y o r u   n o   o w a r i   (前編)

文字数 27,758文字

 
「撮影取材?」
 ただのアルバイトの僕が急に大変なことを頼まれた。父から頼まれた仕事の中で、一番ハードルが高くて困難だった。見ず知らずの人に付いてまわるなんて、まさか自分がすることになるとは思いもしなかった。

 高校に上がった僕は、父が経営する映像制作会社でバイトをしていた。ドキュメンタリー映画を制作する上の会社から依頼を受け、取材をしてその撮影した素材を売るという会社だった。一年に何百件もの依頼を受けており、今回きたドキュメンタリー映画は、特にたくさんの取材が必要となる案件だった。父親は僕に直接頼んできた。
「人手が足りないんだよ。なにしろ取材する人数が多いから。良いだろ?」
 父親は僕が取材するという人物の情報をまとめた紙を渡してきた。
「この人誰なの?」
 僕は紙に書かれた《大橋めぐ》という人物の名前を見ながら言う。
「ほら、昔あったことあるだろ。大橋雄一さんの娘さんだよ」
「大橋雄一さん?」
「ほら、今回のドキュメンタリーで取り上げる、父さんが記者のときも取材した」
「ああ、あの人? 『大橋額団』の」
「そう!」
 大橋額団とは90年代に日本を熱狂させていたという伝説の芸術家集団だった。大橋雄一さんはそのリーダーで、グループを解散した後も世界的に活躍していた人物だった。父親に言われて思い出した。会社を創立する前に記者をやっていた父親は、その時に何度か大橋雄一さんを取材していた。
「いつ僕と会ったんだっけ?」
 大橋さんを取材をするうちに彼と仲良くなった父親は、大橋さんとプライベートでも何度か会うようになっていたのは覚えているが、いつ僕と顔を合わせていたのかが思い出せない。父親はそのことを覚えていたようで、
「確か雄一さんが家にワインを持ってきてくれたときだよ。大きい息子さんいるじゃないかって、確か5歳のとき」と懐かしむように言った。
「そうだったっけ」
 10年前のことなんてすっかり忘れていた。今考えるとすごい人物に会っていたんだなと思う。
「でも今もう亡くなってるでしょ」
 僕は数年前にネットニュースで大橋さんが心臓発作で亡くなったという記事を見たことを思い出す。
「そう、本当に早すぎたよ。あの人はもっと長く生きて作品を作り続けて欲しかった」
「しようがないね」
 僕は再び父親に渡された紙に再び目を落とす。そんな人物の娘を、僕はこれから取材するんだと思うと、不思議な緊張感が自分の中に生まれる。一体どんな人物なのか想像もできなかった。
「そんでその娘さんを功一は半年間、密着し続ける。できるだろ」
「そんなこと言ったって・・」
「大橋雄一という人を一番近い距離で見てきた人物だろ」
「まあそうだけど」
 半年・・ちょっと長いでしょ。と言いたくなったが、いつか見た何かのドキュメンタリーでは20年近く1人の人物に密着していたので、それに比べると断然短く思えた。
「世界的芸術家の娘がどんな人なのか、みんな気になるだろ」
「アルバイトの僕が・・そもそも、どんなふうにやればいいか分かんないし」
「大丈夫。彼女の人間像と、お父さんとの話を取材できれば」
「そんなんでいいの。てか父さん、大橋さんとよく会ってたなら娘さんも知ってるでしょ」
「お父さんも娘さんとは昔に数回あったことがある」
「じゃあ父さんがやればいいじゃん」
「お父さんは他が忙しいし、向こうも多分覚えてないよ。社長自らやるのも変だろ?」
「はあ・・」
「功一ならできるよ」
 急に重大なことを任され、僕は不安でいっぱいだった。いつも撮影した素材に日付のテロップを入れるだけの簡単なバイトしかしていなかった僕が、いきなりこんなことできるんだろうか。断る理由を色々と探したが、社長である父さんから頼まれたということもあり、結局、断りきれずやることになってしまった。

 数日後、バッテリーと中型のビデオカメラを持たされ、僕はタクシーに乗り込んでいた。バッグにはカメラのレンズを拭く布と、家にあった「コミュニケーションのいろは」という本が入っている。会社の入り口の前から発車しようとするタクシーの窓から、父親が除いてきて言う。
「頑張ってこいよ〜」
 なんでこんなことになってしまったんだろうと思いながら、僕は言う。
「マジでやるんだね・・」
 タクシーが発車し、会社が遠ざかっていく。父親と何人かの社員が僕を送り出してくれた。
 僕が取材する大橋めぐという人物は、会社から車で大体1時間のところに住んでいた。取材部は最初、大橋雄一さんの元妻に連絡しようとしたが、連絡がつかないため、取材対象を娘に変えたようだった。彼女は取材をOKしたとだけ聞いていた。それは快くOKを出したのか、それとも渋々OKを出したのかは聞かされていない。僕は何より、初めてすぎる経験に不安しか感じていなかった。

 タクシーは目的地に着いたようだった。心臓の鼓動が速くなる。僕はお釣りがないようキッチリと払い、タクシーを降りる。あたりはもう暗くなり始めていた。
 目の前には大橋めぐさんが住んでいるという、外壁が青く塗られたアパートが建っている。目的の時間よりだいぶ早くにきてしまったがまあ大丈夫だろうと思い、2階に上がり、モダンな作りの廊下を抜けて、彼女が住んでいるであろう203号室に辿り着く。深い緑色のドアにはアルファベットで「Ohashi」と書かれた木製の看板が掛かっていた。僕は速くなる心臓の音を無視しながら、横にある白い呼び鈴を鳴らす。
「ジリリリ」と、今どき珍しい音だった。僕はなぜか安心感を覚える。部屋の中に呼び鈴の音が響いているのが聞こえる。
 しかし、しばらく経っても反応はなかった。もう一度押すが、やはり同じだった。留守なんだろうか。
 そのとき、アパートの階段を誰かが登ってくる音が聞こえる。それは金髪の若い女性で、上がってきて、僕を見るなり「・・どなた?」と尋ねてきた。僕は
 「大橋めぐさんに用があって来ました」
 と彼女の方を向いて言う。心の中で、怪しいものじゃないですよ、と繰り返す。彼女は僕の顔をまじまじと見たあと、眉を寄せて
「めぐに会いに来たの?」
 と間を置いて言った。僕はその言葉で彼女が親しい仲であることを確信する。そして僕は同時に、怪しまれているに違いないと確信してしまう。でも会いに来た理由まで説明していると長くなりすぎる。思い切って僕は彼女に聞いてみる。
「部屋にいなかったんです。すみません、どこにいるか分かりますか・・」
「めぐは多分バーの『Sicilia』にいると思う。場所分かる? ここを出て右に行って、角を曲がってずっと歩くと見えてくる」
 彼女は思ったより丁寧に居場所を教えてくれたので、怖い人ではないと分かり安心した。
「ありがとうございます。助かりました」
 僕はそう言って、早足でアパートの階段をおり、外に出る。そして言われた道順にすすんで行くと、「Sicilia」というネオンの看板が見えてきた。ここに果たして彼女がいるのだろうか。中からはファンク調の洋楽が聞こえてくる。僕は勇気を出してドア開ける。するとアロハシャツにサングラスのいかにもな店員さんが
「いらっしゃいませー!」
 と威勢よく挨拶をしてくれる。薄暗い店内に響く大音量の音楽。久しぶりにこんなに大きな音を聞いた。店内にはかなりの人数がいて、踊ったり、お酒を飲んだり、大きな声で笑いながら話をしている。
「誰かのお連れさんですか?」
 アロハの店員さんがキョロキョロしている僕に聞く。僕の見た目が、1人でこんな店に来るにはあまりに若過ぎるからそう聞いたんだろうと、咄嗟に思う。そう、入った瞬間にここは僕が来るべき場所じゃないと強く思った。
「いや、大橋めぐさんという人に会いたいんです」
「おお! これはなんと」
 アロハの店員さんはサングラスを掛け直しながら、意表をつかれたような声を出す。そしてカウンターの近くにいた銀髪の女性に呼びかける。
「アヤちゃん! めぐちゃん今どこにいんの!? さっき見たけど!」
「めぐのこと? なんで!?」
「彼女に会いたいって人がいるんだけど!」
 そしてアロハの店員さんは僕を指しながら「彼だよ」と近づいてくる銀髪の女性に言う。
「あなためぐに会いにきたの? めぐなら奥の方にいるから行きましょう」
 と彼女はアロハの店員さんに話すときより落ち着いた話し方で僕に話しかけたあと、僕の手を握り、僕の手を引きながら奥の方まで歩いていく。僕は見ず知らずの女性から急に手を握られたことに戸惑いを隠せない。
 店の奥の4人がけテーブルが並んだ場所に近づいて来た。そして彼女はめぐさんを見つけたのか、
「めぐみー! あなたに会いたいって人がいるよー!!」
 と大声で言う。僕は恥ずかしさと、とうとうあの人物に会うんだ、という緊張で頭が混乱しかける。それと同時に彼女が読んだ名前が「めぐみ」だったことに疑問を感じる。彼女の声を聞いて周りの人は「おおっ」と声を上げる。「なんだなんだ?」と言う声も聞こえてくる。そして銀髪の女性が僕の手を引いているのを見て、驚いたような表情を浮かべる。ただただ恥ずかしい。
「だーれー?」
 若い女性の声が聞こえる。ああ、あれが彼女の声だ。その声を聞いた瞬間、当たり前だけど本当に実在したんだ、と思った。とうとう対面しないといけない。僕は心臓の鼓動がありえないほど速くなっている。
 人混みを抜けた瞬間、僕の目には4人がけテーブルの壁側に座る1人の少女が目に飛び込んできた。横縞模様のカラフルなビスチェを着ており、デニムのショートパンツを履いて足を組んでいた。厚底の白いサンダルを履き、ショートヘアーはありえないほど光沢があった。僕を案内した銀髪の店員さんは僕の背中をポンと押し、
「この子だよ」と僕を紹介する。僕は咄嗟に
「取材に来ました、大方と言います」
 と言った。緊張で自分が早口になっているかどうかもよく分からない。僕が言い終えた瞬間、周りの人たちは
「取材ぃ?」
 と声を揃えて言った。そして一斉に彼女の方を見る。めぐさんは数秒だけ間を置いたあと、僕の目をまっすぐに見て言った。
「あなたなの?」
 僕は彼女が言葉を発した瞬間、不思議な感覚に包まれる。言葉では説明し辛い、彼女を取り巻く特別な空気感に包まれたような気分になる。
「すごい、取材って・・あんたそんな有名人?」銀髪の彼女が驚いたようにめぐさんに向かって言う。周りの人たちも全員、めぐさんと僕を見ている。めぐさんはまた間を置いて、
「まあ座ってよ」と自分の前の席を指差す。
「あ、スイマセン・・」
 僕は肩からバッグを下ろし、隣の椅子に置いた。そして初めて身軽になった僕は、彼女の真正面の椅子に座った。
「彼になにか飲み物出してあげて!」
 彼女は僕を指差しながら大きな声でカウンターに呼びかける。カウンターから「はいよ!」と声が聞こえる。そのとき僕は初めてこの店に受け入れられた気がした。
「ちょっとなに見てんの! なんでもいいでしょ散った散った!」
 と、彼女は周りの人たちに言った。「はーい」と周りはワラワラと散っていく。どうやらこの店では全員が顔見知りらしい。再び彼女は視線を僕に移す。
「あなただったのね」
 彼女は先ほどと似たことをもう一度言う。僕の目をまっすぐに見る彼女は、僅かに笑みを浮かべているように見える。
「あ、聞いてたのと違っ・・」
「もっと年配の人が来るのかと思った。撮影のスタッフっていうから。あなた見る限り私より若い」
 めぐさんは僕が言い終わらないうちに話し始める。そして目の前の皿に入ったスナック菓子を摘んで食べた。彼女がスナック菓子を噛む音が心地よく耳に入ってくる。僕は思わず言ってしまう。
「そうですか。すいません」
「なんで謝ってんの?」
 めぐさんは笑いながら頬杖をつき、顔を傾けて僕を見た。目を細めて笑う人なんだと、そのとき初めて気がつく。日に焼けた肌と、黒く大きな瞳が僕の目に飛び込んでくる。
「あなた幾つなの?」
 めぐさんは僕に興味を持ってくれたのか、僕自身について質問してくれる。僕は初対面の女性の前で緊張しっぱなしだったが、落ち着いて答える。
「15歳です」
「わお。高校生・・高校1年?」
「ええ」
「まさか私より年下がくるとはね。超意外」
 めぐさんは再びスナック菓子を取って食べる。そしてその様子を眺める僕に気がつき、「あなたも食べていいよ」と皿を僕の方に近づけてくれた。
 僕は取材を始める前にいくつか気になることを聞いた。
「19歳って聞いたんですけど、大橋めぐさんで合ってますか」
「合ってるよぉ」
「あの、さっき『めぐみ』って呼ばれてましたけど」
「ああ、ここではなぜかそう呼ばれてんの。あの銀色の髪の子いたでしょ」
 僕はさっきのあの人だ、と思い出す。
「あの子は私のダチなんだけど、彼女が言い出したの。そっちの方が呼びやすいからって」
「そうなんですね」
 そういうことだったのか。そんな銀色の髪の彼女とめぐさんは「ダチ」という言い方からよほど仲がいいんだろうかと考えた。
 さっき頼んだ飲み物が運ばれてくる。冷えたお茶だった。よく考えると午後から全く水を飲んでいないので、喉がカラカラになっていた。僕は一気にコップの半分を飲んでしまう。そして彼女はスナック菓子を食べて汚れた手をティッシュで拭きながら言った。
「で? あなたは私の裸を撮りたいの?」
「んぐっ」
 僕は飲んだお茶が気管に入りそうになり、咳き込む。いきなりそんなことを言われたのでかなりびっくりする。なにを言い出すかと思えば。めぐさんは笑みを浮かべながら喋り続ける。
「いいよ。あなたならいつでも撮らせてあげる」
「いや・・そういうんじゃ」
「あ、違った?」
「・・違います。ドキュメンタリー映画の撮影取材です」
 なんて人だ。初対面の僕みたいな人物になぜそんなオープンになれるのか。冗談なのか、あるいは僕が本当に撮りたいと言ったら撮らせてくれるのか、どっちとも取れる言い方だった。
 めぐさんは両方の眉をキュッと上にあげて僕に聞いた。
「映画なの? 電話で内容は長々と話してくれたけど、半分以上、話聞いてなかったから」
「え。じゃあなんでOKしてくれたんですか」
「ノリで・・暇だったし」
 衝撃だった。そんな簡単にドキュメンタリーに出ることを承諾していたなんて。いま僕の目の前にいる人があの世界的な芸術家の娘だとは、にわかに信じがたい。そんなノリでOKなんて僕では到底できない。僕はこれから彼女に詳細を話さないといけない。
「お父さんの話をしていただくことは・・」
「ああ、なんか芸術家のドキュメンタリー作るんでしょ。パパを取り上げるけど、もう死んでるから、私のとこにきた感じでしょ」
「そうです。日本のアート界についての映画を作ろうとしてるらしくて。そこで取り上げるお父さんとの思い出なんか聞けたら」
 ドキュメンタリーで取り上げるのは、かつての日本の芸術家たち数名と、芸術家集団「大橋額団」だった。そのメンバーを1人1人、もちろん今は亡きそのリーダーも大きく取り上げるらしい。
「思い出ねぇ」
 彼女は右上に視線を移した。何かを考えているのか、頬杖をついた方の手の指を動かす。
 そのときドアが開く音とともに店に誰かが入ってくる音が聞こえる。彼女はそちらに視線を移し、「あっヤベッ」と言った。僕は彼女と同じ方向を向く。茶髪の男性が店に入ってきたところだった。
「どうしたんですか?」
「めんどくさい奴が来た。逃げよっか」
 彼女はそう言って席をたち、体についたスナック菓子のクズを払う。そしてテーブルに小銭を置き、僕の腕を掴んだ。僕は慌ててバッグを持ち、席を立つ。
「え、どこに?」
「いいから!」
 めぐさんは僕の腕を掴んでどんどん店の奥に進んでいく。彼女の細い指は僕の腕を強く掴んでおり、少し痛い。そして僕の手を引いて向かった先は男女共用トイレだった。トイレのドアを開け、彼女が先に中に入る。僕が困惑していたら、彼女は
「早く!」
 と言って僕の腕を強く引っ張り、トイレの中に僕を引き込んでドアを閉める。僕はまた心拍数が急激に早くなる。トイレの中で女性と2人きりという、とんでもない状況にいる。僕はおそるおそる聞いてみる。
「誰なんですか? あの人」
「元カレ!」
 彼女はそう言いながら、背伸びをして人が1人通れるくらいの小さな窓を外す。さっきの人は元カレだったのか? 僕は色々と急展開すぎて脳が追いつかない。思わず聞き返す。
「元カレ?」
「そう、鉢合わせるとめんどくさいの。あなたと2人でいるところなんて見られたらね」
 そういうことか。僕はなんとなく納得した。彼女は外した窓を下に置き、枠に手を掛けてよじのぼる。そして足を掛け、そのまま外に飛び降りた。「ガサッ」と彼女が草むらに着地した音が聞こえる。本当にこんなことして大丈夫なのか。不安と罪悪感を同時に感じたのは久しぶりだった。
「あなたも早くぅ!」外から声が聞こえる。
「あ、はい」
 僕は慌ててバッグを肩から下ろし、背伸びをして、先にバッグを小さい窓の外に出した。
「すみません、受け取ってください!」
「はいよ」
 めぐさんが僕のバッグを受け取ったのを確認したところで、僕も彼女と同じように窓の外に飛び降りた。外は真っ暗で、草むらが広がっていた。
「はい」
 めぐさんは僕にバッグを渡してくれる。僕はバッグを受け取り、肩にかけながら言う。
「これからどうするんですか」
「そうねー。どうする?」
 逃げ出したはいいものの、その後どうするかまでは考えてなかったらしい。彼女は草むらの向こうに目をやり、「そうだ!」とパチンと指を鳴らす。
「あそこ行こうか。こっから歩いてすぐの『DAY』」
「デイ?」
「夜遅くまで開いてる喫茶店」
 彼女はそう言って広い草むらの向こうにある、明るい小さな建物を指差す。どうやらこの暗いジメジメした草むらを抜けて行くらしい。僕らはそこを目指して草むらを歩き始めた。
「あなた下の名前なんていうの?」めぐさんは歩きながら僕に聞く。
「功一です」
「功一くん? 私めぐ。よろしくね、改めて」
 彼女は手を差し出す。僕は「こちらこそ」と言って彼女と握手をする。さっきの僕の腕を強く掴んでいたのと同じ手とは思えないほど、握手をしたときの彼女の手は、優しく僕の手を握ってくれる。キラキラしたネイルが、向こうから届く白い光を反射していて、なんとも美しい。
「窓、あのままにしていいんですか」
「いいのよ。誰かが元に戻してくれるから」
 さっきは座ってたから気が付かなかったけど、彼女は僕より背が高い。厚底の靴を履いているからかもしれないが、靴を脱いだとしても僕より背が高いと思う。そして机に隠れて見えなかったが、彼女は大胆にお腹を出している。
「功一くんはどっから来たの?」めぐさんは聞いてくる。僕は名前を呼ばれたことに少しドキッとする。平静さを保とうとイントネーションを下げて話す。
「僕は大方PAっていう、ここから車で1時間くらいの会社からです」
「ああそう、わざわざ遠くから。家はもっと遠くなの?」
「そう・・ですね。もっと離れてます」
「大変じゃん。しばらく私を取材し続けるんでしょ。半年だっけ?」
「はい」
 僕らは暗い草むらの中を進み続ける。向こうに見える歩道に向かって、膝の高さほどの草をかき分けてゆっくりと進む。
 よく考えると女性と2人きりで話すのはいつぶりだろう、と思い返す。年の近い女性と2人きりになることすら数えるほどしか経験してこなかった僕が、いま自分の横を歩いてる女性と長いこと一緒になるんだと思うと、不安が押し寄せてくる。
 僕らはようやく草原を抜け、ハイウェイのような道路に出た。オレンジ色の街灯の灯りが等間隔に置かれており、街灯ひとつひとつの周りに虫が集まっている。
 めぐさんと僕は道路沿いを20メートルほど歩き、木造の古びた外観の喫茶店に着いた。彼女が店のドアを開けると、「カランカラン」とドアに付けられた鐘が鳴る。
 先ほどとは打って変わって静かな雰囲気の店だった。なぜか店内には音楽も流れておらず、外の道路には車もほとんど走っていないため、静寂で穏やかな空間だった。僕ら以外に客は2、3人しかおらず、僕はこの空間に安心感を覚える。僕らはさっきと同じように4人掛けのテーブルに座った。
「ご注文は」
 店員さんがメニューを聞きにくる。めぐさんはメニューを手に取り、彼女は「何にする?」とラッピングされたページをめくる。白いページに天井の電灯が反射し、彼女の日焼けした顔を僅かに白く照らした。僕はミックスサンドとオレンジジュースを注文し、彼女は
「じゃあ私も同じので」
 と僕と同じメニューを注文した。

 ビデオカメラの電源を入れ、ツマミやボタンを操作する僕にめぐさんはさっきの話をする。
「さっき店に入ってきたあの元カレ、本当にヤバいやつでさ」
「あの人ですよね? そうなんですか」
 僕はモニターに映る選択画面を操作しながら、時々めぐさんの方を見ながら相槌を打つ。
「私とヤってる最中にテレビでAV流し始めるんだよ。どう思う?」
「そう・・なんですか」
 僕は彼女のワードに衝撃を受けすぎて、返答ができなくなる。僕は実際にこんな言葉を使って話す人と初めて会った。どう思うって言われても、いま彼女の話に乗っかると自分も卑猥なセリフを言ってしまいそうなので、無難な返事をしてしまう。
「嫌でしょ。もしあなたの彼女が、あなたとヤってる最中にエロ動画流し始めたら」
 彼女の口から次々と刺激の強いワードが飛び出す。天気の話をするような口調でこんな話をしてきたので、彼女は日常的にこんな話を人としてるんだろうなと思う。僕は今まで誰ともこんな話をしたことがないので、なにを返せばいいのか分からない。だから当たり障りのない
「まあそうですかね」
 というフレーズを言った。いま僕が言ったこのセリフが、あんな下品なセリフへの返答なんだと思うと目を覆いたくなる。一体自分は誰と何の話をしているんだろう。
「そんなボタンがいっぱい付いたカメラ使えるんだ。すごいね」
 そんな話をしたかと思うと彼女はいきなり話を変える。そして物珍しそうに僕が手に持って操作しているカメラを眺める。
「いや、実は僕もよく分かってないんですけど」
「これで私を撮るの?」
「そうです。映画に映ります。多分」
 僕はそう言ってカメラのレンズを彼女に向けた。自動で被写体の彼女にピントが合い、高解像度の美しい顔がモニターに映し出される。僕は画面越しに、めぐさんを観ながら
「じゃあ撮っていいですか?」と聞く。
 彼女は水を飲みながら「どうぞ」と答える。僕はカメラの録画ボタンを押し、《●REC》のマークが表示されるのを確認した。
「あなた、カメラがとっても似合うね」
 めぐさんは足を組んで、カメラを手に持った僕に言う。僕が「そうですか?」と言ったのと同じタイミングで、さっき注文したミッスクサンドが届いた。
「おお! おいしそう!」
 めぐさんと僕の前に、全く同じメニューが置かれる。思ったよりサンドイッチの量が多くてびっくりした。彼女はカメラを手に持ったままの僕に言う。
「食べようよ」
「そうですね。もらいます」
 僕はカメラをテーブルに置き、彼女が映るようにカメラの下に布巾を敷いて、角度を合わせた。
「お父さんがやっていたグループとは交流があったんですか」
 僕はサンドイッチを食べながら聞く。彼女もまたサンドイッチを頬張りながら答える。
「うん。ちょっとはね。私が生まれる前からパパはあの活動してたから。グループの人も家にもよく遊びに来てたし」
「解散したのはいつです?」
「私が中1のときだったから・・7年前?」
「お父さんは3年前に亡くなられてますね」
「そう、パパが死んだのは私が16歳のころ。事故で、私はそれをいきなり知らされたから実感がなかったの。パパを亡くしたことを受け入れるまでは時間がかかった」
「・・そうですか」
 僕は淡々とそのことを話す彼女が、さっきあんな話をしていた人と同一人物だということに気がつく。話すトーンは先ほどとあまり変わっていなかった。だから、当時を思い出して悲しみに暮れている様子も彼女からは感じ取れなかった。
「でもね」
 僕は彼女がそれを言った瞬間ハッとする。そこだけ声が少し大きくなった気がしたからだ。
「パパが本当に事故で亡くなったのかな、って今となっては思うの」
 彼女の口からは僕が思ってもいなかった言葉が発せられた。僕は思わず聞き返す。
「・・というと」
「パパは芸術家特有というか、よく思い詰めたり、心が一気に沈んだりするような人で。私はパパが亡くなった現場を見たわけじゃないから分からないけど、もしかしたらなんて思ったりして」
 彼女は僕の目を見ないで、テーブルに視線を落としながら、その話をしてくれた。現時点の僕では、今どれだけ考えても、彼女が経験した過去について触れるのに適切な言葉は出そうになかった。
 彼女はサンドイッチの残りを食べながらさっきの続きを話した。
「でも私には分からない。パパは、娘の私でさえ全貌を把握できないような人だったから」
 彼女が話す内容は、第3者の僕からすると悲しい過去のように思えたが、本人はその過去を実際にどう捉えているのかは分からない。
 僕は間を追いてからもうひとつ質問をした。
「元『大橋額団』の人たちはそのあと会ったんですか」
「そう、パパが亡くなったときに心配して会いにきてくれたの。パパとグループで一番仲が良かった大川さんっていう人なんか、辛くなったらいつでもおいでって言ってくれた」
「優しいんですね」
「うん。パパの友達は本当にみんな優しくて、でもそのあとに会うことはほとんどなかった」
「え? そうなんですか」
「そう。どういうわけかね」 
 僕らはサンドイッチを食べ終えて、しばらくのんびりとしていた。僕はこれ以上は質問をしないでおこうと思い、あとは彼女が話している姿を録画し続けた。
 時間が経ち、店の閉店時間が近づいたのか、店員さんが慌ただしく片付けを初めていた。
「もう閉まるんじゃない。そろそろ行こっか」
 真っ暗の窓の外を見ながらめぐさんは言う。
「はい」
 僕はカメラの録画停止を押して、バッグの中にしまった。席を立ち上がり、またバッグを肩にかけてレジに向かう。
「あ、お代は僕が出しておきます。せっかくお話聞かせてもらえたんだし」
 僕は財布を取り出し彼女に言う。
「え? いいの。なんか申し訳ないけど」
「いや、いいんです全然」
「うへへ、ありがとう」
 僕らは店の外に出る。少し寒くなっていることに気がつく。やはりこの辺りは音の少ない静かな場所だった。
「おいしかったね、サンドイッチ」
「そうですね」
 僕は何気ない返答をしながら彼女の方を向くと、改めて、彼女の驚くほど露出度の高い服装に目が行く。肩やお腹を出して、脚も太ももから剥き出しになっている。寒くないんですか、と聞こうかと思ったが、やっぱりやめた。
「これからどうしよっか。もう帰っちゃう?」
「いや、まだ時間的には大丈夫ですけど・・どっか行きますか」
「そうねぇ。風俗とか?」
「何でですか」
 僕は自然とツッコミを入れる。未成年にして大人の夜の世界を完全に知っている。僕とは全てが対照的な人だな、と思った。
「2人で行くのおかしいじゃないですか。15歳は絶対追い返されるし・・」
「大丈夫だって」
 彼女は笑いながら言う。僕をからかって言ってるようにも見えたし、本当に連れて行こうと思って言っているようにも見える。本当に、僕はこの人と本当に一緒にいていいのか? と不安になる。一歩間違えれば犯罪に巻き込まれるんじゃないか。どこまでが本気なのか分からない。
「いや・・僕はホントに行かないですから。今日は帰ります」
「そうかぁ。帰っちゃうか」
 この辺りには確かバス停があったのを思い出して、今日はバスで帰ることに決めた。夜も遅くなったし、これ以上この人といると、危険な領域に足を踏み入れるんじゃないかと怖くなっていた。
 僕はバス停がある方向に体を向けて、めぐさんに言う。
「ではまた」
「ちょっと待ってよ。これから毎日取材にくる感じ?」
「日程の合う日でいいです。僕はいつでも行きます」
「私はいつも暇だからいつ来てもいいよ。いちおう電話番号教えとこっか?」
「あ、すみません。じゃあ・・」
「ペンと紙ある?」
「ペン・・しかないです」
 僕は昔から使っている赤いマジックをカバンから取り出す。
「じゃあ、あなたの手に書いとくね」
 めぐさんはそう言って僕の手の平に、自分の携帯の番号を書いた。可愛らしい丸い字が僕の手に記される。僕は思わずじっくり眺めてしまう。
「明日来ていいよ。ちょっと出かけるんだけど」
「そうですか、じゃあ明日行きます」
 そう言って、僕の1日目の取材は終わった。バスに乗って家に帰ってから思った。僕にこの仕事を任せるのは間違ってる。
 ベッドに寝っ転がって、彼女が僕の手に書いた文字を見ながらいろんなことを考える。もしかしたら僕と彼女は何年も前に会っていたのかもしれない。少なくとも僕は彼女の父親には会っている。でもどういう運命の巡り合わせか、このタイミングで不思議な出会い方をした。
 彼女の人物像は僕が想像していた19歳の少女とかけ離れていた。僕の印象では、彼女は完全に夜の世界の人に思えた。そもそも彼女がいつもいるというあの店自体、高校生の僕が入ってはいけない場所だと思う。だからそこ、悪い人ではないと分かっていながらも、あの人やあの人の仲間と一緒にいていいものなのか、すごく不安になる。
 明日行くことになったけど、やっぱり別の人に代わってもらおうかと思い、父親に電話するため携帯をとる。すると僕と会社でバイトをしている同級生からLINEが来ていた。
「功一のお父さん取材でアメリカ行っちゃったぞ。バイト代の先払いの分と生活費、口座に振り込んどくって言ってた」
 なんと。家に帰っていないから遅くまで仕事をしているのかと思ったが、すでにアメリカに言ってしまったらしい。パパが記者だった頃からこんなことは何回もあったので今更驚くことはなかったが、バイト代を先払いされてるとなると、途中でやめるわけにもいかないじゃないか。


 次の日、朝の9時にめぐさんと待ち合わせをしており、僕は彼女のアパートの前にいた。お洒落なアパートを見上げてめぐさんを待っている最中、僕は父さんの会社で毎日動画データに日付をつけるバイトの日々から、見知らぬ人を取材する日々に代わっていることに気がつく。というか、これからさらにそれを実感することになる。ドキュメンタリーになるのは数分だとしても、膨大な量のデータを記録するのは普通なのだから。僕は大橋めぐという人間像をカメラに収める必要がある。
 アパートの階段をめぐさんが下ってくる。手を降ってくれたので、僕は手を振り返す。彼女は昨日と似たような格好で、やはり大胆に出した足に目が行く。そして何やら小さいリュックを背負っている。
「お待たせしてごめんね」
「あの、今日はどこに行くんですか」
「今日こっから車で1時間くらいのところにあるでっかい公園でイベントがあんのよ。そこにお呼ばれしちゃって」
「イベント? 出店するんですか」
「そう。似顔絵を描く仕事」
 僕は予想もしていなかった彼女の仕事に驚く。夜の世界の女性という、僕の彼女に対するイメージとは対局の仕事だったからだ。やはり芸術家の娘なんだと改めて思う。
「タクシーで行こっか」彼女はそう言ってリュックを背負い直した。


 タクシーで目的地に向かう最中、彼女はリュックから黄色いベレー帽を取り出して被った。
「似合うかな?」と僕に聞く。「とっても似合います」と僕が言うと
「へへ、ありがとう」と少し照れたように笑った。
「カメラ回していいですか?」
 僕はバッグからまたビデオカメラを取り出して彼女に聞く。
「もう回すんだね。いいよ」
 昨日とは違って、朝の明るい光に照らされた彼女の顔がフレームに映る。彼女は窓の外を眺めたあと、カメラを持つ僕に言った。
「功一くんっていま高校生だよね。学校行ってるの?」
「僕いま夏休みなんです。毎日家にいても暇なんで、バイトで」
「あ、そうなのね。バイトかぁ。ドキュメンタリーってどんな風に作ってんの?」
 彼女は腕を組んで、僕の方に体を向けて聞く。僕はタクシーの中で思ったより彼女と距離が近くなっていることにドキっとしたが、平静を保ったまま、カメラを持って答える。
「バイトなんで詳しくは知らないんですけど、うちの会社は他から依頼されてて」
「あ、別の会社から?」
「はい。それで今回製作するドキュメンタリーはかなりの数の人にスポットを当ててつくる・・とか言ってました」
「その中に私も入ってるわけだ」
「はい」
「私は別に普通の人だからどうなんだろうね。パパが有名っていうだけで」
 そう言って、彼女はまた窓の外を見る。僕はモニターに映るめぐさんと見続けていた。流れていく風景を眺める彼女の横顔が、驚くほど美しい。
 彼女はそうだ、と思い出したように僕に聞いた。
「あなたの名字『大方(おおかた)』だったよね」
 僕はこれから何を言われるんだろうと不安になりながら「そうです」と答える。
 彼女は僕を今まで以上にしっかりと見つめ、僕に聞いた。
「昔にパパと仲が良かった記者の大方さんって言う人がいるんだけど、あなたもしかして・・その人の息子?」
 なんと。まさか彼女が僕の父さんを覚えていたとは。父さんは忘れているよと言っていたが、彼女はしっかりと覚えていた。僕は嘘をつく必要もないので、彼女に白状する。
「はい。そうです」
 彼女は目を見開いて驚いた顔を見せる。僕のことを今まで見ていた目とは違った目で見た瞬間に違いない。そして彼女は呆れたような、安堵したときのような笑顔になり、
「ねえー! なんで黙ってたの!」
 と僕の肩を叩いた。
「すいません。いや・・まさか僕の父を覚えていたとは」
「覚えてるよそりゃ。まさかとは思ったけど、そうだったのね。あなた恐ろしいね」
「言う必要もないと思って・・あの、僕が言ってた会社っていうのは、僕の父が記者を辞めてから作った会社です」
「うわぁ、そういうことね。いや、覚えてる。私が小さかった頃に家によく来て遊んでくれたあの人。子供いたんだね」
「はい。僕です」
「不思議な巡り合わせ・・じゃあ私たちもっと前に会ってたかもしれない」
「そうですね」
 僕は父さんがめぐさんに「何回か」あったことがあると言っていたことから2、3回しかあったことがない関係なのかなと思っていた。でも、めぐさんは父さんの名前まで覚えいたし、「遊んでもらった」とまで言っていたから、実際はもっと深い親しい関係だったことに気がつく。


 ベレー帽を被って目の前の少女を描き続けるめぐさんを、僕はシートに三角座りをしたまま撮り続けていた。僕は徐々に完成していく似顔絵の完成度に驚嘆していたが、よく考えるとそりゃそうだよな、と気がつく。ただ、前衛的で抽象的な絵を描いていた彼女の父親とはまるで違う方向性に思える。
 彼女は長いこと走らせていた鉛筆の手を止め、消しゴムでわずかに修正を加えたあと、少女に言った。
「はい、できたよ」
 絵を見た少女は「うわぁ、すごーい!ありがとう」と笑顔を見せ、彼女の母親であろう人に絵を見せる。彼女はそれを見て「すごーい!」と驚きの表情を見せ、そして親子はめぐさんに礼を言って帰っていった。
「絵、本当にお上手なんですね」
 僕は鉛筆の粉で汚れた手を拭く彼女に言う。あの親子と同じ熱量で僕も驚いていた。
「そうかな? ホントに大したことないんだけど」
 そう言って彼女は椅子を降り、僕の前にあぐらかいて座った。シートの上には彼女がもってきた弁当や画材が置かれており、僕のカメラバッグも置かれている。
 めぐさんはペットボトルの水を飲んだあと、リラックスした姿勢で行き交う人を眺めながら話してくれた。
「わたし美術の専門学校に入ったんだけどね、途中でやめちゃった」
「そうなんですか」
 僕はカメラのモニターに映る木漏れ日の中の彼女を見ながら、そう返事をする。彼女は遠くで凧揚げをする子供たちを見続けたまま話し続ける。
「美術系の高校でもなんでもなかったんだけど、本当になんとなくでって言ったら変なんだけど。でも半年でやめちゃってね。高いお金払って入ったのに勝手にやめて! ってママに怒られて」
「なんでやめたんですか?」
 僕は咄嗟にそう聞いたが、今の聞き方が失礼じゃなかったか、言い終わった瞬間に心の中で何度も確かめる。だが彼女がさっきより明るいトーンで答えてくれたので、僕の不安は消えた。
「周りの人が凄すぎて、私は到底及ぼないって思っちゃって。まあ他にも色々とね」
 他の「色々」が一体なんなのかはあえて聞かなかった。気にはなったが、それはめぐさんが話したくないことなのかもしれないし、分からないままにするのが自分にとってはいいかと思ったからだった。
「お腹減らない? もうお昼でしょ」彼女は布に包んだ弁当箱を手に取った。
「いや、あんまりお腹空いてないです」
「あ、そう。私はもらうよ」
 彼女は弁当箱にチャーハンを入れてきていた。手作りなんだろうか。だとしたら意外と家庭的な人なのかもしれない。
「絵はお父さんに教えてもらったんですか」
 チャーハンを食べる彼女に僕は聞いてみる。彼女は口にチャーハンを頬張ったまま答える。
「いや、私はパパに絵を教えてもらったことは一度もない」
「そうなんですか」
「パパがやってたことは私には理解できなかった。というか、普通の人には理解し難いようなことしかやってなかったから。それがたまたま海外で評価されたわけで」
 風が吹いて、頭上の木が揺れた。彼女は目にかかった髪の毛を、スプーンを持った方の手で振り払う。そして彼女は過去を思い出すようにして話し出した。
「パパはいつも仕事のことばっかりでさ、心から楽しんでやってるのは分かったんだけど、家族よりそっちの方が好きだったのかなって」
 僕はその言葉を聞いた瞬間、彼女のような人でも寂しい思いをした事があったんだろうかと想像する。彼女の瞳が白い光を反射させているのを見ながら、僕は話を聞き続ける。
「もちろん遊んでもらったこともあるし、楽しい思い出だってあるけどね」
「はあ・・」
「でも実際、パパはいつも忙しそうで、私とはたまに会うくらい。家族に思い入れがなかったのかもね」
 そんなことありません、と言いたかったが、やはりやめた。出会ったばかりの人の人生なんて僕に分かるはずがない。その人なりの価値観や捉え方に口出しする権利なんて自分にはない。
 そして彼女が「家族」と言ったことから、彼女の母親の存在が頭をよぎる。彼女は一人暮らしをしているらしいが、母親の話を聞いていない。父親から「連絡が取れない」と聞いていたのも気になる。
「あたなは私のパパに会ったことはあるの? ほら、パパはよくあなたのお父さんの家に行ってたし」
 彼女はチャーハンを食べ終わり、弁当箱の蓋を閉めて僕に聞く。僕はカメラのモニターを一瞬見たあと、彼女の方を向いて答えた。
「1回だけ・・ですね。僕はあんまり覚えてなかったんですけど」
「あ、そうなんだ・・。私はてっきりあの人が独身だとばかり。こんなこともあるもんだね」
「そうですね」
 よく考えると、昨日あったばかりのよく知らない女性となんでこんなにも話してるんだろうと、ふと我に帰る。いろんな話をしているが、所詮、僕たちはあったばかりの関係性に過ぎない。こんな見ず知らずの高校生に、彼女はなぜこんなにも軽快に話すことができるのか。考えれが考えるほど分からない。
 彼女はシートの上であぐらをかいて、太ももの上に肘を置いて頬杖をついて、僕に上目使いに僕に話す。
「ちょっと思ったんだけどさ、芸術家って普通の生き方をしない人でもあるじゃん。常人とはかけ離れた、生涯童貞だったり、引っ越しまくったり、風呂に入らなかったり」
「はい・・」
「パパは芸術家にしては随分普通だって思われがちだったけど、本当はやっぱり異常な人種だった。天井まで隅々に丸の形を描きまくったり、1日のほとんどの時間を屋根で過ごしたり」
「へえ」
「私はそんな人の娘だけど、そういうぶっ飛んだ人たちに比べたら全然普通の生き方をしてる。毎日風呂にも入るし、SEXもする」
「はあ・・」
 僕は慌ててあたりをキョロキョロと見回す。あたりには親子連れとか子供がいっぱいいるじゃないか。そんな人たちの耳に今のワードが入ったらどうするんだろう。昼間からこんなワードを使って話すとは。昨日と同じくいきなりだったので、僕は返答に困る。彼女は周りを気にしている僕を不思議そうに見て聞く。
「ん・・どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないです」
 慌てて彼女の方を向き直して言う。めぐさんは、自分が言った大人なワードが周りを気まずくさせていないかなどは全く気にしていない顔をしたので、むしろ清々しい気持ちにもなったが、僕はそんな話し方をするのが19歳の少女だということに戸惑いを隠せない。
 めぐさんは僕にお構いなく話し続ける。
「だから2世みたいな感じで取り上げられても、私はパパと似ても似つかない。奇抜な人の子供が奇抜とは限らない」
「そうですかね」
「そうだよ。パパだって私に特別なものを見出していたとも思えないし、そもそも、私をなんとも思ってなかったと思う」
 彼女はそう言って、また公園を歩く人に視線を向けた。
 めぐさんはそう言うが、やはり彼女は父親の遺伝子を確かに受け継いでいるのではないかと思った。似顔絵の上手さにしても、芸術家の娘であることが関係があるのではないだろうか。勝手にそう思ってしまう。
「すみませーん」
 そんなことを思っているうちに次のお客さんが来た。「はぁい」と彼女は立ち上がり、10歳ほどのお客さんの方に歩み寄る。僕はそんな彼女をカメラで追う。
 僕は彼女がまた同じように似顔絵を描き終えるのを撮り続けた。その後も数人お客さんが来て、気がつくと夕方近くになっていた。公園内を歩く人の姿は少なくなり、他の店を出していた人は撤収作業を始め出す。
「もうこんな時間かぁ。そろそろ終わろっか」 腕時計を観ながら彼女は言った。
「帰りましょう」
 僕は立ち上がってカメラのモニターを見る。するとバッテリー残量がかなり少なくなっていることに気がつく。録画の停止を押し、カメラをバッグに入れる。
「あ、もう撮らないの?」
「バッテリーがもうないんで、今日はこの辺で」
「そう。じゃあこの近くのファミレス行かない? お腹減ったでしょ」
「あ、行きます」
 僕らは荷物をまとめ、公園を出て道路沿いにあるファミレスに行った。休日で、チェーン店でそこそこ有名なはずなのに、なぜか人が少ない。僕らは奥の方のソファーがある席を選んで座る。彼女はメニューを手に取り、パラパラとめくった。
「どれにしよっかな〜。功一くん、何がいい?」 
 僕はまた名前を呼ばれてハッとする。あまり知らない女性が僕の名を口にしている状況に、どうしても違和感を感じてしまう。
「そうですね、あんまりそんなガッツリは・・」
「そうなの? いっぱい食べた方がいいよ。あなためちゃ痩せてるから」
「そうですかね」
 普段親戚に言われるようなことだった。あったばかりの人にも言われるくらいだから、僕は相当痩せてるのだろうか。
 そしてめぐさんは「わたしセットのビーフシチューで」と言ったので、僕も「じゃあ同じので」と言って、ボタンを押して店員さんを呼び、注文した。
 めぐさんは黄色いベレー帽を脱ぎ、テーブルの上に置く。彼女の黒いショートヘアーが光を反射している。
 彼女は水を飲んだあと、僕のバッグについている雫の形をしたキャラクターのストラップを指差して僕に言った。
「何それかわいいね」
「これですか? もらったんです」
「へえ。元カノからもらったの?」
「いや、違います。彼女いたことないですし・・」
「そうなの? え、じゃあ誰から?」
「部活の先輩です」
「部活ねえ。なに部なの?」
「吹奏楽部です。中学校のときですけど」
「マジで? へえー超意外だった。吹奏楽部だったの?」
「はい」
 僕はもう一度キーホルダーを見る。先輩に誕生日のときにもらって以来ずっと付けていたが、まさかこのタイミングでこれについて話すことになるとは。
「吹奏楽部っていうと女子ばっかりじゃん。彼女いてもおかしくないじゃん?」
「なんというか、いなかったですね。彼女は」
「そうなの。でもあなたよく見るとイケメンだからモテると思うけど」
 彼女はそう言って僕の目をじっと見る。彼女ほど目をよく見て話す人と出会ったことがない。そんなにまじまじと見られると緊張する。
 僕は「ああ、ありがとうございます」とだけ答えた。彼女はなんとなく嘘のつけないような人に思えたが、これに関しては本当に思ってるかどうか。
 彼女は大きな目で僕の表情をしっかりと見ながら、何かを探るように僕にこんなことを聞いた。
「功一くん、女子とSEXしたことある?」
 また・・というか、なんでそんなこと聞きたがるのか分からないが、ついに自分のパーソナルな部分を離さないといけないと感じる。今までの人生でこんなネタを話したことはないし、話している自分も想像できなかった。心臓が中に浮いたような感覚で、僕は答える。
「ない・・です」
「マジで?」
 彼女は笑いながら僕の方に僅かに前のめりになって聞く。僕をバカにしてるのか、あるいは本気で僕のことを知りたがっているのか。僕は自分が「ない」と言ったのを聞いて、改めて自分がそんな経験をしてこなかった事実に気がつく。
 彼女は年下の僕を見透かすような目でまた聞いた。
「そういう映像見たことはあるでしょ。男女がヤってるような」
 もうやめてくれ・・と心の中で言いながら、僕は彼女の質問にまた答えてしまう。
「まあ・・あります」
「うそー! 功一くんは純粋無垢な子だと思ってたのにぃ」
 彼女は口元を両手で押さえた。目元は確実に笑っている。自分で聞いておいてこれだからなぁ・・
「初めて見たのはいつなの?」
「いやそれは・・」
 なんでこんなこと答えなきゃいけないんだと、僕はこの質問に答える意味を探す。そして、僕は彼女に
「なんで僕にそんなこと聞くんですか?」
 と聞いてみる。彼女が投げかけてくる質問は、昨日出会ったばかりの男に聞くようなことじゃない。
「私は今日あなたの質問にいっぱい答えたでしょ。だから、あなたも私の質問に答えて!」
 僕は彼女にそれを言われ何も反論できなくなってしまった。そして自分の中に、もう羞恥心を捨ててなんでも答えてしまおうと言う感情が芽生える。そして、僕は数年間を思い起こして言った。
「中1・・とかじゃないですか。屋根裏の部屋にVHSテープがあって、その・・アダルトの」
「ふむふむ」
「プレイヤーもあったんで、それで見たのが最初です。それがあまりにも過激で・・」
「抜いた?」
 彼女は僕の目を真っ直ぐに見たまま、最低の質問を投げかける。僕は俯いたまま、少し間を置いてから答える。
「はい」
「いっぱい出した?」
「最低の下ネタ・・あの、もう帰っていいですか!?」
 僕は下ネタの質問に応じ続けるこの状況がやはり耐えられなくなり、席を立ち上がる。僕は羞恥心と、自分がこんな話をしていいものかという背徳感で胸が苦しくなっていた。
「ああ、ごめんごめん! 頼むから功一くん行かないでぇ〜」
 彼女はそう言って僕の手を掴んで引き止める。座ったまま上目遣いに僕の方を見る彼女を見る。改めて、この純粋そうな見た目の少女がこんな下品な会話をする人だとは思えない。
「頼んだメニューだってまだ来てないんだしさ、ほら」
 彼女は僕の手を下に引っ張り、座らせようとする。僕は「ほんとに・・」と言ってまた席に座った。全く、なんて19歳だろう。彼女は15歳の僕に下品な話をしたときにどんな反応をするかを楽しんでいるんだろうか。こんな話を彼女はお父さんの話をするときと同じトーンでするので、それにも驚く。
 彼女は僕がまた席に座ったのを見て、また少し僕に顔を近づけて話しだす。
「でもそれがあなたの初オナニーだよね?」
「・・そうですけど、なんでここでそんなこと話すんですか」
「私はあなたに興味あるの。あなたみたいな年齢の人と一回も喋ったことないし」
「下ネタ言うのやめてください」
「別にオナニーは下ネタじゃないよ。思春期の大事な行為」
「そういうこと言う人いますけど」
 こんなに卑猥なワードを年下に使う19歳がいるんだ、と思った。彼女の話に合わせている自分がすごく気持ち悪く感じたし、不潔な人間に思えてくる。
「じゃあ、功一くんはいつもそのAVで抜いてたんだ」
「まだ言いますか」
「だってそうなんでしょ? 実際。ほら、男って気に入ったAVは何回も使うって言うじゃん」
 ああ、いつまでこの最低の話が続くんだろうと思いつつ、もうやけくそになっている自分もいる。だからなのか、何故か僕はこんな返答をしてしまった。
「使う・・って言うとアレすることが目的になってるじゃないですか。映像に対する敬意がないっていうか」
「なるほど。功一くん、エロに真摯に向き合ってるね」
「いや・・やっぱりリスペクトが要ります・・」
 何を言ってるんだコイツはと、話し続ける自分に言いたくなる。自分の口から発せられる言葉が、こんなにも低俗だったことがかつてあるだろうか。
 めぐさんはまた頬杖をつきながら、キラキラした純粋な目で、容赦ない質問を僕に繰り返す。
「いつもどこでオナニーしてるの?」
「もうやめ・・」
「ちゃんと答えて!! いつも、どこで抜いてるの??」
「・・・・風呂場とか」
「マジで? え、もうそこで射精・・してるの?」
「・・はい。いや、もうこんなこと話したくないんです! やめてください本当に」
 もう一度、僕は彼女に言う。身を乗り出して、笑いながら話す彼女をまっすぐに見て言う。
「もう、怒らないでよ功一くん。分かった。もうやめるからっ」
 僕は彼女に弄ばれているようだった。怒らないでって言っても、ちょっとはこっちの気持ちも考えて欲しい。彼女は組んだ足を横に出してブラブラさせながら、ソファーにもたれた。彼女は普段からこんな会話に慣れているという雰囲気を感じる。
「お待たせしました」
 ここでやっと注文したメニューが届く。ここまですごく長く感じた。食事が届くことで、この最低の会話を中断させることができる気がして、僕は少し安心する。
「めちゃ美味そうじゃん。食べようよ功一くん」
「はい」
 滅多に食べることのない料理を不思議なタイミングで食べる。外食特有の濃い味が口の中に広がり、美味しいとは思いつつ口の中を水で薄める。だが穴の空いた氷が邪魔して最後の水までちゃんと飲めない。
「あなたのお父さん元気なの? 久しぶりに会ってみたい」
「ああ、父親は元気です。でも今はアメリカに行っちゃいました」
「アメリカ? 取材かなんか?」
「ええ、まあそう聞いてます」
 深夜に送られてきたLINEを思い出す。友達経由でこんなことを知るなんて、普通に考えたらおかしな話だと、今更ながら思う。
 めぐさんの綺麗な食べ方が、思わず目にとまる。こんな少女のような見た目で僕に話す内容はあんなにも下品なのに、所々で育ちの良さが出ている気がする。
「あなたと私にギャラって出るのかな?」
 彼女は急に僕に言う。ギャラ? そういえば確かに、彼女の取材のギャラについて話を聞いていなかった。
「僕は先払いで貰いました。めぐさんの分は・・ちょっと聞いておきます」
「じゃあじゃあ、こうしない? あなたが私に取材する間、あなたは私と外食するときに全部おごる。それでどう?」
「え。全部、ですか」
「もちろんあなたのお金でじゃないよ。会社の経費かなんかで。私の出演費はそれだけでいい」
「なるほど。じゃあそうしましょうか。会社に取材費って言ってお金出してもらいます」
「やっほい! いろんな店行きまくろう」
 なんか勝手に僕らで決めてしまったが、いいんだろうか。あとあと考えると、ドキュメンタリーで密着されてる人に果たしてギャラが出るものなのか、怪しくなってくる。
 2人とも食べ終わり、めぐさんはリラックスした姿勢で天井を眺め、僕は空になった皿を眺め続けていた。
 彼女は真っ赤なネイルの爪を眺めたあと、また僕を見る。
「ここのファミレス、高校のときに当時の彼氏と来たの。初デートで」
「ああ・・昨日言ってた人ではないですか?」
「違う違う。その前の、いや前のまえ・・かな。そのとき以来、ここに別の人と2人だけで来るのは初めて」
「へえ・・」
「私、中2から去年くらいまでずっと彼氏はいたんだけど、前の彼氏と別れて以来ずっといないんだよね」
 彼女がなぜ僕に自分の恋愛の話をしてくれるのかは謎だったが、やはり僕とは別の世界にいる人だと再認識する。僕と彼女はまるで見てきた世界が違う。
 彼女は机の上で腕を組んだ状態で話す。
「あなたは彼女つくんないんだ。ていうか好きな子とかは居たの?」
「いるのはいました。向こうからすごい話しかけてくれたり、手振ってくれたり」
「ええ!? 向こうから? それもう好きだったんじゃん」
 彼女は両頬に手を当て、眉をクイッと上に上げる。いかにもな反応だ。
「でもその子は彼氏がいるって分かって。で、それが僕と仲が良かった友達で」
「マジで!? 切ないね〜。抱きしめてあげる」
 彼女はそう言って僕の方に両腕を伸ばす。僕は複雑な気持ちのまま、苦笑いで彼女に手のひらを向ける。
「いや、それはほんと・・大丈夫です」
「いいの?」
「ええ」
 こんなことを話すためにこの人に会いに来たわけじゃないのに、なぜか話してしまっている自分に驚く。こんな恥ずかしい会話は今すぐやめろ、と脳内にいる自分が話しかける。
「でもその子とヤってるの想像してオナニーしてたでしょ?」
「また・・」
 僕は両腕で頬杖をつき、懲りずに卑猥なことを言い続ける彼女に、何をいえばいいか考える。
「なによ。やってたんでしょ?」
「そんなことは言いたくないです。そもそもさっきから趣味が悪いですよ! 僕をバカにしてるんですか!?」僕は前のめりに話す彼女と同じように、両腕の手の平を机に置いて、彼女に顔を近づけて言った。
「だーかーらー、バカになんかしてないって。それに否定しないってことはやってるじゃん。カワイイね」
 こっちは必死で言ったのにも関わらず、彼女は白い歯を見せて、目を細めて笑う。そして僕を挑発するように、厚底の靴を履いた足を揺らす。彼女に好き放題に弄ばれる状況から抜け出せない気がして悔しくなった。もう自分がなんなのか分からない。今は彼女に遊ばれ続ける存在なのかもしれない。
「気を悪くしないでね。あなたが面白かったから。すぐ意地になってカワイイね」
「カワイイっていうのも・・やめてください」
 気がつくともう9時半を超えている。こんな話もずっとしてられないのでそろそろ帰ろうかと思った瞬間、めぐさんが「こっから歩いて5分くらいのところにある街、あなたに案内したい」と言い出す。
「なんですか? 街?」
「知る人ぞ知るラブホ街。私が散々お世話になったところ」
「いや・・行かないですよ」
「行った方がいいよ。デリヘル嬢とか呼んで。あなたにはそういう経験が必要」
「そんなこと言ったって・・」
「1万円ポッキリでなんでもやってくれるところがあるらしいよ。あんなことやこんなこと・・場所を変えて、うふふ・・ヤり放題」
「帰ります」
「ねええー!! すぐ帰ろうとしないで! ごめん、ごめんって!」
 彼女はまた立ちあがった僕の手を掴む。彼女も少し腰を浮かして、しかも今度は両手で僕の手をがっしりと掴む。そして僕に早口で言った。
「そうだ、功一くんこのあと暇だったら、よかったらあのバーに行こうよ。ね?」
「そうですか・・じゃあ行きます」
「よし。じゃあ行こう行こう」


 バーは昨日より人が多い印象だった。店に入って、6人がけのテーブルに僕とめぐさんが向かい合わせに座ると、僕とめぐさんが2人いるのを珍しがるように人が集まってきた。昨日の銀髪の店員さんが「座っていいかしら?」とめぐさんの隣に座る。
「ちょっと、あんた店番はいいの?」
 めぐさんは銀髪の彼女に言う。
「いいのよ。さとみんにまさせちゃった。てかあなたたち昨日いつの間にか消えてたじゃん」
「ちょっと彼と裏ルートから抜け出しちゃった」
「裏ルートって・・元カレが来たからでしょ。知ってるよ」
「バレてた?」
「トイレの窓は私が元に戻したつーの。ていうか、あなたはなんでこんな不良少女を取材してるの?」
 銀髪の彼女は僕の方を向いて言った。天井の照明が、銀色の光沢を眩しく光らせる。
「不良少女じゃないから」
 めぐさんは隣の彼女にクルッと顔を向ける。僕は理由を言っていいものなのか数秒迷ったが、次の瞬間には答えていた。
「ドキュメンタリー映画を制作してて、それでめぐさんの撮影取材を頼まれて」
「ええ! すごいじゃんめぐみん。そういえばお父さんがすごい有名なんだってね」
 彼女はめぐさんの方をポンと叩く。めぐさんは目を細めて僕をチラッと見たあと、「そうだよ」と彼女に言った。
「たまたまパパが有名だったってだけで撮影取材されてるの。この子に」
「いや、それは有名人の2世なんてみんな気になるからだよ。でもそれがコレだからねー」
「あんたは余計なこと言わなくていいの! ごめんね功一くん。こんなクソギャル嫌だよねェ」
 めぐさんは彼女を指差して言う。このようなとき、どういう返しをしたらいいのかがいまだに分からない。無難かつ楽な「いやそんな・・」に今回も頼ってしまう。だがそんな僕の小さい声は、「クソギャルじゃないから」という声にかき消されてしまった。
 銀髪の彼女は、めぐさんから僕の方に視線をパッと写した。
「あなた功一くんって言うんだ。随分若そうだけど、いくつ?」
「15歳です」
「まじで言ってる? 少年じゃない。めぐみなんかについて大丈夫?」
「どう言う意味よ」
 めぐさんは彼女を睨んで、口を尖らせて言う。彼女めぐさんを気にせず、僕にまた聞いた。
「てかその年齢で取材任されてるの凄すぎない? 働いてるの?」
「いや、僕はただのバイトです。たまたまめぐさんの取材を任されて」
「ああそうなんだ」
 めぐさんは僕に「彼女はアヤって言って、私と同い年の友達なの」と彼女の肩に手を回し、彼女を紹介してくれた。
「よろしくね。功一くん」
 彼女は僕の方に手を差し出す。「こちらこそ」と僕は彼女と握手をした。彼女は手を離したあと、めぐさんに向かって
「『こちらこそ』とか咄嗟に言える? すごいよね」と、驚きと笑いが混ざった声で言った。
「当たり前じゃん。育ちがいいんだから」
「あなたも昨日会ったばっかでしょ」
「今日は朝からずっと一緒にいたもんね」
 僕はそんなやりとりをする彼女たちを見ながら、2人は一体いつからの仲で、どんなふうに仲良くなったんだろうと想像する。高校のときに出会ったのか、あるいはこのバーで出会ったのか。
 よく考えると、この店は「バー」というより「飲み屋」という方が正しい。人が多いし、照明以外の雰囲気は完全にバーらしくない。
「俺たちも座っていいかな?」
 髭を生やした男性と、手にビール瓶を持ったサングラスの男性がやってきて言う。そして1人はアヤさんの隣に座り、もう1人は僕の隣に座った。
「ちょっと、なんであんたらまで」
 めぐさんは男性2人と親しい仲なのだろうか。僕は見知らぬ人たちに囲まれ、ものすごく緊張する。怖い人たちではないだろうか・・と不安になる。そもそも、自分はここに居ていい人間なのかどうか。
「いいじゃん、めぐちゃん」
 サングラスの男性が、サングラスを掛け直して言った。めぐさんは腕を組んで彼に言う。
「めぐちゃんって呼ぶのやめ。『めぐ様』って呼べ」
「そんなバカな」
 そんな会話を聞きながら、小学生のときに似たようなやり取りを目にしたことを思い出す。
 アヤさんはテーブルの上で指を組んで、あちこちをキョロキョロと見回す僕に言った。
「よく考えたら15歳っていったら私の妹と同い年じゃん。妹にもあなたみたいに品のある15歳になって欲しかったわ」
「僕と同じ高一ですか」
「そう。なんか妹とあなたが会ってるところ見てみたい」
「そういえば、あの子が同い年の子と並んでる姿、想像できないね。いつも私たちぐらいの年齢に囲まれてるから」
 めぐさんは光沢のある髪を触りながら言う。妹を知ってるんだ、と少し驚いたが、確かに友達の兄弟を知ってるのは普通かもしれない。
「恋始まるんじゃないの!?」
 髭の男性が言う。
「あんたは余計なこと言わなくていいの。張り倒されたい?」 
 アヤさんが髭の男性を睨んで言う。
「ひどいなあ」
 僕はますます恥ずかしくなり、顔が熱くなってないか頬を両手で触る。帰りたい。今すぐ帰りたい。そもそも取材でもないのにこんな場所にいて良いんだろうか。
「そんなことより!! あれがないとやってらんないって」
 めぐさんがまたアヤさんの肩を叩く。
「また? あんた、ほどほどにしときなさいよ」
「いいから、持ってきてって!」
「もう」
「俺たちも頼むよ」
 どうやら何かを注文したらしい。しばらくしてアヤさんがテーブルにグラスを4つほど運んできた。グラスの中には薄い琥珀色の液体が入っている。もう大体予想できたが、やはりそうだった。
「これこれ」
 めぐさんはグラスをいち早く手に取って飲んだ。
「お酒・・飲むんですね」
「これ?」
 めぐさんがグラスを手に持ったまま、両方の眉毛を上げて僕を見る。
「いやこれお酒じゃないから」
「じゃあなんなんですか」
「アルコールの入った液体」
「お酒ですね。じゃあ」
 めぐさんはしばらく僕を見つめたあと「ぐふっ」っと言って吹き出して、声を出して笑った。僕も彼女と同じタイミングで吹き出し、それに釣られて笑ってしまう。
「面白いね。功一くん」
 彼女は笑いながら僕の右肩をポンポンと叩く。僕は笑ってる場合じゃないと自分に言い聞かせる。とんでもない世界に飛び込んだことをたった今実感した。自分の知らないアングラな世界を垣間見た瞬間だった。
 不安と恐怖が入り混じる中、彼女は僕の前に4つ目のグラスを置いて僕に言った。
「功一くん、あなたも飲みなよ」
 ・・なんてことだろう。今いちばん聞きたくない言葉だった。自分はとうとう反社会的な行動に手を染めようとしている。と言うとちょっと大袈裟かもしれないが、本当にそんな気がした。目の前の水滴にまみれたグラスをじっと見る。
 一旦落ち着いて、考える。この状況で断ったら、たぶん心から嫌われるに違いない。せっかく仲良くなっためぐさんに毛嫌いされたら、それは仕事の終わりを意味する。だから、僕は決めた。
「じゃあ・・頂きます」
 表情には一切の嫌な雰囲気を出さずに一口だけ飲む。一口ならたぶん健康被害もないと思う。僕が一口飲むその姿を見てもらって、そのあとは僕が会話を振って、お酒を忘れるほどのトークでその場をやり過ごす。それだと「功一くんなんで飲まないの??」と言われなくて済む。
 その場の全員がどういうわけか僕を見ている。グラスを手に持ち、ゆっくりひと口を飲む。甘いような、苦いような、不気味な味が口中に一瞬にして広がる。僕はできるだけ顔が歪まないように表情を保ったまま、グラスを机に置いた。そして目の前の2人に言った。
「めちゃ美味しいですね」
 なんで自分でもそんな思ってもないことを言ったのか理解できなかったが、僕がそれを言った途端、めぐさんが「ねえカワイイんだけど〜!」と両頬に手を当てる。
「お酒の感想って・・カワイイんだね功一くんって」
 アヤさんが僕を見たあと、めぐさんの方を向いて言った。
「そうだよ。この子本当カワイイんだから」
 昨日あったばかりのめぐさんが、どういうわけか長年僕を知っているかのように話す。
 僕はここでも完全にカワイイキャラにされてしまった。なんという屈辱と恥ずかしさ。しかもそれのキッカケがお酒を飲んだ感想って・・
 しばらくして、僕の恋愛事情や好きなタイプの話になる。みんな15歳の僕になぜそんなことを聞きたがるのか本当に分からないが、僕は色々と喋ってしまっていた。
「やっぱり、おっぱいは大きい方がいいの?」アヤさんが何故か興味津々に僕に聞く。
「いや、そんなこと考えたことないですね・・」
 どういう表情でこの話をすればいいのだろう。彼女の目をちゃんと見ることもできないまま、曖昧な返事をする。
「俺はDがやっぱりいいけどな」
 サングラスの男性が腕を組んでアヤさんに言った。
「あんたには聞いてないって」
「全男の憧れだからな。Dかもしくはそれ以上のサイズは」
「高望みしすぎ」めぐさんが言う。
「功一くんはおっぱいのサイズなんか気にないって顔してるでしょ!」
「どんな顔だよ」
「あんたらと違って上品で紳士だから。彼は」
 ここにいる人たちが僕にもつイメージが、実際の僕とかけ離れていることに罪悪感を覚える。僕は上品でも紳士でもなんでもないに決まってる。何故そう言うイメージを持たれるのかが分からない。
「あれ。功一くん飲まないの」
 めぐさんが全く減っていない僕のグラスを見て言った。これはまずい。
「あ、もらいます」
 僕はそう言って、結局全部を飲んでしまった。あとあと考えると普通に断ることもできたが、そのときは何故か、断るよりみんなに合わせる方を選んでしまった。
「いっぱい飲んだねぇ」
 アヤさんが最後の一口まで飲み干した僕を見て言う。するとめぐさんが「『いっぱい出したねぇ』みたいに言うな」という謎のツッコミを入れる。めぐさんは3杯目を飲み終えたところだったので、流石に酔ってきたのか。だが彼女の顔は赤くもなっていないし、意識が朦朧としてる様子も全くない。
 アヤさんも同じくらい飲んでいた。未成年にも関わらず、なんて人たちだ。だが自分も飲んでしまっている。
「ねえマジで、15歳の子の前でそんな最低の下ネタ言うのやめな?」
「下ネタって思った時点であんたの心が汚れすぎ」
「どう考えても下ネタでしょ」
 僕はそんな声を聞きながら、段々と平衡感覚がなくなったような感覚になってくる。そして目の前の風景がクルクルと周り始め、強烈な吐き気に襲われる。これはまずい。
「ん? 顔色悪いけど、どした」
「あの、すみません。ちょっと気分が・・」
「マジで? 大変じゃん」
「お酒なんか飲ませるからだよ」
「おお大丈夫か?」
「トイレ行ってきな」
 みんなが口々にしゃべるが、もう誰が何を言ってるのかも分からない。逆流しそうな感覚を懸命抑え、「トイレ行きます」と言って立ち上がる。
「よし、トイレね。私が連れて行く」
 めぐさんはそう言って立ち上がると、僕の手を引いて、昨日と同じように僕を男女共用トイレの中まで連れて行く。そして僕をトイレの前に座らせ、「吐いて! 思いっきり吐いて!」と僕の背中を叩いた。僕は綺麗でもない便座を掴み、中に戻してしまう。
 彼女は、座り込んだ僕の背中を円を描くようにさすりながら、僕の顔を覗き込むようにして見る。
「ごめんね。お酒初めてだったんだね」
 彼女はさっき男性に突っ込んでいたときとからは想像できないような優しい声で僕に話す。背中を撫で回す彼女の手の感触が、少し今の気分を和らげる。
「はい・・・・すみません」
「もう吐かない? 大丈夫?」
「・・はい」
 トイレを流し、洗面所で口を濯いだあと、彼女の肩を借りて、さっきまでの場所まで戻る。
「戻ってきたぞ」
「大丈夫?」 
 あやさんと男性2人、そして他の何人かが僕を心配してくれる。僕は今度は強烈な眠気に襲われ、僕の肩を抱いているめぐさんに聞く。
「横になれる場所ありますかね」
「あ、OK。そこのソファーで良いよね」
 彼女は6人掛けテーブルが並んだ場所の隣、壁際にあるソファーまで僕を連れて行く。僕はすぐにそこに倒れ込んでしまう。めぐさんはそんな僕に毛布を掛けてくれた。
「大丈夫なのかね」
「功一くん、家は結構遠いんでしょ」
「よく考えると撮影スタッフだよ。この子」
「どうしよっか」
 何やら向こうでめぐさんたちが話しているが、僕は段々と意識が薄れて聞こえなくなる。家でもないこんな場所で眠ってしまって、本当に自分は何を考えているんだろう。僕は取材をするためにめぐさんに会いにきたのに、夕方以降、もう取材でもなんでもない。
 僕はこの眠気に逆らえるはずもなく、気絶するように一瞬で眠ってしまった。


《後編に続く》

 
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