで向かいにあるソファに座った。
「うわぁケーキだ! やったね」
 彼女とケーキを食べ、コーヒーを飲んでいる時間は不思議なものだった。1週間前の自分は、まさか家に女性を連れてきて一緒にお茶をするなんて考えもしなかった。なんでこんなことをしているんだろう、どんな経緯でここまで辿り着いたんだっけ。
「あなたの部屋見ていい?」
 彼女はこの家に対する興味が溢れてやまない目をしながら僕に言った。
「え。いやでもそんな綺麗な部屋でも・・」
「いいじゃん。ね?」
 僕は一瞬うろたえたが、何も見られて困るようなものはないと気がつく。むしろここで「それはダメです」などと断った方が変に思われるに違いないと思い、3階にある自分の部屋に案内することにした。
 彼女と一緒に木製の階段を上がり、3階の廊下の先にある部屋に通した。めぐさんはウキウキした様子で、上機嫌に「お邪魔しまぁす」と言って部屋に入る。
「おおっ! すごいんだけど!」
 広さは特にないが、レコードや楽器が無数に置かれた僕の部屋を見て彼女は目を輝かせる。僕からすれば嫌というほど毎日をここで過ごしているが、彼女からすればここは新鮮な空間なのかなとも思う。
「いい部屋持ってんじゃん。功一くん」
「全然そんな・・広くもないですし」
「いやいや、いいよ。あれは何? ウクレレ?」彼女は壁にかかった3つの楽器を指差す。
「はい。昔から持ってるやつですね」
「すごい、弾けるんだぁ。かっこいいね」
 めぐさんはウクレレをしばらく眺めたあと、丸い座布団に座って、部屋全体を惜しみなく見渡した。
 僕は彼女の真正面に座る勇気がなく、彼女の少し斜め前に座布団を置いて座った。そして「へぇ〜」と言いながら部屋を見回す彼女を見続けた。
「マジで3階に部屋があるって言ってみたいわ。それもこんなオシャレな家のね」
 めぐさんは僕のベッドにもたれ、両手を頭の後ろに回して言った。そのときショートパンツであぐらをかいた彼女の脚が太ももの付け根まで見えそうになったので、僕は急いで彼女から目を逸らした。
「持ち家なのよね?」
「昔父親が譲り受けた家なんです。本当に古い家で」
「そうなんだ。ほんと、私も住みたいくらいよね」
「・・いいですよ。ちょっと広すぎるくらいなんで。部屋もいくつか余ってます」
「マジで? そう、じゃあ今度から週7で泊まりにくるね」
 めぐさんはニヤッと白い歯を見せ、丸い大きな目をまた細くする。
 僕らはそのあと部屋のベッドの上でトランプをして遊んだ。本来取材するはずの人と一体自分は何をやっているんだろうと思ったが、そんなことよりも僕は久しぶりにやるトランプに熱中していた。いつから彼女との距離がこんなに近くなっていたのか、今はすっかり世界的な有名人の娘だということを忘れている。
「私の勝ちだね」
「負けました」
 何回かやって全て僕が負けてしまった。彼女は僕を負かしたからなのか、それともトランプが好きだからなのか、ご機嫌な様子で「楽しかったねぇ」と言って僕にトランプを渡す。
 僕がトランプを片づけている間、彼女は「ベランダもあるんだ」と言ってベッドを降り、ガラス張りのドアに歩いていった。
「ありますよ。景色も結構いいです」
「うわあ! ホント、超デカいじゃん。宮殿のベランダみたいな」
「そうですか? 宮殿は言い過ぎですけど」
「出てみていい?」
「いいですよ」
 彼女はドア開けてベランダに出た。僕はトランプをしまうと、ちょうどそこに昔の雑誌があったので手に取って読んでみる。小学生のころによく読んでいたテレビアニメの雑誌だった。ページをパラパラとめくっていると、ベランダから「カチッ」という音が聞こえた。
 何をしているのかとベランダに出てみると、それはライターの音だった。暗いベランダに、ライターのオレンジ色が光っている。
「タバコ・・吸うんですね」
「え?」ベランダの柵に寄りかかり、煙を吐き出しながらめぐさんは僕の方を向いた。
「これタバコじゃないよ・・」
「じゃあなんなんですか」
「英名でシガレット」
「タバコ・・ですね」
 めぐさんは2本の指でタバコを挟み、僕の方に顔を向けたまま「フフッ」と笑った。僕はタバコを吸っている彼女にさほど驚かない自分に驚いた。どうして自分は今の彼女の姿を見て、こんな動揺もせずに冷静でいられるのか。
 僕も柵に寄りかかり、何も話すことができないまま、下を眺める。整備されていない庭と噴水が、暗い中にもボヤッと目に映る。
「功一くんも吸う?」
 めぐさんは自分が吸っていたタバコを僕に渡す。僕はよせばいいのに、どういうわけか「じゃあ・・」と言って彼女から受け取った、口紅のついたタバコを口に(くわ)えた。
 強烈に苦い味が一瞬にして口中に広がり、喉に煙が差し掛かったところで咳き込んでしまった。
 自分の鼻と口から白い煙が出てくることに恐怖を覚える。僕はいけないことをしている。彼女と一緒に、とんでもなく悪いことをしている。怖くなり、咳き込みながら僕はタバコを返した。
「もういいです」
「フフフ。もういいんだ。可愛いね功一くん」
 彼女はまたそのタバコを吸い始めた。さも不自然なことは何もしていないと言わんばかりに、普段と変わらない表情で、遠くを見ながら煙を吐き出す。
 僕は急いで家の中に戻り、水道の水でうがいをした。もう2度とごめんだった。無垢な少女のような見た目をしながら、酒を飲んだりタバコを吸ったり、あの人はどうかしている。ようやくその感覚が掴めてきた。だが、そのことを言う勇気がなかった。
 タバコの火を植木鉢用の皿に溜まった水で消した彼女は、部屋に戻ってくると、タバコを僕の部屋のゴミ箱に捨てた。そして僕のベッドにごろんと寝転がった。
「功一くんさあ、あの子のことマジで好きでしょ。ほら・・アヤの妹」
 めぐさんは両手を頭の下に置き、天井を見たまま僕に話す。
「なんでそんなこと?」
「誤魔化してもムダだって。チューされて顔が赤くなってたもん」
「別にそんなことないですって。なんで分かるんですか」
「そんなこと言って、好きなくせに。あの子とヤりたいでしょ?」
 年下相手にそんなことを言い続ける彼女に、僕はもういい加減にしてくださいと大声で言いたかった。僕は怒鳴る勇気がなかったが、もうやめてくれと悲痛な思いを込めて言った。
「そんなことばっかり! なんだと思ってるんですか?」
「怒ってる?」
「怒ってないです」
「怒ってんじゃん」
「怒ってないですって」
「絶対怒ってんじゃん! すぐムキになって可愛いやつ!」
 彼女はベッドから起き上がり、ベッド脇にいる僕の髪の毛をグシャグシャにした。「ふひひっ」っと笑う声を聞いて、僕はもう怒る気すら無くなってしまった。
「ちょっとからかっただけ。あなたが可愛いから、からかっただけじゃん」
「もう・・」

「ここはいつもは家族と住んでるの?」
 めぐさんはベッドの上に座り直し、壁にもたれて言った。
「今は父親はアメリカに行ってるから1人です」
「お母さんは? 功一くんを残して遊びに行っちゃた?」
「母親は・・僕が小6のときに亡くなりました」
 僕がそう言うと、彼女からさっきまでの明るい表情が薄れて、視線を僕から逸らして下を向いた。
「あの・・ごめんなさい」
「いいですよ」
 彼女は壁から背中を離し、下を向いたまま数秒間黙っていたが、しばらくすると顔を上げて言った。僕の顔色を伺うように慎重な声の出し方だった。
「気を悪くしなかった?」
「いや、そんな。気にしてないですよ」
 さっきまでのお調子者のようなめぐさんからは考えられないほどで、僕が嫌な気分になっていないかをすごく気にしたようだった。
 しばらくしてめぐさんは「私、そろそろ帰るね」と言って立ち上がった。
「もう帰りますか」
「うん。ありがとね色々と。もう遅いし、家に帰って寝る」
「タクシー呼びますよ」
「いやいや、いいよ。電車で帰るよ私」
「駅まで結構遠いですよ。道も暗いし、タクシーの方がいいです」
「そう? じゃ、お願いしよっかな」
 タクシーが来ると、僕は彼女を門まで送った。「じゃあお気を付けて」と僕が言うと、彼女は僕の肩を掴み、僕を勢いよく抱きしめた。僕は魂を吸い取られたような気分になった。何も言えないまま、体全体で彼女の体温を感じる。
 そして彼女は僕を離したあと、ウインクをしてタクシーに乗り込んだ。僕は何も考えることができないまま、ただ走り去るタクシーを見続けていた。


それ以来、僕は1週間に3回ほど彼女に取材するという日々が続いた。僕は休みを利用して、カメラを持って彼女の家や、彼女がいつもいる店に会いに行った。
 プールや水族館など、いろんな場所で彼女を撮影し続けたが、彼女はカメラの前でたまに父親の話をしてくれる程度だった。
 僕はバイト代を先にもらっていたため、最後までカメラを持って彼女を取材し続ける必要があった。だが彼女は取材そっちのけで自由奔放に動き回るせいか、楽しく過ごしているときでも常に僕らの間には食い違いが生まれているようだった。カメラを回していないときも彼女と過ごす時間は少なくなかったが、やはり自分はただの取材スタッフなんだと言い聞かせていた。
 2人で遊園地に行ったその日も、そのことで言い争いになってしまった。
「なんでそんなに取材にこだわるのよ? 別になんでもいいじゃん」
「ダメです。途中でやめると給料ドロボウになります」
「ドロボウしちゃえばいいじゃん」
「よくないですよ」
「ふ〜ん。まあ普通の人ならもっとマジメに証言とかするのかもしれないけど、私はもうこれ以上話すことはなくなったよ」
「そんな」
「どうせいっぱい撮影しても使われるのは一瞬なんでしょ? それに功一くん、あなたは私本人がどんな人なのかを撮影しにきたんじゃないの?」
「そうですけど・・使えない映像が多いです。さっきも僕がカメラ回してるときにアダルトショップに入ろうとしたじゃないですか」
「いいじゃん。あなたは堂々と入れないんだね」
「ちょっとは遠慮してくださいよ」
「ふん。あなたが撮ってるこの映像、放送禁止用語ばっかり言って使えなくしてやる」
 遊園地の中にあるレストランで、一体なんの話をしているんだろうと思う。周りにいる家族連れがチラチラとこちらを見ている気がする。
 めぐさんは父親と自身について話を戻した。
「そもそもパパのことなんて大したことも喋れないし。私はあの人の娘だけど、パパを全て知っているかって言ったら全くそうじゃない。それは逆もそう」
「でも親子じゃないですか」
「そうだけど、パパは私に無関心だったんだよ。いっつも自分の仕事ばっかりで、私と遊んでくれたのなんてちょっとだけ。そんな私に一体なにを?」
「・・・・」
 僕は黙ったまま彼女に目を合わせることができなかった。なぜ彼女を僕が取材することになったのか、今になってそのことを考え始めた。彼女と生前の彼の関係を知っていたら、僕はおそらく取材をすることはなかっただろう。
 その日の夜、僕は久しぶりに本社に戻って自分のデスクで編集作業をした。今まで撮った彼女の映像を見返し、データをパソコンに移す。マイクで拾った自分の声を聞くのが嫌だったので、音を消して作業をしていると、バイト仲間の横井トオルが「久しぶりっ!!」と声をかけてきた。彼と会うのも1ヶ月ぶりだった。
「久しぶりだね」僕は作業の手を止めて言う。
「今だれ取材してんだっけ?」
「大橋雄一さんの娘さんだよ」
「マジで? あの19歳のモデルみたいな人でしょ? やるなぁ・・」
「知ってたんだ。ちょっと色々大変だけど、まあ頑張ってる」
 トオルは僕のパソコン画面を覗き込み、「うおおっ」と言った。
「超美人。めちゃくちゃにタイプだわ」
「なんだよそれ」
「羨ましいねぇ。ちなみに俺は大川さん取材してる」
「ん・・誰だっけ」
「大橋さんと同じグループにいた人じゃん。一緒に雑誌にも載ってた」トオルは取材の詳細が書かれた紙を見せてくれた。彼の経歴と写真が載っていた。
「この人か・・取材した映像ある?」
「あるよ。見るか?」
 僕は彼のパソコンで大川さんの映像を見せてもらった。彼は生前の大橋さんとの思い出や、彼と一緒にフランスに行った話をしていた。温厚で人当たりの良さそうな人で、大橋さんとも仲が良かったようだった。僕はその後も彼の取材映像を一通り見せてもらい、彼と大橋さんが一緒に乗っている雑誌などもあちこちから集め、数日かけて一通り読んだ。彼は大橋さんの人となりを誰よりも知っているようで、映像では20代で彼に出会ってから彼の晩年に至るまでの全てを語っていた。


 この日もめぐさんに会う約束をしていたため、僕は数週間ぶりに彼女の行きつけの店「Sicilia」に行った。アヤさんがあのときのように銀髪のカツラを被って店番をしており、僕に「久しぶり」と声をかけてくれた。
「めぐさんっています?」
「あの子は奥の方にいるよ。昼間っからお酒飲んでてさ、酔い潰れてんの」
 めぐさんは奥のソファーで横になっていた。僕に気がつくと寝起きの声で「おはよ。功一くん」と言った。
「もう夕方です」
「ふえ? いま何時?」
「6時すぎです」
「マジか・・めっちゃ寝ちゃったじゃん」
 めぐさんの前のテーブルには空になったボトルとコップが並んでいた。彼女からもお酒の匂いが漂ってくる。
「お酒飲んでたんですね」
「うん。なんかもう今日は飲みたい気分だったの」
「お酒・・あんまり良くないですよ・・・」
 彼女は半開きの目でソファーから起き上がり、「分かってるよ。私がまだ未成年なのにって言いたいんでしょ?」と僕を見た。
「・・はい」
 アヤさんが来て机の上のボトルとコップを全て片付けてくれた。
「ホントどうしようもない子だからね。ちょっとは功一くんを見習ったら?」とウトウトするめぐさんを見ながらアヤさんは言った。
「分かったから。あんたは店番しててよ」
 めぐさんは手でアヤさんを追い払う。「もう」と言って彼女はカウンターに戻って行った。
 そしてめぐさんは僕の方に向き直って言った。
「こないだはごめん、あんな言い方して。私ホントダメだよね」
「いやそんな・・すみません僕も」
 僕はいつものようにカメラを回し始め、角度をつけて机の上に置いた。
 めぐさんはそのあと、昔飼っていた猫の話をしてくれた。「可愛かったんだよね」と懐かしむように言う。僕はそれを聞いて昨日見た大川さんのインタビュー映像を思い出し、その話を彼女にすることにした。
「昨日、友達が取材した大川真さんの映像を見せてもらったんです」
「ああ、大川さん・・! 懐かしい人」
「会ったことあるんですか」
「それはもう、パパが生きてた頃は何回も会ったよ。すごい優しいの、あの人」
 僕は幼いめぐさんと大川さんが会っている場面を想像した。そこにはいつも大橋さんがいたんだろう。大橋さんを亡くしためぐさんを心配して、彼女に頻繁に会いに行ってたのも大川さんだっただろうか。
「元気そうだった?」
「はい。大橋さんのことを話してました。仲が良かったって言っていました」
「そう、あの2人仲良かったんだよね、確か」
 めぐさんは机の上に手を乗せて僕の話をしっかりと聞いてくれた。さっきより眠たげな表情が薄れたようだった。前髪を止めているカラフルな髪留めが、外の白い光を反射していた。
「大橋さんは娘ができて以来、毎日のように娘の事ばかり話していたって言っていました。『可愛い娘なんだ、自慢の娘なんだ』って」 
「パパが・・」
「はい。娘について話すときが何よりも笑顔で、娘ができたことが本当に嬉しかったんだろうって話してました」
 僕がそう話すと、彼女は深く息を吸い込み、しばらく何も言わずに俯いた。そしてわずかに震えた声で「ちょっと、トイレ言ってくる」と言い、足速に席を立った。
 しばらくして席に戻ってきた彼女の目の周りが赤くなっていたことは、気づかないふりをした。
 彼女は鼻を啜って「ゴメンね。なんでもない」と言い、充血した目を潤すように何度も瞬きをした。
「どっか行こうよ」めぐさんは明るい声のトーンで僕に言う。
「どこに行きます?」
「どこでもいい。とにかく外に行きたい」
 僕らはこの店の近くにあるプラネタリウムに行くことにした。国道沿いにある巨大なプラネタリウムで、僕は館内で彼女を撮影したかったが『撮影禁止』のマークがあったので、あえなくカメラを止めることにした。
 ドームのような画面に映し出される巨大な星空をめぐさんと眺めながら、僕は昔の母親のことを思い出していた。僕が小さいときに母親が買ってくれた望遠鏡で見た丸い星空を今も覚えていた。
 映画館のようなプラネタリウム以外にも、寝転んで星空を見ることのできるものもあった。一段高くなった広いスペースにクッションや座布団が置かれており、靴を脱いでくつろぐ場所のようだった。僕はそこで彼女と一緒に仰向けに寝転び、回転する星空を見ながら話をした。
「ラブホにもこういうのあるのよね。星空を天井に写しながらSEXできるっていう」
 彼女は声を潜める様子もなく、寝転ぶ僕を見て言った。
「ちょっと。ここは家族連れしかいないですよ」
「家族連れもたまにはこんな話するべきだよ。性を遠ざけてるからよくないの」
 そう言ってまたゆっくりと回る天球に顔を向けた。僕は純粋で無邪気に走り回る少女が成長してお酒やタバコを覚え、性を覚えるまでを想像した。隣にいる彼女も昔は小さな少女だったのかと思うと、なぜか胸が詰まる思いがした。
 両腕を頭の下に回して寝そべる彼女は、思い出したように僕に尋ねた。
「功一くんの部屋に飾ってあったさあ、あのすごい綺麗な女の人の写真。あれって、功一くんのお母さん?」
「・・はい」
 僕は天体を眺めたまま答えた。そんなところまで見ていたとは、驚きだった。
「あんな綺麗な人だったんだね。驚いた」
「あれは・・母親が22のときの写真です。僕を産む1年前ですね」
 めぐさんは「そうなんだ」と小さく囁き、驚いたような表情で僕を見た。そして慎重に言葉を選ぶようにして、僕にまた聞いた。
「本当に早くに亡くなったのね・・どんな人だったの?」
「すごい普通の人というか、まあ優しかったです。病弱だったんですけど」
「そう・・小学生のときに亡くなったんだよね」
「はい。僕は連絡を受けて学校から走って帰ったんですけど、そのときにはもう病院で」
「病院に行ったの?」
「はい。でも僕が行ったときにはもう遅くて、結局最後の言葉も聞けないままで・・」
 僕もめぐさんも、しばらく黙って上を見続けた。キラキラと光る星が線で結ばれ、いくつもの正座が現れた。遠くにいる子供たちがそれを指差し、星座の名前を口々に言い合っていた。
 めぐさんは起き上がり、仰向けの僕を覗き込むようにして「功一くん・・」と僕の頬を触った。
 僕が起き上がると、彼女は僕の両頬に触れて顔を近づけた。
「大丈夫。お母さんは天国から見てくれてる。功一くんはお母さんの自慢の息子だよ」
「・・・・ありがとうございます」
「あなたを心から愛していたって、そう思うよ」
 彼女の目には数えきれないほどの星が写っていた。彼女から見た僕の目にも、あの溢れんばかりの星が写っていただろうか。彼女は優しく僕の手を握ってくれた。
 僕らはその後、プラネタリウムと同じ建物の中にある和食レストランで夕食を食べた。そこではまたカメラを回していたが、彼女を撮影するのはこれが最後になるとこの時は気がついていなかった。
 食事が終わると、僕らにデザートのパフェが運ばれてきた。「うわあ美味しそう」と彼女は写真を撮った。
「なんかピンク色ですね。苺のパフェみたいな」
「苺のパフェだからね」
「え? そうでしたっけ」
「功一くん注文するときに言ってたじゃん。『苺のパフェ2つください』って」
「あ、そういえば」
「アホの子なの?」
 気が緩むとすぐに出てしまう「

」だった。母親にも幾度となくいじられ続けた、このときどき出てしまう拍子の抜けた言動。普段は気をつけているが、ついにめぐさんの前でも露わにしてしまった。あまりに恥ずかしくて顔を覆いたくなった。
「功一くんそんなとこもあるのね。可愛い」とめぐさんは微笑んでパフェを食べた。


後編に続く




 

 













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