海月を見た日

文字数 2,113文字

 ずっと昔に見た光景を思い出してみる。私がずっと幼かったころ、父に手を引かれて行った水族館の光景を。大きな水槽の向こうには嘘みたいに大きな魚がたくさんいて、私が「怖い」って言ったらパパは「大丈夫だよ」と私を抱き上げてくれた。水槽に手を当てると私の手にカラフルな魚が寄ってきて、パパは「ほら、綺麗だろ」と微笑んだ。

 これはパパと私の物語の一つだった。短くて儚いそのお話を、今は思い出すことしかできない。パパがいなくなって何年もたった今、私は何度この記憶を思い起こしただろうか。
 
 私のママは私を産んだときに亡くなったとパパから聞かされた。古い写真に映るその女の人が私の母親だってことを、私が三歳になってようやくパパは教えてくれた。
 学者で、冒険家でもあったパパは、古い本と標本だらけの狭い部屋で、私に数え切れないほどの話をしてくれた。今までに行った国、出会った人たち、異国の地で手に入れたもの、失ったもの。世界を見たことがない私は、パパの話を聞くのが何より好きだった。私の知らない場所やものがあると知るたび、部屋の小さな窓を飛び出して冒険に出てみたいと願っていた。

 でもその願いは別な形で叶ってしまった。というと変な言い方に思うけど、あるきっかけで私は、十代で世界に飛び出すことになった。私が十二歳のときにパパが、突如として姿を消したのだ。
 どこの誰に聞いても私のパパの居場所はわからなかった。「冒険に行ってくる」そう言い残して、私の前から姿をくらましてしまった。
 パパがいないと私はどうすることもできなかった。家でひとりぼっちになり、パパがいなくなった狭い部屋で身を埋め、毎日パパの帰りを待ち続けていた。でも、パパが私のもとに帰ってくることがないまま、気がつくと十六歳になっていた。

 家を飛び出し、パパを探すため世界中を飛び回った。パパの部屋にある数え切れないほどの記録をたどり、砂漠からジャングルまで何処へでも行った。でも、どこに行ってもパパを見つけることはできなかった。

 帰国する船の上で思い出したことがあった。パパがある日、私にプレゼントしてくれた二匹の黄色いクラゲのこと。丸い水槽に入ったそのクラゲの大きい方と小さい方を順番にさしてパパは言った。
「大きい方がパパで、小さい方が君だよ。パパはここにいる」
 家を開けたとき私が寂しくならないようにとパパが買ってきてくれたものだった。私はいつでもそのクラゲの水槽を窓際に置いて、朝から日が暮れるまでずっと眺めていた。私の人生であんなにも大事にしたものは、あのクラゲ以外になかった。

 パパの部屋にあった全ての記録を読み漁り、数え切れないほどの中から必死で見つけ出そうとした。私がパパといたあの時間を過去のものにしたくはなかった。
 部屋に積み上がったの記録から最後に見つけ出したものがあった。部屋の中にある数々の記録の中で最も新しい日付の書かれた紙。それには行き先とルートが示された絵が描かれていて、パパの行き先を示唆するものに違いなかった。

 パパを探し続け、何年も探し続けているうちに、私はもう十九歳になっていた。旅の途中で頼れる人を何人も見つけ、彼らは私の旅に同行してくれた。そして、私たちが最後に辿り着いた場所が海の中だった。
 数年前にここで姿を消した船にパパが乗っていたかもしれない。そのわずかな声だけを頼りに、彼らは私を船に乗せて、海の地点まで連れて行ってくれた。
 父と娘の物語の終着点がここであることはわかっていた。そして、それが私にとって、最初で最後の美しく悲しい旅の終わりだということも。

 あてもなく飛び込んだ海には、数え切れないほどの宇宙が広がっていた。美しく広がる、夜の海の情景。ライトに照らされた珊瑚の先に、その生物はいた。
 眩い光に照らされて黄色く輝く二匹のクラゲ。それは静かに私に寄ってきて、目の前を美しく泳いだ。それは、一人暗い部屋で水槽越しに眺めていたあのクラゲに違いなかった。
 
そこにいたんだね、パパ。思わず、そう呟いた。私が何年も探し求めていた光景がそこにはあった。

 船に戻り、海を後にする頃にはもう朝日がさしていた。気がつくと私は涙が溢れ、頬をつたった大量の雫が下に落ちていた。今になって、パパといたあの時間を思い出していた。
 人混みに呑まれ、繋いでいた手を離してしまったあの頃。パパの姿が長い間見えなくなり、不安になった私は思わず泣き声を上げた。道にうずくまって泣き続ける私は、気がつくとパパに抱き上げられていた。
「大丈夫だよ」
 そう言ってパパは背中を摩ってくれる間も、私は泣き続けていた。今はそのときと同じくらい涙を流している。今はもう私のそばにその姿はない。でもパパは私の隣にやってきて、泣き続ける私をそっと抱きしめてくれた。
 
 私と同じ船にいた彼らは、私に何度も温かい言葉をかけてくれた。優しいその言葉に励まされ、私はもう一度前に進んでいくことにした。
「今ならパパに “ありがとう。大好きだったよ” って言えます」
 涙を拭きながらそう言った。
 二匹の小さなクラゲを見た日のこと。それは私の人生の、最初で最後のパパとの出会いだった。












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