y o r u n o  o w a r i(後編)

文字数 28,183文字

「あっ! これはまさかの・・!」
 向こうの方からそう言って、手を振りながら近づいてくる男性がいた。めぐさんは小さく舌打ちをしたあと、目を手で覆って首を横に振った。そして呟くように言った。
「マジじゃん・・もういいって」
「誰なんですか?」
「ウザい元カレ。ホントなんなの?」
 彼は僕らのテーブルの近くまで来て、めぐさんに手のひらを見せて笑顔で言った。
「久しぶりじゃんかっ」
「なんであんたがここにいんのよ」めぐさんは彼を睨みつける。
「いやそれはさぁ、ちょっとさっきまでこの近くの店で友達と飲んでたのよ。で、たまたまここに立ち寄りたくなって」
 優しい雰囲気のある男性で、聞き取りやすい声に白い歯が印象的だった。おそらくこの人がめぐさんの何番目かの恋人で、あのときバーで見かけた人だろう。もしかしたら今までの話に登場した人かも知れない。
「こちらさんは・・」彼は僕を見て言った。僕は彼女の恋人だと誤解されることを恐れて、すぐに彼女についているわけを説明した。彼は「ああ〜!」と納得したようで、そのあと感心するような目でめぐさんの方を向いた。
「すごい、有名人みたいじゃん! あ、だからカメラがね・・なるほど」彼は机に置かれているカメラを差した。
「あんたは興味ないでしょ」
 めぐさんは彼を横目でジトジトと睨み続ける。彼はそんなことは全く気にしていないといった感じで、僕に喋りかけた。
「取材してるって言っても・・君すごい若そうだけど、高校生?」
「はい。そうです」
「本当に!? その年でなかなかないよ。カッコいいね! 名前なんていうの?」
「功一っていいます」
「功一くんね。俺は彰人(あきと)。よろしく」
 彼は僕に手を差し出した。僕はなぜこのタイミングでこの人と握手をすることになったのかがよく分からなかったが、とりあえず握手をした。彼は性別を問わず、誰にでも興味を持つことができる人なんだろうと確信した。
「ちょっと。私の可愛い功一くんに気安く話しかけないでよ」
「自分のものみたいに言ってるけどいいのか?」
「あんたなんかより断然いいとこの育ちだっつーの。あんたなんかより品もあって真面目だしね!」
 僕は心の中で首を振っていた。彼が僕について初めて知る情報にしては、あまりに美化され過ぎている。
「まあまあ。とりあえず座っていいかな?」
 彼はそう言ってめぐさんの隣の席に座った。めぐさんは「ちょっと・・」と眉間に皺を寄せる。
「ちょっとは遠慮したらどうなの? 図々しいよ」
「いいじゃないか。ねえ?」彼は僕に向かって言った。僕は彼を嫌がる理由も特に見つからなかったので、「ハイ・・」と小さい声で答えた。
「ホントごめんね功一くん。こんな図々しい男イヤだよね。仮にも元カレなの」
 めぐさんは隣の彼を親指で差しながら言った。めぐさんは、彼と話すときは刺々(とげとげ)しい口調になるのに対して、僕には相変わらず優しい話し方をしてくれた。
「なんか2人にご馳走するよ。なんでも頼みな」
「私らもう食べ終わったし。あんたは勝手に1人で食べてな」
 彼女が元カレを面倒くさそうにあしらう姿は、今まで見てきためぐさんとはまるで違うものだった。僕に対して下ネタを言ったり、何かとからかったりしていた彼女も、本当はツッコミ気質で常識人そのものとも思えた。 
「そうかぁ・・じゃあ俺が2人のお代出しとくよ。せっかくだし、払わせてくれ」
「それはありがたいけど、私は今すぐあなたにこの場を去ってほしいの。これは私からのお願い」
「なんでそんなこと言う? もうちょい居てもいいだろ」
「あ〜! もう!! なんであんたなんか・・!」
 彼女は彼に何を言っても通じないと分かっているのか、やけになったようにテーブルに突っ伏してしまった。彼はやはり彼女に構うことなく話し続ける。
「ここもよくデートで来たよなぁ懐かしい。そのときを思い出してたら、まさかのここにいたというね」
「そうだっけ? そんな事もう忘れちゃった。ゴメンね」顔を伏せたまま、(こも)った声でめぐさんは言った。
「おいおい、たった2年前だぞ。そりゃないぜ」
 一体この2人の会話をどんな気持ちで聞けばいいのかが分からないまま、僕はずっと黙っていた。めぐさんは彼と付き合っていた頃の話をするのが嫌でたまらないといった感じだった。
「あとで3人でボウリング行こう。友達にちょうど3人分の割引券もらったんだよ。なっ」
 彼はそう言って彼女の肩をポンと叩いた。彼女は小さい声で「やだ・・」と言った。そして起き上がったあと足を組んで、彼の方を向いて言った。
「なんで私と功一くんがあんたとボウリングしなきゃいけないのよ。あんたはいつもみたいに、道でナンパした綺麗なお姉さんホテルに連れ込んでSEXしてなさい」
「ちょい・・! 彼の前でそんなこと言うか?」彼は僕を手で指しながら彼女に言った。めぐさんは彼を横目でジトジトと睨みつけている。そして、いかにも不愉快そうに貧乏ゆすりを始めた。
「もう本当にいいから。私たちのこと邪魔しないで、お代だけ置いて帰って」
 低い静かなトーンでそう言っためぐさんからは、本当に彼に立ち去ってほしいと言う気持ちを強く感じた。彼もそれをようやく感じたのか、間を置いて財布を取り出した。
「分かったよ。お代だけ置いて行くから、あとはごゆっくり。俺は帰りますよ」
 伝票に書かれてある額を机に置いた彼に、僕は「そんな、申し訳ないです」と言った。彼は「いやいや、いいんだって。じゃあね」と席を立ち、そのまま手を振って店を出て行った。

「僕はボウリングに行っても良かったんですよ。時間はあるんですし」
 僕は机の上に置かれたお札と小銭を見て彼女に言った。しわのあるお札の上に古びた硬貨がいくつも置かれている。
「功一くんだって嫌でしょ? あんなのと一緒にボウリング行ったところで楽しくないよ」
「そうですか? いい人だと思いますけど・・」
「あなたには分からないかもしれないけど、あいつの場合はそう見せるのが上手いだけ」


 僕は今日の取材を終え、彼女を家まで歩いて送ることにした。彼女の家まで夜の道を2人で歩いている途中で、彼女は父親の話をした。
「パパが生きてたときに言ってたこと、なんか今になって思い出したの」
「なんですか」
「『未来が見える』って。自分にはこれから辿る運命が見える、みたいなことを言ってた。それはこれから起きるいいことも、悪いことも」
「不思議ですね。なんでそんなことを・・」
「さあね。パパが自分で作った幻想の世界の話なんじゃないかって思ってたけど、なんで私にあんなこと言ったんだろうって、今になって思ったり」
 湿度の高い夜の空気が息苦しく感じた僕は一度大きく息を吸い込み、息を止めたあとゆっくりと吐き出した。彼女はそんな僕をチラッと見たあと前の方に視線を向けて言った。
「私も未来が見えたらな。私は本当に不器用で頭も良くないし、でも未来を見ることができたらそれの埋め合わせができる。私もみんなに追いつけるか、それ以上になれる」
 彼女がそう言ったので僕は少し驚いた。我が道を突き進み、周りを気にすることのない人だと思っていた彼女から、そんな言葉を聞くとは思いもしなかった。
「・・周りに追いつこうとなんてしなくていいです。めぐさんはめぐさんで良いんですよ。今のままで」
 僕はその言葉を咄嗟に言った自分自身に驚いた。一体なぜこんなことを口にしようと思ったのか、だがそれは本心なのだろう。彼女は僕の目を見て、そのあとに優しい穏やかな声で言った。
「・・ありがとう。優しいんだね」
 しばらくしてポツポツと雨が降ってきた。僕もめぐさんも傘を持っていなかったため、小走りで彼女の家に向かった。だが家に着く頃には土砂降りになっており、僕らはずぶ濡れになったしまった。彼女が住むアパートの階段を上がり、ようやく雨を凌ぐことができた。
「びしょびしょじゃん。まあとりあえず入って」
「お邪魔します・・」
 彼女はドアの鍵を開け、僕は中に入った。そういえばいつもはアパートの外で彼女を待っているため、部屋の中に入るのはこれが初めてだった。想像の何倍も広いアパートで、部屋がいくつもあり、お洒落なカーペットがあちこちに敷かれていた。
 テレビが置かれている広い部屋に入ると、彼女は部屋の隅の小さい読書灯をつけた。小さいが明るい光で、暗かった部屋が照らされる。
 めぐさんは僕にタオルを投げ渡し、僕はそれで頭を拭いた。外ではゴウゴウと音を立てて大雨が降っている。頭を拭きながらこの家に漂う花の匂いを感じた。
「シャワー浴びるでしょ。私すぐ終わるから、そのあと功一くん使いな」
 そう言って彼女は風呂場に行った。時刻はすでに11時を過ぎており、今日はここに泊まることになるのかと思うと、感じたことのない緊張が湧き上がる。女性の家に上がるのもこれが人生で初だった。
 シャワーの音が向こうから聞こえてくる。僕は薄暗い部屋の隅に置かれた3段ボックスを見つけた。そこには茶色いファイルが何冊も並んでおり、僕は一冊を手に取り、パラパラとページをめくってみる。そこには数えきれないほどの切り抜いた写真が貼られたおり、ヨーロッパの風景写真から白黒のヌード写真までさまざまだった。ファイルの最後あたりのページには絵や彫刻の写真が多く貼られていた。
「ふ〜。さっぱりした」
 僕がずっとその写真集を見ていると、シャワーを終えてタンクトップ姿になっためぐさんが髪を拭きながらやってきた。そしてファイルを見ている僕の隣に座った。
「それこないだ言ってたやつ。色々あるでしょ」彼女は僕が持っているファイルのページをめくった。
「・・どうしてヌード写真が?」
「ああそれね。私の好きな写真家の人が撮ったのよ。私この人の作品好きで、写真集とかもよく買ってたの」
「こんな写真撮る人なんですね」
 僕はファイルに貼られた、ベッドの上でカメラに向かって大きく脚を広げる全裸の女性の写真を見ながら言った。白黒写真だが、新しいもののようだった。
「こういうの好き?」彼女は写真を指差して僕に聞く。
「・・・・」
「・・好きなんだ、功一くん。まあ男だもんね。そりゃそうか」
「・・シャワー浴びてきます」
 僕はカメラバッグの上にタオルを置き、シャワーを浴びにバスルームまで行った。広いバスルームで、脱衣所に真っ赤なカーペットが敷かれていた。シャワーを浴びている途中、「ここに着替え置いておくね。私の服で悪いけど」とめぐさんが脱衣所に服を持ってきてくれたようだった。
 僕はシャワーを浴び終え、彼女が用意してくれた薄茶色の半パンとマーベルのロゴが入ったTシャツを着て、濡れた服を持って部屋に戻った。
「ハンガーあるでしょ。服干していいよ」
 とめぐさんの声が別の部屋から聞こえた。僕はシャツとスボンを干したあと、部屋に置かれていたカラフルな座布団に座った。どういうわけか、この静かな空間に不思議な緊張感を感じた。部屋を見渡し、これから今までと違う何かが起こると直感的に感じた。心拍数が速くなり、体が宙に浮いてしまうかのような感覚に陥る。
 彼女はどこにいるのかと、僕はさっき彼女の声が聞こえてきた方へと向かう。すると寝室のような部屋に彼女はいた。ベッドの脇には白いカウンターのようなものがあり、大きな鏡が壁に掛けてあった。
「入って」
 僕は恐る恐る彼女がいる部屋に入った。彼女は脚を組んで椅子に座り、カウンターに肘をついたまま、鏡で自分の姿を見ていた。
 彼女は「そこのドア閉めといて・・」と鏡越しに僕を見て言った。その彼女の声は今までと違って低く静かなトーンだった。僕は寝室のドアを閉めて、再び彼女を見ると、彼女は真っ赤な口紅を塗っていた。それを見た瞬間、僕の心拍数は今までで一番速くなった気がした。鏡越しに見る彼女のその表情は今までに見たことがない、何かが変わったような表情だった。
「功一くんこっち来て」
 彼女がそう言った瞬間、僕はビクッと体が反応した。今のめぐさんに近づいて大丈夫なのか、なぜ僕を呼んだのか、一気にいろんな考えが頭を渦巻いたまま、僕はゆっくり彼女に近づいた。
 彼女は口紅のキャップを閉めてカウンターに置くと、そのまま立ち上がって、そばにいた僕に勢いよくキスをした。僕の後頭部を両手で掴み、壁に押しつけた。
 僕は正常な思考が完全に停止してしまい、彼女の肩を掴むのがやっとだった。彼女と僕がキスをする生々しい音が部屋に響いていた。これは現実なんだろうか。
 僕は壁に押し付けられたまま、その場に座り込んでしまった。めぐさんも一緒に座りこみ、もう一度別の角度で僕に熱いキスをした。そして「ベッドがいい?」と小さく聞いた。僕が小さく頷くと、彼女は僕を立ち上がらせ、そばにあるベッドに押し倒した。
 めぐさんは少し息を荒くして僕にまたがった。彼女の口紅は滲んでおり、口の周りが赤くなっている。そして僕を起き上がらせると、また彼女は僕に口をつけた。彼女の舌が口の奥まで入ってきて動き回るのが分かった。
 彼女は取り憑かれたように僕にディープキスを繰り返したあと、息を荒くして数秒間僕の目を見つめた。そして僕をまたベッドに押し倒し、Tシャツとスボンを脱いで下着姿になった。真っ白な下着が暗闇に光って見えた。
 僕は心拍数が速くなり過ぎて、心臓が爆発するのではないかと怖くなる。落ち着こうとしたが無理だった。彼女の肌をこんなにも見ることになるなんて、僕は一体なぜこんなことをしているんだろう。めぐさんは僕が着ているマーベルのシャツを脱がせたあと、僕の胸を撫で回した。僕は耐え難い感覚を顔に出さないように必死だった。そしてようやくここへきて元の思考が戻ってきた。ダメだ。ここで彼女と一線を越えてはいけない、と。
 膝立ちをしてパンツを脱ごうとしためぐさんの腕を掴むと、彼女は驚いたように僕の顔を見た。
 僕はベッドから起き上がり、汗で湿った彼女の肩を掴んだ。
「めぐさん・・あの、これはやめましょう」
「なに? どうしてなの?」
「だって・・」
 彼女は眉間に少し皺を寄せ、僕の口を塞ぐようにまた荒々しくキスをしてきた。僕は薄く目を開け、彼女がキスをしたまま片手でパンツを脱いだのを見た。僕は強引に彼女を押し倒し、下半身が見えないように急いで布団をかけた。そして、唖然とする彼女に必死で言葉を絞り出して言った。
「めぐさんとは・・その、こういう事はしたくないんです。今のままの関係がいいんです」
 口から出た言葉は、今の心情を表すにはあまりに陳腐で正確性に欠けるものだった。思った通りの言葉を組み立てることができない自分に、僅かな怒りが湧き上がる。
 めぐさんは布団で下半身を隠した状態で言った。
「功一くん・・嫌だったの」
 そしてしばらく間を置いたあと、彼女は「ごめんなさい」と言ってパンツを履き、ベッドを降りた。僕はベッドに座り込んだまま部屋を出て行こうする彼女の後ろ姿を見た。彼女はドアを開けるとしばらくそのまま立ち止まり、僕に背を向けたまま小さい声で言った。
「功一くん、私のベッドで寝て。今日泊まるでしょ」
 そう言って彼女は部屋を出て行った。僕は放心状態のまま、床に脱ぎ捨てられためぐさんのタンクトップと半パンを眺めた。自分の唇に赤い口紅がついており、口の周りに広がっていた。
 僕はTシャツを着て、そのままそのベッドで寝た。やはり彼女とそのまま行為をするべきだったのではないかと後悔と罪悪感が渦巻き、寝付くのに何時間もかかってしまった。そして、いざというときに言葉が出てこなかった自分を責め続けた。
 目が覚めると時刻は6時ごろで、朝日が差し込み、雨は止んでいるようだった。そして隣では白いTシャツを着ためぐさんが寝ていた。僕は寝転がったまま朝日で短い髪が白く輝いている様子をしばらく見続けた。僕はまだ眠たかったため、もう一度彼女の隣で眠りについた。
 次に目が覚めたのは9時ごろで、隣のめぐさんの息が荒くなっていることに気がついて起きた。僕を背にして眠る彼女の体が何やら揺れている。僕は起き上がって彼女を見てみると、彼女は自分の股間に手を当て、その手をしきりに動かしているところだった。僕は急いで彼女から視線を逸らした。彼女の息はどんどん荒くなり、やがて「ハア・・」と声を出したあと、手を動かすのをやめたようだった。
 僕は昨日彼女にキスをされた時よりもさらに数えきれないほどの感情が頭の中を渦巻き、その中の幾つかの攻撃的な感情が自分を刺し続けた。僕はしばらくベッドに座ったままでいたが、しばらくしてようやく立ち上がり、干してあった服に着替えた。そしてTシャツとパンツだけで寝ているめぐさんに布団をかけ、起こさないように静かに家を後にした。
 

 それから2日間、僕はそのときのことを思い出しては自分を責めるということを繰り返した。彼女を深く傷つけてしまったのではないかと、何度も自負の念が頭を駆け巡った。あのときどうすれば良かったのか、だが彼女と一線を超えたくはなかったのは事実だった。
 僕は数日後、勇気を出してあのときのことをめぐさんに謝るため、彼女の家に向かった。アパートの階段を上がり、ドアの前に立つ。中から音がしなかったため、出かけているのだろうかと思いドアノブを捻ってみた。するとドアが開いた。鍵がかかっていなかった。
 僕は「めぐさん」と声をかけ、中に入ってみる。彼女の靴があったため、帰ってはいるんだろう。ゆっくりと中に入ると、なんとそこにはうつ伏せに倒れているめぐさんがいた。近くには割れたコップの破片が散乱していた。僕は急いで駆け寄り、声をかける。
「どうしたんですか! 大丈夫ですか!?」
 彼女は気絶しているようで、応答はなかった。僕は起き上がらせようとしたが、また崩れてしまった。急いで救急車を呼び、気を失っているめぐさんと一緒に病院へ向かった。一体何があったのか、このまま死んでしまったらどうしよう。母親が病気で倒れたときのことを思い出し、僕は冷や汗が止まらなかった。あのときは手が震え、不安と恐怖に怯えて泣いていた。
 急いで近くの病院まで運ばれ、医師は急性アルコール中毒だと僕に告げた。そういえば、彼女の部屋のテーブルには瓶やコップが大量に置かれていた。なんとか一命は取り留めたようだったが、運が悪ければ死んでいたよと医師が言ったのを聞いて、僕は背筋が凍った。
 しばらくして意識が戻っためぐさんに、僕は状況を伝えた。すると彼女は何度も僕に謝った。
「本当にごめんなさい・・迷惑かけて」
「いいんですよ。助かって本当に良かった」
「ありがとう。私本当にどうしようもない・・」
 ベッドから僕を見上げ、力無くそう言ったあと彼女は涙を流した。僕は首を横に振った。
「私はいつもはあんなだけど、本当は寂しがりで1人でいるのが怖くて・・それでお酒と飲んだりして紛らわしてたの」手の平で涙を拭きながら、彼女はベッド脇に座る僕に言った。
「あなたに迷惑かけたことが申し訳なくて・・私なんかのために」
「何言ってるんですか」
 もう完全に取材どころではなくなり、とりあえずめぐさんが無事だということを彼女の周辺の人たちに伝えに行こうと思った。


「あぁ、そんなことが」
 翌日の朝、僕はSiciliaに行って、めぐさんの親友であるアヤさんにそのことを話した。彼女が搬送されたことにアヤさんはかなり驚いていたが、彼女が無事だと説明すると安堵したようだった。
「今日退院できるらしいです。前の日に大量にお酒を飲んでたみたいで」
「そうなのね。あの子らしいけど・・まさかそんなになるなんて」
「そうですね」
「功一くん、私の友達を助けてくれてありがとう」アヤさんは優しい目で僕を見た。
「めぐみんはあなたに頭上がらないよ。あなたが行かなかったらあの子は死んでたかも」
「僕はいいんですよ」
 アヤさんは僕にジュースを入れてくれた。僕らは人気のない静かな店内だった。
「あの子は本当に似顔絵でしか生計立ててないから。実家を飛び出したキリね」
「お父さんの名前借りて活動しても良かったんじゃないですか」
「あの子はそういう事したがらないと思う。我が強いし、何より自分1人の力で生きていけるって思ってるから」
 僕はアヤさんの銀色の髪を見ながら頷いた。彼女の低い声と落ち着きのある喋り方が、とても19歳とは思えなかった。普通なら何十年も歳を重ねないとこんな話し方はできないはずだが、アヤさんはすでにそれができている。
「だからあんな子に取材するなんて大変だろうなって、勝手に思ってた。功一くん、あなたは偉いよ。あの子相手ならムカつくこともいっぱいあるでしょ?」
「そんなことないですよ。・・あんな優しい人はいないと思います」
 僕がそう言うと、アヤさんは少し俯き、また微笑んで顔を上げた。そして思い出したかのように「そうだ」と言った。
「話は変わるけど、妹がまたあなたに会いたいって言ってるよ」
「本当ですか」
「良かったらまた会ってあげてよ。色々話したいって」
「ユミちゃんですよね」
「え? 誰それ」
 アヤさんはポカンとしたように僕の顔を見た。僕は彼女がその反応を見せたことでさらにポカンとした。僕は名前を聞き間違えたんだろうか。
「妹さんの名前じゃないですか」
「あ・・! そうか、なるほど。あなたもやられたのね」
 何やら腑に落ちたようだったが、僕は意味が分からなかった。眉をしかめる僕にアヤさんは説明してくれた。
「あの子ね、初対面の人に名前を偽る癖があるのよ。癖っていうかなんなのか、実際とは違う名前を言いたがるのよ」
「え? じゃあ僕が聞いたのは・・なんなんですか本当は」
「あの子の本当の名前はあかり。ユミは確か、あの子が好きなラノベの主人公だったと思う」
 僕は唖然として言葉が出なかった。どうしてそんなことを・・・・考えても分からなかった。ある意味、これは知らなくて良かったのかもしれない。そして、僕は意外と簡単に騙すことのできる人間なんだと思った。僕はその名前以外にも、もう一つ衝撃的なことを彼女から聞いた。僕と同い年の少女が、同い年の僕についた嘘を。


「しっかり休んでくださいよ」
「功一くん・・ありがとう・・」
 僕はその日の夕方、病院から家までめぐさんを送り届けた。ベッドに倒れ込んだめぐさんに布団をかけた。彼女は体調が回復するまで家で寝ていると言い、僕は昨日の割れたコップの破片を掃除してから家を出た。
 次の日、僕はいつもの仕事机でめぐさんの母親の連絡先を調べた。彼女の母親に取材交渉をして断られたと言っていたので、僕はそのときの電話番号が残っているのではないかとあちこち探し回った。そして、個人情報を管理してあるファイルに「大橋恵子」という文字の下に番号が書かれた紙を見つけた。
 僕はその番号に電話をしてみる。すると彼女の母親であろう人が電話に出た。
「どなたかしら?」
「ドキュメンタリー制作会社の大方PAの者です。こないだは父がお電話させていただいて」
「ああ、そのことね。私は取材はお断りしたはずよ」
 電話越しに僕は初めてめぐさんの母親の声を聞き、たちまち縮こまってしまう。電話越しであることが余計に僕を萎縮させていた。しかし、僕は緊張を振り払って言った。
「取材ではないです。娘さんのことでお話したいんです」
「悪いわね、私はもう娘と関わらないようにしてるのよ」
 彼女はあっさりとそう言った。僕はこのままでは電話を切られてしまうと焦った。なんとかして僕はめぐさんの母親に会うことを承諾してもらう必要があった。「あの、聞いてください。大事なことなんです」
 電話の向こうで若干の沈黙が続いたあと、電話の向こうの彼女は言った。
「娘に何かあったの?」
「直接会ってご説明したいんです。こんな僕ですけど、今日までずっとめぐさんとずっと一緒だったんです」
「あなたが娘に取材を?」
「はい。そうです」
 そして僕は自分が彼女の夫の雄一さんと親しかった大方記者の息子であることを伝えると、彼女は驚いたようだった。僕の父親のことも当然覚えていたようで、僕がその息子であると知った彼女は電話の向こうの僕を警戒するような声ではなくなった。そしてしばらくの沈黙の後、納得してくれたように言ってくれた。
「そう・・分かった。4日後私の家に来ていい。住所は伝えておくわ」
 僕は彼女が言った住所を手元の紙にメモをした。4日後の午前中に伺いますと言い、僕は電話を切った。
 家までの帰り道で、僕は久しぶりにアメリカにいる父親に電話をした。父親は新聞記者の頃から長期取材だと言って家を留守にすることが多かったせいか、僕は母親と2人だけの時間を多く過ごした。だが11歳のときに母親が亡くなって以来、父親と僕だけになってしまった。なので父親が取材に行っている間はずっと1人で、毎日宅配で届く食品や、父親が海外から送ってくる食べ物で食いつないでいた。
「本当にいつ帰ってくるの? 取材は分かるけど、ずっとアメリカにいるなんて・・」
「ごめんよホントに。5日後には絶対帰国するから、それまで待っててくれ。お土産もいっぱいあるかな!」
「分かったよ・・お手伝いさんかなんかつけてよ。僕1人じゃ限界だから」
「そうだな、そうするか。今後から」
 ハーっと長く息を吐いて電話を切る。いつからこんな生活を送っているのか、もはや自分でも分からなくなっていた。これからまたあの静かな家で1人夜ご飯を作ることになるんだろうと思うと、肩にどっと重たいものが乗っかった気持ちになった。他の同い年の人たちは、家に帰ると両親や兄弟がいて、晩御飯を用意して帰りを待っていてくれているんだろうか。
 そんなことを考えながら家にたどり着いた。だが、どういうわけか家に灯りがついている。そして何やら中で料理をする音が聞こえる。帰る家を間違えたのではないかと今一度表札を見るが、確かにそこは自分の家だった。
 恐怖に怯えながらおそるおそる玄関の前まで来る。そしてドアノブに手をかけると、鍵が開いていたので、ゆっくりとドアを開ける。するとなんとそこには、あのアヤさんの妹が台所に立って料理をしていた。一瞬、疲れているせいで夢を現実を間違えたかと思ったが、匂いがしてきたことで現実だと分かった。
「お帰りなさい!」
 彼女は僕を見るなり、笑顔で言った。エプロン姿で炒め物をしているその姿に僕は目を疑ったが、彼女は当たり前かのようにその場に立っている。
「遅かったね。晩御飯作ってたの」
「いや・・ちょっと待ってよ。ここは僕の家だぞ。なんでいるんだよ」
「めぐちゃんに前教えてもらったの。で今日はあなたはずっと家で1人だっていうから、晩御飯作りに来たんだよ」
「鍵かけてたはずなのに・・」
「ああ、それはね」彼女はエプロンのポケットからヘアピンを取り出し、僕に見せた。
「私

のプロだから」
 僕は呆れてものも言えなかった。なぜそこまでしてこの家に入ろうと思ったのか。この子の行動はまるで理解が及ばない。僕は恐怖すら覚えた。
「やってること犯罪じゃないか?」
「あんたが許してくれたら犯罪にはならない」
 そう言って彼女は炒め物の火を止め、流しで手を洗った。そしてエプロンで手を拭きながら、僕のすぐそばまで来た。
「もうすぐできるからね。待っててね」
「いや、そんなことより」僕は例の件を思い出し、ついに彼女に直接問いただせる日が来たと、目の前の彼女に詰め寄る。
「僕にウソついたろ」
「私がウソ? なんのことかしら」
「あんたの本当の名前はあかりで、あの池で釣った魚も家で食べたことは一度もない。あのクーラーボックスも本当は釣った魚じゃなくて、いつもBBQ用の食材を入れるやつなんだろ」
 アヤさんが「あんな池で釣った魚食べるわけないよ。まさかあの子、あそこに魚入れたんじゃないでしょうね」と言っていたことを思い出す。あまりのショックに呆然とした。
「・・ああ〜バレちゃったね。そうだよ、本当はね」
 彼女は両手を後ろに回し、壁にもたれた。さほど慌てる様子もなく、相変わらず余裕のある顔つきで僕を見てきた。僕は当然のように聞いた。
「なんでそんなウソを?」
「人は誰しもウソをついて生きてるでしょ。私は他に何も偽らない代わりに、名前を偽った」
「説明になってないよ。名前以外も偽ってたくせに」
「怒らないでよ。あんたは優しい人だから、私の言うことも信じてくれた」
 僕は簡単に信じてしまった自分を恥じると同時に、こんな大人しそうな少女が、自分の意思でウソをついたという事実に震えていた。
「一緒に釣りに行ってくれて嬉しかったよ」
 彼女がそう言ったので、僕は怒るに怒れなくなってしまった。これも計算のうちなんだろうかと思うと恐ろしくなる。
「そういえばめぐちゃんのこと聞いたよ。大変だったね」
 そうこうしている間に話題を変えられてしまった。僕は連日色いろなことが立て続けに起こったせいで疲れ切っており、体をソファーに横たえた。
「聞いてたんだね」
「そりゃもう、お姉ちゃんから聞いたよ。めぐちゃんが死ぬところだったって聞いてビックリした。私めぐちゃんとは昔からの仲だから」
 彼女はさらに料理を盛り付け、ご飯を炊飯器からすくって茶碗に入れた。手作りなんだろうか、赤いチェック柄のエプロンがとても似合っていた。
「どう? 美味しい?」お手製の料理を食べる僕を近くで見ながら、彼女は聞いた。
「美味しい」
「ありがとう!!」
 僕がそう言ったのが本気で嬉しかったのか、彼女は満面の笑みを浮かべてガッツポーズをした。僕はそれを見て少し笑ってしまった。ここだけを切り取って見ると、なんて無邪気で純粋な女の子なんだろうか。
 食べ終わった僕は、彼女にお礼を言った。
「美味しかったよ。作ってくれて・・ありがとう」
「いやいや、こちらこそ。どのくらい美味しかった?」
「え・・」
 僕に顔を近づけ、両頬に手を当ててそう尋ねる彼女を前に、僕はどう答えればいいのかを必死で考える。でもどういうわけか、美味しかったと言う言葉以外出てこなかった。そして、考えた挙句それを表現する言葉を見つけられないまま言った。
「一生食べてたいくらい・・」
「プロポーズしてる?」
「あ、いや・・そういう訳では」初めて彼女の前で心臓がドキッとなり、すぐに顔が熱くなる。
「あと5年したら結婚してあげる」そう言って彼女は僕の頬にキスをした。柔らかい唇の感触を肌に感じた。まだ2回しか会っていないのに、一体どういうわけなんだろうか。

「お風呂ってどこにあるのかしら? 本当に広い家だから分かんない」彼女はエプロンを外し、キョロキョロと辺りを見回す。
「まさか入るつもり?」
「私今日ここに泊まるつもりで来たんだから」
「そんないきなり。それにお姉さんとお兄さんが心配するんじゃ?」
「大丈夫、あの人らは慣れてるよ。それに私はもう子供じゃない」
 まさか泊まるつもりとは知らなかったので、流石に焦ってしまった。よく見ると彼女は泊まる用意を持って来ているようで、ピンク色のリュックが雑に玄関近くに置かれていた。
「布団で寝てもらうことになるよ」
「別にそれでもいいよ。でも功一くんの部屋が良い」
 今更もう何を言っても帰ってくれないと思ったので、僕は仕方なく風呂と布団の用意をすることになった。風呂のお湯張りボタンを押したあと、自分の部屋に戻り、押入れから布団を取り出して僕のベッドの隣に敷いた。そこに彼女がやって来て、「3階に部屋があるなんて」と荷物を下ろした。そして敷いている途中の布団に倒れ込んだ。
「風呂は1階の台所のすぐ隣。お湯はもうすぐ溜まると思う」
 彼女は布団に顔を押し付けながら「ありがど〜」と低い声で唸るように言った。そして勢いよく布団から起き上がり、僕に言った。
「一緒に入ろうよ! お風呂」
「いやだ」
「なんで!? 意味が分からない」
「意味が分からないのはこっちだよ! なんで一緒に入らないといけないんだよ」
「私のこと嫌い?」
「そんなことは言ってない。ただ・・恥ずかしいから無理なんだよ」
「私に裸見られるのが嫌? 私の裸見るのも?」彼女は親指で自分を指した。
「そっちも恥ずかしいだろ。よく知らない男と風呂に入るとか」
「私は別に知らない男におっぱいとかお尻とか見られても全然平気な人だから。悪いけど」
「そんな人珍しいって。悪いけどの意味がよく分からないし」
「ブツクサうるさいんだから!! いいから一緒に来いって言ってんの!」彼女は僕の腕を痛いほど強く握り、引っ張った。これが本当にあのとき湖畔で一緒に釣りをした少女なんだろうか。こんなにもよく喋る子で、こんなにも独特な女の子だとはそのとき一切分からなかった。見た目はこんなにで清純で大人しそうなのにも関わらず。
 結局僕は「一緒に入んないならそこにいて」と脱衣所に座らされ、そこから彼女の話し相手をすることになった。
 ゴシゴシと頭を洗う音を聞きながら、僕は風呂場の彼女と喋る。
「めぐちゃんの誕生日もうすぐなんだけど、私プレゼントまだ考えてないのよね」
「めぐさんの誕生日? いつなの?」
「今月の24日だよ」
「1週間後・・」
「なんか良いアイデアある? めぐちゃんが喜びそうなやつ」
「分からないな。僕はめぐさんのこと・・まだよく知らないんだよ」
「どうして? もうずっと一緒にいるんでしょ? もう仕事だけの関係じゃないでしょ」
 僕は彼女がそう言った瞬間、心の奥底が一瞬ズシッと重くなった。彼女は人心を見透かす能力があるんだろうか。彼女に限らず女性はそうなのかもしれない。めぐさんにしても僕をおちょくりながらも、僕がどんな反応を見せるかをよく観察している気がした。
「プレゼントはまた考える。そんなことより背中流して」
「はい?」

の意味が分からないの?」
「ああ、分かった、分かったよ」 
 僕はタオルで彼女の背中をゴシゴシと擦った。傷一つない艶やかな背中を見ながら、力の入れ具合が分からないまま擦った。手が震え、心臓が収縮しているかのようだった。彼女がこっちに体を向けたら終わりだと自分にいい聞かせ、彼女の背中意外は何も見ないと心に誓った。
「ドキドキしてるでしょ?」
 彼女はニタっと歯を見せて言った。僕はそんな彼女に意地になって対抗した。
「背中洗えって言われたから、やってるだけだよ。ドキドキなんかしてない」
「意地っ張りだね。じゃあこれは?」
「ああ! もういいから! やめてよ」
 体の正面を僕に向けようとした彼女の肩を掴み、急いで元の向きに戻した。慌ててこんなことをやっている自分がどうしようもなく情けなく思え、つくづく嫌になった。
「ほらね。フフフ」
 そう笑う彼女の背中に洗面器でお湯をかけた。僕は自分の家でするはずのないことを今している。父親がこの様子を見たらどう思うだろうか。
「ありがと」
 そう言って彼女は立ち上がり、浴槽に入った。僕はその際に目を覆う隙もなく、彼女のお尻をしっかりとこの目で見てしまった。女性の裸を実際に見たことがないので、興奮や欲情より先に、見てはいけないものを見たという強い罪悪感が胸を締め付けた。
 風呂から上がり、髪を拭きながら、彼女は自分が通っている学校の話を僕にした。私立の学校に通っているらしく、日々その学校に不満を募らせているようだった。
「私夏休みも呼び出されてたんだけど、その学校で揉めちゃって」
「揉めた?」
「そう。私のことめっちゃイジってくる女子がいて、そいつがウザかったから殴ったのよ。そしたら泣いちゃって、私が呼び出しされてたっぷりお説教」
「まあ、殴るのはよくないし」
「でもこれは私悪くないから。殴る原因を作る方が悪くない? その辺分かってないよ」
「・・・・どうだか」
 彼女は濡れたショートヘアーを拭き終わり、肩にタオルをかけた。僕はいつも自分が使っているタオルを彼女が今使っている光景に見惚れていた。彼女は同じショートヘアーのめぐさんより少し髪が長く、髪を拭いている時間が長い。
 ドライヤーで髪を乾かした彼女と一緒に3階の自分の部屋まで戻った。彼女は布団に仰向けに寝転がり、天井を見ながら僕に言った。
「彼女とかいないの?」
 僕はまたこの質問に答えないといけないのかと憂鬱になったが、とりあえず答えた。
「いないよ」
「そうなの? できたことは?」
「ない」
「じゃあ、SEXは? したことある?」
 彼女はベッドに足を上げ、ベッドに座る僕の足をツンツンしながら言った。僕が何も言わないので、彼女は自分から言った。
「私は正直・・ない」
「なくていいよ」
「なんでそんなこと言うの!?」
 また彼女の声が大きくなる。怒ってはいないようだが定期的に大きい声を出したり、質問攻めをしてくる彼女が僕は少し面倒くさくなっていた。そもそも今日はゆっくり休みたい日だったにも関わらず彼女の面倒を見ることになってしまったせいで、さらに疲労が溜まっていた。
「めちゃくちゃに気持ちいいらしいよ。私の周りはみんなやったことあるって」彼女は今度は僕の膝をドンドンと蹴った。
「だからなんだって言うんだよ。僕は今日あんたと何もする気はない」僕は彼女に背を向けてベッドに横たわり、布団を被った。
「別に、私はあんたとSEXしたいからここに来たんじゃない。何も持ってないし。ただ会って話したかっただけ」
 彼女はそう言ってずいっと僕の布団の中に入って来た。「やめてくれよ」
「ふっへっへ」
 彼女はそんな妙な笑い方で僕に後ろから抱きついた。僕は胴体を脚で挟まれ、風呂上がりの高い体温が伝わってくる。
 僕にくっついたまま、彼女はあり得ないほど品性のない話をした。
「私小6のとき、お姉ちゃんの部屋にびっくりさせてやろうと思って入ったことあるのよ。そしたらお姉ちゃんが彼氏とおせっせしてる最中だったの。しかも結構激しいやつ」
「聞いてないってそんな話。気まずいだけだよ・・」
「そうだよ。おかげでしばらく顔もお互いの顔も見れなかった」
「離してくれ」僕がそう言うと、彼女は僕の体をさらに強く抱きしめたあと、僕を離した。そして僕の肩を抱き、寝転ぶ僕の横にピッタリと体をつけたまま話し始めた。
「私は彼氏どころか友達もいないし。あんな学校じゃ友達なんて作れないよ」
 彼女に触れられていることで心臓が爆発しそうなほど鼓動が高鳴っていたが、僕はそれを悟られないよう、話の受け答えをすることで誤魔化そうとした。
「・・・・どんな学校?」
「女子校だよ。だから当然青春もできない。そもそも学校自体が最悪なのに、アンケートの『学校が好きじゃない』にマルしたら『なんか困ったことあるの』って呼び出されるし、それがおかしい事みたいな」
 彼女は早口で言った。僕は肩に回された彼女の手を触り、握ってみる。すると彼女は優しい力で握り返した。
「別におかしくなんかない。僕も学校は嫌いだ」
「じゃあ一緒だね」
 彼女は僕の方を向いた。僕も間近で彼女の顔を見た。広い二重幅の目と美しい顔立ちを、あと数センチ顔を近づけばとキスできるほどの距離で見た。僕らはしばらく間見つめ合い、僕は透き通った彼女の瞳をじっくりと眺めた。だが間もなくして恥ずかしくなり、僕が先に視線を逸らした。彼女はそんな僕を見てクスクスと笑った。
「あんたもほら。肩」
 彼女は僕の肩を組んでいる方の手で、トントンと僕の肩を叩いた。僕も彼女の肩に手を回すようにということだろうか。僕は恐る恐る彼女の頭の後ろに手を回し、温もりに満ちたその肩をゆっくりと掴んだ。
 彼女は僕と一緒に仰向けで天井を見上げながら、こんな話をした。
「功一くんが一緒に釣りに行ってくれたとき、なんか昔のこと思い出してたの」
「昔?」
「そう、私がちっちゃいときにお姉ちゃんとかお兄ちゃんとよくあそこ遊びに行ってたの」
「思い出の場所なんだね」
「そう。でも今はもう2人と外を歩くことすら無くなった。だから私はずっと1人」
 彼女は僕の肩を抱きながら、部屋の天井に揺れる飛行機の模型を眺めている。飛行機は窓から入る風でゆらゆらと揺れていた。
「だから功一くんが今の私と一緒に歩いてくれて、釣りに付き合ってくれたことが嬉しかった。あれが初対面だったのに」
「・・今だってお兄さんとお姉さんに頼めば、釣りくらい一緒に来てくれるよ」
 彼女はしばらく考えたように黙り、「いや、それはない」と言った。
「小さい時きょうだい3人で遊んでた頃とは違うから。楽しかったなぁって思っても、今はもうそん時には戻れない」
 そう話しながら天井を見上げる彼女の瞳には、彼女が小さいときの光景が写っているかのようだった。
「今は変わっちゃったんだよ、私も周りも全部。だから私は悲しい」
「それはしょうがないよ。でも気持ちは分かる」
「昔は良かったって思う?」彼女はまた僕の目を見た。
「・・分からない。それに僕はまだ15年しか生きてないから、昔って言葉を使ったらバカにされるんだ」
「私もだよ。同い年だもん」彼女は僕の肩をゆっくりとさすった。
「で、それをお兄ちゃんに言ったら、昔の良い面ばっかり見過ぎだった言われた。忘れてるだけなんだって、あの時の悪い面を」
「なるほど・・」
 彼女はその話を僕としたかったんだろうか。淡々と話し続ける彼女の声を、僕はずっと聞いていた。そして、僕が母親と過ごした11年間のことを思い出していた。
「でも昔の悪い面ばっかり見て、良い面を忘れてることだってあるよ。そうでしょ?」
 彼女が僕をチラッと見たタイミングで、彼女の瞳がキラッと天井の灯りを反射した。僕はそれが目に刺さった。
 彼女は僕の答えを待つように、僕の目を見続けた。少女のその表情は幼いようで成熟しているようで、だがその目は強い意志と反抗心が宿っていた。
「君は間違ってないよ。あかりちゃん・・」
「その名前で呼ばないで。功一くんの前ではユミでいたいの」
「あかりの方が断然合ってるよ。別の名前で名乗る必要なんてない」
 僕がそう言うと、彼女は僕のおでこを触り、組んでいた肩から手を外して起き上がった。そして寝転がる僕を見下ろして言った。
「そんなこと言ってくれるのあんたが初めてだよ、功一くん」
 僕もベッドから起き上がり、あぐらをかいて彼女と向かい合わせになった。
「本当は自分のことも『あかり』って言ってるの。でもそれをクラスの女子にバカにされてから、この名前も好きじゃなくなって」
「あかりはいい名前だよ」
「・・ありがとね、そう言ってくれて。功一くんもいい名前だよ」
 彼女が僕にそう言ったとき、僕は心情が理解できなかった彼女から初めて人間らしさを感じた。
 そして彼女が頭につけた髪留めから着ているワンピースまで、全てが愛おしく感じた。さっきまで彼女に感じていたイライラは、次第に消えてなくなっていた。
「キスして」
 彼女は僕に顔を近づけて言った。僕はまさかそんなことを頼まれるとは思いもしなかったので驚いたが、彼女が目を閉じたので本気で言っているんだろうと分かった。僕は不安になりながらも彼女の肩を掴んで顔を近づけ、彼女の頬にキスをした。
 彼女は目を閉じながらも口角が上がった。そして次の瞬間、彼女は僕に飛びついて、僕をがっしりとホールドしたまま後ろに倒れた。僕と彼女は組み合ったまま一緒にベッドの下に転げ落ちる。
「なにするんだよ、痛い!」僕は床に頭をぶつけてしまった。彼女は僕の体の上にかぶさっていたが、僕から降りてすぐ隣に横たわった。
「いいことしてあげる」そう言って彼女は床に寝転がったまま僕のスボンのベルトを外し始めた。
「SEXはしないって言ってたのに」
「SEXとは違う。これなら今でもできるし、功一くんでしたい」
「今・・この床で?」
「そう、一回やってみたかったの。良いでしょ?」
 彼女があまりに真剣な眼差しだったため、今はどう断ろうと彼女はそれを実行するに違いなかった。そして僕は感じたことのない感覚に震えながらも、ついに言ってしまった。
「・・分かった」
 彼女はその言葉でスイッチが入ったようで、ベルトを外したあとファスナーを下におろした。
 そして彼女が僕のズボンを掴んで脱がせようとしたタイミングで、玄関のチャイムが鳴り、声が聞こえた。
「あかりー!! いるんでしょ!!」それは彼女の姉のアヤさんの声だった。
「ちぇっ。良いところだったのに」
 彼女は床から起き上がり、部屋を出て階段を下って行った。僕も起き上がってズボンを履き直し、部屋を出た。
「あんたなんで功一くんの家にいるわけ? いきなり押しかけてどういうつもりなの?」
「お姉ちゃんには関係ないでしょ! 功一くんに晩御飯作ってたんだよ。そういう姉ちゃんこそなんで私の場所わかったの」
「スマホのGPSで一瞬で分かるっての。ほんと困った子!」
 玄関から姉妹の言い争いの声が聞こえた。僕は階段を降り、玄関まで行った。
「あ、功一くんゴメンね。うちの妹がいきなり」
「いや、全然その・・良いんです。ご飯も作ってくれて」
「もう。功一くんに変な事しなかっただろうね」
 アヤさんは姉から目を逸らして不貞腐れている妹の腕を握り、睨みつけた。「私はなにもしないもん」
「じゃあもう帰るよ。今何時だと思ってんのよ! 清一も心配してたし」
「兄ちゃんに心配される筋合いはない。あんな巨漢ニート」
「あんた言い過ぎ。いいから帰るって言ってんの」
「はぁい」
 彼女はピンクのリュックを取り、アヤさんに手を引かれて玄関を出た。アヤさんは手に持っていた上着を妹にかけたあと、僕に両手を合わせて言った。
「ゴメンね功一くん、この子まだ幼いのよ。許してあげて」
「いや、僕はホントに・・良いんですよ全然・・」
「バイバイ功一くん! またね!」アヤさんの妹は僕に手を振ったあと、投げキッスをした。僕は「うん、バイバイ」と言って手を振った。そして姉妹は僕の家から去っていった。
 嵐のように過ぎ去っていった彼女の余韻が家の中に残っていた。静まり返った家に、僕は急に寂しさと閉塞感を覚え、台所を片付けたあと自分の部屋に戻った。部屋にはまだ彼女の匂いが残っている気がした。僕はそのままベッドに倒れ込んだ。


 4日後、僕はめぐさんの母親の家を訪ねるため、小高い丘の上にある町に来ていた。遠くには海がよく見え、涼しい潮風が吹いていた。
 めぐさんの母親である大橋恵子さんに教えてもらった住所まで、電車を降りたあと歩きで向かい、ようやく辿り着いたのが一軒の西洋風の家だった。緑色の屋根に広い庭があり、この辺りでは一番海がよく見える位置に建てられている。
 僕は玄関の戸を叩くと、召使いのような人が僕を家の中まで通してくれた。すると、広い居間に彼女の母親の姿があった。
「来てくれたわね」
「こんにちは。大方と言います」
 僕は軽くお辞儀をした。彼女は窓際のテーブルまで僕を案内し、紅茶を出してくれた。恵子さんは品のある高貴な雰囲気を漂わせる女性で、パッと見ただけでめぐさんの母親とはとても分から無かった。僕は彼女が座る椅子から少し離れたところに置かれた椅子に座った。
「大方さんの息子さんだったかしら? あなたのお父さんはよく知ってる。娘にもよくしてくれたし」
 僕は緊張していたが深呼吸をして、心を落ち着かせて恵子さんに話した。
「はい、父がよくお邪魔していたようで。娘さんのめぐさんを取材していました」
「あなたが娘を取材してた人なのね」
「そうです。あの・・父親から連絡があったんですね」
「そう、私は大方さんから取材を持ちかけられたけど、断ってしまったの。それで娘の方に取材したら良いんじゃないかって言ってね。娘が迷惑かけてないかしら」恵子さんは紅茶のカップを机に置いて言った。
「いやそんな、むしろ僕がが迷惑かけているくらいで。すみません、今日はお話を聞きたくて」
 僕は彼女がアルコール中毒で病院送りになったことと、それによって取材が出来なくなったことを話した。恵子さんはそれを聞いてハッとしたようだった。しばらく姿を見ていない娘の今の状況を知った瞬間だった。
「あの子のことだから親に心配かけるようなことなんじゃないかって思ったけど・・」
「娘さんと連絡は取らないんですか?」
 僕はそれがずっと気になっていたので、やっと聞いてみた。一体なぜ自分のたったひとりの娘にも関わらず、娘の近況を把握していなかったのか。恵子さんは浅く息をついたあと言った。
「私は娘が専門学校を辞めたことで喧嘩をしてしまったのよ。娘はそれをキッカケに私に愛想をつかしたみたいで、私と縁を切るみたいに家を出ていった。それきりなの」
「じゃあ、娘さんが今どうしてるのかとかも・・」
「探そうと思えば探せたけど、あの子の人生だし、私はもう彼女に関わらないことを選んだの。あの子は父親が亡くなってから変わってしまった」
 めぐさんが僕と最初にあった日に言っていたことを思い出した。中学生のときに父が亡くなった話を僕にしてくれたこと。僕らが話している光景を見たらめぐさんは怒るだろうか。だが、僕は彼女を今より知りたかった。
「あなただからこの話をするんだけど、娘は本当に純粋で優しい子だった。あなたのお父さんもよく知っているはず。私はそんな娘を愛していた」
 僕は頷いた。そして、そんな過去を懐かしむような表情を浮かべる恵子さんを見た。
「娘が学校を辞めたことで私と娘が口論になったときに、私はあの子にひどいことを言った。あの子は多分それを根に持ってて、私を許さないと思うの」
 いつも一緒にいためぐさんはそんな過去を抱える人だったとは、僕は彼女と会っているときには思いもしなかった。母親について一回だけ聞いたことがあったが、僕はその会話からもここまでのことを汲み取ることは出来なかったのだった。
「・・・・大橋さんの取材を受けなかった理由、お聞きしていいですか」
「そのことだけど、私はまず足が悪くてね。それで今は歩くことも大変で」彼女は杖で自分の足を指した。
「そうでしたか・・」
「あと、私は主人を亡くしたことがいまだに信じられなくてね。主人を事故で失ってから私たちには暗い影が差したと思ってる。だから私は考えることをやめたのよ」
 彼女は窓の外に顔を向けた。曇った白い空と、青い海が遠くに見えた。白い空が放つ光が、薄暗い部屋の中に差し込んでいた。古い本棚の上に置かれた写真が目に入ってきた。それは緑の丘の上で撮られた小さいめぐさんと大橋雄一さんのツーショットだった。
 おそらく美術館からの依頼を断ったのも、主人を思い出してしまうのが辛かったからなんだろう。心をすっかり閉ざし切っているというようには見えなかったが、彼女の目の奥に晴れることのない暗雲が見えた。
「・・娘さんに会ってあげてください。支えが必要なんです」
 僕ははっきりと彼女に言った。彼女はしばらく俯き、そして顔を上げた。
「・・分かった。時間はかかると思うけど、娘とまた分かり合えるまで努力してみる」
 僕はその言葉を聞けただけでも今日来た甲斐があった。これそこが、僕がめぐさんと出会った理由だったんだろうか。僕は特別な力は何一つないが、そんな僕にできるたった一つのことがめぐさんに寄り添うことだった。
 僕は恵子さんと話し終えたあと、席を立って帰る用意をした。すると恵子さんは「待って」と僕のもとに何かを持ってきた。
「これを娘に渡してほしいの。主人が娘に書いた手紙で、娘が20歳になったら渡すようにって、今気がついてよかった」
 そういえば3日後は彼女の誕生日だと、たった今思い出した。その手紙は白い封筒に入れられており、封が閉じられていた。
「あとこれは私から誕生日の娘へ。これもお願いできるかしら」
「はい。渡しておきます」
 僕は2枚の封筒を受け取り、カバンの中に入れた。そして僕は恵子さんに別れを告げ、この家を後にした。港の見える坂道を登り、めぐさんが生まれ育ったであろう街を通り過ぎて行った。
 どうすればめぐさんに寄り添うことができるのかと考えたとき、それは彼女のことをもっと知ることだった。僕は取材をしている間に何度も彼女と言い争いや喧嘩になったが、そのときの僕に足りなかったことが今は分かる。本当の意味で、僕は彼女を知ろうとしていなかったのだろう。
 次の日、僕の家に長い海外取材から父親が帰ってきた父親と2人で、家の庭を手入れしていた。
 父親と僕はアメリカから買ってきたお土産のお菓子を庭先で食べながら、久しぶりにたくさん喋った。そして父親はそろそろこの家を建て替えたいという話をした。古くなって耐震性も無くなってきたこの家を一新したいらしい。そのためにはまず家の中を整理する必要があると、僕と父親は家の中を片付け始めた。
 僕は数年ぶりに屋根裏の部屋に入り、そこにあった段ボールの中に一本のVHSを見つけた。パッケージの中には「わたしの可愛い功一ちゃんへ」と、母親の丸い字が書かれたカードが入っていた。屋根裏にある古いテレビで再生してみると、そこには父が撮影した幼い僕と母親が写っていた。数年分の映像が短くまとまっており、誕生日や記念日に撮られたようだった。
 僕はそれを見ているうちに、やがて我慢できずに泣いてしまった。楽しそうにはしゃぐ母親が映し出されたテレビの前で、僕は溢れる大量の涙を止めることができなかった。喧嘩して仲直りできないままだったことを、今になってどうしようもなく悔やんだ。


 それから2日後の夕方、僕はあのとき以来ずっと閉じこもっているめぐさんに会いに行った。どうやら体調は少し改善したようで、赤いボーダーのタンクトップ姿で僕を家の中に迎え入れてくれた。
「もう大丈夫なんですか、気分は」
「うん、もう大丈夫。ありがとうね。・・わたし功一くんに助けられた」そう言って彼女は僕にお茶を入れてくれた。
「いいんですよ。僕は・・めぐさんが死なずにいてくれて嬉しいです」
「・・・・功一くん、もう、なんて言ったら良いのか」
 彼女は床に体育座りをして、ベッドに背中をつけたまま膝を抱えて上目遣いに僕を見た。その表情は、あの本棚の上に飾られた写真に写る少女そのものだった。
 僕は彼女の母親と会っていたことを彼女に説明し、そして恵子さんから預かった2枚の封筒を渡した。
「ありがとう、私の代わりに。これはママからので、これは?」
 めぐさんは僕から受け取った封筒の一つを開けると、「20歳になった娘へ パパより」と書かれた紙が入っていた。めぐさんがそれを裏返すと、そこにはある地図が書かれていた。
「パパからだ。そうか、私の誕生日・・」
 めぐさんは紙を握りしめた。今日がめぐさんの20回目の誕生日であり、彼女はそのことを忘れていたようだった。
「ここどこなんですか」僕はその手書きの地図を見て聞いた。
「確か、パパと昔に何回か行ったことがある公園だよ。懐かしい」めぐさんは地図の緑の場所に記された赤い丸を指差した。
「ここに何かあるんですね」
「私、確かめに行く。良かったら、功一くんも一緒に来ない?」
「行きます。でも今日は雨降ってますよ」
「また晴れた日に、ね」
 僕は今日、手紙を渡す以外にも彼女に渡す物があった。包み紙に包まれた箱を鞄から取り出し、僕は彼女に渡した。
「これ、僕からの誕生日プレゼントです」
「えー! ありがとう。私のためにこれを?」
 彼女はすごく喜んでくれたようだった。受け取ってすぐに「開けていい?」と僕に聞き、包み紙を取った。
「うわぁ! プラネタリウムだ!!」彼女は箱を見るなり笑顔を見せた。それは球体の上にあるレンズが天井に星空を映し出す機械で、僕が彼女のために事前に購入した物だった。
「これを私にくれるの? ホントに?」
「はい。あげます」
「めっちゃ嬉しいよ功一くん。ありがとう・・! 私星空が大好きだから」
 めぐさんは箱から機械を取り出し、目を輝かせながらそれを眺めた。まさか僕があげたものにこんなに喜んでくれるとは、初めて今日まで生きていて良かったと思った。閉鎖的で暗い人生だと信じて疑わなかった僕の人生が、目の前にいるひとりの人を喜ばせることができたことで、僅かな希望が差した気がした。
 彼女は箱を床に置き、改めて僕の方を向いて言った。
「私・・今まで功一くんに意地の悪い事とかたくさん言って、今更なんだって思うかもしれないけど、謝りたい。ごめんなさい」
「どうして謝るんですか。僕の方がよっぽど未熟でどうしようもなくて・・色んなことを悔やんでます」
 彼女は僕の方に体を近づけ、僕としっかり目を合わせたまま僕の頬を触った。「あなたがどうしてそんなに優しいのかが分からない」
 僕とめぐさんはお互い一瞬も目を離すことなく、しばらくのあいだ見つめあった。僕は窓から差し込む夕日の色を反射する彼女の瞳を見続けた。そして彼女は沈黙の後、僕の手を取り、小さい声で言った。「本当に綺麗な瞳・・」
 そしてめぐさんは目を閉じて僕にしばらくキスしたあと、僕を強く抱きしめた。僕はただ彼女を抱きしめたまま、全身で熱を感じた。彼女があまりに強く抱きしめるので息が詰まりそうになったが、僕も同じように彼女を強く抱いた。そして、ゆっくりと背中を撫でた。
 そのとき家のチャイムが鳴り、めぐさんは僕を離して玄関に行った。ドアを開けると、エプロン姿の金髪の女性がいた。
「めぐ、あんた今日もうちで食べなよ。まだあんまり良くないんでしょ」とめぐさんに言う。
「ああそうだ、ホントありがとうね。今日は彼も良いかな?」
 めぐさんは僕の方を向いて言った。「功一くん、隣に住んでる友達なの。良かったら夕ご飯食べて行かない?」
 金髪の彼女は僕が初めてめぐさんを訪ねたときに、彼女の居場所を教えてくれた女性だった。彼女も僕の方を見て言った。「この男の子知ってるよ。こないだあんたを訪ねて来てた子よね」
「そう。一緒にご馳走になって良いでしょ?」
 僕はめぐさんと一緒に彼女の家にお邪魔して、夕ご飯を食べさせてもらった。相当料理がうまいようで、何種類もの料理をさらに盛り付け、僕らに振舞ってくれた。
 めぐさんは料理を食べながら目を輝かせた。
「めっちゃ美味しい・・! やっぱあんた凄いね。感動しちゃう」
「そんなでもないよ。大げさ」
 僕は隣でめぐさんが食べているものが気になり、「それなんですか」と聞いてみた。
「これ? 麻婆豆腐。欲しい?」「はい」
 彼女はスプーンで自分の麻婆豆腐をすくい「あーんして」と言った。僕は言われるがままに彼女に食べさせてもらった。そんな僕らを、金髪の彼女は不思議そうに眺めていた。
 僕とめぐさんは夕飯のお礼を言って彼女の部屋を出た。僕はそのまま帰ろうとしたが、めぐさんは「あの・・もし良かったら泊まっていかない?」と僕を引き止めた。
「何にもしない。ただ・・一緒にいて欲しいだけなの」
 階段を下ろうとした僕は彼女の方に足を向け直した。「分かりました」
 僕とめぐさんは同じベッドに寝転び、天井に映し出された星をうっとりと眺めていた。なんて美しいんだろうと、僕は本物のプラネタリウムに負けないほどの星空を隅々まで見た。そして、僕は星空を優しげな表情で見続けるめぐさんを見た。なんて綺麗な人なんだろうと、今は心からそう思った。
「私たち、なんでもっと早く出会わなかったんだろうね」
 めぐさんは静かな声でそう言った。僕はうつ伏せになり、彼女の胸が呼吸音と共に上下に動く様子を見ながら、僕は同じ音量で返した。「分からないです」
 僕と彼女の人生は、一度すごく近づいていたに違いない。だがギリギリのところで混じり合うことがなかった。だが数奇な運命の導きで、今こうして同じ天井を眺めている。
「あなたのパパが家まで私のパパに会いに来たとき、あなたがついて来てたら・・変わってたんだろうね」
 ゆっくりと回転する星空を見ていると、部屋の屋根が消えて本当の夜空を見ているような気分になった。
 僕はこの家の台所に置いてあった絵が気になっており、それについて聞いてみた。
「あの台所の黒い絵・・あれってめぐさんが描いたんですか」
「そう。あれは私が病んでたときに書いたやつだから、真っ黒でおどろおどろしいんだよね」
 その絵は一面真っ黒に塗られており、ところどころに怪物のようなものが描かれていた。それはまるで悪夢のような世界観で、見ているだけで体調が悪くなりそうだった。
「パパと飼ってた犬を同時に亡くした時期で、どうしようもなく落ちてた時期だから・・それを紛らわすために夜な夜な遊び回って、いろんな悪いことをした」
「悪いこと?」
「そう。毎晩のように違う男と寝たり、クスリも3回はやった。1回目は4、5人の仲間と一緒に、2、3回目はSEXするとき」
 僕は胸を打たれたような気持ちで、何も言うことができなかった。僕の隣にいる人は、自分とは違う世界を経験した人であり、自分が知らない世界を知っている人だった。
「クスリでキメながら車の中でヤってたとき、私は何やってるんだろうって思った。そんな自分が嫌いで、本当に嫌いで仕方なかった。というか、いまだに」
「・・自分を責めなくていいですよ」
 彼女は僕の方に顔を向けた。僕の表情から何かを読み解こうとするようだった。僕は天井を見つめたまま、彼女に目を合わせることなく言った。「誰も悪くないです」
「そうかな、そうなのかな」
「本当です」
「功一くん・・」
 彼女は僕の方に体を向ける形で横になった。僕も彼女に体を向け、寝転んだまま向かい合わせになった。そして、潤んだ目のままで僕に言った。
「功一くん、あなたが羨ましい。あなたになりたい」
「どうしてですか」
「あなたは優しくて素直で、人に愛情がある。あなたは私にないものを持ってる」
「僕が・・?」
「そう。あなたが」めぐさんは僕の髪を触った。彼女の細い指が頭皮に当たる感覚を、彼女の透き通った目を見つめながら感じた。
「カワイイし」
「カワイくないですよ」
「本当にカワイイ」彼女は僕の髪を撫でる手を止めた。
「カワイくないですって」
「マジでカワイイ。ヤバカワイイ」
 僕は彼女に見つめられすぎて、顔に穴が開くのではないかと思った。頭にある彼女の手を掴み、僕は言った。
「めぐさんもカワイイです」
 その瞬間、彼女は驚いたような表情を見せ、目を見開いた。眉毛が上がり、次第に彼女の顔が赤く染まっていくのが分かった。そして目を細くして、照れたように歯を見せて笑った。
「私のこと、カワイイって言った?」
「はい。言いました」
「私・・カワイイって、カワイイって言われた」
 めぐさんは今まで僕に見せたことがない照れを見せた。いつも僕が言われてばっかりだったので、今度は僕がお返しとして言ったものが、まさかこんな風な反応を示すとは思いもしなかった。やはり彼女もひとりの純粋な女の子だった。
「本気で照れないでください」
「だって・・功一くんからカワイイなんて・・」
「もう忘れてください」
 今言ったことが急激に恥ずかしくなり、僕は彼女から目を逸らした。
 彼女は横に寝転がったまま着ているタンクトップを引き上げ、お腹を出した。僕は一瞬ドキッとした。彼女は「触って」と僕の手を掴み、それを自分のお腹に当てさせた。
「あったかい・・」手の平から彼女のお腹から出る熱を感じた。それは火傷しそうなほど熱く感じたのは、気のせいではなかった。
「あなたがここにいるからだよ。体が熱い」
 僕の腕を掴む彼女の手も、今まで以上に熱く感じた。彼女は僕の腕を離し、タンクトップを下に下ろした。
 彼女はまた少し笑ったあと、僕を正面から抱きしめた。そして、そのまま離そうとしなかった。
「功一くん、大好きだよ」
 めぐさんは耳元で言った。僕の体にぴったりと付けられた彼女の体が、僕の魂を体に取り込んでいるかのようだった。そしてこの美しい星の下で、次第に僕らは同化して1つになるように思えた。
 彼女と初めて会って目を合わせたとき、僕は心臓が止まるほど緊張したことを思い出した。時間が経ち、今はその人と同じベッドの上で抱きしめ合っている。外から聞こえる雨の音が、今は一瞬だけ止まった気がした。
「朝までこうしていて良い?」めぐさんは微かな声で聞いた。僕は黙ったまま頷いた。
 僕はめぐさんを抱きして眠りにつくまで、彼女の静かな呼吸音を耳から聞き、押しつけられた彼女の胸から鼓動を感じていた。そこにはもう雨の音も、星を映し出す機械の音もしない、2人だけの静寂が広がっていた。


 翌朝に目が覚めると、僕の隣にめぐさんはいなかった。その代わりに、ベッドの横の窓際には、眠る僕の似顔絵が飾られていた。時刻は6時になっていた。
 今日は月曜で学校があることを思い出し、ベッドから出て荷物をまとめ、家を出た。朝の冷たい空気が広がっており、澄んだ空気が心地いい。車通りの少ない道沿いを歩き、バス停まで向かった。
「功一くん!」
 後ろからめぐさんの声が聞こえた。振り返ると、スーパーの袋を持ったTシャツ姿の彼女が駆け寄ってきた。彼女が来ているTシャツは、僕も前に着たことがあるマーベルTシャツだった。
「もう帰っちゃうの? 功一くん」
「はい。今日は学校なんです」
「そっか。バス停まで送るね」
 バス停までの道中、僕とめぐさんは手を繋いで歩いた。指を交差させ、しっかりとお互いの手を握った。お互い何も喋ることはなく、ゆっくりと川沿いの道を歩いた。遠くの方に目を向ける彼女の顔は、今までのどんな表情よりも爽やかで澄み渡っていた。
 バス停につき、横並びでバスを待っている途中にめぐさんは繋いだ手を揺らした。
「そういえばさあ、功一くんって吹奏楽部だったんでしょ? なんでウクレレなの?」
 めぐさんが思い出したように僕の方を向いて聞いた。
「吹奏楽の・・ウクレレ担当だったんです」自分で言いながら、途中で笑ってしまった。めぐさんも笑いながら「んなわけ!」と僕の肩を叩いた。
「トランペットだったんですけど、今はもうやってません。ウクレレは小2からやってます」
「そうだったのね」
 バスが来て、僕は「じゃあ」と彼女の手を離した。
「あなたのお父さんにもまた会いたい」めぐさんはバスに乗り込もうとする僕に言った。
「またうちに来てください。それか、父親と会いに行きます」
「うん。ありがとう」
 僕はバスに乗り込み、一番後ろの席に座った。バスの扉が閉まり、バスがゆっくりと動き出す。彼女は窓際の僕に笑顔で手を振ってくれた。
 バスの中で外の風景を眺めながら、あることを思い出した。めぐさんのスケッチブックの最後のページに貼られていた美術品の写真は、ほとんどが彼女の父親の作品だった。


 数日後、僕はめぐさんと一緒に、彼女の父親が描いた地図の地点まで行った。町外れの人気のない公園にある、小高い丘だった。緑の広い丘の上には木が一本だけ生えており、広い空を眺めることができた。晴れ渡った青い空に、飛行機雲が斜めに伸びていた。
 地図にはその木のそばに赤い点が打たれていた。
「本当に懐かしい。ここで写真撮ったんだよね」めぐさんは風景を眺めながら言った。
「この木の根本ですね」
「そう、何があるんだろうね。掘り起こしてみよう」
 僕らは持ってきたスコップを使って木の根本を掘り起こしてみた。しばらく掘るとスコップが何かに当たった。僕らはその周りを掘ってみると、そこには木の箱が埋まっていた。
「これかな? 多分そうだよね」
 慎重に土の中から取り出す。箱には植物のような模様が彫られており、古いもののようだった。
 めぐさんがゆっくりと蓋を開けると、中には一枚の紙が入っていた。
「わあ・・」彼女が紙を取り出す。紙には「パパより」と書かれており、彼女に向けた文章が綴られていた。
 僕とめぐさんは草の上に座り、その手紙を読んでみた。


『20歳になったあなたへ

あなたがこの文章を読んでいる頃には、私はもうこの世界にはいないかもしれない

この緑の丘は、私とあなたが初めて2人きりで遊びにきた公園です

幼い頃のあなたが私とここで遊んでくれたことが、今までの人生の何よりも嬉しかった

身勝手でどうしようもない父親だった私を許してくれないくていい。ただ、最後にこうして感謝を伝えさせてほしい

あなたの母と結婚してあなたが生まれたことは、私の人生の長い長い夜の終わりでした

ありがとう』


 めぐさんは何も言わないまま手紙を閉じ、僕に渡した。そして顔を手で覆って、声を出して泣いた。僕は初めてめぐさんが涙を流す姿を見た。大量の涙が頬をつたい、下に落ちた。
「私・・・・パパに何にも・・」
 僕は何も言わずに、彼女をそっと抱きしめた。彼女は僕の肩に顔を押し付け、泣き続けた。

 次の日も、僕らは一緒にこの場所に来た。なぜかは分からないが、この丘に2人で寝転がって空を眺めていた。よく晴れた日で、風のない暖かな日だった。僕は目を閉じて、丘に吹き付ける優しい風を肌で感じた。明るい日差しに照らされ、時間が止まったようだった。
「私の人生、これから先どうなっちゃうんだろうって考えたの。今は1人ぼっちじゃなくても、すぐに孤独になるんじゃないかって・・ね。それが怖くて」
 空を見上げたまま、彼女は言った。風が彼女の髪を静かに揺らした。
「大丈夫、僕がいますよ」
 めぐさんは僕の方を向いた。僕も彼女に顔を向けた。
「僕はいつだってめぐさんの味方です。どんな時でも、ずっとです」
「・・・・ありがとう。功一くん、ありがとう」

 めぐさんは「海に行かない?」と僕に言った。僕は行きますと言って彼女と一緒にその場を立ち上がり、彼女となだらかな丘を下った。
「もうカメラは持たないんだね」
「ええ、もういいんです」
 僕がそう言うと、めぐさんは僕に微笑みかけた。そして「行こう」と僕の手を引いて、緑の草原を駆けだした。


《おわり》



 
 
 
 



 
 

 
 
 








 
 
 










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