八月のヴィーナス⑴

文字数 48,755文字

 運命に嫌われてるんだと思っていた。意地悪な運命が、いつも自分を貶めているのだと。


【八月のヴィーナス(八月のクリスティー)】


2018年


[アメリカ:ミシシッピ州]

「なんていうかその…ほら、僕だって誠心誠意やっていたつもりだったんですよ」
「しかしクリスティー君。君のために大学全体の品位を損なうわけにはいかんのだよ。君もわかるだろ、これぐらいは」
「わかりますが……反省しています。でも」
「言いたいことはわかるが、これは私だけの判断ではないんだよ。申し訳ないがね」
 学長から言い渡された知らせは、日々離婚問題や借金を抱える私に追い打ちをかけた。大学での不適切な講演で処分を言い渡されて1週間が経ち、心身ともに疲れ切っていた私は、もう一度手元にある書類にゆっくりと目を落としてみた。そこに書かれている文字は、今は目で追うことすら憚れるほどだった。
 車内に突然鳴り響く着信音に少し驚いたあと、私は憂鬱になりながらゆっくりと電話をとった。それは9歳の息子マイクからの電話だった。
「おおマイク! お父さんだ」
「パパ? 元気?」
「もちろん元気だ。最近家に帰れてなくて悪かったな。またおみやげを買っていくから、明後日には戻るってママに…」
「ママがまた話したいって言ってたよ。パパが折り返してくれないから、僕からかけてって言われた」
「おお、そうか…」
 そのあと、妻が電話に出た。いつものように離婚の手続きや親権についてなど、淡々とした語り口調で私に話してきた。車内でしばらく会話を続けたあと、電話を切って行きつけのハンバーガーショップに行った。
 カウンター席に座り、いつものバーガーセットを注文する。メニューの到着を待っている間、店内にあるテレビでは昼のニュースが流れていた。なんとなくその映像を観ていると、「どうも」と聞き馴染みのある声がした。
 振り返るとそこには教授仲間であるティムが立っていた。ティムは私より10歳も年下で、数年前から親しくしていた仲だった。今日はスーツのジャケットのボタンを開けたラフなスタイルだった。
「話聞きました」
 そう言って私の隣に腰掛けるティム。正直言って今は誰とも話したくない気分だったが、これから話さねばならないようだ。
「なにも処分することないですよね。授業でどんな資料を使っても良いですよ」
「わかってくれるか…?」
「生物の授業なんで、そんなこと普通だと思ってました」
 私が授業で不適切な画像を使ったことが問題になったのだと、彼はもうとっくに認知しているようだ。これによって教授仲間や学長からの反感を買い、このような結果になってしまった。
「実はこれが初めてじゃないんだ」
「そうなんですか。前にも?」
「そう。確か6年前に一度だけ。そのときも似たような案件で処分されて、今回の件で完全に先がなくなった」
「3回でアウトなら、あとまだ1回はあります」ティムはそう言って人差し指を立てた。
「いやでも……完全にしくじった。ただでさえ日頃から色々抱えてるのに、ダメなんだよ。今いちばん最悪だ」
 私は今にも机に倒れ込みたかった。できることなら時間をそのまま巻き戻して、過去の自分に忠告してやりたかった。これで息子からの信頼も完全に失うかもしれない。パパはなんで仕事に行かないの? と質問されたらなんと答えよう。
「元気出してくださいよ」
 ティムは優しい男だった。こんな私を元気づけようとしてくれる、数少ない理解者だった。
「そういえばお兄さんから研究室に電話が入っていました」
 食事を終えたあと、ぼんやりとテレビを眺める私にティムは言った。私はテレビの画面を見ながら「兄さんが…?」とぼんやりとした受け答えをした。兄が連絡してくるなんて珍しかったので気になったが、あえて興味のないふりをした。






[日本・東京]

『子供の頃の夢は?』
『ダンサーに憧れてた。母が昔やっていて、その影響で練習をしてたの。そのときは女優になりたいなんて思ってなかったし、興味がなかったから』
 なんとなくタップしたハリウッド女優のインタビュー動画を、かれこれ10分は見続けている。今は意識的に現実逃避をする必要があった。この悲惨で地獄のような現実に、これ以上向き合っていられなかった。
 YouTubeの画面をなん度もスクロールしては、興味のないような動画でさえ見続けた。今画面に映っているハリウッド女優は、自分と同じ人間なのにもかかわらず、どうしてここまで自分と違うんだろうと、嫌でもそう思ってしまう。
 1回から母親の声が聞こえてくる。聞きたくもないあの高い声で自分の名前を叫ぶ。耐えられなかった。
 今日の朝方に、僕は母親をありえないほど喧嘩をした。たったひとつの考えの違いがついには怒鳴り合いにまで発展して、ブチギレた母親は僕に『出ていけ』と言い放った。そのほかにもどれほどの辛辣な言葉を浴びただろうか。
『誰のおかげで暮らせてると思ってる?』や『感謝のない最低な人間』、しまいには『死ねばいい』とまで言われた。僕は頭に血が昇っていたため、そのときの状況はもはやよく覚えていないが、時間が進むごとに身も心もボロボロになっていくのを感じた。一回スイッチが入ると我が子にもそんな言葉を投げかけてしまう、昔からそういう親だった。
 反論すると倍以上で帰ってくると思い出し、途中で母親と口論するのをやめた。今の自分にできる最大の抵抗は、母親を心から無視することだった。
 一度逆鱗に触れた母親の怒り方は凄まじく、昔からその怒りに触れないよう生きてきた。母親の考えにはできるだけ従っていたし、禁止されていることはやらなかった。しかし、今になってそれがバカらしくなり、ついには抵抗してしまった。その結果が今のこれだった。
『ご飯食べなさい』
 と言っているんだろうか。朝から一歳口を聞いていないどころか、目も合わせていないので、流石の母親も少しは折れたのかもしれない。でも、あと数週間はこの怒りを温存させ、一歳口をきかないつもりでいた。

 深夜、静まり返ったリビングでひとり冷たくなった夜食を食べる。時計の針の音だけが心臓をさす。間違いなく今までで一番最悪の日だったな、と思い返す。一瞬にして息子の全てを否定した母親の発言が許せなかった。体の内から怒りが沸々と湧き上がり、今すぐ持っている箸をテーブルに投げつけたくなった。
 なぜこんな思いをしなければいけないのだろう、なぜあんなことを言われなければならないのか? 悔しいし、最後は母親に言われっぱなしだったのが苦しかった。もう普通の親子に戻れる気がしなかった。

 だからお望み通りに出ていくことにした。夜11時に荷物をまとめ、置き手紙に『出ていく』とだけ綴り、静かに玄関から出ていった。
 深夜の道路沿いの道をまっすぐに歩いていく。自分のしていることが本当に信じられなかった。こんなことをして一体どうするつもりなんだ? ともう一人の自分が訊いてくる。そんなこと知るかよ、と言い返すと、もう一度似たような質問が返ってくる。なん度も自問自答を繰り返しているうちに、もはや足取りもおぼつかなくなっていった。
 とは言いながらも、このまま歩いて父親の家に向かうつもりでいた。10年前に出ていった父親の家はここから4時間歩いたらたどり着く場所にあった。明け方までにはなんとか到着するかもしれない。 
 父親は母親と比べて寛大で、息子に理解があった。だから、なんとか説明したら家に住まわせてくれるかもしれないし、母親に今の考えを改めるよう話し合ってくれるかもしれない。最悪な生活を抜け出すための唯一の希望だった。

 しばらく歩き続け、次第に雨が降り始めた。5分も経てば土砂ぶりになり、雨を凌げる場所を小走りで探した。すると、道はずれにある大きな屋敷が目にとまった。前にも一度通りかかったことがあり、そのときから気になっていた洋館だった。電気がついておらず、物音もしない。無人なんだろう。
 玄関の門を開け、大きな庭を抜ける。屋敷の扉の前に座り込み、ようやくずぶ濡れになった体を拭くことができた。
 慎重に扉を叩いてみる。予測していた通り応答がなかったので、金色のドアノブを捻ってみた。すると、信じられないことに扉が開いた。どう考えても閉まっていると信じていたため、今日は玄関で眠ろうと考えていたが、どうやら中に入れるみたいだ。
 リュックから小型のLEDライトを取り出し、中に入った。ゆっくりと扉を閉め、ライトで広いフロア全体を照らしてみた。ありえないほど不気味で、得体の知れない不吉さがある。
 大きな大理石の階段を登り、2階に上がった。すぐにベッドのある部屋に入って鍵をしめ、この恐怖心を紛らわせかった。ライトで足元を照らす。天井から雨漏りした水が黒い血か何かに思え、一瞬で鳥肌がたった。
 2階の突き当たりの部屋を開けると、そこはシャンデリアが吊るされたベッドルームだった。急いで中に入り、ドアに鍵をかける。ベッドに座り込み、ようやく安心が得られた気がした。
 部屋は意外にも綺麗で、埃が降り積もってもいなかった。となると、ここはつい最近まで人がいたんだろうか。窓ぎわに飾られている花が新しいものだと分かってから、さらにその予測が当たっていることを実感する。外観が整備されていないから廃墟に感じるが、実はいまだに使われているのかも知れない。
 とりあえず今夜はこの部屋で過ごすことにした。ドアの脇にあったスイッチを押すとシャンデリアが光り、部屋が暖かいオレンジ色に包まれた。ベッドに仰向けになり、静かに深呼吸をすると、焦りと緊張が体内を駆け巡った。ここは決して安全な場所ではなかった。
 それからどれだけ経ったのか、気がつくと仰向けで寝てしまっていた。人の声で目が覚めたのだ。
 誰かが家の中に入ってきた。それがわかった瞬間リュックを手に取って灯りを消し、どこか隠れ場所がないかと部屋を見渡した。階段を上げる音が聞こえたかと思うと、人の話し声がはっきりと耳に入ってきた。そんなはずない、なんなバカな、と何度も繰り返す。しかし今は目に入ったクローゼットに身を潜めるしかなかった。
 リュックを抱き抱え、クローゼットの扉を閉める。なぜこんなことをしなきゃいけないんだろうとこの家に入ったことを後悔した瞬間、部屋のドアが開けられた。クローゼットの木の隙間から部屋に入ってきた2人の人物をじっと観察してみた。
「ここも片付けちゃって良いんだよね?」
 ひとりがそう言うと、もうひとりの声の低い方が「もうお前に任せるよ」と言った。2人とも男性で、年が離れている。親子なんだろうか。なんの話かはさっぱりわからなかったが、今はそんなことより息を潜めるので一杯一杯だった。
「家具は? どうする? ベッドとか、あのクローゼットとか」
 そう言いながら、僕の入っているクローゼットを指差していることに気がついた。心臓が信じられないほどの速さで鼓動している。
「後で運び出すか。とりあえずリビングが先だ」
「何も夜中までやることないけどなぁ。引っ越し業者に頼んでも良いんじゃ?」
「仕方ないだろ、時間もあんまりないんだから。それに業者は高くつくし…」
 その会話を聞く限り、どうやらこのクローゼットはまもなく運び出されるらしい。今が人生でいちばん絶体絶命な状況だった。部屋まで靴のまま上がって来たため、すぐに靴を履いてクローゼットに隠れることができたが、ついにここまでだと思った。
 2人が部屋を出て行こうとした瞬間、僕のポケットから懐中電灯が転がり落ちた。『ゴトン』と低い音が響いたと同時に、自分の心臓も止まった気がした。
「ん? なんか音しなかった?」
「やめれくれよ! 良くないぞ、そういうの」
「いやでも…なんか」
 2人が部屋を出ていくまで息を止め続けた。姿が見えなくなった瞬間息を吐き出し、荒く呼吸をして息を整える。握りしめていた拳の中は手汗で一杯だった。
 そっと懐中電灯を取り上げ、ライトをつける。懐中電灯が落ちた場所には正方形の蓋のようなものがあり、落ちた時の音で空間があるのではないかと勘付いていた。散らばった服や帽子をどけて埃を祓うと、確かにその蓋には取手のようなものがついていた。試しに取手を横に押してみると、なんと正方形のドアがスライドした。まさかとは思ったが、これは内部空間に通じる穴のようだった。
 人がひとり通れるだけの大きさがあり、試しに穴の中をライトで照らしてみた。暗くてはっきりとはわからないが、畳一畳ほどの小さな空間があるみたいだった。
 一か八かだったが、自分に残された道はこれしかなかった。リュックを先に穴の中に落としたあと、懐中電灯を持って穴の中に飛び降りた。
 着地した衝撃で懐中電灯を手放してしまった。懐中電灯は暗闇の中で音を立てて転がり、次の瞬間に灯りが見えなくなった。部屋のどこかにできた穴に落ちたんだろうか。目の前は暗闇が広がり、目を閉じたときのように何も見えなくなった。手探りでリュックを掴んだあと、身を屈めて前進する。
 そのときだった。さっきまで足の裏で踏みしめていた地面の感覚がなくなり、体ごと下に落ちて行くのがわかった。暗い部屋にできた穴に落ちたのだ。

 本当は一瞬の出来事だったのかもしれないが、落ちている時間は途方もなく長く感じた。体が下へ下へとみるみる落下して行く感覚。その間に、目の前を青い閃光が駆け巡った気がした。
 足の裏から全身へと大きな振動が伝わる。どこかへと着地したんだろうか。体を起こし、暗闇に手を伸ばして探ってみる。幸いなことにリュックを掴むことができた。リュックを体の近くに手繰り寄せ、しっかりと腕に抱える。暗闇でも、リュックの形状がはっきりとわかった。
 さらに手探りをするうち、指がなにか冷たい金属に触れたのがわかった。一瞬、触ってはいけないものを触ったような気がして寒気がした。目が見えないというのはこんなにも怖いことなんだ、と。
 取手をしっかりと握り、手前と奥に押してみるが、ビクともしなかった。「焦るな、焦るな」と心の中でそう繰り返した後、取手を真横に引いた。すると、狭い部屋の中に光が入ってきて、目の前に見知らぬ部屋の一室が広がった。
 信じられなかった。目を疑う光景だった。僕は見たこともない洋室の脇にある押し入れに入っていた。立ち上がることすらできないほどの狭い押し入れから出ると、一瞬の間立ちくらみを起こした。
「(どういうことなんだ?)」
 リュックを背負い直し、広い洋室を見渡す。さっき入った屋敷の部屋とはまるで違っていて、高い天井に白が基調の宮殿のような部屋だった。屋敷の地下室にやってきたのか? と思ったが、それはまるで違った。部屋の窓の外にはまるで違う光景が広がっていたのだ。
 驚きだった。大きな窓を開け、目を凝らして外の景色を見てみる。あたりには一面、夜の中華街が広がっていた。赤い瓦屋根に赤い提灯、狭い路地は人で溢れていた。
 とりあえずここから出る必要があると直感的に思った。リュックを背負い直し、もう一度目を向けた押入れの中に懐中電灯が転がっていたので、それを拾ってリュックに押し込んだあと部屋を出て行った。
 カラフルなカーペットが敷かれた廊下を抜け、大きな大理石の階段を降りて玄関まで向かう。全てがさっきの屋敷とは違いすぎる。明らかに何かがおかしい。
 屋敷を飛び出し、荒れた庭を抜けて街に出た。シトシトと冷たい雨に濡れながら赤い提灯の下を歩く。やはりここは全く別の場所、別の世界だった。客引きの女性があるらこちらにいることを除いては、いつか訪れたことがある横浜中華街と似ている。
 人混みの中をわけもなく歩いていく。ここがどこか確かめたかったが、どの看板を見ても見たこともない漢字が書かれていて、何が何だかわからない。おそらく中国語なんだろう。
 歩くスピードが遅い僕を次々と抜いていく人たち。街は活気に満ちていて、チャイナ服の女性が「お兄さん寄って行かない!? 1時間10000円でどう?」などと道ゆく人に声をかけていた。
 きっと夢か何かなんだろう。そう思うことにした。あの屋敷の一室で気を失うように寝てしまい、そのときに見ている夢なんだと思うことにした。しかし、腕を強く掴まれた感覚が本物だった。
「お兄さん、私の店に来ない?」
 僕の腕を掴んだのは緑色のチャイナ服を着た女性だった。年齢は20歳くらいだろうか、大きな目と鼻立ちが美しかったが、それに見惚れるほど心に余裕がなかった。
「え…?」思わず聞き返していた。
「私といいことしようよ」
「な…なんだって?」
「ほらほら、今なら部屋が空いてるよ。来る?」
 これは間違いなく性風俗店の勧誘に違いなかった。心臓が収縮して、息が詰まりそうになる。僕の腕を掴み、目を合わせてきたこの女性はその店の従業員なんだろう。怖くなり、「いいです」と行ったつもりだったが、声が小さくて聞こえなかったようだ。
「よし、じゃあ行こっか」
「ぇえ?」
 手を引かれ、気がつくと怪しい外観の店まで連れてこられていた。言われるがままに暗い廊下を抜け、半地下にある部屋に通される。
 女性は部屋に入ると肩にかけていたバッグをベッドに放り投げ、部屋の隅にあった冷蔵庫からなにか飲み物を取り出し、それを一口飲んだ。部屋は暖色の照明で照らされ、濃いオレンジ色に染まっていた。
 ただ茫然として部屋を見渡していると、女性は手に持っていた飲み物のボトルを冷蔵庫の上に置いて、そのままドレスを脱ぎ始めた。
「そこでいいよね?」
 ベッドを指差して訊いてくる。予想していたことが本当だったとわかり、気持ちが焦り始める。こんな場所に来たことがないし、今後の人生で来る予定もなかった。ここはどこなのか、一体何が起きているのか、頭をフル回転させて考えるが、悔しいほどわからない。
 気がつくと彼女は下着になっていた。僕に近づいてきたかと思うといきなりベッドに押し倒され、体の上にまたがってきた。
「ちょっと待ってよ」
「初めてなの?」
「いや……その」
「わかるよ。でも大丈夫」
 顔を近づけてくるが、僕は「待ってくれ!」と彼女の両肩を掴んだ。彼女は顔を近づけた状態で「なに?」と無表情のまま訊いた。
「あの…ここってどこなの?」
「はあ?」
「場所だよ。全く知らないんだ」
 彼女は首を傾げたあと僕の上からどいて、ベッド上であぐらをかいた。僕も起き上がり、なんとかこの状況を理解してもらおうと話し始めた。
「変な屋敷のクローゼットから抜けてきたんだ。前と全然違う世界になってて……助けてほしい。何が起きてるかわからない!」
「落ち着いてよ。だいぶ疲れてるのね」
 彼女はそう言って僕の胸をゆっくりと撫で、片手で僕の後頭部を掴んだあとキスしてきた。それが人生で初めてしたキスだったが、今はそんなことはどうでも良かった。なんとかして答えを得ようと必死で、心はひとつも高揚していなかった。
 彼女の少し充血した大きな目を見つめたまま訴える。
「本気なんだよ! ここがどこか教えて欲しい」
「からかってるの?」
「からかってない!」
「この街に名前なんかない。昔に来た中国人がこの街ごと変えたからね。名前もそのときになくなった」
「中国人……?」
「なんも知らないんだね。どうなってんの?」
 そう言って僅かに後退りをされた。どうなってんの? と言いたいのはこっちだったが、向こうからしてみれば不気味に思えても仕方がないかもしれない。
「売春婦をバカにして楽しい?」彼女は毛布を足元に被り、僕を睨んだ。
「バカになんかしてないよ」
「じゃあ大人しく私として、そんでもう帰って。あんたの話し相手なんかなってられない。私の仕事はわかるでしょ? もうその歳なら」
「ああ…」
 冷たい言葉だったが、穏やかな口調だったからか、どこか思いやりのある言葉にも感じた。同時に、本当に今からこの人と事を始めるんだと思い、心が萎縮した。
「でも先にお金はもらうよ」
「え…ああ、いくら?」
「2万円」彼女は2本の指をたてた。
「高いなぁ」
「あんた未成年なら1万6000円でいいよ。私からのサービス。いくつ?」
「17歳」
「じゃあそれで」
 払えないからやめると言えば良かったが、今更その勇気のほうが出なかった。ベッド脇に置いた鞄を手に取り、財布を取り出す。
 家出の計画は実行の半年前から立てていて、ずっと機会をうかがっていた。いざ家出したときのためにコツコツ小遣いを溜めていたのだ。財布の中には3万円と小銭が大量に入っている。ここでその半分も消費するなんて、いったい自分は何をしているんだろうと思う。もう知らないからな、と自分に言い、1万6000円ちょうどを取り出し、ベッドの上で彼女に渡した。
「ありがと」彼女は僕のお金を受け取ったかと思うと、何やらお札をまじまじと眺め始めた。しばらくすると彼女は顔をあげ、今度は僕の顔を怪訝そうに見つめた。
 どうかした? と訊こうとした瞬間、彼女は壁に付けられた受話器を手に取り、1万円札に目を落とし、言い放った。
「2号室のお客を連れ出して」

「うわっっ!!」
 ガタイの良い男2人がかりで、店の外に放り出される。雨で濡れた地面に横たわる僕のもとに、さっき売春婦の女性に渡した1万6000円が投げられた。
「ここは遊び場じゃねえんすよ。ふざけるなら帰ってもらって良いすか?」と低い声で言いつけられる。全く意味がわからなかった僕は、「ちょっと! どういう事なんだよ!」とお金を拾い集めながら言った。
「そのオモチャみてえな金で騙せると!?」
「ええっ?」
「ゲーセンじゃないんすよここは。ガキは(けえ)った(けえ)った!!」
 立ちあがろうとする僕のもとにリュックが飛んできて、それが体に直撃した。再び地面にもんどり打って倒れ、小銭が地面に散らばる。全てが悪夢だと思いたかった。
 ずぶ濡れになったまま起き上がり、再びお金を集めてポッケにしまった。
 一体これはどういう事なんだ。今、自分はなんの間違いを犯したのか? 考えられることは一つしかなかった。あり得ないことだが、ここはもといた場所とはまるで違う世界だということだった。僕がどんなに大金を持っていようと、ここではそれがまるで使えない。紙切れ同等の扱いを受け、今みたいに店を乱暴に放り出されるのだ。
 リュックを背負い直し、駆け足で屋敷まで戻った。人で溢れた大通りを逆走し、雨に濡れた階段をいくつも駆け上がり、路地を抜けて屋敷まで戻ってきた。大きな玄関扉を開け、走って階段を駆け上り、僕が出てきた部屋に舞い戻った。
 ここだ、ここからやってきたんだ。ここから抜け出してやる。この妙な世界から脱出してやる。そう誓い、勢いよく押入れに飛び込んだ。しかし、押入れには穴など置いておらず、あの暗い部屋からこの押入れに落ちてきたのが嘘のようだった。四方にしっかりと板が貼られ、手で押してもビクともしない。来た道を塞がれたような気がして、今にも泣き出しそうになる。
 しかし、ライトで照らすと押入れの天井に四角い枠がはめ込まれていることに気がつく。板を取り囲むように、太い金属製の枠が取り付けられている。これは元からあったものなのか? 疑問だったが、どちらにせよ落ちてきた穴をよじ登り、元いた場所に戻ることができないことがわかって愕然とした。

 リュックから携帯を取り出し、時刻を確認する。圏外マークがついていて、日付と時刻がバグを起こして、チラチラと周期的に変わっている。もはや気持ちの整理はつかなかった。
 再び、雨が降りしきる中華街を彷徨う。自分の身に何が起きているのか、もといた場所はどこに消えたのか、誰も答えを教えてくれない。今は、その状況がたまらなく怖かった。
 中国人がやってきて街を変えてしまったという、あの話は本当なんだろうか。小高い場所に建てられた屋敷からは確かに広大な中華街が見えた。ここは僕が知っている日本ではないのかもしれない。
 電柱の張り紙で今の年が2018年であることがわかった。同じ年代で、おそらくもといた世界と同じ時間なんだろう。昔にタイムスリップしたことがある女性の話を聞いたことがあったが、あれは確か、建物から出たら古い世界になっていたという話だった。そのときの女性の心境は、おそらく今の僕の心境と似ているに違いない。
 ずぶ濡れになって冷えていることも忘れ、しばらく歩き続けた。次第に足取りがおぼつかなくなり、地面の穴につまづいて転んでしまった。水たまりに顔を付け、もうこのまま動かなくなるのかな、と一瞬思った。視界が崩れ、街の灯が滲んで遠くなっていく。通行人は僕を気に留める様子もなく、スタスタと足早に歩いていく。
 ふと顔を上げると、目の前に手が差し出されていることに気がついた。助けようとしてくれている。そう気がついたのは数秒経ってからで、僕は目の前の手を掴んで立ち上がった。
「大丈夫か?」
 手を差し伸べてくれたのはある長髪の男性で、黒いジャケットを羽織り、夜なのにサングラスをかけていた。
「ありがとう…ございます」
「おっと敬語はやめてくれよ。俺はそういうの苦手なんだ」
 彼はそう言って僕に手のひらを見せた。多くの人が素通りをしていく中で僕を機にかけてくれた彼はいったい何者なのか。
「見ない顔だが……このあたりは初めてなのか?」
「ええ…というか、迷い込んできた。ここはどこなの?」
「おおっと! これはレアな。困ってるなら俺が手助けするが」
「え? …いいの?」
「人助けが趣味なもんでね。そんなにズブ濡れじゃ風邪ひくんじゃないか?」
「泊まるところも着替えもない」
「なんと! じゃあ俺の事務所に来るか? 服が余ってるぞ」
 事務所? 彼は事業者かなにかなんだろうか。たくわえた口髭とパーマが当たった髪が強く印象に残る。僕は気がつくと彼について行っていた。路地裏のアーケードの下を通り、ビルの谷間をぬけ、雑然とした裏通りを歩いていく。
「どこから来た? 見ない顔だが」
 彼はゆっくりと歩きながら訊いてきた。一瞬、なんと答えればいいか迷った。まるで知らない未知の領域に足を踏み入れたとき、自分の出身地を言っても理解されない気がした。
「東京の墨田区」
「おおっっ!! タイムスリップでもしてきたのか?」
「え?」
 心臓がバクバクと音を立てる。もしや…そんな…嘘だと言いたかった。でも、彼が次に言う言葉は予測できてしまった。
「23区があった時代なんて随分前だぞ。墨田区…とかいう区もそういやあったなぁ。今はでっかいテーマパークになってるよな、あのへん」
「うそだ…」
「名前は忘れたけど、あそこにでっかい塔があったな。あれは記念に残されたんだっけ? パークの中心に立ってたような」
 彼の言葉のひとつひとつ、全てに理解が追いつかない。脳がパンクしそうになり、思わず頭を抱える。17歳になるまで自分が見てきた世界は全て幻だったのだろうか。17年かけて鮮明な幻を見てきたんだろうか。今はもうそんな気がしてならない。
「スカイツリーだ」
「それそれ!! よく覚えてんな。写真見たのも昔すぎて忘れてたよ」
「僕は半年前に登った。本当だよ!」
「ほほっ、これはいい! 気に入った」
 そう言って彼は僕の背中を叩いた。
 気がつくと、彼の事務所だという雑居ビルに来ていた。彼は玄関の鍵を開け、僕を中に通してくれた。
「まあ居心地は悪いだろうがくつろいでくれ。中古の服もそこにあるしな。シャワーもあるけど水の出は期待するなよ」
 一回のフロアを見渡すと、あちらこちらにソファーが並び、無造作に置かれたいくつものハンガーラックに大量の服がかけられている。カウンターや書類棚もあり、もともと不動産屋か何かだったのか? でもそんなことは今はどうだってよかった。
「今日ここで寝ていいかな?」
「もちろん。ロフトがあるだろ。そこに布団があるから使っていいぞ。元は売春婦御用達の布団だ」
 彼が指差す方向に目を向けると、吹き抜けになったフロアの高い位置にロフトが取り付けられていた。『キッズルーム』の古びた看板が取り付けらている。キッズルームの布団に売春婦? ここが何に使われていた場所なのか、まるで見当がつかない。
 とりあえず僕は彼について知りたかった。なので、とりあえず簡単に質問をしてみた。
「名前はなんていうの?」
「この辺りじゃ『AK』なんて呼ばれてる。まあなんでも好きに呼んでくれ」
「じゃあAK、普段は何をしてるの?」
「この辺にある商業ビルとかの経営をしてる。まあこう見えて『社長』とも呼ばれてるんだけどな」
「へぇ…」
「まあ、めんどくさいやつはだいたい人に任せてるから、こうして暇を見つけて人助けとかをしてる」
 どうやら彼はこの辺りを統治している商業施設の重役らしい。その出で立ちからはとても想像できなかった。
 僕は彼に教えられたシャワールームへ行ってシャワーを浴び、適当に見繕った服を着て、濡れた服を抱えて再び戻ってきた。AKは玄関で配達員からなにかを受け取っていた。カッパを着た配達員の人と、何やら言葉を交わしている。
「こんな雨の中すまんな。嫁さんにもよろしく言っといてくれ」
「ああ。また家に来なよ」
「そうだな。ありがとうな」
 配達員の人が去ると、AKはドアを閉めて「おお、サッパリしたか」と僕の元に戻ってきた。僕はすぐそばのソファーに腰掛けると、彼は机を挟んで反対側のソファーにどっしりと腰を落とした。
「もう11時だ。ちょっと遅いけど夜飯たのんでやったよ」
「ああ、ありがとう」
「若いんだし腹も減るだろ。ほらよ」
 彼はビニール袋から弁当箱を取り出し、僕の前に置いてくれた。記憶が正しければ家を出たのは確か11時だったが、ここでは今が11時になっている。僕の住んでいた次元と時差があるのか、同じ時刻を短時間で2回も経験している。もはや時間の概念すらもわからなくなっていたが、体感では家を出たときから4時間もたっていない。
 僕が弁当を食べている最中、正面に座るAKは腕時計を見て言った。
「俺はそろそろ戻るわ。仕事があるんでな」
「え」
「明日の朝にまた来るから、今日はここで休んでくれ。雨漏りしてるところあるから気ぃつけろよ」
「うん…わかった」
「やれやれ、こんなこともあるもんだな。また明日ゆっくり話しようや。お前に興味湧いてきたよ」
 AKはソファーから立ち上がり、「じゃ」と玄関までスタスタと歩いて行った。僕は食べる手を止め、彼を「待って」と呼び止めた。
「なんだ?」彼は振り返る。
「ありがとう」
 僕は全てを用意してくれたAKに、お礼のつもりで言った。最初は危ない人物かと思っていたが、困っていた僕に食事まであてがってくれた。不安で心が潰れそうになっていたが、彼のおかげて、わずかに救われた気がした。
「構わんよ」とだけ言って、AKは外に出て行った。
 弁当を食べおわり、ロフトの布団に潜り込んで色々なことを考えた。考えられることの全て、自分が置かれた状況についてただひたすらに思考を巡らせた。長くリアルな夢の最中にいると信じたかったが、どう考えてもこれは現実だった。






「おお、来たか」
 車のそばで立っていた兄が私に気がつくと手を振ってきた。昨日の夕方に兄のジョンソンからの電話を折り返すと、あって話したいことがあるとだけ言ってきた。相当珍しいことだったが、待ち合わせ場所を指定して数ヶ月ぶりに会うことになった。
 相変わらずジョンソンは古びたジーンズとスニーカーを履いていた。見た目にこだわらないのはお互い様だが、もう少しいい服を着ていて欲しかった。
「話は聞いたぞ。なかなかに大変そうだ」
 ジョンソンは事情を知っているらしく、先にその話を始めた。
「俺からしたらまた処分されてんのかって感じだけどな。まあ色々あっただろうから、傷には触れないようにするよ」
「兄さん、その話をするために呼んだのか? こっちはもう憔悴しきってるんだよ。そっとしといてくれ」
「すまないなダニエル。まあ大学教授も楽じゃないことはわかる。察するよ」
 ジョンソンはタバコを咥え、火をつけた。火種が赤く燃え、吐き出した煙が風に運ばれていく。「一本くれよ」と言いそうになったが、直前でやめた。
「で? 今日はなんのために呼んだんだよ」
「そう、そのことなんだけどな。父さんのことだ」
「父さん?」
 兄の口からまさかその言葉が出るとは夢に思わなかった。数十年前に行方をくらました父についてだった。
 父は物理学者で、私が小さいときからいつも熱心に何かの研究に没頭していた。自宅の地下室に閉じこもり、常に他人に理解できないような自己流の発明をしていた。そんな父は私が中学生のときに突如姿を消し、当時はニュースで取り上げられるほどの事件になった。それから私たちは何年も行方不明になった父を捜索し続けたが、結局最後まで行方がわからなかった。
 兄は何十年も父について話そうとしなかった。母親同様に心を閉ざしていたんだろう。あのときは誰もがおかしくなっていたが、兄はあのとき以来変わってしまった。でも、今になって何か思うことがあったのか。
「家を掃除してたら、父さんの研究資料が出てきてな」
「本当?」
「ああ。ずいぶん久しぶりに父さんに会った気がしたよ。全部手書きで、俺たちには理解できない研究のメモをしていた。今になってそれが手掛かりになる気がしてな。大学院の教授をやってる友達に見せてみたんだ」
「友達? モーリスのこと?」
「そうだ。それで見せたら、何やらびっくりするようなことが書かれてるらしくて、しばらく預からせて欲しいって言われた。今日はモーリスに大学まで来てほしいって言われてて、これは二人で行くべきだと思ってな」
「なるほど。何かわかったのかな」
「かもな。何かヒントが得られるかも。行ってみるか?」





 
 薄く目を開けると、窓から黄色く透明な日差しが差し込んでいることに気づく。瞬きをして目を擦り、一瞬の間、夢から覚めて自分の部屋に戻ったのではないかと思った。そう信じたかったけど、やはりそこは見知らぬ事務所のキッズルームの上だった。昨日まで見ていた光景は、残念ながら本物だった。
 ドアを開ける音が聞こえる。ロストの下に目を向けると、AKが事務所に入ってきたところだった。
「起きたか? 降りてこいよ」
 僕に手を振って、AKは手に持っていたビニール袋を昨日のテーブルの上に置いた。「ああ…わかった」僕は布団から起き上がり、古い木製の梯子を下った。いまだに自分がいる世界がなんなのか、根本から理解できない。
 昨日と同じく、僕は机を挟んでAKの正面にあるソファに腰掛けた。AKは相変わらず丸い@サングラスを掛け、黒のジャケットを身に纏っている。
「朝メシ持ってきたぞ。食うか?」
「ありがとう。でも…いい。あとで食べるよ」
「そうか」
 AKはそう言うと足を組み、咥えたタバコにライターで火をつけた。
「なあ、本当にどっから来たんだ? タイムマシンでも乗ってきたのか?」タバコを指に挟み、煙を吐きながら訊いてきた。
「なんというか……自分でもよくわからない。でもこことは全く違う場所から来た。僕は東京23区で育ったし、中華街なんて横浜にあるやつ以外行ったことなかった」
「コイツは驚きだ」
 身振り手振りで、なんとか伝わるようにと、ここに来るまでの経緯をAKに話した。チャイナ服を着た売春婦の女の子には狂人扱いをされたが、彼は冷静に話を聞いてくれた。
「これは本当にレアだぞ。今までの人生で、別世界から来たやつになんて会ったことないよ」AKは感心したように手を広げた。僕が聞きたいことは山ほどあったが、最初に聞いておくべきことを思い出し、急いで質問した。
「今は何年なの?」
 AKは眉毛を上げ、しばらく僕の顔を見つめたあと「2018年に決まってるだろ?」と答える。
 ここでもう一つ、自分の中で大きな混乱が生じる。ここは、自分が元いた世界と同じ年代なのだ。そうなると、同じ時間軸の中にもう一つ存在する別の空間ということなのか。タイムスリップをして未来に来たかと思っていたが、それは間違っていた。
 AKは灰皿で火種を消したあと、少し身を乗りだした。
「パラレルワールドって言葉があったな。ずいぶん使い古されて今は聞かなくなったけど、それ系か」
「わからないよ」
「いや、そりゃそうだと思う。最もな話だ」
「なにが?」
「俺がもし別の平行宇宙に飛ばされたとして、そこはまるで違う世界なんだろ? スカイツリーはまだ日本一の高さとか言われてる時代で、それも現役。東京中にわけのわからん宣伝カーがうろついている2018年だ」
「広告カーがないって?」
「バカでかい音で宣伝するのは違法だからな。というか音を出すこと自体。120dB以上の音を街で出したら即逮捕……ってなんか子供に話してるみたいだな」
 彼からすると、そんなこと当たり前すぎて、僕みたいな年齢の人に話すのがバカバカしいんだろう。でも、今の僕は小さい子供同然に無知で世間知らずな17歳なのだ。それが昨日みたいに悪いことを招いてしまう。
 試しに、彼にも僕の財布に入っている1万円札と小銭を見せてみた。彼は露骨に驚きの表情をして、僕の1万円札を手にとった。
「これは驚きだ……超精巧な偽札みたいだ」札を透かし、顔に近づけてまじまじと眺めた。
「本当に使われてるんじゃないかってくらいよくできてるな。いや…本当にそうなのか?」
「信じてくれる?」
「ここまでのものを見せられるとな…なんて言ったら良いのか。ちょっとこれもらって良いか??」
「ダメダメ、ダメだよ。僕のお金だ」
 AKからお金を取り返し、そそくさと財布にしまった。ここでは価値がないかもしれないが、手放すことなんて出来ないに決まってる。
 AKは足を組み直し、膝の上で指を交差させた。僕は財布をポケットの中に入れたあと、再び彼を見つめた。
「まあ、ぶっちゃけて言うとお前が嘘をついてるのか、それとも本当に言ってるのかなんて後からわかったらそれでいい。俺はとりあえず困ってるやつは助けたい、そういうことだ」
「なんか…献身的だね」
「難しい言葉知ってるな。まあいい、急にこの街に来たんじゃワケわからんことばっかりだろ。それに、働かないと食っていけない、だろ?」
 僕は「ああ」とだけ答え、机に視線を落とした。この街で働くことなんて出来るのだろうか。それも、働いたことすらないこの自分に。まず今の自分には、この街で暮らしていくという発想すらなかった。
「今いくつだ?」
「17歳」
「おおっ! ちょうど良い年頃だ。若いやつは体も丈夫だし気に入られる」
「ちょっと待ってよ。学校は? 僕は高校に通ってるんだ」
 僕がそう言った瞬間、AKはサングラスの縁を触り、僕の方に身を乗りだした。高校に通っている、それだけのことだ。
「マジで言ってんのか? 金持ちの子供なんだな…! この辺りじゃ学校に通ってるやつなんかいないよ。ゲットー同然だからな。自力で働いて、生活を立ててる」
「学校は行くものでしょ」
「それは上流階級の発想だなぁ。この辺じゃ憎まれる対象にもなりかねないぞ。ガラの悪い連中で溢れてるからな」
 次々と驚愕するような事実が発覚する。いつかテレビで見た“発展途上国”と呼ばれる国の映像を思い出した。その国に住むもの売りの小学生は誰もが学校や勉強に憧れていて、でもそれが叶わない現実に喘いでいる。そんな光景を思い出した。そして、僕が使っていた学習帳の裏にあるベルマークが頭をよぎった。
「良い世界から来たんだな。大金を払ってくれる親がいて羨ましい限りだ。でもここではそうはいかないぞ」
 AKは立ち上がり、腰に手を当てて部屋を見渡した。そして事務所の入り口に目をむけ、「じゃあ行くぞ」と歩き出した。「どこに行くの?」僕も立ち上がる。
「決まってるだろ。住む場所と、働く場所を探しに行く」
 本当にこの街で暮らしていくことになったこと、一人ぼっちで見知らぬ世界に放り出されたことに、ここでようやく気がついた。不安と恐怖心が一度に押し寄せる。
「荷物持っていけよ」
「ああ…分かった」
 AKと街を歩いているときも、目の前が見ていないも同然だった。自分に訊く。なんでこんなことになった?
 夜とは違って、昼間の街は静まり返っている。中華街の広い通りを抜けると、とてつもなく大きな建造物がいくつか立ちはだかっていた。そのどれもが和風テイストの建物で、巨大な朱色の瓦屋根が何段も重なっている。金閣寺のように金色に輝いているものまであった。
「あれが俺の任されてる商業ビルでな」
 AKと一緒に木製の掛け橋を渡り、しばらく大通りを歩くと、川を超えたところにある城のような建物に近づいてきた。建物の周辺は城下町といった雰囲気で、商店や客引きで溢れかえっていた。
「そういえ名前って聞いてなかったな」
「名前は…江本亮」
「江本亮か。いかにもこの辺りにはいなさそうな名前だ。いいところの子供がもつ名前」
 その感覚がよくわからなかった。AKは何度も僕をいい家の子供だと言うが、それは僕からすると絶対に間違っている。自分をいい家の出だと思って生きてきたことがなかったからだろう。
 足を踏み入れた商業ビルの内部はまるでデパートのようで、吹き抜けのフロアが最上階まで続いており、まさしく圧巻だった。巨大な吹き抜けの空間が天空まで伸びているかのようで、それを囲む通路が何十にもなっている。その一つ一つを多くの人が歩いていた。
 その建物の壮大さに心を奪われていると、「行くぞ」とAKの声が聞こえてくる。ハッとして彼の方を向くと、もうすでにエレベーターの前に立ってボタンを押していた。
 2人で大きなエレベーターに乗って8階まで向かった。その中で、僕はAKに思わず言ってしまった。
「デカいね。とんでもない規模」
 AKはズボンのポッケに手をいれたまま答える。
「いやーそうでもないぞ。ここはまあ、デカさだけでいうと中の下ってところか。真ん中がくり抜かれてるから、思ったより収容人数も少ない。まあ店の数は多いんだけどな」
「…ここの管理を?」
「ああ、ずいぶん長いことやってるな。ここに入ってる店の4割くらいは、まあイケてる感じに言うと俺がプロデュースしてる」
「すごい…」
「でもまあ、みんなは俺になんとなく任せてるだけで、最近は全然店にも呼んでくれない。頼りにされてるかどうかは微妙だ」
「僕が働く店は?」
「それだ。ちょうど空きがあるいい感じの店を見つけたから、適当に押さえといた。俺の紹介だから面接はなし。いいだろ?」
「まあ…」
「同年代が大勢いるから安心だぞ」
 エレベーターは8階で停止する。ゆっくりと分厚い扉が開き、照明が落とされた暗めのフロアへと歩いていく。もしや……と思ったのも束の間、看板や立ち並ぶ店の雰囲気から、そこが遊郭のような場所だと気がついた。そのフロアは和洋式でも中華様式でもなく、いたって普通の都会っぽい空気感がある。
 AKはフロアの角を曲がったところにある店の扉を開けた。僕がためらっていると、彼は僕の方を振り返り「どうした。入るぞ」と手招きする。
 おそるおそる入った店内はピンク色の照明で彩られていた。どう考えても未成年が入ることの許されない店に決まっているが、この世界ではそれが有用しないんだろうか。
 壁一面には、この店で働いている風俗嬢たちの紹介パネルで埋め尽くされていた。どの子も見た目が幼く、僕と同い年くらいだと一目で分かった。手が震え、足がすくむ。
「あれっ! だれかと思ったらAKじゃん!」
 店の奥から露出度の高いドレスを纏った女性が出てきて、カウンターの前にいるAKのそばに来た。あまりのスタイルの良さと顔立ちの美しさに目を奪われ、体が固まる。
「おお、俺だよ。半年ぶり!」
「もっとだよ。本当にこの店の管理人? って言いたくなる」
「責任者でいうと俺だが、オーナーはスティーヴンだろ。今日いるか?」
「いないけど…どうしたの。その子だれ?」
「ああ、そのことなんだけどな。とりあえずこの店で働くことになった。登録表あるか?」
「そんな、いきなり大丈夫? スティーヴンもいないのに、明日来たらマジでびっくりするよ」
「いいからいいから! 問題があったら俺に言ってくれ。あいつも適当なんだしな。サインはしておくわ」
 女性がバックヤードから何やら用紙を持ってくると、AKは素早くカウンターにあったボールペンで記入した。AKが書いている間、女性は僕の方を見てきた。僕がどこの誰か短い間に勘繰っているんだろう。でも次の瞬間には微笑んで「あなたいくつ?」と聞いてきた。
「17歳…です」
「あら、若いんだね。よろしくね」
「うん、よろしく」
 AKは僕のために簡単に彼女を紹介してくれた。アミさんといって、普段からこの店の受付をしているらしい。24歳らしいが、その年齢にしてはものすごく落ち着きのある人だった。ふと、彼女の左手薬指に指輪が光っていることに気がつく。そんなバカな…見間違いじゃないか? もう一度見てみるが、やはりそうだ。
「ほら、ここにサインするんだ」
 AKに指示されたとおり用紙にサインした。最後に名前を書いたのが学校での模試だったことを思い出す。そのときと同じ字体が、たった今まるで別の紙に記されている。僕はどうなってしまうんだろう。ふと、自分の字を見て思う。
「亮くんっていうのね」
 彼女は僕から受け取った用紙をバインダーに挟みながら言った。
「私があなたに仕事教えるね。よろしく」
 彼女は僕に手を差し出す。僕は彼女の手を取り、握手した。紫色のネイルが美しく、しばらく手を握ったまま眺めてしまった。彼女はクスリと笑い、「いいでしょ? 新しいネイルなの」と言った。僕はハッとして手を離した。「ごめんなさい」優しげなその笑い顔に、心が少し和んだ。
「さ、これで今日の夜から働けるな」AKはボールペンのノックを戻し、山積みになった書類のそばに置いた。
「え? 本当に今日から?」
「そうだ。ここは夜から早朝までの勤務だから、今のうちに寝とくんだな」
「寝るってどこで? あの事務所?」
「だから、今日から入れるアパート探しに行くんだ」

 店を出たあとはAKに連れられ、建物の1階まで下っていった。なにやらこの辺りをAKより知り尽くしている老人がいるらしく、彼に聞けば今日から入居できるアパートを教えてくれるらしい。
「長老?」
「そう、この辺じゃそう呼ばれてる。困ったときの相談役ってところかな。地下にいるんだけどな、このエレベーターは地下に行ってくれねぇから、降りたらもう一つ別のエレベーターに乗り換える必要がある」
「地下なの?」
 エレベーターから降りてしばらくフロアを歩くと、古びたエレベーターがトイレの隣に設置されている場所についた。AKが「B1」のボタンを押すと、ゆっくりエレベーターのドアが開いた。ギシギシと古い金属が擦れる音がする。
 ふたりで狭いエレベーターに乗り込み、ゆっくりと時間をかけて下降していく。1分ほど経ち、ようやくエレベーターが止まり、ギシギシと扉が開いた。
「ここだよ、ここ」
 そこは薄暗く湿っぽい空間で、あちらこちらで大きな工業製品が音を立てて稼働していた。蒸気が立ちこめ、機械油の独特の匂いが鼻を刺した。
 AKと部屋の奥まで歩いていくと、巨大な装置の前に設置された高い台の上から「おお、いつぶりかな」と老人の声が聞こえてきた。
 3メートルほどの高さの台の上には腰の曲がった丸めがねの老人が座っていた。朝礼台を少し大きくして柵を取り付けたような台の上で、何かの部品を組みたてていたようだ。
「じいさん久しぶりだね」AKは片方の手をズボンのポッケから出し、長老に手を振った。
「これはまた珍しいな。お連れさんとか?」
「ああ、実は彼に家を紹介して欲しいんだ。今は住むところすらなくてな。仕事は紹介したんだけど」
「ほう。アルファ園から迷い込んできたのかね?」
 長老は長い髭をいじりながら僕の方を見て言った。「アルファ園?」小声でAKに訊ねると、AKは耳打ちで「児童預かり所のことだ」と教えてくれた。
「まあ、そんなところだ、じいさん。なんかいい感じの場所ねぇのか? 今日から泊まれるところ」
「おまえさんのところに止めてやったらいいんじゃないか? あの事務所だってあるしのぉ」
「あの事務所はなぁ……もう取り壊すし、俺の家は家族がいるからダメだ。シェアできる場所でもいいぞ。な、いいよな?」
 AKはズボンのポッケに入れた手で僕をついてきた。
「シェアハウス? それはちょっと…」
「ダメか?」
「プライバシーがない」
「女子とならいいだろ?」
「男女でシェアハウスとかどうかしてる」
「いや、新鮮な体験だしいいと思うけどな。最近の若いやつらでもよくあるって聞いたぞ。なぁ?」
 AKが長老に問いかけると、長老は「ああ」と頷く。「珍しい話じゃないな」「だよな! 大概

関係になるらしいが」
 人の話だからって勝手に決めようとしているが、僕からしたら知らない人といきなり同じ部屋で暮らし始めるなんてごめんだった。
 あの事務所を改装して暮らせないものかと考えていたが、確かにところどころ雨漏りがしていたし、取り壊すならしようがない。
「『サリィ』なんてどうかな?」長老が言った。
「『サリィ』? これはまた随分古いアパートだ」
「あそこなら、確かまだ空いていた。そこに住んだらどうだ?」
「それアリだな。ここからも近いしな」
 なにやらよくわからなかったが、「そこにしよう」とAKが言うので、なんとなく了承してしまった。AKはそこからアパートの管理人に電話をかけ、数十分かけて交渉してくれた。
「よし。なんとか決まった」
 あっという間にことは決まり、僕らは長老のいるフロアを後にした。一旦商業ビルを出て、アパートまでは車で向かうことにした。
 AKが運転する車に乗り、繁華街を抜けて裏通りを走る。目に飛び込んでくる景色すべてが幻のようだった。
「管理人の名前が『サリィ』って言うんだけどな。今日はちょっと留守らしいけど、管理人室には旦那さんがいるらしい。203号室に入っていいってさ」
「そんな簡単に決まるものなの?」
「まあ俺の交渉術というか、技だよ」
 AKはハンドルを切りながら自慢げにそう言った。
 アパートには10分もしないうちに到着した。住宅街の中にひっそりと佇む2階立てのアパートで、唯一空いていた部屋が203らしい。外観はどこにでもあるような様式の建物で、変わっていることといえば2階に続く螺旋階段がピンク色に塗られていることくらいだ。
「意外と普通のアパートだね」
「どんなのを期待してた? これくらいが一番いい」
 僕はAKと共に管理人室のドアを叩いた。中から出てきたのは物静かな老人で、AKが要件を言い終わらないうちに鍵と差し出してきた。僕は色々聞きたいことがあったが、老人は「また何かあったら」と小さい声で言い、すぐさまドアを閉めてしまった。
「こういう人だ」
 AKはここの人ともなじみがあるらしく、すっかり慣れているようだった。僕に鍵を手渡し、「じゃあ今日はこの辺で」と言った。
「ちょっと待ってよ! もう帰るの?」
「俺は他にも色々忙しくてね。部屋には家具が備え付けられてるからすぐ住める。ちなみに夜飯はあの店で出してくれるらしいから食材買わなくていいぞ」
 淡々と情報だけを述べ、車へと歩き出すAK。ここでどこかへ行ってしまうとは思っていなかったため、正直驚いた。
「もうビルへの行き方はわかるな。夜の10時までにあの店に行けばいいんだ。まだ12時だからたっぷり時間はある」
「それまで寝ておけってこと?」
「それでもいいし、眠れなかったらテレビでも見てりゃいいんじゃね。いちおう番号は渡しておくから、困ったら公衆電話からでもかけてくれや」
 AKは僕に電話番号を書いた紙を手渡し、車に乗って本当にどこかへ行ってしまった。
 ひとりピンク色の螺旋階段を登り、2階の『203』の札がある部屋の鍵を開けた。決して広くはない間取りだったが、風呂にベッド、冷暖房まで完備されていて文句のつけようはなかった。ここが新たな僕の家になるのだ。
 リュックを床に放り投げ、そのままベッドに飛び込んだ。仰向けに寝転がって目を閉じると、いつかの屋敷の天井に吊るされたシャンデリアが浮かんできた。あてもなく飛び込んだあの屋敷から、この途方もなく謎めいた旅路が始まっていた。いまだに長い夢の最中にいるのか、こんな夢なら今すぐにでも醒めて欲しかった。
 それからどれくらい経ったのか、目を開けたときには外は真っ暗になっていた。慌てて部屋の時計を見ると、針は9時40分を指していた。すぐに飛び起き、リュックを持ってアパートを飛び出した。
 夜の街は霧雨が降っていて、ひんやりと涼しかった。水たまりを踏みながら、タクシーで来た道を思い出し、早足にあの商業ビルへ向かった。
 巨大な朱塗りの門をぬけ、商業ビルのエントランスに入る。夜はさすがの賑わいを見せており、僕は人混みを抜けてなんとかエレベーター付近まで向かった。途中、エントランスの中心にある噴水に登り、水着姿で店の宣伝をしている女性に目移りしそうになった。彼女の周りには人が集まっており、コインや花が投げられていた。
 エレベーターで8階に到着して扉が開いた瞬間、廊下を歩く極彩色のドレスを着た女性が多く目に飛び込んできた。僕はすれ違うたび、ほぼ全員から目を向けられる。見慣れない顔だからか、それとも僕のような年齢の男がここにいるのがおかしいのだろうか。
 AKに紹介された店に辿り着き、入り口のドアを開ける。ガラスのドアに書かれている筆記体の文字が店名なんだろうが、僕は一歳読めない。
「あら、来たわね。いらっしゃい」
 カウンターにいたアミさんが僕を迎えてくれた。AKがいなくなり、一対一になると、途端に緊張してきた。
「もう店は開いてるの?」カウンターに寄りかかり、僕は訊いてみる。
「あと5分くらいで開くよ。亮くんだっけ? あなたはここで受付をしてもらうね」
「いつも君が受付を?」
「いや、普段は圭二っていう超不真面目な子が受付してるんだけどね。なんか最近店サボってるからさ、ちょうどあなたが来てくれて助かった」
 彼女は僕をカウンターの中まで招き入れ、仕事の手順を教えてくれた。料金を受け取ったあと、指名がされた女の子をボタンで待機室まで呼び出し、準備ができるとその部屋までお客を案内する簡単な仕事だった。以前まで2人の男性従業員がいたらしいが、どちらも何かと理由をつけて店を休んでいると聞いた。
「オーナーはいる?」
「この店のオーナーはスティーヴンっていう人なんだけどね、彼も仕事が忙しくて3日に一度くらいしか顔出さないのよ」
「外国人なんだ」
「そう。スティーヴン・ウォンっていって、日系アメリカ人。中国語ができて、日本語も英語も話せるってすごいよね」
 これも一つ驚きだった。勝手にアメリカ人だと思っていたが、やはりこの辺りを統治しているという中国人のひとりだった。道で出会ったあの女の子が言っていた通り、この街は完全に中国圏に侵食されたんだろう。
「そうだ、服を選ばないとね」
「服?」
「働くときに着る服。私についてきて」
 カウンターの脇にあるカーテンの向こうに颯爽と歩いていく。僕は慌てて彼女の後をついて行った。カーテンの向こうには長い廊下があり、扉がいくつも並んでいた。それはまるでホテルようで、どうやら従業員はこの店で寝泊まりしているらしい。各部屋の扉にはには名前の書かれたプレートが掛けられていて、どれもカラフルにデコレーションされている。
 彼女と一緒に廊下を抜けた先に、広いメイクルームのような部屋があった。カウンターと電球付きの鏡に囲まれ、派手なメイクをした女性達で賑わっていた。
「アミ、その子誰ぇ?」
 歩きながら、声がした方を振り返ってみる。気がつくとその場にいた全員に視線を向けられていた。
「今日から入る子だよ」
 彼女は立ち止まり、僕を紹介してくれた。いくつもの女性の目が自分に向けられ、恥ずかしさのあまりどこかに隠れたくなった。ただでさえ女性と関わってこなかった人生なのに、今日から女性だらけのこの場所で日々を過ごすことになるなんて、まるで考えられない。
「仲良くしてあげてね」
「あいつらの代わりね」
 誰かがそう言うと、あたりに笑いが起きる。僕はどんな顔をしたらいいのだろう。
「あなたも休憩時間はここでくつろいでね。みんながいるけどね」
 そう言って僕は白いYシャツと黒のズボン、そして蝶ネクタイを渡される。ここではホテルのボーイのような格好で受付をするんだろうか。今までこんな店に来たこともないし、そもそも来たいと思ったことなんて、今まで生きてきて一度もない。

 店が開いてから早速接客を任され、よくわからないまま次々と来るお客を捌いていった。こんな店に来るのはどんな人なんだろうと考えていたが、意外にも若い男性が多かった。指名された番号のボタンを押し、先に支払いをしてもらう。その際、お客から受け取った一万円札に見たこともない人物が描かれており、思わず食い入るように見てしまった。十円や五円の硬貨も同様で、僕が今まで使っていたものとはデザインが似ても似つかなかった。自分は本当に別の世界にやってきたんだな、とここでもう一度確信する。
 深夜の3時で一旦休憩となり、僕が休んでいる30分間は他の人が受付をしてくれた。ずっと立ちっぱなしだったので足が痛くなり始めていた。できれば今すぐアパートに戻って眠りたかったが、30分後にまた受付をしないといけなかった。
 風俗嬢たちがいる休憩室は更衣室でもあるようで、僕に構うことなく女の子たちはあちこちで着替えをしている。流石にあの部屋でくつろぐのはマズいとアミさんに言ったが、「大丈夫だって」とだけ言われ、この部屋に放り込まれた。
 知らない人たちの中でどう振る舞えばいいか検討もつかないが、とりあえず棚にあった雑誌を読んで気を紛らわせることにした。
 部屋では指名待ち、もしくは休憩中の女の子たちが口々に話をしている。一人一人の声が大きいため、そっちに耳を傾けてしまい、ファッション雑誌の文字が一つも頭に入ってこない。
「どう考えても天職に決まってる。なんの努力もなく可愛い子とヤれて、その上お金もらえるんだから徳しかない。男にとってはね」
「でもいろんな人に裸見られるんだよ。変な演技もしないといけないし、ヤってるところをその場で見られるし」
「そんなの慣れてるでしょ? ああいう仕事してたら」
「タダでSEXできるだけでも最高なのにね。めちゃくちゃいい仕事よね」
 なんの話をしているかわからないが、なにやら卑猥なワードが多く飛び交っている。AKが言うように、ここで働いている人の多くが僕と同年代らしいが、僕とは経験している内容が違いすぎるあまり、どうしても同年代には思えない。
 雑誌を読みながらも、女の子たちがチラチラと僕の様子をうかがっていることに気がついていた。そりゃそうだろうと思う。今日からここで働き始めて、同じ空間を共にしている僕が気にならないわけがない。
 雑誌で顔を隠しているつもりだったが、やはり話しかけられてしまった。
「ねえ、あなたはどう思うの?」
「え?」雑誌を下にさげ、顔を見せる。僕に話しかけてきたのは中央テーブルのパイプ椅子に足を組んで座っている金髪の女の子だった。僕の方に身を乗り出し、目をまっすぐ見つめてくる。
「男の意見も聞いてみたいな」
「なんの話?」
「ポルノ男優の話。天職だって思わない?」
「さあ…わからない」
「タダでいろんな美女とし放題なんだよ?」
「興味ない」
「本当かなぁ?」
 テーブル席に座っていた4〜5人の女の子たちが一斉に僕を見つめている。みんなの興味の的なのはわかるが、急にこんな話を振られるとは思わなかった。
 金髪の子はニヤニヤと笑みを浮かべながら、さらに僕に質問をしてきた。頬杖をつき、頬に当てた指を動かしている。
「名前なんていうの? 何歳?」
「名前は…江本亮。17歳」
「へぇ、私たちと似たような歳だね。私18歳だけど、この子らはあなたと同じ歳だよ」
 周りにいる彼女たちに目を向ける。みんな僕と目があうと「陽菜だよ」「私、玲香」「佐恵」「由里よ」と短く自己紹介してくれた。
「そして私が唯子」
 僕と一番近い席に座っていた金髪の子が言った。何かを見透かしているような目つきで、今にも噛みつかれるのではないかと少し怖くなった。その歳でなぜここまで落ち着きのある風貌なんだろうと思う。
「17歳なの? なんかちっちゃくない?」誰かがそう言ってきた。「私らと大して背変わらないよ」
 僕をもっと年下だと思っていたんだろうか。ここでの彼女らと同年代の男は、大抵が僕より背が高いということなのだろう。
「うるさいなぁ」小さくそう口走ってしまう。しかし背の話はすぐに終わってしまい、彼女らは僕に興味を示したのか、次々と質問を投げかけてくる。
「どこから来たの?」
「うーん……なんというか、別の遠い場所」
「変な言い方。なんかAKみたい」
「AK?」
「彼、よくそういうぼかした喋り方するでしょ。教えてくれそうで教えてくれない感じ?」
「そうかな」
 組んだ足を揺らしながらその話を聞いていた唯子という子が突如痺れを切らしたのか、「そんな事どうだっていいの!!」と会話を中断させた。
「AKの話なんかどうでもいい。あんな荒稼ぎオヤジ。私が知りたいのは、ここで働き始めたあんたについて。亮って言ったよね? この辺りで知らない顔がいるって話題になってた。何者なの?」
 唯子は手に持った椅子を僕のすぐそばに置き、勢いよく腰掛けた。僕に顔を近づけ、容赦なく質問をぶつけてくる。
「ここに来たのは何か狙いがあるんじゃ? AKと共謀して変な企みをしてるとか」
「そんな事ない。僕はただの高校生だし、説明が難しいけど…ひとりで暮らすことになったからお金を稼ぐことになった」
「高校生?? マジで言ってんの? お金持ち出身がここになんの用なのよ」
「お金持ちでもなんでもない。それに、ここはAKから紹介された。いい感じの店だって」
「ふぅーん。まあ、なんか色々事情はありそうだね。でも学校に行くだけの財力があるってことは、どうせ私らよりいいとこの子でしょ?」
 AKが言うように、学校へ行くだけの財力はここでは相当のものなんだろう。明治時代の初期あたりまではなんとなくそのイメージがあったが、本当にここが2018年の日本なのか。普段からなに食わぬ顔で社会に溶け込んでいるつもりだった自分が、ここではまるで異物のように思えた。ここはどこなんだ? もう一度、自分にそう問いかけた。
「お金持ちの家には、子供の性欲を発散させてくれるベビーシッターがいるって聞いた。育ち盛りで

男の子の性欲をね」
 唯子は前のめりになってそんなことを言った。周りはそれに反応して「マジで?」「そんなお姉さんとヤったことある?」と僕の周りに集まってきた。なぜそんな本当か嘘かもわからない話題に興味を示すのか、理解できない。
「ないに決まってる」
「じゃあ、そもそもしたことはあるの? その……SEXを」
「…どうでもいいだろ」
「はいかいいえで答えるの!! ちゃんと言ってよ、ホラ」
 なんて最低な質問なんだろうと、思わず頭を抱えたくなる。いくつもの目に見つめられ、今はどうはぐらかしても逃げ場がないように思えた。ここは正直に答えないと、次はどんな目に遭うかわからない。だから、正直に言うことに決めた。
「まあ…正直に言って、ない。かも」
「ププッッ…ホントに??」
 彼女らは次の瞬間、同時に勢いよく吹き出し、大笑いをした。机や椅子を叩き、高い声をあげて無邪気に笑っている。正直に答えただけなのになんで笑われないといけないのか、正直言って屈辱だった。
「それは流石にウソよね…! こんなとこで働いてて、それもその歳で」
「ウソなんか言わない」
「またまたぁ。やめてよね」
 唯子とその周辺は僕を見てずっと笑っていた。だがしばらくして僕は唯子と目を合わせると、彼女は一気に口角が下がり、真剣な表情で訊いてきた。
「え、ホントにないの?」
「だからそう言ってる」
「この子マジじゃん…!! え、なにカワイイんだけど! 未経験の子だった」
 唯子のその言葉に反応して、周りは一気に盛り上がった。なにもそんなに珍しいことでもないように思うが、この反応から察するに、僕は稀有な存在ということだろう。
「もう今夜中に、この店で誰か選んでやっちゃった方がいいよ。デビューは早い方がいいに決まってるから」唯子は僕の左肩を触ってきた。一体なにを考えているのか、今日のうちだなんてメチャクチャな提案だ。
「お言葉だけど、やめとく」
「なによ“やめとく“って。ここじゃ選び放題なんだよ。あんたには最高でしょうよ」
「そんないきなり言われても……心の準備もできてないし」
「心の準備なんていらないよ。私なんか昨日の夜は3人とヤった。簡単なもんだから、私が奥の部屋で教えてあげよっか? ん?」
 唯子の後ろでニヤニヤ笑っている顔が目に映る。彼女が親指で廊下の奥の部屋を指したときの表情が、意地悪で挑発的に見えた。「嬉しいでしょ?」
「バカにしてる」
「バカになんかしてない。あれ、気にさわっちゃった?」
 唯子は僕を憐れむような目つきで見てきたので、腹が立った僕は言い返さずにはいられなかった。なぜ初対面でここまで馴れ馴れしくされないといけないのか。
「いいから放っといてくれ! 会ったばっかりなのに何がわかるんだよ」
「あらあら、怒っちゃってどうしたの? 私がなんかご機嫌損ねること言ったかしか?」
「なんでもいいけど、上から目線は嫌いだ」
「生意気言っちゃって」
 その日は休憩室で口喧嘩に発展し、苛立ちとモヤモヤを抱えたまま帰宅することとなった。僕はなぜこの場所で生きていくことになったのだろう。まるで夜の世界で働く全員があんな風に意地悪で嫌なことを言ってくる人かのように思えた。しかし生活するためにはお金を稼ぐしかないので、我慢して働くことを決めた。
 アパートに帰ってからはすぐにベッドに倒れ込み、布団をかぶって目を閉じた。今まで人に言われて腹が立ったこと、悔しかったこと、うんざりしたことなど、幾つもの記憶が蘇ってきた。自分が置かれた環境に耐えられなくなって逃げ出し、気がつくと見知らぬ世界に放り込まれていた。誰も助けてくれない、誰もそばにいてくれない。『自分を守るのは自分の役目なんだぞ』と、いつかどこかで言われた激励の言葉が、今は何よりも自分を苦しめていた。






「ここだ、ここ」
 ミシシッピから3時間ほど車を走らせ、私と兄はさびれた田舎町のとある研究施設に辿り着いていた。「モーリス研究所」と札が掲げられたその施設は金網で囲まれており、ずいぶんと広い敷地内に立っていた。
 兄は車の窓から顔を出し、門の上に取り付けられている防犯カメラに手を振った。数秒後、カメラの横にあるスピーカーから「入っていいぞー」と声が聞こえてきた。兄がカメラに「久しぶりだな」と声をかけると門が開き、私と兄は車で研究施設へと入っていった。
 ハンドルを切りながら、兄は「俺のサークル仲間が今やこんな立派な施設の所長だぞ。出世したもんだ」と感心したように敷地内を見渡した。
「兄さんはモーリスの話をよくしてたよね。いかれた研究をしてる友達がいるから合わせたいって」
「そうだ。あのとき合わせてやりたかったな。今は当時より毒が抜けてる」
 そんな話をしながら、車は施設の入り口に到着した。車を降り、兄と共に正面玄関を抜ける。大きなフロアに差し掛かると、誰かが駆け寄ってくるのがわかった。兄が「おーい」と手を振り、彼は振り返してくる。きっと彼がモーリスなんだろう。
「久しぶりだなモーリス博士」兄は手を差し出す。彼は嬉しそうに兄の手を取り、「会いたかったよ」と笑顔を浮かべる。
「あ、弟のダニエルだ」
 兄は私の肩を軽く叩く。「よろしく、ダニエル。話はよく聞いてたよ」モーリスと僕は握手をした。彼は兄の話から想像していたより、ずっとフランクで話しやすい人物に思えた。
 私は彼に訊いてみる。
「父の研究資料を見てくれたって?」
「そうなんだ。それでちょっと教えたいことがある」
 僕と兄は彼の研究室に案内された。広い整備された研究室で、4人の彼の研究仲間が僕らを待っていてくれた。部屋全体に低周波の機械音が響き渡っており、おちらこちらに置かれた巨大な装置が目に留まった。
「これなんだけどな」
「ああ、最初に見つけた設計図だ」
 モーリスが机の上に広げたのは、長らく地下室の扉の影に置いてあった設計図だった。私も兄もその正体がわかるはずもなく、父の死後10年も経てば、もはや分かろうともしていなかった。父は研究仲間も特にいなかったので、一人地下室に篭り、ひたすらに何かの研究を重ねていた。その正体がわかるかもしれない、と思った。
「なにか分かるかな?」兄が訊く。モーリスは箱型の装置の上層部を指で指し示した。
「最初は全く分からなかったけど、おそらくこれがヒントなんだ。ここについている箱みたいなもの、分かるか」
「ああ。確かに何かある」
「これは転送装置の一部でね。初代のタイムマシンとかにも取り付けられてた、時空の転送スイッチの役割をするんだ」
「タイムマシン? そんなものもう開発されてたの?」
 私は思わず訊いてしまう。彼の口から『タイムマシン』などというワードを聞くことになるとは、数分前の自分はまるで想像できなかった。
「いや、そのタイムマシンは結局作動しなかったけど、最も完成系に近い発明と言われてる。君らのお父さんが作っていたものその類じゃないか?」
「信じられない…」
 私と兄は目を見開いて驚き、目を見合わせた。私たちの父が日夜地下室で作っていたものは、どうやら並大抵の研究ではないらしい。
 モーリスは机に並べた数枚の設計図を指しながら僕らに言った。
「僕が受け取ったのは紙の図面だけだけど、もしかしたら家に装置みたいなものがあるんじゃないかな。これが組み込まれている何かがあると思うんだ。ぜひ見てみたいんだが」
「そういえば…」兄は腕組みをした。「長年部屋の隅に眠っている鉄枠みたいなものがあるな」
「それかもしれない。良かったら見せて欲しい」
「よし。うちまで来てくれたらいつでも見せるよ」
 モーリスはすぐに荷造りを始め、僕らと一緒に出発する用意を済ませた。何人かの研究仲間を連れて、ここから随分と離れた家に来るという。未知のものに触れたときの高揚が、彼の目から強く伝わってきた。






「初日にケンカ?」
「そう。あの人らと合わないのかなって思った」
「本当かよ。選りすぐりの店だと思ったんだけどな」
 数日が経ち、その日は朝からAKに会いに行っていた。というものの、早朝に彼からアパートの管理人に電話があったらしく、大きいドアのノック音で起こされた。
「AKがおまえさんを朝食に誘いたいって言ってるよ」アパートの管理人であるお婆さんのサリィが僕に伝言をしに来たのだ。アパートの名前でもあるそのお婆さんは終始不機嫌そうで、僕のことも決して良く思ってないに違いなかった。
 僕は彼が務める商業センターの管理事務所に呼び出され、そこの屋上にあるカフェでAKと朝食をとることになった。
 パラソル付きの丸いテーブルを挟み、朝の涼しげな風に吹かれながらモーニングセットを食べた。AKはパンにジャムを塗りながら「なるほどな」と相槌を打った。
「ま、あそこにいる連中なんてガラの悪い奴らばっかりだからな。弱いものいじめが好きなんだよ。いちいち気にすることもない」
「そうかな。アミさんはいい人に思える」
「アミはあの中でもまだまともかもな。下町出身には変わりないけど、稼ぎ頭の旦那がいるし」
「やっぱり」
 彼女の指に嵌められていた指輪は決して偽物ではなかった。少なくとも、あの店ができた頃からアミさんを知っているAKが言うから間違いないだろう。結婚するってどういうことなんだろう、とふと考えてみた。
「それにしても携帯電話がないんだろ? アパートに連絡するっきゃなかったよ。あの頑固ばあさん、ああいうの一番嫌いだろ」
 AKはパンを食べながら、モゴモゴと話した。
「サリィだっけ? あの人昔からああなの?」
「まあ、あの人はあんな感じだ。結構いろんなアパート経営してるんだけどな」
「僕あの人から嫌われてる」
 ここ数日であのお婆さんから何回も『音楽がうるさい』や『ゴミをちゃんと出せ』などのクレームを入れられていた。僕だけがあのアパートの住民で一番好かれてないと思っていた。新人に自然と拒否反応を示しているのだろうか、と。
「『若い男嫌い』って言ってたもんな。露骨だろ?」
 AKは自分の言ってることがおかしくなったのか、途中で笑い始めた。僕からすると笑いごとではない。
「あのアパートで若いのは僕だけだ。なんとなくだけど、他は30歳以降って感じ」
「そうかもな。なんかすまんな。変なアパート紹介しちまって」
「まあ…いいよ別に」
「そうだ、連絡手段だ。携帯持ってないのか?」
「携帯は持ってる」僕はカバンの中から充電の切れかけたスマートフォンを取り出し、彼に見せた。「ほほう」AKはまたもや驚いたようにスマホを持ち上げた。
「こりゃみたこともねぇな。四角い画面しかないし、どうやって使うんだ? おっと」
 AKの指が当たってスマホの画面が明るくなる。AKは小さく「おお〜」と呟いて、画面を指で数回触れた。
「近未来っぽいな。こんなのどこで売ってた? 相当すごい」
「中古で5000円で買ったよ」
「マジか? どこの国の話だか…パソコンのちっちゃい版みたいなモンか」
 パソコンはあるんだ、と初めて知る。ここはいろんな時代が一挙に入り乱れているとしか思えない。
 そのあと連絡用にとAKから渡された携帯電話は、僕の知る世界では丁度90年代で使われていたものにそっくりだった。縦長で妙に厚さがあり、ボタンが大量に並んでいる。
「まあ、困ったことがあれがこれで連絡するといい」

 その日も夜までずっと暇だったため、河川敷に座って、携帯電話をひたすら触っていた。見たこともない電子機器をなんとか使いこなそうと、色々なページを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していた。昔持っていたガラケーと少し形式が似ていたため、なんとかAKに発信する手順やメールを送る手順に辿り着いた。
 こういった携帯電話が使われていた頃は、もちろん写真なんてものはもっと遠い存在だったんだろう。ここにいる人はなぜかスマートフォンを見たこともないということは、おそらく僕が来た世界の方が20年かそれ以上時間が進んでいることになるが、ここは2018年であることは間違いないらしい。
 考えれば考えるほどこんがらがってくる。自分はなぜここに来たのか、そこに意味はあるのか。その日はAKの事務所でもらった地図を片手に、自分の家があるはずの地域を捜索してみることにした。パラレルワールドだとしたら、もしろ僕の住んでいた世界と似ているはずだ。
 しかし、じっくりと地図を見てわかったことがあった。日本列島の形や都道府県の形は一緒だが、東京の中の地形や区切りがまるで別物だった。そういえばAKが「23区はとうの昔になくなった」と言っていたことを思い出した。地図にはよくことすらできない中国系の地名が散らばっていた。この世界には

の自分の家があって、そこに

の自分がいると考えるなら、それは間違いということだ。ここは僕がよく知っている日本ではないのだから。
 たまたま僕が迷い込んだ街は遊郭が立ち並び、裏路地は違法風俗店の客引きや怪しい取引が蔓延っている。少なくともAKはそう教えてくれた。肥大化した富のもとで栄えた腐った街、というようなことを言っていた。
 河川敷の向こうに聳え立つ、赤瓦で巨大な館の連立。あれこそが富の象徴なんだろうか。貧困層から抜け出すため、この街に住む多くの人が、あの巨大な館のもとに集まるんだろう。
 そんなことを考えながら河川敷を歩き、川を繋ぐ大きな橋を渡った。巨大な橋の中央のスペースはテラス席がいくつか立ち並んでおり、若い女性が集まって食事をとっていた。
 僕は橋の柵に寄りかかり、再び携帯電話を取り出した。もしものときにいつでも連絡できるよう、今から使い方をマスターしておきたかった。
 ふと、連絡先にAK以外のもう一人が追加されていることに気がつく。何やらその人物から数分前に連絡が来たようで、通知マークが付けられている。開いて見てみると、発信者の欄に『すてぃーぶんうぉん45歳』と書かれていた。
 スティーヴン・ウォン? 一瞬だれかわからなかったが、すぐに僕が働く店の店主だと思い出した。彼から来た連絡文がこれだった。

《エモトリョウ殿 あのとき店にいなくてすみません。心ばかりですが、臨時ボーナス、用意いたしました。今日の夜には自宅に届いていることと思います。今日は休んでいいので、ボーナスを楽しんでください by Steven Wong》

 なんの話か全く分からなかったが、何やら丁寧な人だと文面でわかった。まだ一回しか働いていないのにボーナスなんて申し訳なかったが、その内容がよく分からない。アパートに届けてくれるということは現金かギフトカードか何かだろうか。あるいは豪華な料理かもしれない。
 どちらにせよ、今日は店に行かなくていいらしい。少し気持ちが軽くなり、夜まで街の図書館で過ごそうと思った。
 町はずれの私立図書館はあるで要塞のように荘厳な雰囲気を醸し出していた。この建物だけが西洋建築で、中に入るとまるで別世界だ。体育館の何倍も広い吹き抜けの空間があり、フロアが4階まである。迷路のように入り組んだ本棚、天井からぶら下がるいくつものシャンデリア、巨大な鉄の螺旋階段。一度はこういう場所に来てみたかった。
 僕はそこで数時間かけて何冊かの本を見つけ出した。一つはパラレルワールドにまつわる本、もう一つは時間移動に関する本、他は大次元宇宙論や超弦理論などの専門書だった。とても理解できるとは思っていなかったが、僕がここにやってきた理由を解明できるかもしれない、と淡い期待があった。
 カウンターで手続きを終え、リュックに本を入れて帰路についた。すでに薄暗くなった通りを抜け、中華街を抜けてアパートに帰ってきた。
 ふと、僕の部屋に灯りがついていることに気がついた。見間違いかと思ったが、どうやら消し忘れていたらしい。消したはずなのにな…と、心の中で呟き、2階に行って僕の部屋の前に来た。すると、中から何やら音楽が聞こえてくる。一瞬鳥肌が立ち、もう一度部屋番号を確認する。まちがいなくそこは自分の住んでいる部屋だった。
 中に誰かがいる?
 慎重に鍵穴にカギを差し込むと空回りをした。ドアが開いているらしい。慎重にドアノブを捻り、中に入った。玄関のドアを閉めると、「おっ」と小さく声が聞こえた。寝室からだ。リュックを投げ出し、早足で寝室に行った。
 僕のベッドに黒い下着姿の女の子があぐらをかいて座っていた。目が合うと、心臓が宙に持ち上がったような気がした。「誰…??」
「聞いてないの?」
 彼女は片方の眉毛を顰め、上目遣いに視線を送ってきた。黒いボブヘアーで、少し釣り上がった大きな目をしていた。
 彼女はベッドに置いて読んでいた雑誌を閉じてベッド脇に投げ、掛け布団を腰まで被った。まっすぐに目を合わせてくる。
「あなたのこと待ってたよ。ここ良いアパートだね。一人で住んでるんだ」
「ちょっと…待ってください」
「敬語やめて。どうせ私と歳近いんでしょ? 普通に話してよ」
「ああ…」
 彼女のその視線と喋り方に圧倒されそうになるが、なんとか冷静になろうとした。昨日まで僕が眠っていたベッドには見知らぬ女の子が座っていて、枕元に置いたラジカセで音楽を流している。聞く前に彼女がどんな人なのかは容易の想像できたが、まさか家に入っているとは思わなかった。
「このアパートのこの部屋に来るよう頼まれたの。いつもより給料が良かったからすぐに来ちゃった。いっぱいサービスしてあげる」
「騙された…」
「なにが?」首を傾げ、身を乗り出してきた。
「僕が働いてる店の店長が初日ボーナスを贈るって言ってたから、ついお金か何かかと思った。君なの?」
「私じゃダメかなぁ」
「いや…その…そういうわけじゃないよ」
 僕があたふたしているのを見て彼女はクスクス笑った。その笑顔が可愛らしかったが、見惚れているほど心に余裕がなかった。
「ポストに届けてあったあなたの夜食、私が食べちゃった。ごめんさない」
 彼女はサイドテーブルに置いてある空になったプラスチック製どんぶりを指さして言った。僕はどんぶりについていた付箋に気がつき、剥がしてみた。『S.W for Ryo』とだけ書かれていた。
「やっぱりスティーヴンだ。ご飯まで…」
「食べちゃって悪かった? ごめんね、お腹減ってたから」
「いや、いいんだよ」
「じゃあ、もう早いこと終わらせよう。おいで」彼女は布団を払いのけ、両腕を僕の方へ広げた。
「やっぱりちょっと待ってくれ! そもそもどうやって家に入ったんだ?」
「外で待つのがだるかったから、ピンで鍵開けて入った。スパイみたいでしょ?」
 得意げにそう話す彼女に呆れた。泥棒に疑われることをなんとも思ってないようだ。本当に今からこの子と寝ることになるのか。
「やっぱり帰って欲しい」
「はぁ? なんでよ」
「お金は渡すから」
「ふざけないで。お金ならもう貰ってるし、このまま帰ったら私がボスに叱られる」
 どうやらなにもしないままでは帰ってくれなさそうだった。だが、急にそんなスイッチが入るはずもなく、ひたすらに緊張だけが湧き上がる。
「服脱いで」
「本当にやるんだ…」
「当然でしょ」
 僕はおそるおそるベッドに登り、彼女の前にあぐらをかいた。彼女は僕のTシャツを脱がせようとしてくる。「自分でやるよ」そう言った自分の声が驚くほど震えていた。
「あっそう」
 彼女は小さく呟き、背中に手を回してブラジャーを外した。思わず目を逸らしそうになるが、彼女は両腕で僕の頭を掴んでキスしてきた。

 彼女が僕の上に覆い被さって動き続ける間、僕は声を発することもできず、ただ天井だけを眺めていた。なぜ出会ったばかりの人とこんな親密になっているのか。相手がどんな人かも分からないのに、なぜこんなことができるのか。今の自分に訊いてみたかった。
 事が終わり、彼女は僕の隣に寝転んで布団を被った。そして横にいる僕に再びキスをした。舌を使った、深く生々しいキスだった。
「…どうだった?」耳元で囁くように訊いてくる。
「…よかった」
「ホント?」
 嬉しそうにニコッと歯を見せて笑った。
 しばらくして彼女は布団から出て、全裸のままスタスタと歩いて冷蔵庫へと向かった。
「冷やしてたの」
 冷蔵庫からビールの缶を取り出し、その場で開けて飲んだ。せめて何か着ればいいのにと思ったが、次第に彼女の美しい後ろ姿を眺めていたくなった。
 彼女の体にはところどころタトゥーが入っていた。肩や背中、太ももや腕にも、蝶や花、虫などの部分タトゥーが施されている。実際に見てみるのは新鮮だったので、その柄をよく観察してみた。
「あなたも飲む? 美味しいよ」
 彼女はもう一つビール缶を持ってきていたようで、僕のベッドに投げてきた。見たこともない銘柄のビールだった。僕のために持って来てくれたみたいだ。
「未成年だから飲めない」
「そういうこと気にするタイプ? 私も未成年だけど毎日飲んでる。友達もみんなそう」
「いくつなの?」
「17歳。あなたは?」
「一緒だよ」
「へぇ! 本当に!?」
 そんなに驚くことないのにと思ったが、彼女には僕がもう少し幼く見えたらしい。まさか同い年の相手をしていたとは、といった感じで笑っていた。
「お酒飲んでみなよ。平気だよ」彼女は栓抜きを僕のベッドに投げた。
「そうかな? じゃあ…」
 僕がビールを開け、一口目を飲む様子を彼女は立ったまま興味深そうに眺めていた。視界に入る彼女の裸が気になって仕方なかったが、あえて見ないようにした。
 口の中に炭酸の強烈な味が広がり、苦くてとても二口目を飲めなかった。
「苦い?」
「うん」
「じゃ、私がもらう」
 彼女は僕からビール缶を取り上げ、そのまま飲み干した。「へへへ」軽く笑ったあと口の周りを拭い、彼女は缶をそばのテーブルに置いた。
 そしてベッドに戻ってきた彼女は脱ぎ捨てた下着を拾い集め、ようやく服を着てくれた。これでようやく落ち着いて接することができる。
「名前なんていうの?」
 初めて僕から質問してみた。彼女はTシャツを着ながら「気になる?」と聞き返してきた。
「いや…なんとなく」
「『ビーナス』って呼ばれてる。これ」
 彼女は自分のTシャツを指差した。オーバーサイズの白シャツには『VENUS』と大きく刺繍が施されていた。
「いつもこればっかり着てるから、気がついたらそう呼ばれてた。字の読める前の店主からね。本名は姫奈っていうんだけど、ちょうど合ってるって思わない?」
「確かに。いいね」
「褒めてくれてありがとう。お客さんから褒められたの初めて」
 キラキラした目で話す彼女を見ながら、すごく素敵な人だなと思った。見た目が美しいだけでなく、喋り方や声がらも魅力が溢れている。お客さんから人気があるんだろうな、と密かに惚れ惚れしてしまった。
「あなたはなんていうの?」
「亮」
「リョウ? 可愛い名前だね」
「そうかな?」
 人生で初めて自分の名前を『可愛い』と褒められた。嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な感情になる。
 彼女は僕に体を近づけ、ビール缶を片手にまた質問してきた。どうやら僕はこの子に興味を持たれているらしい。
「どこで働いてるの?」
「商業ビルにある…なんていうか、大人の店」
「マジで? え、私と同じじゃん。女の相手してるんだ」
「違うよ! カウンターの受付」
「なぁんだ。でも商業ビルってことは…あの橋を渡ったところにあるやつでしょ? ちょっとお高い風俗」
「そうなのかな?」
「そういうところは可愛い子がいっぱいいるって聞いた。スタイルが良くてオッパイが大きくて、めちゃくちゃSEXが上手い。そんところにいたら…」
「なに?」
「ヤりまくりだよね」
「なに言ってるんだよ」
 無邪気に下品な話をする彼女に思わず笑ってしまった。彼女も僕に釣られるように「キャハハ」と高い声で可愛らしく笑った。
 見た目は普通の女の子なのに、露骨にこんな話をするのが可笑しかった。ずっと緊張して話していたが、ここでようやくその緊張が和らいだ気がする。
 まもなく彼女は荷物をまとめ、部屋のゴミ箱にビール缶を放り込んで部屋を出る準備をし始めた。僕はベッドに座ったままボンヤリとその様子を眺めていた。
 彼女は荷物を持って寝室を出て行く際、振り返って僕に行った。
「次も私を指名してね。あなたとっても良かったよ」
「ああ…」
「じゃあね。バイバーイ」
 笑顔で手を振ってきたので、僕も手を振り返した。「うん。バイバイ」
 ほどなくして『ビーナス』は僕の寝室を出て、アパートの部屋を出て行った。鍵を無理やり開けて入る時点でかなりおかしい人に変わり無かったが、あの笑顔でなんでも許せてしまう気がした。そういう魔力があるんだろうか。いつもお客にはあんな風に気兼ねなく話しているのか、それとも僕と気が合ったから楽しげに話してくれたのか。後者だと信じたかったが、おそらくそれはないと分かってから少し落ち込んだ。結局はあれも仕事の一環に過ぎない。
 人生で初めての経験だったが、果たしてこれが正解だったんだろうか。どちらにせよ彼女にリードされっぱなしだった。
 彼女と和気藹々と話していたのは数分だけだったが、その時間の方が楽しかった。もっと一緒にいたかったな、と彼女が帰ったあとなぜか思ってしまった。「また私を指名してね」と彼女が言ったということは、僕は彼女に少し気に入られたのかもしれない。あるいは、お客全員にそう言っているか。






「ここなんだよ」
 私と兄は車の後部座席にモーリスと、その研究仲間であるジムとレイを乗せて、数時間かけて生まれ育ったミシシッピの実家まで戻ってきた。私も兄もしばらくこの家に帰るのは久しぶりだった。数年前に母も亡くなり、今は管理する者すらいない古びた屋敷に成り変わった。
 玄関を開けて一向を中まで案内する。地下室はクローゼットの隣にある粗末な扉を開けば、そこから降りることができる。まさか今になって人を通すことになるなんて、死んだ母も驚くことだろう。
 電気を付けると、埃まみれの物置き小屋が白く照らされる。もう何十年も変わっていない、代わりようのない光景だ。
「あれだよ」
 兄が指さした先に、その奇妙な装置はあった。部屋の中で最も目を引く存在である、扉ほどの大きさの鉄枠。
 モーリスはその太い鉄枠に手を触れた。配線が張り巡らされており、枠の根元には自動車のエンジンほどの大きさの箱が取り付けられていた。開くと複雑なコンピューター装置ようなものが姿を見せる。これを見て、少しでも機械や配線の知識があればなと思う。しかし今はその道のプロがいる。
 モーリスはしばらく装置をいじり回していた。しばらくすると、彼は装置の内部からなにかを取り出して言った。
「これだ…!!」
「それは…さっき見たやつか?」兄が訊くと、モーリスは嬉しそうに「そうだよ!」と答えた。彼が手に持ったものは、確かにさっきの設計図と同じ形をした小さな物体だった。
「それがタイムマシンにも付いてるやつなの?」
 私も彼に質問をしてみる。彼は僕の目の前にそれを持ってきた。
「厳密に言うと、これは60年代に発明された高次元転送装置の核なんだ。僕らが今いる次元から逸脱するための、高出力のパワーを作り出せる」
「込み入ってるね」
「簡単に言うとそうだな…この銀色の枠を通ってどこか違う世界に行こうとしてたのかも」
「…本当に?」
「ただ、この道の専門家に聞いた方がいいと思う。マイケル・ロン博士は今でも存命なのかな?」
 モーリスは途端にそんなことを言い始めると、彼の研究仲間である2人が慌て始めた。その名前に聞き覚えがなかったが、まもなくそれは60年代にタイムマシンを発明した研究者だと知った。こう次元転送装置の生みの親でもあり、後世の時間移動にまつわる研究に大きな影響を与えたらしい。
「まさか、本人に会って話を聞くのか?」装置を指しながらロンはモーリスに言った。「正気か?」とでも言いたげだった。
「転送部品について知っているのは彼しかいないだろ。なにしろ開発者なんだからな。どうやったら会えるかな」
 モーリスは頭を悩ませているようだった。兄はマイケル・ロンという博士について調べ始めた。僕には彼が実在したかどうかも分からないのに、実際に会うなんて現実味がなかった。数分後、兄は数少ない彼の情報を拾い上げたらしく、僕とモーリスにある記事を見せてきた。
「マイケル・ロン博士の『タイムマシーン(らしきもの)』が去年高値で取引されてるな。博士がいつ生まれていつ死んだのか、それとも死んでないのかは最近まで分からなかったらしいけど、このオークションにコメントしてたらしい」
 兄が見せてきた記事には車ほどの大きさの装置と、横に並ぶ青年が映された写真があった。ネットやオカルト界隈ではかなり有名な写真らしく、写真に写った青年がマイケル博士だと言われているらしい。
「彼は人と関わってこなかった人らしいからな。でも君らのお父さんとは繋がりがあったんじゃないか? あの転送部品を入手できるなんてよっぽどのことだ」
 ネット記事の写真には、さっきモーリスが装置から取り外した手のひらサイズの部品もあった。白黒写真で不鮮明だったが、確かに全く同じものにしか思えなかった。私と兄は博士とコンタクトを取る方法を模索し始めた。






「一晩で4回ヤるのはヤバすぎ」
「そう? 別に普通だけど」
「4回目とか流石に体力無くなってるんじゃない? 気持ちよくなさそう」
「でも彼ちゃんとイッてた」
 この日も休憩室のテーブルで業務日誌をつけながら、なんとなく風俗嬢たちの会話を聞いていた。この日は日中の勤務を任されていた。交代制で午後の2時から働き始め、仕事が終わるのは夜の9時ごろだった。やはり明るい時間に働くのが楽に決まっている。
 休憩室では相変わらず信じられないほど下品な言葉が飛び交っている。それも仕事とは無関係のプライベートな肉体関係の話だろう。生々しくてとても聞いてられるものではなかったが、だんだんと耳が慣れている自分にも驚く。
 本当に10代がする会話なんだろうか。僕と彼女たちの生きてきた年数は同じなのに、なぜここまで全てが違うんだろう。ここにいる人は僕より遥かに大人の世界を経験していて、まるで同い年の僕が子供のように見えるのだろう。
 目の前にある大鏡で自分の顔をふと見てみた。なぜか久しぶりに見た自分の顔は、疲れ切っているようにも、全くそうでないようにも見える。本当の自分がなんなのか、正しく自分という存在を把握できない。
 鏡越しに唯子と目があってしまった。マズい、と思ったのも束の間、やはり絡まれてしまった。
「ねえ亮。あなたに一つ聞いてもいい?」
 足を組み、鏡越しに人を見透かすような目線を送ってくる。できるだけ話したくない存在だったが、今は仕方ない。彼女に背を向けたまま相槌を打った。
「なに」
「この街のお気に入りの嬢教えて」
「そんなのいない」
「ウッソだぁ! 10代の男なんてこの辺じゃモテるから、絶対ヤッてるでしょ色んなところで。あるいは全くそういうのに興味ない童貞クンか」
 周りの女子がその言葉で「フフッ」と笑った。「どっちかだよね」と唯子の隣でタバコを吸っていた子が言った。名前は確か由里だったか。
「あんたはどっちなの? ところ構わずヤりまくりの性欲怪獣か、それとも女に興味ない引きこもり系か」
「答えないとダメかな?」
「いいから早く言って。初めてSEXしたのいつ?? 気持ちよかった? 場所は? 誰としたの!?」
 唯子は声を大きくして質問攻めをしてくる。答えるべきか答えないべきか、昨日の自分の姿を想像しながら考える。でもなぜこんな下品な質問に答えないといけないのか、それが一番謎だった。
 僕は唯子たちに体を向けた。
「興味ないだろ」
「あ〜! ヤッたことないんだ〜この子! そうだよね、ヤリたくても出来ないもんね!」
 嘲るように唯子は笑う。当然、周りに集まっていた数人もクスクス笑っては茶々を入れてくる。「どっちでもなかった」「“間“ってところ?」「かわいそう」
 なんて嫌な連中なんだと心から思う。学校で大量発生する、人を馬鹿にすることが喜びの集団とよく似ていた。あの集団に標的にされていたのはとっくに前のことなのに、またそのときと同じような状況に陥っている。
「じゃあじゃあ、初めてキスしたのはいつなの? これなら答えやすいでしょ?」
 気がつくと女子たちは僕の周りを取り囲むようにして集まっていた。またこれだ。もう何かを言われるのが嫌だったので、この質問には渋々答えることにした。
「最近」
「マジで? 誰と?」
「なんというか…道端で客引きの女の子に声かけられて、その子について言ったら部屋に通されて、それで」
「ふむ」
「そこでその子とキスしたのが初めて」
「風俗嬢じゃん。声かけられたって…逆ナン??」
 唯子のその言葉に周囲が爆笑した。正直言って僕は全然笑えなかったが、隣にいた由里も「風俗嬢に逆ナンって…マジでウケるね」とツボにハマっている。
「ディープキスしたの?」
「してないよ」
「ていうかその子とエッチしなかったの?」
「うん。しなかった」
「なんでなの? 怖かったの?」
「色々あったんだ」
「色々ってなによ!」
 唯子は勢いよく席を立ち上がり、僕に迫ってきた。僕も反射的に席を離れ、思わず後退りしてしまう。唯子は僕の左肩を手の平で強く叩き、僕を壁に押し付けた。
「ヤッたことないなら私が今卒業させてあげるよ。だからじっとして」
 唯子は僕のズボンのベルトを手際よく外し、スカートを下に下げた。「フゥー!」と歓声が上がったかと思うと、周りには人が増えていた。全員が僕ら2人に視線を注いでおり、まるで辱めを受けているみたいだった。
「やめてくれ!」
 唯子の両肩を掴んで押しやるが、唯子は僕に抱きついて無理やりキスしてきた。それもすぐに終わればいいのに、長々と唇と舌をつけてくる。大袈裟にやることで周りに見せつけようとしているんだろう。
「エロッ」
「やるねえ唯子」
 周りが不用意に囃し立てている。ここは異常な場所だと脳より先に体が言っている気がした。
 唯子が僕から唇を離し、僕と間近で顔を見合わせた。唯子の唇は潤っていて、さっきより赤くなっている。薄目を開けた状態で僕を見つめ、誘惑するように囁いた。「欲しいくせに」
 顔は驚くほど美人なのに、いつからこんな性格になってしまった? なぜ僕に意地悪ばかりする?
「おーいそこ!! 一体なにやってる??」
 ふと、休憩室の入り口から声が聞こえてきた。全員が一斉に入口に目を向ける。そこには見知らぬ男の人が腰に手を当てて立っていた。
「スティーヴンだ」
 スティーヴン?? とうとう彼あのスティーヴン・ウォンを眼にすることができたかと思うと、今はこんな状態だ。
 彼は中性的な顔立ちで、髪を綺麗にセットしている。風俗店のオーナーと聞いて怖い人をイメージしていたが、彼はいかにも優しい紳士という雰囲気だった。
「おっと彼は新人のリョーくんじゃないか。君らなにをしている?」
「この童貞クンを今から卒業させてあげようと思ったんです」自信ありげに唯子が答える。まだ僕の首の後ろに手を回したままだ。
「そんなことないよ彼は。僕が前日にひとり

したから、君らの心配には及ばないはずだが」
「ええ?」
 全員がまた僕の顔を見てくる。「ヤッたの?」唯子がさらに顔を近づけて訊いてくる。僕は彼女の肩を掴み返し、なんとか押し返して体から引き剥がした。
「僕のことなんだし、なんでもいいだろ」
「否定しないってことは寝てる。なぁんだ経験あるんじゃんか! どんな()だったの? 可愛い系?」
「可愛かったよ」投げやりに言ってみる。僕のあの貴重な時間をこんな場所で汚されたくはなかったが、話に合わせないと永遠に同じ質問を繰り返されることになる。
「生でした?」
「もう…うるさい!」
 僕らのいざこざを見兼ねたのか、スティーヴンその場で「ほらほら、もうやめておくんだ」と制した。唯子は軽く舌打ちをしたあとスカートを上げ、僕を睨みつけたあとその場を去った。周りを取り囲んでいた集団もゾロゾロと散っていく。僕はズボンをとめ、ベルトを付け直した。
「すまんね、どうもガラの悪い連中でね」
「あなたがスティーヴン?」
「そうだ。AKとは昔からの仲でね。彼が新人をよこしてくれると聞いて、すぐにでも駆けつけたかったんだがね。他にも仕事があって」
「僕は大丈夫。その…慣れてるから」
「そうかい」
 彼を前にしてなんとか平気なふりをした。本当は全然大丈夫じゃない。
 スティーヴンは僕にヒソヒソ声で教えてくれた。
「僕もたびたびイジメられるんだ。オーナーをオーナーと思ってないからな。ただ話てみるとなかなか楽しい。フレンドリーなところもある」
「本当?」
「本当はそうなんだよ。以前ここにいた秀男という男も最初はかなりイジメられてたが…」
「今はいないみたいに言ってるじゃん!」後ろで聞いていた由里が口を挟む。スティーヴンは振り返って「なぜか来なくなったろ?」と返す。
「この店の誰かと揉めたんでしょ。スティーヴン。引き留めなかったあなたのせいよ」
「そうかぁ。僕のせいかな」
「それにあなた、自分の店なのにしょっちゅう休むからアミが愚痴ってたよ。『もう私の店ってことにしていい?』ってね」
「それは申し訳ないことしたな。彼女には助けられっぱなしだ」
「ネコの癒し系動画見てる暇あったら、ちょっとはこの店のことも考えたらどうです?」
「ははは。こりゃ一本取られたな」
 年下の10代から叱られてもスティーヴンは笑顔だった。あまり細かいことは気にしない温和な性格なんだろう。とても商業ビルに店を構えているやり手の経営者に思えなかったが、それはAKにも言えることだ。
「ま、いつもこんな調子だ。従業員から説教される日々」
「オーナーなんだよね?」
「ああ、一応仕事はしてるつもりなんだけどな。想いが伝わってないのは僕の責任だからな。アミくんは今度高い寿司でも連れて行くよ」
「今日は来てないね」
「彼女は子育てで忙しいからな。店に来る頻度も減って当然か」
「子育て? 子供がいるの?」
「半年前に生まれたらしい。写真を見せてもらったけど、まさに天使だった」
 アミさんがまさか一児の母だったとは驚きだったが、確かに24歳ならありえないことでもない。というか、そんな人だって僕の周りにいた気がする。でも彼女は見た目よりずっと若く見えるため、なんだか不思議だった。
 その日はスティーヴンが居たので、風俗嬢たちにちょっかいをかけられることもないかと思ったが、すれ違いざまに蹴りを入れられたり、お腹を拳で殴られたりした。何か悪いことをしたなら納得できるが、僕は彼女たちになにもしていない。
 予想していたようにスティーヴンは途中で帰ってしまった。僕も勤務時間が終わり、嬢たちの猛攻撃に合う前にそそくさと店を出て行こうとした。だが、僕の前に唯子が立ちはだかった。
「あんた、スティーヴンに気に入られたからってあんまり調子に乗らないでよ」
「なんのこと? 別に気に入られてもないだろ」
「ちょっと育ちがいいのか知らないけど、あんたは私らのことを見下してる。そんな感じする」
「言いがかりだ」
「なにが? 私はあんたのこと気に食わない。そのフワフワした喋り方もムカつく」
「なにも悪いことしてない。気に触るようなことだってしてないだろ?」
「いちいち言い返してこないで! そもそもここは私らの場所なの。あんたみたいなのが来る場所じゃないんだよ」
 唯子は人差し指で僕の胸を突いてきた。大したことないはずなのに、なぜかすごく痛く感じた。唯子は僕に腹を立てているのか、捲し立てるように、徐々に言葉を荒げる。
「どうせヤッた人数も一人しかいないんでしょ? それも街のデリヘル嬢一人だけ。そりゃそうだよね、お金払えば誰とでもエッチさせてくれるもんね!」
「なにが言いたいんだ?」
「あんたがもう童貞じゃないとしても、プロのお姉さんにイかせてもらったなんてなんの自慢にもならないから。あんたはそのデリヘルとだけヤッてな」
 唯子はまた肩を手のひらで押してきた。それも一度じゃなく何度も、僕がふらついてこけるまで繰り返した。
「お前…最っ低だ」
「そう。私最低なんだよ」
 僕はなんとか起き上がり、目の前に佇む唯子を睨みつける。唯子は無表情でありながら、どこか笑っているような気がしてならなかった。だんだんと顔すら見たくなくなってしまい、逃げるように店を飛び出した。アミさんかスティーヴンがいれば……。
 今は誰も助けてくれない。唯子の後ろでクスクス笑っている集団に慈悲なんてない。
 中学校のときは、同級生からいつもこんな風に虐げられてきた。毎日学校に登校するのが苦痛になるほど嫌な思いをしてきたが、高校に入ってようやく平穏が訪れたと思った。高校生活はとても楽しいとは言えなかったが、少なくともイジメを受けることはなかった。だが今はあのときのような経験をしている。あのときの最低な日々をまた繰り返している気がする。
 帰りたい。もといた街に、もといた家に帰りたい。母親と暮らすのが嫌で飛び出したものの、まさか帰れなくなるとは思いもしなかった。今や自分のよく知っている世界は姿を消してしまい、暗く陰湿な世界にひとりぼっちで放り出されたのだ。今すぐにでも消えてなくなりたくなった。
 だがそんな気持ちを落ち着かせ、なんとか足を進める。地面を踏む感覚が徐々に薄れて行くのがわかるが、気にせず中華街を通り抜け、赤い門を潜って交差点に着く。すると、よく知っている黒の車が僕の目の前に停まった。AKの車だ。
「おっす」
 窓を開け、AKが声をかけてきた。彼を見た途端に情緒不安定な今の心が少し和らいだ気がした。でもなぜここに? 普段から仕事では車を使っているのだろうか。
「なんでここに?」
「いやぁその…ちょっとお知らせがあってな。お知らせっていうかまあ…」
 何やらよそよそしい喋り方で、一体なにがあったのかと不安になる。AKは「とりあえず乗ってくれや」と親指で後部座席を指した。僕は言われるがままに乗り込んだ。
 やがて、僕の不安は想像してたよりずっと悪い形で当たることになった。AKが向かった先は僕のアパートで、到着する前から、街の向こうに煙が立ち込めている時点で察した。
「まあ…こんな具合だ」
 AKは燃え盛るアパートの前で車を停止させる。僕の目の前で燃えているのは、確かに昨日まで住んでいたアパートに間違いなかった。見たこともないほど鮮やかなオレンジに包まれ、上空には墨汁のように黒い煙が立ち込めている。暗闇に強烈な光が蠢いていて、すごく恐ろしかった。
「うわぁ」
 本当にそれしか言葉が出なかった。驚きすぎて逆に驚かない、といった感じだった。唯一の持ち物であるリュックは常に持ち歩いていたから助かったが、ようやく慣れてきた移住環境が消えてしまった。
「コンセントの発火だよ。103号室の住民だね」
 車までサリィがやってきて、僕とAKに教えてくれた。幸いにも死人は出なかったらしい。
「どうしよう」
 僕がそう言うと、AKは少し間を置いてから「新しいところ探すか!」と明るく言った。僕を元気づけようとしてくれているのかもしれない。
 その日は深夜までかかったが、AKは僕の新しい住処を見つけてくれた。そこもサリィが管理している宿泊施設だそうで、AKが管理している商業ビルとは別のビルに入っている宿泊フロアだった。そのビルのオーナーと知り合いだというAKが急遽相談を持ちかけてくれたおかげで、その日の夜中2時には宿泊場に入ることができた。
「アパートとは違うの?」
「ホテルみたいなもんだ。最上階だから結構眺めもいいだろ? ま、ここなら火事もない。と思う」
「最上階は9階だよ」
「あ、そっか」
 商業ビルの8階にあるフロアまで僕を案内したAKは、サリィからもらった部屋の鍵を僕に預け、「後で見てくれ」と僕に何かの封筒を渡して去っていった。
 部屋はアパートより少し広く、家賃は商業ビルの従業員だと4割ほど免除されるため安かった。僕が働いている商業ビルはAKの系列だから対象外なのでは? と思ったが、“同系列だからOK”となぜか認められた。よくわからないけど、僕にとっては都合がいい。
 窓からの眺めは格別で、まるで天守閣にでも越してきたように思えた。一面の中華街を望んだ先に湾が見えた。停泊している貨物船の光が眩しく見えた。ここも案外悪くはないかもしれない、となんとか自分を安心させようとした。

 翌日、外から聞こえてくる女の子たちの声で目が覚めた。広い窓から朝日が差し込み、昨日までは見えなかった街の輪郭が綺麗に見てとれる。窓際のシングルベッドから起き上がり、外に出てみた。
 廊下には数人の女の子たちが集まり、朝からワイワイと話をしていた。そして、何やら廊下の向こうから食事の乗ったトレイを持った女の子たちとすれ違った。当然、初めて来た僕は、ここの住民に大量の視線を浴びせられる。どこへ行ってもよそ者だった。
「朝食…」
 何気なくそう呟く。すると、トレイを持った女の子の一人に「廊下の奥にある食堂でもらうんだよ」と教えてもらった。今気がついたが、ここは食事つきの従業員寮だった。
 僕は廊下の突き当たりにある食堂まで行って朝食のプレートをもらった。コーンポタージュに似た黄色いスープにはムール貝のようなものが入っており、主食であるチャーハン(とそっくりなもの)にはエビが一尾丸ごと乗っていた。スパイス風味で、山椒の香りが強烈だった。
 店で休憩中に出された夜食にしても、AKと食べた朝食にしても、どれも見たことも聞いたこともない料理だった。AKに料理名を聞いたところで、よくわからないカタカナの羅列は頭に入ってこない。AKは僕があまりに物を知らないので、いよいよ僕が違う世界から来たと信じるようになったらしく、こないだの朝食の席でいろいろ質問をしてきた。「スカイツリーの中ってどうなってんだ?」や「本当にこの料理知らないのか?」や「今の都知事って誰?」など、単に面白がって質問しているだけに思えなかった。
 食堂で一人ポツンと朝食を摂る。周りは女子ばっかりで、男子はおそらく僕一人だけだ。あちらこちらから視線を感じるが、気にしないふりをした。このビルは殆どのフロアがいわゆる“大人のお店”で埋め尽くされているらしく、多分ここにいる半数以上がそこの従業員に違いない。中には中学生くらいの女の子もいて、闇が深かった。
 食事を終え、長い廊下を抜けて部屋に戻ることにした。その途中、数人の女の子の集団が階段を駆け登ってきて、僕の右隣を走り抜けた。
 ふと気がついた。その数人の中に知ったような顔があった。一瞬だけ目が合い、すぐさま逸らしてしまった。彼女が着ているTシャツには大きく「VENUS」の刺繍が施されていた。やはりあのとき僕のアパートにやってきたデリヘル嬢の子に違いないだろう。仲間同士キャッキャと盛り上がっていたが、僕と目が合った瞬間に少しだけ表情が変わった。お互いに気がついていたが、結局なにも言葉は交わさなかった。
 正直言って気まずかった。なぜこんな偶然が起きるのか分からないが、あの子が唯一僕と親密になったことのある女の子だった。一度だけ体の関係になったものの、それはお互いにとって事務的なもので、心の距離が遠いままなのは当然だと思う。「また私を指名してね」と言われたものの、二度と会うことがないと思っていた。
 部屋に戻ってから、AKにもらった封筒をまだ開けていないことを思い出した。引き出しから封筒を取り出し、ベッドの上で開封してみた。中にはなんと商業ビルの店で使える1万円分の商品券が束になって入っていた。数えてみると、なんと20枚もあった。AKから20万円を受け取ったようなものだ。
 AKは自分が紹介した店で僕が揉めていること、そして自分が紹介したアパートが燃えてしまったことなど、僕の身の回りで起きる厄介ごとは全て紹介主である自分のせいだと思ったのかもしれない。だからお詫びの気持ちとしてこれを僕に渡したんだろうか、と想像するしかなかった。真相は分からないが、わざわざ訊く必要もないことだろう。
 その日は夜勤のために明るいうちから寝ておくことにした。カーテンを閉め、ベッドに潜り込んで、気がつくと深い眠りに入っていた。昨日の夜ろくに眠れなかったせいもあるのか、体が思った以上に疲れていた。
 目が覚めたときにはもう外は暗く、もうここを出て仕事に行かなければいけなかった。学校生活に慣れきっていたため、昼夜逆転の勤務を週5でやる生活にはまだ慣れていなかった。よく考えると、自分は体も壊さずによくやっている方だと思う。暇な高校生の日々を急に打ち切られ、気がつくと知らない世界で、するはずのない仕事をしている日々。干渉的で高圧的な母親から逃れるため、高校を辞めて働く手段を探したこともあったが、結局は実現しなかった。
 とにかく家を少しでも早く飛び出したかった。母親からああしろこうしろと言われ続ける毎日から解放され、苦手な勉強からも解放されたかった。そんな毎日を辞めるわけにもいかず、苦しみながら生きていたあの頃。ある意味いまは願いが叶ったと言える。親からも解放され、学校生活からも解放され、日々コツコツと働いている。でも、なぜか少しも楽じゃなかった。
 いつものようにリュックを手に取り、チャックを開けて中身を確認する。充電が切れて使わなくなったスマホ、あのとき暗い屋敷の中を照らしていた懐中電灯、父親から譲り受けた財布、お気に入りも漫画、無地のハンカチ。たったこれだけの荷物を、今日まで肌身離さず持っていた。そして今日もこのリュックを背負い、仕事場まで歩いて向かう。これだけの荷物が、この見知らぬ世界で唯一、僕の存在を証明するものだった。






「本当にここで合ってるのか?」
「大丈夫だ兄さん。間違いなくここだ」
 その日、私と兄はとある州立病院にやって来ていた。あの後、私と兄とモーリスで手分けしてマイケル・ロン博士の居場所をリサーチした。簡単に彼を特定することなどできっこないと思っていたが、彼が90年代に精神疾患を発症し、イリノイ州にあるスプリングフィールド州立病院に入り、現在も入院中との情報が出てきた。彼のWikipediaには載っていなかった新情報だった。
 モーリスが装置の研究を続けている間、私と兄は満を辞して病院を訪ねてみることにした。彼の身元を調査する捜査官になりすまし、なんとか受付で彼の情報を聞き出すことができた。
「マイケル・ロンさんは確かに精神科に入院しておられます。どういったご用件で面会に?」
 本当にそうだった。ネットの偽情報かもしれないと疑っていたが、彼は確かに生きていて、この病院に入院している。
「それはですね…実は生き別れた親族でして。ようやく見つけることができたんです。なので一眼だけでも…」
「はぁ」
 いつでもバレそうな嘘だったが、なんとか勢いで面会までこじつけた。兄は「それはまずいだろ」と小声で咎めてきたが、その場限りの嘘だ。誰に迷惑をかけるわけでもないので、許してもらうことにした。
「こちらです」
 精神病棟までの長い廊下を抜け、野外の渡り廊下を歩いた。古いヨーロッパ建築の庭園があり、庭では白い病院着を着た患者たちが球技や駆けっこを楽しんでいる。病院というより、どこかの文化遺産のようにも思えた。
「同姓同名の別人だったらどうする?」
 兄が心配そうに言ってくる。私も確証などなに一つなかったが、ここでようやく失踪した父について知る手立てを与えられたのだ。あの奇妙な装置を知ることは父、そして父の軌跡を知ることでもある。そして、マイケル博士はそのことの大きな助けとなるはずだからだ。
「大丈夫だよ」
 石畳の道を越え、古城のような病棟へと案内された。ずいぶんと歴史のある病棟らしく、建物の歴史を説明する立札が入り口の脇に掲げられていた。
 病棟の内部はひんやりと涼しく、あまりの静けさに耳鳴りがした。フロアにスリッパの音が響き渡り、それが妙に大きく感じられる。私たちは2階にある大きなフロアに通された。バスケットコートほどの大きさのスペースで、リハビリの器具や体操用のマットがあちこちに置かれていて、それを使って運動している人がたくさんいた。
「あちらです」
 窓際で車椅子に腰掛けた一人の人物が見えた。動く気配がなく、ただ窓の外に視線を向けている。彼の背後しか見えなかったが、白髪の老人だと分かる。ゆっくりと近づいていって、思い切って声をかけてみた。
「あの、すみません」
 彼は反応しない。耳が聞こえていないのか、それとも無視したのか。私は勇気を出して聞いてみた。
「マイケル・ロン博士で…あってますか?」
 彼はしばらくの間を空け、ゆっくりと振り向いて言った。
「いかにも」
 僕と兄は顔を見合わた。やはり彼がそうだった。目の前にいる彼が古い白黒写真に映る若い青年発明家と同一人物だった。当時のマスコミを騒がせたという天才技術者であり、伝説と呼ばれた人物だ。だが、もう当時のような美青年の面影は残っていなかった。
「博士…懐かしい呼び名だ。もうそう呼ばれることも無くなった。ここではただの患者だからな」
「いつからここに?」兄が訊ねた。博士はゆっくりと車椅子をこちらに向けながら答えた。
「ずいぶん前からだよ。来客なんて何十年かぶりだ。今は何年になった?」
「2018年です」
 兄は落ち着いた声のトーンで答える。
「もうそんなに経つんだな。世の中はどうなっていることやら」
 博士はそう言って再び窓の外に目を向ける。明るい日差しが薄暗い病院内に差し込み、光の筋がいくつもできている。2階のこの部屋からは、中庭にある噴水がよく見えた。
「とあることをお聞きしたくてやって来ました。タイムマシーンの事です」
 私がそう切り出すと、博士は再び視線を私たち2人に戻した。特に驚いた様子もなく、私と兄を怪訝そうに見つめることもなかった。
「タイムマシーンならもうずいぶん前に研究をやめたんだ。答えられることは、残念ながら特にないだろう」
「どうしてです?」
「あまりに危険だからだ」
「危険?」
「この話をすると長くなるが、一度だけ装置の中に作った時空ポータルに当時の科学雑誌を投げ込んだことがある。行き先は、私の計算が正しければ30年前の過去だ。それを投げ込んだ瞬間にな」
「…なにが起きたんです?」
「さっきまではなかった見知らぬ電子装置がそこにはあった。街に出てみると、見たこともない形の電話を誰もが使っていた。聞いたこともないエンジン音があちこちで響いていた」
 淡々と語られたその内容に、思わず鳥肌が全身を駆け巡った。怖くないはずなのに、なぜか身震いがするほど恐ろしい話に思えた。それは兄も同様に感じたようで、眉間に皺を寄せ、目を見張っていた。
「一瞬のうちに歴史を変えてしまったんだ。いとも容易(たやす)かったよ。地続きの時間軸に影響を及ぼすのが、それだけ恐ろしいことなんだ」
 しばらく言葉を失った。彼がタイムマシーンを世に出さなかった理由についてネットではさまざまな仮説が立てられていたが、開発に失敗したとの説が有力とされていた。だがそれは間違っていた。彼が発表しようとしたがらなかったのだ。
「もうすでに完成していたんですね。信じられないな…」
「長年かけて、恐ろしい発明をしてしまったと思ったね。私は悩んだ挙句、装置を解体して、起動部品である電圧装置を破壊した。誰にも、二度と同じ研究をさせないように」
 それを聞いた兄は、僕より先にここに来た理由を彼に告げた。
「僕らが来たのはそのことなんです。タイムマシンに付いていた部品、高電圧装置がありますよね。それが僕の家で見つかったんです」
「ほう?」
 博士は、その言葉で少し声色を変えた。
「父が作ったんです。おそらく、マイケル博士、あなたの研究を真似たんだ。当時、博士のもとにやってきて同じ研究をしたいと言った人物はいませんでしたか?」
「それが君たちの父親だと?」
 博士に目を向けられ、私は兄の代わりに答えた。
「ええ。博士を訊ねた人がいるとしたら、おそらくそうです。父はずいぶん前に失踪して、結局いまだに行方不明のままなんです。父は博士と似たような研究を家の地下でやっていました」
「装置を使って…どこかの時空に飛んでしまったのか」
 察しのいい博士は、私が言いたかったことを先に指摘してくれた。さすがは元研究家としか言いようがない。
「…僕らはそう考えています。というか、そう考えるほか無いんです」





 この日も仕事を終え、朝日が指す時刻に帰宅した。商業ビルのエレベーターに乗り込み、一気に8階まで登る。30秒ほどでフロアに到着し、エレベーターを出て廊下を渡った。
 すると、階段の辺りでたむろしている女子グループの中にまた『ビーナス』の姿を見つけた。やはりあのシャツを着ており、階段の手すりにもたれかかって話をしていた。長めのボブヘアーは光を反射していて美しく、綺麗な顔立ちをしている。思わず見惚れてしまいそうになる。しかしジロジロ見るわけにもいかない。
 何食わぬ顔で通り過ぎようかと思ったが、不意に彼女と目が合った。心臓がこわばり、体が硬直しそうになる。
 彼女は僕にウインクをしてきた。驚いて咄嗟になにも反応できなかったが、彼女に認知されていることがわかり、少し嬉しかった。僕はおそらく彼女から嫌われていない。それが分かっただけでも十分だった。



《八月のヴィーナス(2)に続く》








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