LAY 

文字数 56,826文字

 浜辺に横たわるその遺体を、あなたはただ眺めるだけだった。


「自分は愛されていると思う?」
「さあ・・でも、息子のためにこんなところにわざわざ場所を用意したんだから、気にかけてはくれてるんじゃ?」
「あなたのお母さんとってもいい人だよ。真面目で誠実で、あなたを見てるとそれがよく分かる」
「そうかな? 僕にも反映されてるって?」
「ええ。あなたは、自分が思ってる以上に優しい人だから」

 カウンセラーの静子が14歳の少年である悠人に優しく語りかける様子を、部屋の隅でレイは見ていた。自分と同い年の少年が自分の母親と話す様子は興味深く、2人は一体なんの話をしているのだろうと、レイはそれが気になって仕方がなかった。
 レイの母親である清野静子がカウンセリングを開くのは決まって自宅だった。洋風な広い自宅に客を招き、そこで相談や悩みを聞く。レイが幼いころからのことだったので、レイは母親が家に招く客層をよく把握していた。20〜30代の女性が多く、家庭や家族、結婚や恋愛についての悩みを抱える人が多くいた。しかし、今回は珍しく中学生の少年だった。
「兄弟はいる?」静子が机の向かいの少年に尋ねる。
「兄ちゃんが1人、あと姉ちゃんも5つ離れてるけど、どっちももう家を出て行ってる」
「じゃあ家ではあなたとご両親だけなのね?」
「そうだよ。買い物狂の母さんとアニメオタクの父さん」悠人は着ていた茶色のボタンシャツの襟を正しながら言う。静子は頬杖をついて、彼の目をしっかりと見つめた。
「あなたは両親に信頼されてると思う。あなたはそうは思ってないかもしれないけど」
「どうだろうね、1人の息子をこんなところに預けるなんて。『どうしようもない息子ですが』だってね」
「ここは何も窮屈な場所じゃない。私は変に緊張してもらいたくなくて、むしろリラックスしてほしくて、こうして自宅に来てもらってるの」
 悠人も部屋の隅で、椅子に座ってレイが見ていることに気がついていた。肩の下まで伸びた長い金髪の少女が、僅かな笑みを浮かべて自分の方を見ている。だが悠人は気づかないふりをして、目の前の静子が投げかける質問に答え続けた。
「今日はここまで。色々話してくれてありがとう」静子は1回目のカウンセリングを終えたあと、悠人に言った。
「変わったカウンセラーさんだね」悠人は椅子に座ったまま机に肘をつき、部屋全体を見回した。所々に花が飾られており、大きな窓から入る明るい光が部屋全体を照らしている。随分と広い家だな、と悠人は感心した。
「もっとゆっくりしていって良いよ」と悠人のためのお茶を沸かしに台所に行った静子に「いや、もうすぐ帰るんで、お気遣いなく」と言って悠人はスマホで時刻を確認した。10時を過ぎており、朝から長い間彼女と話したいたことに気がつく。
 ふと気がつくと、さっきまで静子が座っていた悠人の真正面の席にレイが座っており、雑誌のページをめくりながら彼の様子を伺っている。悠人はレイと一瞬目を合わせるが、すぐに逸らした。
「なんで目逸らすの」
 レイがいきなりそう言ったので、悠人は少し驚いて彼女の方を見た。レイは雑誌を閉じて机に置き、悠人の目をしっかりと見る。悠人はレイの金色に輝く髪色が目に入った瞬間、目が覚めたかのようだった。今までにこんなハッキリとした金色の髪を見たことがなかった。
「別に・・なんでもない」悠人はどんな接し方をして良いのかがまだよく分からなかったが、とりあえずそう言った。
「なんでもないことないでしょ、お客さん」
「そういうあんたは、静子さんの娘さん?」
「そう。ママの娘だよ」彼女は弾むような声で明るく言った。
 それが2人が初めてした会話だった。レイは悠人がこれまで出会ってきた人物の中で、最も自分に遠い存在に思えた。目の前にいるのが、あの有名な女性カウンセラーの娘なんだと思うと、悠人は不思議な気持ちになる。
 静子は2人にお茶を持ってきた。花柄が入ったコップも、それに注がれたお茶の色も、人の家に上がった経験の少ない悠人にとっては新鮮なものだった。
「娘のレイよ。あなたと同い年の14歳」
 静子は、お茶を飲み干す娘の肩を優しく叩いた。レイはティーカップを置いたあと、悠人に手を差し出した。
「清野レイ。よろしくね」
「ああ、よろしく」気がつくと自分の前に彼女の手があり、悠人はその手をとった。美しい目元が、彼女の母親そのものだった。
「まだ言ってなかった? カウンセリングに来た悠人くんだよ」静子は娘の近くに座り、悠人を紹介した。
「悠人くんって言うんだぁ。私と同い年ね。ふぅん・・ママのチョイスがよく分かんないね」
 レイは母親の静子と正面に座る悠人を交互に見た。「こら、そう言うこと言うもんじゃないの」
 悠人は自分の方を見てニヤッと笑ったレイの顔を見た瞬間、理由は分からないが、意識がはっきりとした。どこまでも透き通るような瞳だった。
 レイは悠人の方に身を乗り出して、唐突に「ねえ、裏山の庭園を見に行かない?」と言った。悠人は聞き返す。
「庭園?」
「森の中にあるんだよ、庭園。良かったら、一緒に行かない?」庭園はレイの昔からのお気にいりの場所だった。家の裏の小高い山の頂上にある、古い庭園だった。
「いいけど、なんで一緒に?」
「いいじゃん、ねっ」
 悠人はレイから突然「一緒に行こう」と言われたことに驚いたが、彼女の母親が「行ってきていいよ」と言ったので「分かった」と言って、レイについて行くことにした。
 静子は、裏口から庭に出て行く2人を微笑ましく眺めていた。
 レイは家の庭を抜けて、庭園まで続くちょっとした山道を登っていく。悠人はそれについて行った。
「あなたみたいな人がママのカウンセリングに来るの珍しい」レイは悠人と歩きながら、悠人にそう言った。
「そうかな? いつもはどんな人が?」
「もっと年齢が上の人が多い。中学生の男子なんて、ホント今までにいたかなぁ?」
「自宅に呼んでカウンセリングをするなんて、それこそ珍しいんじゃない」
「ママはずっと前からそういう感じなんだよ。だから今までに、レイもいろんな人見てきたよ」
 悠人はここで初めて彼女の一人称が自分の名前であることが分かった。彼自身の姉が昔そうだったため、どこか懐かしさを覚える。
「どうしてカウンセリングに?」レイは悠人がなぜここに来たのかが気になり、悠人の方を向いて訊ねてみる。
「学校とか家で上手くいってなくて、それで僕を心配した親が静子さんを紹介したんだ。ここに通えって」
「半ば強制みたいな感じ?」
「まあそうかな。こんなところ来るはずじゃなかった」
 レイはクスッと笑い、「イヤイヤ初めても最後はやって良かった、って人が多いんだよ」と目を細めた。
 悠人はレイがいつもこんな風にカウンセリングを受けに来た人に話しかけているのか、それとも自分が特別、彼女に興味を引いたために話しかけられたのかが分からなかった。それも、初対面でさっきあったばかりなのに、2人で外に行こうだなんて。
「ここだよ、ここ」
 藪を抜けた先には広い洋風の庭が広がっていた。噴水が中央にあり、綺麗に形が整えられた植物が規則正しく並んでいる。レンガの壁で囲まれたその庭に、悠人は何か神聖なものを感じた。
 レイはレンガの壁が崩れて穴が開いている場所に悠人を案内して、そのまま庭園の中に入った。
「いい場所でしょ? 空が広くて、レイが大好きな場所なんだよ」
 レイは艶のあるブロンドヘアーを揺らしながら庭園の中心にある噴水まで歩いていく。薄いピンクのスカートに白いTシャツが、彼女の今の髪色に驚くほど合っていることに悠人は気がついた。
「確かに良い場所だけど・・山の中にあるなんて」悠人は広い敷地内を大きく見渡した。なんの目的でこんな庭が造られたんだろうと考える。
「でしょ? 今日はここでのんびりしよう」
 レイは庭園に生えている木の下まで悠人を案内した。そこにはベンチがひとつあり、レイはそこに腰掛けた。そして「座りなよ」と悠人を見ながら自分の隣を叩いた。
「話はいろいろ聞いてたよ。面白い人だね、あんたって。変わってる」
「そうかな? 僕は別に普通だよ、本当にまとも」悠人はレイの隣に座った。
「まともじゃない人ほど、自分のことをまともだって言い張るんだよね」軽く笑いながらそう言ったレイに、悠人は少しムッとした。今日初めて会ったばかりなのに、まるで自分のことを理解しているかのような口振りで、この謎めいた少女は一体なにを考えているのだろうか。
「カウンセラーの娘なだけあるね」
「良かったらレイもカウンセリングしてあげるよ。なんか悩みとかないの?」
 レイは悠人の方に少し体を向けた。悠人はさっき会ったばかりの少女がここまで積極的に話してくれることに少し戸惑っていたが、それを表に出さないようにした。
「さっきまで静子さんに話してたことが全部だよ」「ホントに?? 他にもっとないの?」レイは悠人の顔を覗き込む。
「悩みなんて本来無いはずなんだよ。だからここに来る必要もなかった」悠人はレイと目を合わせるのが少し恥ずかしかったため、自分の手をいじりながら言った。
「来たくなかった?」
「そうじゃ無いけどね。引きこもってたところを連れ出された」
「引きこもってるよりずっといいよ、外に出た方がいい」
「そうかな」
 レイは悠人が着ているボタンシャツと、彼が履いているジーンズじっくりと見て見た。シワのある綺麗とは言えない服で、きっとこの少年はおしゃれに関心がないんだな、と思った。
「ここに来れば、多分悩みなんてどうでもよくなるよ。この空間にいるとね」レイは広い庭を見渡しながら言った。
「どうして? ここにはなにも無いじゃん」悠人も庭を見渡した。四角く整えられた庭木が整列するように並んでおり、何本もの道を作り出している。
「分からない? この緑がいっぱいあって、風に揺れる植物の音以外なんにも聞こえない感じ。なにも考えなくてよくなるんだよ」レイは目を閉じて、鼻から空気を一気に吸い込んだ。
「ふぅん。それでいつもここに?」
「そうだね。誰か1人でも連れてきたかったんだ」
 レイはしばらくしてベンチから勢いよく立ち上がり、「ほら」と悠人の手を握った。そしてレイは悠人の手を引いて、彼をベンチから立たせた。
「こっち」
 レイは悠人の手を引いて何処かへと歩き始める。悠人は一体今後はどこに連れて行かれるんだろうと予想もつかなかった。ただ、彼女の手の柔らかい感触が心地よく感じた。
「ほら、見てみて」
 レイは庭の端まで悠人を案内した。そこには幅の小さな線路があり、四角い庭を大きく囲むように敷かれていた。
「線路? なんでこんなところに?」悠人はレイに尋ねてみる。普段彼が見る電車の線路に比べると模型のように小さく感じた。いつか遊園地で見たこども列車の線路を彼は思い出した。
「この庭を昔に作った人が、同じ時期にこれも作ったらしいよ。孫のためにって」
「へぇ、じゃあ本当に電車が走ってたのか」
「多分そうだよ。ほら、あっこにちっちゃい駅舎みたいなのがあるでしょ?」
 レイは線路を辿った奥の方に見える煉瓦造りの小さな建物を指差した。その建物から伸びた線路は、大きく庭をひと回りして、またあの建物に入っていった。
「この線路を見てよく思い出すのがね」レイは悠人と繋いでいた手を離し、線路を跨いだ。
「線路に縛り付けられた人のどっちを助けるか、っていう心理テスト」レイは悠人の方に向き直し、両手を後ろで組んだ。
「どういうこと?」
 悠人は彼女が言っていることがよく分からなかった。彼女は一体なにを言いたいのだろうと、心理カウンセラーの娘と接したことは悠人にとって人生で初めてだったため、その実態がまだ分からない。
「カウンセラーの子だから知ってるとかじゃなく、これは結構有名なんだけどね。知らない? Y字型に伸びた線路の片方には5人が縛られていて、もう片方には1人が縛られてる。あなたは分岐スイッチの前にいて、どっちを犠牲にするか選ぶことができる。っていう問題」
 レイはあどけない表情のまま、線路の前で両手を広げて見せた。
「それ本当にある問題? なんか怖いね。野蛮だよ」悠人がそういうと、レイは声を出して笑った。悠人はまさか笑われるとは思わなかったので、自分が今言ったことに何かおかしなことなかったかと思い返す。
「そうだね、本当に、レイもそう思うよ。こんな野蛮なことってない」
「人の死を決定するなんて、そんな恐ろしいことしたいか?」悠人はレイが言ったその問題の内容に鳥肌が立っていた。目の前の少女は、明るい無邪気な顔をしながら本当に恐ろしい話をしていると悠人は感じた。
「でも、マジな話、どっちを犠牲にするかって問われるんだよ。悠人くんならどうする?」レイは目の前の悠人を指差す。
 悠人は考えてみたが、自分の中での答えが出なかった。そもそも、こんな問いに答えること自体が罪なんじゃないか。
「答えは、分からない、だよ。分からない。僕にはね」
「そうだよね。逆に、そう答える人が必要なんだよね」レイはまた線路をまたぎ、悠人のすぐ隣に戻った。
「逆に、君の答えも聞きたい。僕と一緒? それとも違う?」悠人はレイに尋ねる。レイは線路を眺めたまま言った。
「レイはね、この問題についての物語を考えてるのよ。確実に誰かは死ぬわけで、その死んだ人を最後はどうするのか、とかね」
「でもこれはただの問題だし。考えたところでどうにもならないよ」
「人を犠牲にするからには、死んだ人のことを最後まで考えるんだよ」
 レイは顔を上げて悠人の目をしっかりと見つめ、言った。
 悠人はこの時点で、目の前にいる少女が普通ではないことを確信していた。あどけない美少女の見た目からは想像がつかないほど異様に思え、自分がこの少女の考えに共感できるとはとても思えなかった。
 しかしそう感じると同時に、悠人は心の奥底で彼女の考えに対する興味が溢れていた。もっと話してほしい、もっと教えてほしいという感情が、無意識のうちに彼を包んでいた。
「実際に起こったことだとしたら、だよ。レイはこれを現実のものだって考えてるから」レイは自慢げにそう言って線路をなぞるように歩き出した。
 しばらく線路を歩いたあとレイは「そうだ」と悠人を振り返り、「悠人くんって、レイと同じ14歳なんでしょ? 誕生日いつなの」と聞いた。
「2月1日だよ。早生まれだから」
「そうなの? 同い年っていうけど、レイの方が半年以上、歳上なんだね。レイは6月だから」
「じゃあ君、もう来月誕生日か。抜かされるよ」
「そうだね。そういえば毎年レイの誕生日には、お父さんがプレゼントと一緒に、映画のタダ券何枚かくれるんだよ。だから、それ貰ったら一緒に映画行こうよ!」
 レイは明るい声と明るい表情で悠人に言った。悠人はレイが早口で言ったその内容に圧倒された。レイは悠人がポカンとしていることに気がついた。
「どうしたの?」
「いや、今日初めて会ったのに。それに、僕はただカウンセリングを受けにきただけの人間だし」
「それは関係ないよ。というか、なんか初めて会った気がしないっていうか、分かるかな」
 レイは自分の足元をチラッと見たあと、悠人を上目遣いに見た。悠人はその言葉に共感したが、それ以上に彼女との距離感が分からなかった。どんな風な言葉遣いで、どんな風に会話をするのが正解なのか。
 その後しばらくして、悠人は今日の午後の予定を思い出し、レイに言った。
「じゃ、そろそろ。このあと予定があるんで、僕はこれで」
「何よ予定って。休日だし、暇なんじゃないの?」レイは微笑を浮かべる。
「こう見えて忙しいんでね」
「変なの。もっとゆっくりしていけばいいのに」
「そうもいかないんだよ」
 悠人はレイから遠ざかり、さっき通り抜けてきた煉瓦の穴の方へ歩き出した。「送っていくよ」レイは悠人と一緒に庭を出て、山道を降りた。
「『悠人』って呼んでいい?」
 悠人はレイがそう言った瞬間、胸の辺りに、わずかな振動が駆け巡った。初対面の人間にたった数時間で、自分なら絶対にその言葉を口にすることはできないだろうと、悠人はそう思った。悠人はレイの目を初めてしっかりと見つめて言った。
「うん。じゃあ、僕も『レイ』って呼ぶよ」
 レイはふふっと笑いながら頷いた。レイは確実に、悠人が今までに出会った人間の中で一番明るく外交的だった。初めて会った1人の少女と過ごした数時間は、彼にとって、静ながらも驚異的な体験に思えた。
 
 数日後にも、レイは悠人がカウンセリングを受けている部屋の隅で彼を見ていた。レイは、自分が思っている以上に彼に興味を持ち出していることに驚いている。理由は分からないが、悠人と2人きりになりたい、もっと話したいという欲が溢れていた。それはレイが持ちあわせる、自分では抑制の効かない感情の一つだった。自身の内側から溢れ出るなにかを抑えたりしようという考えをレイは何年も前に捨ててしまっていた。自分の内面から溢れ出るものが全てで、自分は常にそれに忠実に生きることが務めだと考えていた。
「人生の目標とかを考えたことはある? これから成し遂げたいこと」
 静子は前と同じように、悠人に質問をする。相手を包み込むような穏やかな口調で話し、寄り添うように彼の言葉に耳を傾ける。
「僕はとにかく独り立ちできればそれでいい。今の生活が変わってくれれば」
「どうしてそう思うの? 今の生活に満足してないとか?」
「というか、親が僕をまだ小学2年生か3年生くらいだと思ってる。いつも、ああしろこうしろってどうでもいいことまで言われ続けるんだ」
「それが嫌なのね。私も気持ちは分かるなぁ、昔はずっと親に対してはそう思ってたから」
「ほんとに?」
 静子はスプーンでミルクを入れたコーヒーをかき混ぜながら優しく頷いた。
「でも、私も結婚して娘が2人できてからは変わったと思う。親になるのがどんなに大変で苦労が多いかって。ここまで私を育ててくれた両親の凄さが分かったっていうか」
 静子はスプーンを動かす手を止め、頬杖をついて、悠人の後ろの壁を見た。「私のことをずっと気にかけてくれてたんだなって、ね」
「そんなもんかな」悠人は小さく言った。
「親に感謝しろ、とかは言わない。でも、そういう親の気持ちもなんとなくでも分かってあげてほしいのよね」
 悠人は次に発する言葉を頭の中で組み立てているとき、部屋の隅から声が聞こえてきてた。
「それってレイに言ってるの??」
 悠人と静子は同時に彼女の方を向いた。レイは部屋の隅に置かれた椅子に座ったまま眉をハの字にして、苦笑いを浮かべている。
「別にあなたには言ってないよ」静子は笑いながら娘のレイ体を向け、そう言った。「本当にそう思ってくれてるなら、ママは嬉しいけどね」
「ふんっ、なんかママずるいね」
「ずるいってなにがよ」
 悠人はそんな静子とレイを交互に見た。レイは悠人と目が合ったと同時に、両方の眉をクイっと上げた。
 カウンセリングの時間が終わると、レイはすぐに「おいでよ」と2階にある自分の部屋に悠人を呼んだ。悠人は静子と顔を合わせ、静子は「ごゆっくり」と悠人に微笑みかけた。そしてレイは「ママは上がってこないでね」と念を押した。

「悠人、さっき言ってたこと、本当なの?」
 レイは自分の座布団に悠人を座らせてから、彼にそう聞いた。
「さっき言ってたことって?」
「家を出たいって言ってたじゃん。あれだよ」
「ああ」悠人は慣れない丸い形の座布団に座り直し、ベッドに座るレイを見上げた。
「あのことはずっと思ってるよ。どうやったら家を出ていけるかって、ずっと考えてるんだ」
「レイがいいこと教えてあげる。この方法で、ノーリスクで家を飛び出せるよ」レイはベッドの上にあぐらをかき、得意げな顔を見せた。
「『ビッグになる』って書いた置き手紙だけ残して、そのまま家を飛び出せばいいんだよ。そしたら家出捜査もされないよ」
「中学生がそれやるとダサすぎる。サクセスストーリーじゃあるまいし」
「『ビッグになるんだぁ、じゃあ捜査はやめとこう』ってなるよ。警察も親も」
「なるわけないよ。それで捜査中断はヤバい」
 レイはベッドの上から悠人を見下ろしながら、それは分かんないよ、と手を広げた。
「レイは自由そうだよね。僕もそうなりたい」悠人は窓から入る朝日を受けて、艶やかに光るレイのブロンドを見ながら言った。一体なぜこんな髪色をしているんだろう、と悠人はレイがいつ、どのタイミングでこの髪色になったのかを考える。
「まあ、自由と言えば自由だね。いつ寝ても、いつご飯食べても怒られないし。でも、本当の自由は何かって聞かれたら、答えられる?」
「まあ・・どうかな。干渉されくて、なに一つ制限がないこと、かな」
 レイは首を横に振ってからベッドから降りた。そして悠人の正面に座り、彼の胸に人差し指を当てて、真っ直ぐに目を合わせた。
「分かってないね。本当の自由っていうのはね、目に見えて分かりやすいものじゃないんだよ」
「どういうこと?」悠人は眉を(しか)めて、聞き返す。
「例えばじゃあ、ある女の子が大富豪の息子に嫁いだとするじゃん。城みたいな豪邸に入って、毎日、旦那の稼いでくるお金で暮らせる。若い夫婦だからお盛んで、週3回のエッチ」
「別に週3回でも多くはないだろ」
「広い豪邸だから掃除するのがタイヘンだわぁとか贅沢な悩みを言って、その他はこの上なく満ち足りてるようにしか見えない。でもね」レイは指で悠人の胸を突き、悠人に顔を近づける。
「そんな状況に慣れたら、次第に欠けてる部分を探し始めるんだよ。今の生活のダメなところを見つけては、それを埋めようとする。どんなに恵まれた環境ですら、自分にとっての完全体を目指そうと躍起になる」
「なるほど」
「だからそういう人は時間ができても、お金ができても、結局は自由になることができない。そういうことなんだよ」
 悠人はレイが言ったことになぜか感心してしまった。まるで自分は何十年もそういう人を見てきた、と言わんばかりの話し方だった。
 その後、悠人は昨日と同じように家を連れ出され、再びあの山の上にある庭園に行った。昨日と比べて明るい日差しが差しており、レイは庭に着くなり悠人の手を引いて走り出した。
「ちょっ、どこ行くんだよ!」
 レイは形を整えられ、迷路のように整列した木々の間を悠人と駆け抜け、広い芝生に走り出た。そしてレイは悠人の手を掴んだまま(つまず)いてしまい、2人は同時に芝生を転がった。
 レイは地面に横たわったまま空を見上げ、高い声で笑った。悠人は驚いていたが、次第に隣のレイの笑いに釣られていた。
 2人は同じ仰向けの横並びで芝生に寝そべり、澄んだ青色の空を見上げた。日光が優しく照りつける。街の音もここではまるで聞こえないので、悠人は自分が住んでいる世界とは別の世界に来たような感覚になる。レイがその世界の案内人で、自由自在に時空を行き来することが出来るんじゃないだろうか、と。
「昨日の話の続き」レイは空を見たまま唐突に言った。「列車の問題の話?」悠人はレイに聞く。
「そう。あの話、悠人に最後まで聞かせようと思ったの、忘れてた」
「じゃあ教えてよ」
「うん。レイが半年前にやっと最後の部分まで考えたんだよ。列車の下敷きになって死んだ人の話」
 悠人はレイがなんの感情もなく言ったその言葉に、血の気が引いた。今からどんな話を聞かされるんだろうと想像するのが恐ろしかったが、耳を傾けることにした。
「その実験は海の近くで行われていて、線路に縛り付けられるのは過去に罪を犯した人で。死刑囚とか、そんな感じ」
 悠人はうん、うんとレイの横顔を見ながら相槌を打った。レイは相変わらず空を眺めたまま、話し続ける。
「レイもその世界に存在していて、命の選別をする当事者なの。レバーを握らされていて、迫ってくる電車に怯えてる」
「そうだろうね」
「で、そのY字型の線路の一方に括り付けられてる5人、それは本当に罪を犯した死刑囚でね、もう一方に括り付けられてる1人が、死刑囚ではあるけど冤罪で」
「ほう」
「誰かに罪を着せられて大量殺人鬼にされた人で、レイはそのことに気づいている」
 悠人は横に寝転がり、レイに体を向けた。今レイが話しているのが、果たして彼女の頭の中で組み立てられたストーリーなのか、レイは自分の実体験を話すように喋り続けるせいで悠人は分からなくなる。
「だからこそ助けてあげたいけど、でもその人のために5人の死刑囚をレイの判断で見殺しにしていいのか、ってね。そう考えてる間に列車が来て、レイは結局レバーに触れなかった」
「じゃあどうなるの」
「顔を上げて見てみると、結局その人が列車の下敷きになって死んでたの。レイはその人の遺体を近くの浜辺まで運んだ」
「どうして」
「埋めるためだよ」レイは悠人と目を合わせた。悠人はその時のレイの瞳が、暖かく優しさに満ちた瞳にも、とてつもなく冷酷な瞳にも見えた。
「浜辺にそれを横たえて、近くに深い穴を掘ってね。そこに埋めた。その上にいくつも花を置いた」
 しばらくの沈黙が生まれ、その後に悠人は言った。「そこで終わりなの?」
「そう。まあ、この問題をストーリーにしたら、こんな感じかな」
「悲しい話だね」
 淡々とその話をし続けたレイに、悠人は恐怖とも驚きともつかない、奇妙な感情を抱いた。そして不思議と、胸の奥に重たい鉛が詰まっているような感覚になる。
「悲しいけど、レイにはそうすることしか出来ない。結局誰かは犠牲になってた」レイはまた淡々とした口調で続ける。
「誰かのために誰かを犠牲にしても、結局幸せになんかならないね」悠人は再び仰向けになった。「結局のところはね。本当に残念だけど」
 悠人はゆっくり起き上がり、辺りを見渡した。そしてこの場所に対する純粋な疑問が浮かび、隣で横になっているレイに聞いてみた。
「レイ、ちょっと気になったんだけど」
「なぁに?」
「こういう広い庭って、なんとなくだけど城とか豪邸の前にありそうな気がするけど、ここには何もないね。庭だけで」
「昔はでっかい豪邸があったらしいよ。この辺の資産家の家で、でも火事で燃えちゃったって聞いた」レイは起き上がって「ほら」と庭の奥にある何もないスペースを指差した。樹木や花壇がたくさん置かれている庭にある、不自然なほど大きなスペースだった。
「昔からよくここに?」
「うん。学校終わりとか、それこそ家族で来たりしてたよ。今も誰かがときどき来て庭の手入れとかしてるらしいけど、ここはもうレイの庭」
「好きに遊べる場所があって羨ましい。僕の街は公園すらない住宅だから」
「そうなの? それは嫌だね。じゃあさ」レイは体育座りになり、悠人に少し顔を近づけた。
「いっそのこと、うちに越してきたら? ここはいい場所だし、レイの部屋で一緒に暮らそうよ」
「えっ」
 悠人は驚いたが、レイが冗談半分でそう言っているようには見えなかった。レイは悠人の目をしっかりと見つめる。
「広くない部屋だけどね。家を出たいって言ってたし、丁度いいじゃん?」
「気持ちは嬉しいけど、でも・・」
「でも?」
「僕らだけで決めるわけにはいかないから。家の事情もあるし、結局レイの家族の世話になるだけだし」
「やっぱり独り立ちしたいってこと? 誰かに縛られることがないから?」
「うーん、まあそうかな」
「何よ、そうかなって。はっきりしない人だね」レイはそう言って笑った。悠人はレイが言った言葉を反芻し、その意味を考える。一緒に暮らそう、と本気でそう思って言ったんだろうか。彼はレイの表情から意図を汲み取ろうと、彼女の横顔をじっと見る。

 2人はどこへ行くわけでもなくフラフラと山の中の小道を歩く。レイは、ふと隣で歩く悠人が使い古されたオレンジ色の靴を履いていることに気がついた。おとなしくて引っ込み思案な少年は、きっと履いている靴も地味に違いないと思っていたため、レイは心の中で意外だなと、感心した。
 レイは今日の朝、母親が悠人にしていた質問を思い出し、それについて悠人に尋ねてみた。
「人生の目的を聞かれたりしても、そんなのパッと出てこないよね」
「まあ、どうだろう。人によってはすぐ答えられるかも」
「小さい時から自分の夢に向かって頑張るっていう、そういうストイックな人になれたらいいって思わない? まあそれがあったら、の話だけど」
「でも・・小学生の時の夢はなんだった? って聞かれて、例えばパイロットだったり宇宙飛行士だったり、でもそれを大人になって叶えてる人なんてわずかでしかないよ」
 悠人はそう自分で言いながら、小学生のときにクラスに掲示する紙に書いた、あのときの将来の夢を思い出そうとした。当時はあんなにも熱心に考えていたのにも関わらず、今はなぜか忘れてしまっている。
「逆にわずかでもいるっていうのがすごいでしょ。ちゃんと自分の目的のために生きてきたってことだからさ、とんでもないよね」
「僕はそうはなれないよ」
「消極的なんだね。悠人」
 レイは相変わらず軽い足取りで歩き続ける。悠人はそれを見て、レイが自分といて不愉快な気分になっていないと分かり安心したが、やはりレイの心境を細部まで読み取ることが出来ずにいた。
「悠人、悠人、ゆうと・・」レイは頭上にある緑の草木を眺めながら、訳もなく繰り返した。
「悠人・・普通の名前だね。本当に普通」
 悠人は心の中で「まあそうだけど」と言った。変わってる方がいいのか? と聞こうと思ったが、やはりやめた。
「レイの名前だって、親がエヴァのガチファンかと」
「レイの元ネタ、綾波レイじゃないから。親も多分見たことないし」
「本当に?」
「自分の娘に好きなアニメキャラの名前つけるとか、そんなイタいことする親じゃないから」
「別にイタくはないと思うけど」
 そんな会話をしながら2人は道を歩き続けていると、突然ひらけた場所に出た。広い敷地内を囲むようにフェンスが貼られており、その奥に畑と大きな民家があった。
「おおっ! そうだ!!」
 レイは目を輝かせて悠人に「いいこと思いついた!」と言い、彼の手を引いてフェンスの側まできた。
「なにするんだよ」
「今の時間帯、あの家の夫婦出かけてるんだよ。牛さんの面倒を見る時間は今しかない」レイはフェンスに寄りかかり、古い屋敷の隣にある牛舎を指差した。離れていても、微かに牛の鳴き声が聞こえてくる。
「牛? 牛がいるの?」悠人も牛舎を指差してレイに聞いた。
「こっそり餌あげるんだよ」そう言うなり、レイはフェンスを登り始めた。
「本当に入るのか? 怒られるに決まってる」 
 悠人は人がいないと聞かされたが、念のため声を(ひそ)める。レイはフェンスを登り切り、向こう側に降り立った。「ほらほら、早く!」
 悠人は困惑しながらもフェンスを超えて敷地の中に入った。その瞬間、悠人は自分が泥棒になったかのようだった。不安が込み上げるが、レイは「こっち」と牛舎まで駆け出す。

 レイは牛舎の扉を開けて中まで入っていく。悠人もそれに続いて中に入ると、そこには黒い大きな牛が繋がれていた。
「久しぶりだね。やっぱ本当にカワイイね君」レイは牛のそばに寄り、牛の湿った鼻を触った。
「勝手に入って大丈夫か? 見つかったらやばいよ」
 不安になった悠人はレイに言う。しかしレイは少しも焦る様子もなく「大丈夫だって」と笑った。
「牛さんもお腹減ってるでしょ。ほら、そこに草が」
 レイは悠人に足元にある、干草が入ったバケツを指差した。「これ?」悠人はバケツを持ち上げ、中の干草を取り出す。レイはそれを受け取ると、牛の口元に草を近づけた。
「食べた。ははっ! カワイイ」
 レイは思わず笑みが溢れる。牛はいつもと違う人間から、いつもと違う時刻に餌を与えられたにも関わらず、干草を迷いもなく食べた。悠人はそんな牛の透き通った瞳に釘付けになった。なんて透明で美しい瞳なんだろうと、しばらくの間、見とれてしまった。
「悠人もあげてみる?」レイは悠人に干草の束を渡した。
悠人もレイと同じように牛の口元に干草を持っていくと、牛は同じように勢いよく干草を食べた。
 2人は牛から少し離れた場所に置いてあった木箱に腰を下ろし、草を食べ続ける牛を眺めた。悠人は普段接することのない動物を前にして、目が退屈することがなかった。牛の細かな動作まで全てを興味深く眺める。
「動物がそばにいるだけで、いろんな病気とか症状が良くなるらしいよ」レイも牛を見ながら、隣にいる悠人に言った。
「そうなんだ。知らなかった」
「だから悠人もカウンセリング受けるよりペットを飼った方がいいんじゃない?」
「うーん・・と言うより、僕は動物になりたい」
「ホントに? なんでなの?」レイは悠人に体を向け、頬に手を当てる。
「人間みたいに縛られることがないから。学校とか会社とか、そういう余計なストレスがないだろうから」
なるほどね、とレイは頷く。彼に、そう思うだけの何かがあったに違いないとレイは想像した。
「でもね、いざ動物になったら絶対に人間の方が良かったって言いだすよ」レイは手に持った干し草で悠人の足を突きながら言った。
「そうかな?」
「そうだよ。だって動物になるとゲームも出来ないし、漫画も読めないし、旅行も出来ないし。悩みはないかもしれないけど、退屈だよ」
「まあそうだけど、飼い猫とかを見たら羨ましいって思うんだよ。猫は退屈なのが苦じゃないだろうし」
「猫になりたいのね」
レイは干し草を2つに折って投げた。そして、伸ばした足を意味もなく撫でる。
「旅行もゲームも出来ないでいいから、神様には猫にして欲しかったな」
「しようがないよ。神様があんたを人間にした以上、もう変えようがない」
悠人はレイの言葉に頷き、目の前の牛をもう一度じっくりと見た。自分が何かの拍子に牛になったとしたら、一体どんな気分で、どんな生き方をするだろうと彼は想像する。
 レイは牛を見ながら言った。
「でもそれでいいんだよ。動物を否定するわけじゃないけど、レイは人間に生まれてよかったって思ってる。悠人もいまにそう思えるよ」
「そうかい」
 突然牛舎の扉が開く音がした。明かりが入り、牛はその方向に顔を向ける。2人も同時に牛舎の入り口を振り返った。
「どろぼうなの?」クマのぬいぐるみを抱えた幼い少女がそこには立っていた。
「マズい! この家の子だよ」悠人は慌てて立ち上がり、レイと少女を交互に見る。しかし、レイは「大丈夫! 相手はちっちゃい子だよ!」と慌てることなく少女に近づく。そして彼女の肩を掴んでしゃがみ込んだ。
「泥棒じゃないよ! ちょっと敵に追われてて、この中に隠れされてもらったの」
「てきってなぁに?」
「スナイパーって分かる? 銃で撃ってくる人たちに追われてるわけ」
「どうして」
「大統領を殺したから」
「ころしたから、ころされるの?」
「そうだよ。でも間違って車で轢いちゃっただけで、ホントは悪くないのよぉ」
 少女はレイの言葉を疑う様子もなく聞き入れた。レイは少女の肩を掴んだまま悠人の方を向いてウインクをした。
「メチャクチャだ」
悠人は呆れて言うが、レイは少女に真剣な表情で話し続ける。
「スナイパーが近くに来てるかも。どうしよう」
「じゃあうちにくる?」少女はレイの腕をそっと掴んで言った。
「いいの? 助かるわぁ」
「いいよ。かくれてて」
「だって悠人。お言葉に甘えてお邪魔しよっかっ」
 
「どういうつもりなんだよ。勝手に知らない家に入って」
悠人は2階の端にある部屋の中で、カーペットに寝転ぶレイに聞く。
「あの女の子が入っていいって言ったんだよ。せっかくなんだし、のんびりしようよ」
「そんなこと言ったって・・あの子の親が帰ってきたらどうするんだ」
「もちろん、スナイパーに追われてるって言うよ」
「通じるわけないだろ」
「本当にあんたって心配性なんだね。いい? 全ての物事には意味があって、全部が上手いこと繋がってるって話をどっかで聞いた。今この家にレイたちが来たのも、なにか意味があるんだよ」レイは勢いよく起き上がり、悠人の両腕を掴んだ。自分をを取り囲む運命の流れが、たった今何かを導き出そうとしている。少なくとも、レイはそう感じていた。
「ついていけないよ」
 悠人がそう言ったのと同じタイミングで、少女がドアを開けて部屋の中に入ってきた。「お茶どうぞ」
「ありがとうね〜」レイは少女から2人分のお茶を受け取り、ひとつを悠人に渡した。部屋を出て行こうとする少女に、レイは「いい家だね。このまま住んでいいかな?」と言うと、少女は無邪気な笑顔で「いいよ」と言った。
 悠人は本棚で囲まれた部屋を見渡す。机や椅子が置かれていないことから、悠人はここが使われていない部屋なんだろうと予想した。周りに建物がないため、妙に静まり返っている。悠人は本棚の本をおもむろに一冊取ってみる。英語で書かれた本で、表紙にはユキヒョウの古い写真が大きく載っていた。ページをめくってみると、本の間から何かの紙が落ちた。
「なんだろこれ」悠人は2つに折られた紙を拾い上げてみる。それは数年前にとある街で開催されたイベントのチラシだった。
「これ知ってるよ。移動動物園とかが来る祭りなんだよね」
「知ってるんだ」
「うん。昔一回だけ行ったことあるんだ。今もやってるのかな?」レイは悠人が持っていた紙を取り上げ、じっくりと目を通す。
 悠人は本を棚に戻し、上段にあった別の本を手に取ろうとしたとき、本がつっかえて棚が前後に揺れた。悠人は、ひとつの木の箱が本棚から床に落ちたことが分かった。箱の蓋が開いており、箱の中からピアスや指輪が転がり出ていた。
 悠人が散らばったものを拾い上げて箱に戻そうとすると、レイが「ちょっと待って」と悠人が持つピアスを指差した。
「これ・・ママのピアスじゃない?」
「え? 本当に?」
「多分そうだ」レイは緑色のガラス玉のピアスを手に取り、光に当てた。それは確かにレイの母親が付けていたピアスに違いなかった。

「わぁ! 本当に探してたの!! ありがとうレイ!!」
 静子は娘が見つけてきたピアスが、自分が半年前から無くしていたものだと気がつき、喜びの声を上げた。半年前からの心のわだかまりが一気に晴れたようだった。
「やっぱりママのだったね」
「すごぉい! ねえどこで見つけたの?」
「それは・・ね!」レイは隣の悠人を見てはにかんだ。悠人もそんな彼女の顔がおかしく、噴き出すようにして笑う。
「道中で見つけたんだよっ」
「多分歩いてるときに落としたんだよ! 見つかって嬉しい。あなたたち、ありがとうね」
 楽しげに自分の部屋に行き、鏡を見ながら両耳にピアスを付ける母親を見ながら、2人は言葉にならない感情を共有していた。
「こんなことってあるんだ。レイ、すごいよ」
「あの女の子が拾ってたんだね。本当、偶然」
 悠人はレイから発せられる特別な何かを肌で感じた。確実に、自分が未だかつて出会ったことの無い特別な存在だと強く思った。一体何者なんだろう。レイの屈託のない明るい笑顔を見ながらも、感情を何一つ読み解くことのできない自分が、悠人はもどかしくて仕方がなかった。
「そろそろ帰るよ。もう夕方だし」悠人はあっという間に外が暗くなり始めていることに気がつき、レイにそう言った。するとレイは悠人の両手を握りしめ、言った。
「今度からさ、2人でいろんなとこを捜索しに行こうよ」
「捜索?」悠人は初めて彼女の前で鼓動が早くなった。
「今日みたいにさ、いろんな発見があるかも。これは悠人のための、野外カウンセリング」
「そうだね。一緒に行こうか」
 レイは喜びの声が漏れそうになるが、必死で抑えた。そして「レイと悠人だけで、ね」と彼の手を掴んだ。

 数日後、レイはまた悠人がカウンセリングを受ける様子を間近で見終えたあと、悠人を部屋に呼んだ。
「すっかりあなたが気に入ったみたいだね」
 静子はにこやかにそう言う。レイの母親である静子は、娘が同い年の悠人と仲良くしている様子に不思議な多幸感を感じていた。昔からなにかと問題の多いレイを幼い頃から見てきた静子は、レイが悠人に純粋な笑顔を見せていることに少し驚いた。
「そうかな? 僕のことを?」悠人は「おいで」と声が聞こえたレイの部屋に顔を向けながら、静子に言った。
「悠人くん、悪いわね。あなたといるのが嬉しいみたい。かまってあげて」
 レイの部屋から床をドンドンと叩く音が聞こえた。「早くー!」レイの高い声が耳に届く。

「昨日のチラシで見たイベントなんだけど、調べてみたの」
 レイは悠人に牛舎のある家の中で見つけたチラシを見せた。「今でもやってるって?」「うん!」
 レイはパソコンの画面を悠人に見せる。それは隣の市のホームページで、1ヶ月後に開かれるイベントの詳細が記されていた。
「今もやってたんだ。僕はこの辺の人じゃないから分からなかった」
「レイもこのあたりには全く行かないからさぁ、知らなかった。行こうね、今度」
「ああ、行ってみよっか」
 2人は同じベッドに寝転びながら、パソコンで過去のイベントの様子が映された写真を見た。そこに映るメリーゴーランドやミニ鉄道は、悠人が昔に父親と行ったデパートの屋上の遊園地を彷彿とさせた。
「はい、もうやめとこう。目が悪くなるよ」レイはパソコンを閉じ、ベッド脇に立てかけた。そして足元にあった掛け布団を引っ張り、首元まで被った。
「まだ眠たいから寝るね。ほら、悠人も入りなよ」レイは布団を持ち上げ、悠人を布団の中へ入るよう促す。悠人は「じゃあ遠慮なく」とレイの布団の中へと潜りこんだ。2人は、一つしかない枕に半分ずつ頭を乗せた。
 レイは横向きに寝転がり、目を閉じたまま「夜まで寝てよっか」と言って悠人の脇腹に手を入れ、彼を抱き寄せる。悠人は普段と変わらない感情を維持している反面、耐え難いほど緊張を覚えた。自分は一体何をしているんだろう、自分はなぜ今ここでこうしていられるんだろう、悠人は自分に何度か問いかける。
「・・せっかくの休日が勿体無いよ。寝て過ごすなんて」悠人は彼女の肩にそっと手を添えて言った。
「レイは夜型だからね。夜行性」
「夜はじゃあ何してるの? 家族は寝てるだろ」
「妄想」
「妄想?」
 レイは悠人から手を離し、仰向けになった。そして目を閉じたまま言った。
「何時間でもしてられる。妄想の世界はなんでもありだから」
「すごいな。なんの妄想?」
「レイが少女漫画家になって大成功して、テレビに出たりしてチヤホヤされる妄想。それを一日中してることもあるよ」
「本当に? レイって変わってるよ」
「別に変わってない。悠人だって妄想したりするでしょ。男だからエッチなことだって」
「まあ・・男に限らずだろ。知らないけどね」
「否定しないってことは、ね」レイは目を閉じたまま笑った。お腹に置いた手が、自分が笑ったことで細かく上下に揺れたことが分かった。この隣で寝ている少年をもっとからかって遊びたい、自分のそばにずっと置いておきたい。レイは言葉に出すことなく、そう強く思っていた。
「いいから寝なよ。寝てないんだろ」悠人は控えめな声の音量で、そっけなくそう言った。
「寝る前の“前戯”があるんだよ」
「はい?」
「目を閉じて、好き放題いろんな妄想をする時間」
「前戯って・・それ使い方間違ってる!」
「間違ってる? そうなの?」
「それエッチする前にやるやつだから」
「濡れ場とかの前にやる、ベッドの上でキスとかしてるアレ?」
「うん・・」
 悠人は自分がこんな話をしていることが突然、急激に恥ずかしくなり、顔が赤くなった。それと同時に、レイと距離が近くなっていることにも気まずさを感じた。
 レイは目を閉じたまま笑い始めた。そして目を開け、悠人の顔を見て言った。
「知ってるよ! それくらい」
「なんだよ」
「そんなの漫画で散々見たよ」
「そんな漫画ばっかり読んでるんだ」
「バカだね! 普通にエロ漫画以外でもそういうシーンはあるから。服脱がせるまでは普通だから」
「別にエロ漫画とは言ってないじゃん」
「言ってる!」
レイは布団の中で悠人を蹴った。悠人は自分の腹部に硬い

の感触が、その後も何分か続いた。
午後になり、リビングでうたた寝をしていた静子は、2人が家の中から居なくなっていることに気がついた。どこに行ってしまったのかと玄関を出てガレージを除くと、そこにいつもある水色のスクーターがなくなっていることが分かった。
「ね! 最高にいいでしょ?」
悠人を後ろに乗せ、バイクで海沿いの道をバイクで駆け抜けるレイは、風の音にも負けない大きな声で悠人に聞く。
「うん、最高だね!」
悠人も同じく大きな声で返す。午後の太陽に照らされた海は、細かな光の粒を2人の目に届けた。レイはスピードを上げ、車通りの少ない曲がりくねった道を飛ばす。
悠人はレイの腰につかまりながら、生まれて初めて乗ったバイクの爽快感に浸っていた。
「バイクもいいもんでしょ?」
「そうだね。本当に気持ちいい」
スクーターを堤防近くに停め、2人は海辺にやって来た。白い砂浜に腰を下ろし、悠人は全身で波の音に浸る。
「レイ、君14歳で合ってるよね」悠人は靴を脱いで砂の上に横たわるレイに聞いた。
「前言ったじゃん。合ってるよ!」
「じゃ当然、バイクの免許も」
「持ってないよ」レイは食い気味に言った。「バレなきゃ良いんだって。世の中そんなもんだよ」
「本当にカウンセラーの娘か?」

 レイは寝転んだまま白い砂を手に取り、それをあぐらをかいて座る悠人の足にかけた。悠人は海の反対側に広がる坂道の街に見とれていたため、それに気が付かなかった。
「港町かぁ。毎朝、窓から海が見えるなんていいだろうな」
 悠人はうっとりと街を見ながら言った。長い坂道を何人かの高校生が自転車で駆け降りていく様子が見えた。ベビーカーを押して急な坂を上がっていく人の姿も見える。
「でもレイの家からは絶妙に海見えないけどね」レイは悠人を見上げながら、手についた砂を払った。
「それでも近くに海があるのは羨ましい」
「この町ってね、有名な芸術家の人も住んでたんだよ。あんまり知られてないけどね」
「そうなんだ。誰だろ」
「名前は忘れたけど、世界で活躍してた人らしいよ」
 悠人はふと浜辺に目を向けると、レイが話していたことを思い出した。浜辺に埋めた遺体。白い砂の上に遺体が横たわっている様子が、どういう訳なのか克明に浮かんできた。
 遠くからカモメの鳴き声が聞こえてくる。改めて、自分があの恐ろしい選択を迫られたとしたら、自分はどうしていただろうと悠人は考えた。なにもできないまま逃げていただろうか。なにも行動できないまま。
 レイは寝転んだまま体の向きを変え、足を伸ばして座る悠人の膝の上に頭を置いた。レイは微笑んだままブロンドの髪を風に靡かせる。悠人は膝の上にある、レイの金色に輝く髪を撫でた。
「今日泊まって行きなよ」
「どうして?」
「今日は予定もないんでしょ? レイの部屋泊めてあげる」
「まあ僕はいいけど、両親が心配するかも」
「もう小っちゃい子供じゃないでしょ?」
「まあそうだけど、過保護だからね。うちの親」
「どう過保護なの?」
 レイは起き上がり、今後は悠人の膝の上に両足をズシっと置いた。風でスカートが少し捲れていたが、レイはあえてそのままにした。
「お手伝いさんがいる」
「すごいじゃん! マジで言ってる?」
「マジだよ。それもうちで暮らしてる、専属の人」
「『おぼっちゃん』とか呼ばれるわけ?」
「昔はそう呼ばれてた」
「そんなことある!? ウケる」
 レイは大きな声を出して笑った。悠人は「本当だよ」と言って、レイの赤いスカートを元の位置まで戻した。
「エッチな家政婦に恋するとか、そういうのじゃない?」
「なに言ってんだよ。その人もう30歳だし。第2のお母さんだよ」
「そうかあ。その人は美人なの?」
「美人と言えば美人。ショートヘアーの童顔」
「もうずっとその人なわけ? お手伝さんって」
「6歳のときから一緒だよ。ずっと仲良しで、毎晩一緒に寝たり、小6まで一緒にお風呂入ってた」
「マジで? 20代の女の人の裸を毎日? 興奮とかしなかったの?」
「しないに決まってる。何年間も一緒にいる人だぞ」
「ふ〜ん。でも一緒にお風呂ってねぇ」レイは悠人の膝の上で、脚をバタバタと動かした。「レイが男だったら欲情するかもだけど。そんなことないの?」
「まあ・・1回映画でキスシーンを観たときに自分もしたくなって、その人に風呂場で『キスしたい』ってお願いしたことはある」
 悠人は自分がどうしてこんなことを喋っているのかが分からなくなったが、レイは「ええ!? それでそれで?」と興味津々に聞き返す。
「大笑いされたよ。小学生がなに言ってんのよって笑われて、でも結局してくれた」
「すごーい! 初キスその人なんだぁ! どんな味だった? 何回した?」
「味なんかないよ。それで、それ以来その人とキスするのが習慣になって、風呂場以外でもしょっちゅうするようになってた」
「それはもう、ほっぺたとかおでこじゃなく、唇と唇?」
「そうだね」
「それ、家政婦さんはどういう感情だったんだろうね。悠人を男として好きだったのかな」
「それは絶対にない」
 悠人は当時の彼女の心境を想像するが、結局分からないままだった。風呂場で体を洗い合っているときや、夜にこっそり彼女の部屋に忍び込んだときに2人でしていたことが、今では懐かしく感じた。
「お父さんとお母さんは、それ見たらどう思うのよ」
「・・ベランダでしてるのを両親に見られたことはあった。2人とも呼び出されて、お前らそこ座れって言われて、半日お説教」
「半日は長いね。別にいいじゃんね」
「まあ普通に考えて、息子とお手伝いさんが・・ってね。散々怒られて、2人とも泣いてた」
「ふふ・・かわいーね。でも気持ちわかるよ」
 悠人は当時のことを思い出して消えたくなるほど恥ずかしくなることも、もはやなくなっていた。あの時間が自分にとってなんだったのかということは考えたが、悠人にとっては、もはや過ぎ去った過去でしかなかった。誰にも一生このことを話すことはないと思っていたが、不思議なタイミングで話すことになった。
「まあまあ楽しそうじゃん。でも今の生活に不満があるんだね」レイはもう一度、悠人の膝に砂をかけながら言った。
「それはもう2年以上前の話だから。レイだって分かるだろ、もう家から解き放たれたい」
「その人と結婚するって考えたことは?」
 悠人はレイの言ったことに驚き、彼女の目を見る。「結婚」という言葉の意味を頭の中で確かめた。悠人はレイが一体なにを言い出すか、まるで見当がつかなかった。
「結婚? なんで」
「一緒にお風呂も入って、ベッドも共にして、キスもしまくってたって・・それ夫婦と変わんないよ」
「ベッドを共にって・・一緒に寝てただけだよ。それに年齢差16歳だし」
「多分だけど、その人もそういうこと考えたことあると思うよ。一瞬でも」
「まさか! めちゃくちゃだよ。それに、その人はもう結婚するから出ていくんだよ」
「え?」レイは起き上がり、悠人の目をじっと見た。「そうなの?」
「会ったこともあるけど、何年か前にできた彼と結婚するらしい」
「そうなのぉ? なんか寂しいね」
「僕は彼女が幸せになってくれたらそれでいい。それを聞いて、本当に嬉しかったんだよ」
 悠人は白い輝きを放つ海を遠くまで見渡しながら、つぶやくようにそう言った。レイは彼の目の中にある丸い光を見続けた。その光は風の音と共に形が変化した。レイは悠人にぴったりと体をつけて座り、彼の肩を抱いた。
「優しいんだね」
 2人は同じ方向を見つめたまま、しばらく打ち寄せる波の音を聴き続けた。

「ママ、私のバイク無いんだけど」
恵美は学校のカバンを下ろし、制服を脱ぎながら静子に言った。静子は料理をする手を止めた。「レイが乗って行ったよ」
「また!? 14歳のクセにどういうつもりなんだろ。それも私のバイク」
「前に厳しく言ったんだけどね。あ、でもほら丁度帰ってきたみたい」
バイクのエンジン音がガレージの方へと移動し、スタンドを下げる音がした。
「ただいま〜」
勢いよくドアを開け、駆け足でレイが廊下を抜ける。
「ちょっとレイあんた!」
恵美はレイの肩を掴み、2階に行こうとするレイを引き止めた。
「なによ姉ちゃん」
「勝手に私のバイク使わないでよ! あんたには2年早いから」
「良いでしょ、ちょっとぐらい。それに今日は『野外カウンセリング』してたから」
「野外カウンセリング? 誰をよ」
「最近うちに来た男の子。今日レイの部屋に泊まることになった。ママにはもう言ってあるよ」
「そんなに仲良くなったの?」
 レイは照れ笑いを浮かべたまま、軽く頷いた。「夜になったら来るよ」
「せっかく泊まるんなら、夕ご飯も食べればいいのにね、悠人くん」静子が言った。
「レイもそう言ったんだけどね、それは申し訳ないって。素泊まりでいいみたい」
「旅館みたいだね」

 夜になり、レイがベッドに横たわって天井を眺めていると、窓を叩く音がした。レイは飛び起きて窓の側まで寄り、鍵を開けた。
「来たね! いらっしゃい!」
「本当に2階に上がるハシゴがあるなんて。泥棒に入ってくれって言ってるようなもんだよ」
 悠人は窓を開けて中に入った。パジャマや暇つぶしになりそうなものを詰めたリュックを下ろした。
「昔友達と家で遊ぶときに便利だからって作ったんだよ。それより、親にはOKもらったんだね」
「いや、みんな寝たからコッソリ抜け出してきた」
「まあ大丈夫だよ。で、何持ってきたの?」レイはリュックを指差した。悠人は「ああこれ」とチャックを開け、中の物を取り出した。
「漫画とかDVD、トランプ、お絵かきセット。まあ色々ね」
「なにお絵かきセットって。幼稚園じゃあるまいし」レイは悠人が持つカラフルな箱を見て笑った。パッケージに書かれた文字の全てが、色とりどりの平仮名だった。
「僕が幼稚園のとき使ってたやつだよ。というか暇つぶしって言っても、僕はレイと一緒に寝るために来たから」
「・・SEXするって言いたいの?」レイは悠人を上目遣いに見た。
「あ、いや、そうじゃなくて。そのままの意味だよ!」悠人は慌てて言ったので声が裏返った。
「いいよ。じゃあ今からやろっか?」
 レイはそう言って膝立ちになり、着ていたシャツを脱ごうとした。悠人は慌ててそれを止めた。
「その・・まだ早いよ。僕がそのためだけに来たみたいじゃないか」
「レイとSEXしたくないの?」
「そうは言ってないけど、まだキスだってしてないし」
「先にするのが普通? 一緒だよ。やってる最中に散々するんだから」
「声が大きいよ」
「聞こえたところでなによ。この恥ずかしがり」
 レイはシャツを下ろしてからシワを伸ばし、ベッドに倒れこんだ。そしてレイは悠人の腕を引っ張り、隣に寝るように促した。悠人は彼女の隣に寝転んだ。
「もう寝ちゃうの?」レイは悠人の顔を触りながら聞く。
「やっぱりまだ起きてたい」
「ほら、やっぱ眠たくないんでしょ」レイはベッドの脇にあるスタンドの灯りを付け、2人は腹這いの姿勢になった。そしてレイは悠人の茶色がかった瞳を数秒見つめたあと、目と閉じて彼にキスをした。
悠人は顔が真っ赤になり、どこに視線を向けるべきかが分からなくなった。レイは照れ笑いを浮かべたまま、悠人から視線を逸らせようとしない。
「もう・・恥ずかしい」
 悠人はレイの視線に耐えられなくなり、布団の中に潜り込んだ。レイは無邪気に笑ってその布団を叩いた。
「経験あるくせに、変なの!」
そのあと2人は部屋のテレビで悠人が持ってきたネイチャードキュメンタリーを観た。海の中や火山の映像が高画質で映し出され、なんとなく観始めた2人も、それに見惚れていた。
次第に2人は眠たくなり、ベッドで寄り添い合って寝てしまった。

次の日の朝、レイの隣で目覚めた悠人は、レイを起こさないようベッドを降りようとした。しかし、レイはそんな彼に気がついた。
「帰るの?」うつ伏せのまま、レイは半開きの目を擦りながら聞いた。
「うん、また来るよ。バイバイ」
「もっと一緒にいてよ」
「そうしたいけど、僕の家族が起きる前に帰らないと」
「そう。じゃあね」
「そうだ、トイレ借りていいかな」
悠人は荷物をまとめて窓から出て行く前に、レイから聞いた1階のトイレに忍び足で向かった。誰も起こさないようにと慎重に歩みを進め、トイレまでたどり着いた。
悠人が用を済ませてトイレから出ると、そこにはパジャマ姿の恵美が立っていた。恵美は腕組みをして、彼を睨みつけるようにして言った。
「レイかと思った。あなた、レイが話してたカウンセリング受けに来てる子でしょ」
悠人は静寂の空間に突然現れた恵美におどろき、その瞬間自分が空き巣かなにかになったように感じた。
「そうだけど、あの、レイのお姉さん?」
「そう。昨日は妹と寝てたの?」
「・・うん」
「妹とヤった?」
「それはしてないよ! 一緒のベッドで寝ただけ」悠人は慌てて説明する。
「ふーん。まあなんでも良いけど、妹のことだし」恵美は素っ気なく言い、冷たい壁にもたれかかった。
「・・妹に興味ないの?」
 悠人がそう聞くと、恵美は黙ったまま俯いた。「ないわけじゃないよ。でも」恵美は顔を上げた。
「あなたはどう思ってるの?」
「なにが」悠人は彼女の質問の内容が掴めず、静かな声で聞き返す。恵美は間を置くこともなく、彼に簡潔に尋ねた。
「妹のこと好き?」
「・・・・うん」悠人は小さく頷く。
「だとしたら、あなたは大変な子を選んだね」
「え?」
「まあ今にわかるよ。レイは、マジで洒落にならないくらい大変だってことをね」
 恵美はそう言ってトイレのドアノブを捻った。「今から同情しちゃう。アレに耐えられるかな」恵美はトイレに入り、ドアを閉めた。

 その日は、レイはカウンセリングを受けていたという悠人と、街のショッピングセンターに買い物に出かけていた。静子から頼まれたトイレットペーパーと食料を悠人と探し回る。
「広すぎて何がなんだか」
 レイはショッピングカートを押しながら、あたりをキョロキョロと見渡す。背の高い棚の間をすり抜け、目印となる表示を探す。
「ママとなんの話してたの?」レイはおもむろに悠人に聞いた。
「レイの話してた」
「本当に? ママはなんて言ってた?」

《2時間前》
 
「あの子、あなたと会ってから明るくなったみたい」
「そうなの?」
「悠人くんと会うことを楽しみにしてるし、『明日来るよ』って言ったら本当に喜んでた。本当に、なんか嘘みたい」
 静子は2階で寝ているレイの姿を想像しながら言った。一度寝てしまうとそう簡単には起きないレイの寝姿が、母親の静子にとっては愛おしかった。
「僕はなにもしてないけどね、ホントに」
「いや、でもあなたの力が大きいよ。昔からレイを見てきて思うけど、レイは私からしても理解できないことが多いから。あんなに純粋に見えたのは初めて」
 悠人は黙って頷いた。この間レイの姉が言っていた事と、その言葉を知らし合わせようとした。
「特に今は難しい年頃だし、娘が私からだんだん離れていくような気がして・・でも、私にとって大事な娘なのよね」

「レイのこと、親身に考えてくれてるみたいだよ」
「ホントに? そう聞いたの?」
「いいお母さんだね」
「まあそうだね。レイのママだからね」
 レイは底抜けな明るさと悲哀を兼ね備えた声で言った。悠人はそれを聞いた瞬間、目の奥に涙が浮かんだ気がした。流れることはないが、目の表面で感じる微かな涙だった。
「ママにも色々言いたいこと溜まってたけど、もうなんか許しちゃう」
 レイは買い物を終え、悠人に買い物袋を持たせて家までの坂道を登った。ガードレールの向こうには港町が広がっており、悠人はそのあまりの見晴らしの良さに感動を覚えた。

「ママ! 買ってきたよ」
「ありがとうね、レイ。ごめんね悠人くんも、手伝わせちゃって」静子は2人に冷えたお茶を出した。
「いいんだよ全然」
「私ちょっと出掛けないといけないから、レイはちゃんと留守番しててね。悠人くんもゆっくりしていってよ」
 静子はそう言って2人を家に残して出ていった。
 悠人はソファーに腰掛け、テレビを見ながらレイと一緒に並べられたお菓子を食べた。昼の情報番組が流れていたが、悠人は興味がないためか、眠たいからなのか、まるで会話の内容が入ってこなかった。
 レイは飴を舐めながら、そんな悠人の方を向いた。
「悠人、飴あるよ」
「欲しい」
「食べさせてあげるから、目瞑って」
 悠人はまるで自分が幼児にでも戻ったかのような気分になった。しかし、言われた通りに目を瞑った。レイは自分の口の中から飴を取り出し、それを悠人の口に押し込んだ。
「まさか」悠人は目を開け、元のサイズより少し小さくなった飴を舐めながら、まじまじとレイの目を見た。レイは微かに笑みを浮かべていた。
「レイの口の中に入ってたやつだろ」
「美味しいでしょ?」
 悠人は呆気に取られたが、レイはさらにもう一つの飴を自分の口に入れた。そして悠人を引き寄せてキスをしたあと、自分の口から彼の口へと飴を移した。
「レイ・・君ヤバいな」
 悠人は口に入れられたふたつの飴の味を感じながら、ニヤニヤと笑うレイに言った。
「だいぶイカれてる」
「褒め言葉だよね? ほら、噛み砕いて、飲み込んで」レイは悠人に寄り、悠人の顔を正面から覗き込むようにした。悠人は言われるがままに飴を噛み砕いたあと、飲み込んだ。
「もう一個欲しい?」レイはまた袋から飴を取り出す。悠人は「いや、もういいよ」と手を振った。
「嫌なの? 口移ししてあげるって言ってるんだよ」
「飴くらいひとりで食べるよ! レイに世話にはならないよ」
「じゃあ今度はレイの唾飲んでもらう」
「気持ち悪いし汚い!」
「は!? もっかい言ってみろや」
 レイはソファーに悠人を乱暴に押し倒し、彼の上にまたがった。そして顔を近づけ、「汚いって言った?」と低い声で聞いた。悠人の両手をしっかりと押さえつける。
「言ったよ・・」
「汚くなんかないから。教えてあげる。ほら、口開いて」
 レイのあまりの勢いに圧倒された悠人だったが、気がつくとレイに言われた通り口を開いていた。レイは彼の口の中に唾を垂らした。

 恵美は恋人の誠とデートを楽しんだあと、街角で手を振って別れ、電車で帰宅した。お互い高校3年になり、やがては距離が遠くなってしまうのではないかと、恵美は電車の外の景色を眺めながら考えた。そして恵美は小さい頃の妹をふと思い出した。コマ付きの自転車で公園の芝を駆け回り、太陽のように明るく笑っていた妹の姿が浮かんだ。  
 いつも仲良しだった妹が今はすっかり反抗期に入ってしまったことを、彼女は、関心がないふりをしながらも少しだけ寂しく思っていた。
 辺りはすっかり暗くなり、静かな夜道を歩いて家まで戻った。すると、玄関に車がないことに気がついた。
「レイー! ママは出掛けてるの?」
 恵美は玄関のドアを開けてレイに呼びかける。玄関には悠人のオレンジ色の靴があった。恵美は2階のレイの部屋の前まで行ってドアを開けた。するとそこでは下着姿のレイと悠人が横並びで眠っていた。
「あの子・・」恵美はそっとドアを閉めた。

《数時間前》

 悠人はレイに手を引かれ、階段を登り、廊下を渡ってレイの部屋に行った。レイはドアを素早く閉め、悠人と一緒にベッドに倒れ込んだ。
「本当に? 昼間から?」
「気が変わらないうちにやるの。悠人もいいでしょ?」
 レイは真剣な表情のままTシャツを脱ぎ、スカートを脱いで下着姿になった。悠人もレイのその姿を見た瞬間に今まで抑えていたレイへの感情が溢れ出し、服を脱ぎ始めた。レイはその間にカーテンを閉めて、窓から入る光を遮断した。そして2人は向かい合ったままキスをし、抱きしめ合ったまま倒れ込んだ。
 しばらくして、レイは汗だくになって息を切らし、悠人の上から降りてベッドにうつ伏せになった。悠人も同じく荒い息のまま、レイに背を向けて横たわった。2人はお互いが何をしていたのかすら分からなかった。ただ気がつくと、お互いが裸のままでベッドの上に横たわっていた。
 長い沈黙の後、息が整った悠人は、レイに背を向けたまま静かに声を出した。
「なんであんな話したんだよ」
 レイはうつ伏せのまま悠人の方に顔を向け、間を置いて聴き返す。「あんな話って?」
「電車の話だよ。Y字の線路と電車・・」
「ああ、あれね。言ったでしょ? 死者の救済」
「救済? 死んだあとに?」悠人は眠たげな声で話す。
「助けたかったんだよ。線路の上の人をね」
 悠人はレイの方に体を向けた。乱れた金色の髪と、いくつかの赤いニキビとホクロある背中をゆっくりと眺めた。
「あのまま死なせて終わりなんて悲しすぎる。せめて私が墓を立ててあげたかった」
「死体を海岸に埋めて、その上に立てた墓だろ」
「そう。私が作った墓」
 悠人はさまざまな憶測に頭を支配されていたため、レイの一人称が「私」に変化していることに気が付かなかった。それに気がついたのは、それから何時間も経った後のことだった。
 悠人は、レイの太ってはいないが痩せているとも言えない、適度に肉付きのいい体を見続けた。枕に顔を押し付けて目を閉じているレイが、今は何よりも愛らしく思えた。
「あんまり見ないでよ。私、今ポヨポヨだから」レイは薄目を開けて悠人を見た。
「別にポヨポヨじゃないよ。それに、痩せすぎてる方が心配だから」
「でもお腹とかもう・・ヤバいから」レイはそう言って自分の腹をさすった。
 2人は下着を付け、再び同じ布団を被って寝た。悠人の意識が戻ったとき、1階の玄関のドアが開く音と「レイー! ママは出掛けてるの?」という恵美の高い声が聞こえてきた。窓の外はすっかり暗くなっていた。部屋のドアが開き、恵美が部屋を除いたことが、目を閉じたままでも分かった。数秒経ってドアが閉じ、足音が離れていった。
「レイ! もう夜だよ!」
 悠人は起き上がり、レイの肩を揺らした。レイはようやく目が覚め、ベッドから起き上がった。廊下に響く足音で、誰かが帰ってきたことが分かった。レイは目を擦りながら、下着のまま廊下に出た。そこをちょうど恵美が通りかかった。
「Tシャツぐらい着たらどう? そんなよれよれの下着で恥ずかしいでしょ」恵美は手に持っていた洗濯カゴの中からTシャツと半パンを取り出し、レイに投げる。
「あ、ありがとう。着るよ」
「ママはどっか行っちゃったの?」
「うん。なんか出掛けるって言ってた」
「そう」
 レイの部屋のドアが開き、鞄を持った悠人が出てきた。「あれ、もう帰るんだ」レイと恵美に同時に見つめられ、悠人は恥ずかしさを覚えた。「ああ、静子さんによろしくね」悠人はそう言って1階に降り、玄関から家を出ていった。
 レイは恵美の部屋で彼女と久しぶりに2人きりで話をした。部屋の電気を暗くして、静かな部屋でひっそりと喋る。
「悠人・・レイはもう悠人のことしか頭にない」レイは俯いたまま恵美にそう言った。
「そんなに好きなんだね。悠人くんもレイのこと好きって言ってたよ」
「ホントに? どうしよう、もう」
「どのくらい好き?」
「悠人と信じられないくらいエッチなことしたい。悠人のあれしゃぶりたい」
「あんたキモいね」
 
 悠人はいつものように国道沿いの道を歩いて家に帰った。家ではちょうど悠人の両親が食事を終えたところだった。
「夕飯は後で食べるよ」悠人はそう言って2階の自分の部屋に戻って荷物を置き、すぐにベッドに入った。すると部屋のドアが開き、誰かが枕元に大量の洗濯物を置いたのが分かった。
「最近遅いね、悠人ちゃん」
「沙奈ちゃんか」
 ショートヘアーでエプロン姿の沙奈が悠人のベッドに座り、彼の頭を撫でた。「前言ってた女の子と会ってたの?」沙奈はボサボサになった悠人の髪を整えながら聞いた。
「うん。でも、なんかちょっと変な感じに・・」
「なに? 変な感じって?」
「僕は目的を見失った」
「なんの話?」沙奈は悠人の髪を撫で続ける。沙奈はいつもと少し様子が違う悠人に、どんな言葉を掛けるべきか考えた。
「家政婦がそんな知りたがるもんじゃないよ」悠人は布団を首元まで被った。
「なによ勿体ぶって。私には教えてくれないの?」微かに笑みを浮かべなら、沙奈は聞く。
「つまりその・・こんなこと想像もしなかったけど、レイと親密に」
「ホントに? それは知らなかった!」
「僕はもう終わりだよ」
「なに言ってんのよ。好きになったんでしょ? 素敵じゃない」
 沙奈は悠人の頭を優しく撫でたあと、ポンポンと叩いた。悠人はその手を掴み、自分の頬に当てた。沙奈はクスっと笑い、悠人の頬から伝わる体温を感じた。
「康二が悠人ちゃんにまた会いたいって言ってたよ。しばらく会ってないよね」
「旦那さんね」
「まだ旦那じゃないよ。婚約者」
「結婚したらもういなくなっちゃうのか。寂しいよ」
「永遠の別れじゃないんだし、また時々会えるよ。私たちの家にも遊びに来て欲しいし、結婚式は絶対来てね」
「うん。絶対行くよ」
「約束ね」
 
 2日後、悠人はレイと図書館に行った。レイの家から歩いて数十分の場所にある大きな図書館で、なぜかその日は人が少なかった。2人は本棚の間を歩きながら軽快に言葉を交わす。
「あんたにピッタリの本見つけてあげるよ。そうねぇ、なんかエッチなやつないかな?」
「ないに決まってるだろ。街の図書館だぞ」
「でもこないだここで借りた白黒の写真集がね、ビジュアルポーズ集とかなんとか言ってほぼポルノだった。すごい数のおっぱいとお尻」
「それは芸術本だから、いやらしい目で見る方が間違ってるね」
「でも悠人ぐらいの年頃の男だったら、それ見たら間違いなく抜くと思う。裸ならなんでも興奮するっていう、男って単純だから」
 レイはスタスタと浮き足立った歩き方で、悠人より先を歩く。金色の艶がかった髪が左右に靡くように揺れる。
「さっきから下ネタばっかり。ここ図書館だよ。世界で一番汚れのない空間なんだから」悠人は言う。
「逆にあんたは下ネタ言わないね。頭の中はピンク色で埋め尽くされてるのにね」
「勝手に決めつけないでくれよ」
「だってレイの裸見て興奮してたでしょ。悠人みたいな大人しそうなタイプに限って性欲怪獣だったりするのよね」
 レイは悠人を振り返ってニタニタと笑った。悠人はレイに言われ続けるのが悔しくなり、反論した。
「僕をどう見てるんだよ。いつもそうやって分かったふりして、相手の上位に立ちたがってる」
「そんなことないもん」
「レイこそ、自分のこと可愛いって思ってるんだろ」
「思ってるよ」
 レイは一歳否定することなく、自信に満ちた表情で言った。悠人はそう言い切ってしまうレイに驚愕した。
「あんただって。レイのこと可愛いって思ってるでしょ?」
「レイ、君すごいな。色々と衝撃だよ」
「だめかしら」
「いやそんなことないけど、僕以外がそれを聞いたら、レイのこと異常だって思うよ」
「それどう言う意味?」
 レイは立ち止まり、さっきまでの笑顔から一瞬にして広角が下がり、真顔に戻った。そして悠人に一歩近寄った。悠人の背中に冷たい何かが走った。
「どこをどう切り取って異常って言ってるのか説明してくれる?」レイは真顔のまま、早口になる。
「いやそれは・・」
「ハッキリ言ってよ。ほら、言って」
「レイ、怖いよ」
怯える悠人に、レイは目を見つめたまま詰め寄る。悠人は、いくらかレイの瞳が大きくなったように思えた。彼は首のあたりに冷水を流し込まれたような感覚があった。
「そういう風な言い方していいわけ?」
「気に障ったなら謝る。ごめん」
「二度と言わないで」
 レイは悠人に顔を近づけ、小さく低い声でそう言った。
 その日からだった。悠人はいつも明るく親切なレイに対して、時折、底知れない恐怖を覚えるようになった。レイはとある瞬間に表情が一変し、責め立てるように怒る癖があった。冷たいマシンのような目で相手の目を見つめ、決してその目を逸らすことはなかった。
その日は、レイがいつものように部屋に悠人を呼んで、ババ抜きをしていた。
「やったね。僕の勝ちだね」
「ちょっと待ってよ。納得できない!」レイは最後に手元に残ったトランプのババを床に投げつけた。「もう一回やって!」
「勝負は1回きりって言ったじゃん。もうやらないよ」
「お願い、もう1回勝負してよ。こんなの納得できないから」
「いや、だってそれは・・」
「いいからやれや」
 またあの時の目だった。レイの瞳が黒さを増し、感情のない静かな声に変わった。悠人はまた悪寒が走り、自分の手が震え出していることに気がついた。勇気を出してレイに言ってみる。
「やめてよ。怖いから」
「怖いじゃないよ。もう1回やれって言ってんだよ」
「さっきまで楽しかったのに、急にどうしたんだよ」悠人は怯えながらも、声が震えないようにする。
「じゃあ逆に聞くけど、あんたはそんなズルして平気なの? からかってるの?」
「そんなこと一歳してないって! 負けを認めたくないから被害妄想してるだけだ」
「なにその言い方。怒らせたいの?」
 レイは膝立ちになってゆっくりと悠人に近づき、悠人は後退りをする。しかし壁まで来てしまい、悠人は逃げ場がなくなってしまった。レイは目を大きく開き、悠人に顔を近づける。
「いいから謝って」
「ごめ・・なさい」
「ちゃんと謝れ」
「ごめんなさい」
 レイは目の下にシワを寄せ、明らかに不機嫌な態度を表情に出して「ふん」と鼻を鳴らした。そして立ち上がってベッドまで行き、そのまま倒れ込んだ。
「今日はなんかもうイライラするから帰って。ひとりになりたい」レイは吐き捨てるように言った。
「レイが呼んだんじゃないか。そう言うならもう帰るけど」
 悠人は散らばったトランプを集めて箱に戻し、荷物をまとめて部屋を出た。
「あ、帰るのね悠人くん」静子が玄関に向かう悠人に気がついた。
「うん。もう帰るよ」
 靴を履き、悠人は家を出た。静子が「じゃあね」と閉まるドアを見ていると、その横を裸足のままのレイが走り抜けた。レイはサンダルを履き、悠人を追いかける。
「ねえ! やっぱり帰らないで!」
 悠人はレイの声がしたので振り向いた。レイは悠人に追いつき、彼の腕を強く掴んだ。「やっぱりレイが悪かった。嫌わないで」
「僕がいたら迷惑なんじゃ? 大人しく帰るよ」
「いや! 帰らないで、やっぱり一緒にいてよ」レイは悠人の手を握り、グイグイと引っ張った。
「もう・・分からない。どっちなんだよ」
悠人は、自分でも驚くほどレイの感情が掴めないのだった。レイは手汗で湿った手で悠人の手を握り、彼に謝罪をした。
「ごめん、すぐカッとなって、悪い癖なの」レイは俯いたまま視線だけを悠人に合わせた。「許して」
「良いよ、別に。僕も似たようなもんだし」
「だから嫌いにならないで」
「分かったよ」
レイはもとの優しげな声に戻り、瞳は最初の澄んだグレーに色が戻った。

数日が経ち、悠人はレイに連れられ、ある家にやって来た。どうしても悠人を連れて行きたいとレイが言ったのは、同級生同士のパーティーだった。レイと仲がいい女友達が6人ほど集まっており、カーペットの上に料理を並べて気ままに喋っている。
「女子ばっかりだ」
悠人は自分一人以外、全員が女子であることに引け目を感じた。ほとんどが派手な髪飾りを付けた、悠人と年の近い少女だった。
「悠人もなんか食べるよね」
カラフルな丸いザブトンにちょこんと座る悠人に、レイは大皿に入ったお菓子をいくつか器に取って渡した。
「レイ、僕がこんなところ来て良いのかな」
「何言ってんのよ、良いに決まってるじゃん。ていうかみんなに紹介しておきたいのよね」
レイが悠人の隣に座ると、レイの小学校からの仲である明美が「あんたら仲良いんだね」と言った。
「名前なんていうの?」悠人の隣に座る茶髪の真美が聞く。
「悠人」
「ゆうと? うちの従兄弟と名前一緒だわ。それ貰って良い?」
真美は悠人が手に持った皿の中のクッキーを指差した。「ああ、良いよ」真美はクッキーを摘むと、一口で平らげた。
「まあゆっくりしていってよ。お菓子もいっぱいあるし」レイは悠人の肩を叩いて言った。
「ちょっと。私の家なんですけど!」家の主である秋子が言った。レイは構わずクッキーを頬張る悠人に聞いた。「悠人はこういうパーティーとか来たことないの?」
「ないよ。クリスマスパーティーにだって呼ばれたことないし」
「そうなの? レイたちはパーティーなら月イチでやってるんだけどね」
 レイがそう言うと、真美が「そうね」と頷いた。悠人は真美の方を向いた。真美はレイと悠人の関係に興味を示しており、2人の体の距離が近いことにも気がついた。
「レイがいきなり男子連れてくるって言うからさ、びっくりしちゃった。彼もあんたと同い年なんでしょ?」真美はレイに聞いた。
「いや、もうすぐでレイが年上になるよ」
「あ、そうか。レイって来週誕生日だっけね」
「そうだよん」
 レイは弾むような声で答える。悠人はそんなレイの横顔に、自分でも理由はよく分からないが見惚れていた。いつも見ているレイの顔が、今日はどういうわけかいつも以上に愛らしく思えたのだった。
「レイのことめっちゃ見るじゃん」
 悠人の反対側に座る麻衣がそんな悠人に気がついた。その場にいた全員が一斉に悠人を見た。
「いやそんな。見てないよ!」
「誤魔化したって無駄よ」麻衣は顔を赤らめて否定する悠人をからかうように言った。「レイちゃんイケメン君から気に入られてますわよ」真美も同じように2人に茶々を入れた。悠人は、レイが照れ笑いをすることもなく自分の目を見続けていることにハッとした。
 するとレイはいきなり悠人の肩を掴んで彼にキスをした。周りの数人は驚きと歓声が混ざったような声を出し、思わず口元を抑える。2人はその場にいた全員の前で数十秒キスをし続け、レイは最後に悠人の下唇を軽く噛んだ。
 悠人は気がつくとレイと床に倒れ込んでいることに気がついた。レイは悠人に馬乗りになったまま起き上がってスカートを下ろし、悠人のスボンのベルトを外し始めた。
「レイ! どういうつもりだよ」悠人はレイのあまりの突発的な行動に困惑する。「抑えてて」レイが声をかけると、真美や秋子が「OK!」と悠人を抑え、彼のシャツを脱がせた。同時に、レイは悠人のズボンを彼の膝まで下ろす。
「待ってくれよ!」
 悠人は必死で起き上がり、シャツを奪い返した。そしてズボンを下の位置に戻した後、急いでシャツを着た。その場で立ち上がり、レイの手を引っ張った。
「レイ! ちょっと来い!」
「なんなのよぉ」
「ちょっと奥の部屋借りる」悠人は振り返って言う。
「私の部屋でよかったら」秋子は廊下の奥の扉を指差した。
 悠人は下着姿のレイの手を掴み、奥の部屋まで連れて行く。麻衣はそんな2人に「ごゆっくり」と声をかけた。悠人は「あきこ」と書かれた部屋に入った。
「全員ガラ悪すぎ。レイの友達もあんなめちゃくちゃなのかよ」
「あれはレイたちの儀式だから。嫌だった?」黒い下着を付けたレイは、秋子のピンク色のベッドに腰掛ける。
「なんでみんなの前でやるんだよ。どうかしてる」
「あんたはSEXを恐れてる」
「そんなことない!」
「絶対青○とかできないタイプでしょ」
「そんな言葉使うなよ。レイだってそんな経験ないくせに」
「あるし。同級生の男子としたことあるもん」レイは挑発するような目つきで悠人を見上げる。悠人は、レイが常に自分より優位に立っているかのように思え、悔しくなった。
「私とやりたくない? もういい?」レイは手を広げた。悠人は俯きがちに、(ども)った声でつぶやいた。
「いや・・・・やりたい」
「今は2人だけだから平気。ほら、おいでよ」
 レイは自分が座るベッドを叩いた。悠人がベッドに座ると、レイはベッドの上のリモコンで部屋を暗くした。そして、再びレイは目を閉じて悠人にキスをした。レイは悠人の唇が震えていることに気がつき、口を離して聞いた。
「どうしたの悠人」
「ごめん・・緊張して」
「落ち着いて、リラックスして」
 悠人は来ていたシャツとズボンを脱ぎ、レイは下着を外した。2人は秋子のベッドで裸のまま絡み合う最中、レイは彼に何度も「気持ちいい?」と聞いた。

「なんか遅くない?」
「長い方が好きなんだよ」
「そのまま寝ちゃったんじゃない?」
 麻衣は全員とカードゲームをしながら、1時間経っても部屋から戻らない2人を気にかけていた。時刻は夕方の4時になっていた。
「見にいってみる?」
「そのとき丁度激しいやつやってたらどうするのよ。そんなレイの姿見たくないでしょ」
「全裸のね」
「あ、なんか部屋から声しない?」真美は部屋の方向に耳を澄ませた。レイが悠人を罵倒する声が、微かに部屋から漏れていた。「なんか喧嘩してるよ」
 するといきなり部屋の扉が開き、ドスドスと大きな足音を立ててレイが出てきた。何事かと、皆が一斉にレイを見上げる。
「もう帰るから! 後はお好きに!」レイは部屋にいる悠人とその場にいた全員に、やけになって言った。そして拗ねた様子で鞄を手に取り、家を出ていった。

《20分前》

 2人は息を整えながら、何も言わずに天井を見上げていた。そしてレイは何も言わずに腹に手を当て、荒く呼吸をしている悠人に目をやった。悠人の胸と肩が汗で湿っているのが分かった。
「すごい汗かいてんじゃん」レイは悠人の胸の辺りを触った。
「僕は汗かいてない。レイの汗がついただけだ」
「嘘だ。ほらほら」
「乳首触るな」悠人はレイの手を掴んで、自分の胸から退けた。レイは白い歯を見せて笑ったあと、悠人の目を見て言った。「もう1回やろう」
 悠人は明るい空を見上げるときのように、目を細めてレイを見た。「もう十分だよ。1回で十分」
「そんなこと言わないでさぁ、体制変えてやろう」
「一緒だよ」
「レイの言うこと聞いてくれないの?」レイは声のトーンを少し低くした。悠人は熱くなった体の温度が、少し下がった気がした。
「また・・」
「『また』って何よ。いいからやってたら」
「今度でいいじゃん」
「やってくれないと叫んで暴れる」
「なんでそうなるんだよ」悠人は怯えながら言った。
 レイは再び悠人に対する苛立ちが込み上げ、声を荒げる。悠人が自分の意向通りに動かないことが、レイにとって最大の苛立ちだった。
「あー!! もうホントにうざい! なんで言う通りにしないの!!」レイは悠人の使う枕を思い切り叩いた。振動で悠人の頭とベッドが揺れた。
「癇癪起こすなよ」
「じゃあもういいよ! そんなんならもう帰る。あんたはアダルトでも見て1人でやっとけば?」
 レイはいかにも不機嫌そうに眉間に皺を寄せてベッドを降り、床に散らばっていた服を着た。
「ちょっと待てよ!」
「だいたい偉そうなのよあんた! 自分をなんだと思ってるの? クソ陰キャのくせに口答えとか」
 レイは内にある苛立ちを全てぶつけるかのように、悠人を罵った。これこそが、レイが自分でも抑えることが出来ない性格だった。レイは突発的な衝動に身を任せた。
「クソ野郎」
「僕そんなに偉そうだったか?」
「だからそうだって言ってんじゃんバーカ」レイは足元にあったクッションを悠人に投げつけた。
「家政婦とベロチューしとけ!!」
「おい言い過ぎだろ」
 レイは悠人に罵声を浴びせ、そのまま勢いよく部屋を出た。悠人は布団にうずくまったまま、玄関へと向かう大きな足音を聞いた。そして「もう帰るから! 後はお好きに!」というレイ高い声を聞いた。
 悠人は意気消沈のまま服を着て、全員がいる部屋に戻った。悠人が座布団に座ると、真美が彼にジュースを渡した。「大丈夫だよ。レイは気分屋だから」
「またレイを怒らせちゃった」
 悠人は体育座りになって顔を埋める。真美と秋子が悠人をを慰めるように、彼の肩を叩いた。

 悠人は学校の帰り道の道で、偶然恵美と会った。彼女も学校の帰り道で、悠人に会うと手を振った。
「中学校の帰り?」
 恵美は白いポロシャツを着てリュックを背負った悠人に聞いた。悠人はそうだよと答え、リュックを背負い直した。
 2人は川沿いの道をゆっくりと歩きながら何気ない話をした。
「レイが悠人くんに謝りたいって言ってたよ。なんか知らないけど罪悪感感じてるみたい」
「本当に? こないだのことかな」
「やっぱり何かあったのね。・・レイはカウンセラーの子とは思えないでしょ?」
 悠人は何を言うこともなく苦笑いを浮かべて頷いた。悠人はあの日以来、毎晩のようにレイが自分に浴びせた言葉を思い返していた。あの言葉が何を意味するのか、気にしないようにするほど、頭がそれについて考えてしまう。
「次いつうちに来るの?」
「え?」
「ほら、ママのカウンセリング」
「あ、それなら1週間後。ついでに僕からもレイに謝りたい」
「多分だけど、あなたは謝る必要ないよ。レイは理不尽にキレる癖があるから」
 何気なく言葉を交わしているうちに、2人は悠人の家の近くまでやって来た。「ねえ、もしよかったら家お邪魔していい?」恵美は悠人の顔色を伺いながら聞いた。悠人はあっさりと「良いよ」と答え、家の中に彼女を通した。
「家は1人なの?」
「両親は仕事だけど、沙奈ちゃんがいる」
「沙奈ちゃん?」
「うちのお手伝いさんだよ。僕の隣の部屋に住んでる。今は・・実家に帰ってるかな」
 悠人は2階の自分の部屋まで恵美を案内した。恵美は中学生の男子の部屋はどんな感じなんだろうと、そこに興味津々だった。そしていざ悠人の部屋を見てみると、そこは綺麗に整頓された、本棚のある部屋だった。
 悠人は沙奈が机に貼った書き置きの付箋を手に取った。いつもの小さく丸い字と、簡単な動物のイラストだった。
「『アイスを買っておいたよ。冷凍庫に入ってるよ』だって」
「あ、お手伝いさん? すごい! 優しいね」
「優しいんだよ」
 悠人は制服から普段の部屋着に着替え、冷蔵庫までアイスを2つ取りに行った。
「食べていいよ」
 悠人はカップのバニラアイスを恵美に差し出すと、恵美は「いいの? 悪いなぁ」と言いつつ受け取った。
 恵美はアイスを食べながら、レイの幼少の頃の話をした。悠人はその語り口から、昔は姉妹仲が良かったのだろうと想像できた。
「昔から金髪なんだよ、レイ」
「そうなの? どうして?」悠人は食べ終えたアイスのカップを置いた。
「どうしてかな。確か本人が金髪の方が自分らしい、とか言ってたっけ」
「それで何年も金髪に?」
「そうね。レイの黒髪はもう何年も見てない」
 恵美は、今ここにアルバムがあれば、小さい時の可愛らしいレイの写真を見せてあげるのにな、と思った。青空の下で爽やかな笑顔を浮かべる、ブロンドの少女の写真。
「レイは意外と心が脆いところがあるのよ。昔、1回だけ私に泣きついてきたことがあってね。何か辛いことがあったんだろうけど、何も聞かなかった」
「そうなんだ。レイが・・」
「そんなレイがあと3日で15歳だなんて、信じられない」
「あ、そうか。もう誕生日なんだ」
「あなたもその日うち来なよ。みんなでお祝い会やるからさ」
「行きたいけど・・その日は予定があるからね。プレゼントだけ送るよ」
 
 それから1週間が経ち、再びレイの家に来ていた悠人は、彼女の母親である静子と話していた。レイは学校で居残りをしていたため、家にはまだ帰っていなかった。
「あの子はあまり物を欲しがらないから、何をあげたらいいかって毎年悩むのよね」静子は悠人がお茶を飲む姿を見ながら言った。
「僕とは対照的なんだね」
「あなたは物欲があるの?」
「ありすぎて困ってるくらいだよ。欲しい漫画とかゲームとか・・」
「お小遣いとかもらったりする?」
「いや、滅多にないよ。両親からは」
 2人が話していると玄関の扉が開く音がした。そしてレイの明るい「ただいまー」という声がした。レイはいつものオレンジ色の靴で悠人が来ていると悟り、靴を脱いで駆け足でリビングまで来た。
「悠人! 来てたんだね」
 レイは分かりきっているにも関わらず、そう口走った。思わず笑みがこぼれる。
「プレゼント届いてた?」悠人が聞く。
「届いてたよ、ありがとうね! 今読んでるよ、あの小説」
 悠人が送ったのは一冊の小説だった。ハードカバーで青い表紙の、「レイン」というタイトルの児童文学だった。
「悠人、部屋においでよ」
「うん」
 悠人は再びレイの部屋に行った。レイは鞄を下ろして部屋着に着替え、悠人にお菓子とお茶を出した。
「こないだのこと・・後悔してる。またやっちゃった」
 レイは悠人にあまり目を合わせることなく、抑え気味の声で言った。そして艶のあるブロンドヘアーの毛先を意味もなく撫でた。「本当は悠人とエッチできて嬉しかった」レイは瞳だけを悠人に向けた。
「何言ってんだよ」
 悠人は照れと呆れが混ざった声で言った。そしてレイから目を逸らし、座っている座布団に目を向ける。
「レイ、昔からこんな性格で問題児扱いされてて、いっつも誰かから嫌われてた。でも悠人は怒らないどころか、プレゼントまでくれて・・なんでそんなに優しくしてくれるの?」
 レイは思い切って悠人に尋ねてみる。今言ったことに彼はなんと返すか、レイは想像も出来なかった。悠人は落ち着いた様子で答えた。
「レイだって優しいよ。僕にいろいろなこと教えてくれたし、そのお返しをしてるだけだから」
 そう話す悠人が、レイはなぜか神聖な存在に思えた。自分を見つめるその優しげな目元にレイは触れたくなった。
「悠人は本当に天使だよ。レイにとって、輪っかのない天使」
「そりゃ・・どうも」
「今まで生きてきて、悠人みたいな子に会ったことがない」

 夕方になり、恵美は家に帰ってきた。鞄に付けてある小さいぬいぐるみが、随分と汚れていることに気がついた。数年ぶりにカバンから外して、そばのテーブルに置く。
「ただいま。悠人くん来てるの?」恵美は料理をしている母親に聞いた。
「来てるよ。今日はご飯食べていくんだって」
「そうなんだ」
 恵美は2階の自分の部屋に戻り、荷物を置いたあと隣のレイの部屋のドアを開けた。するとそこでは、下着を下ろした2人が向かい合って足と足を交差させ、キスをしているところだった。恵美は2人と目が合い、急いでドアを閉めた。「ごめんなさい! 

だったわね」
 2人は顔を真っ赤に染め、お互いの顔が見れなくなった。レイは自分の頭から蒸気が出たのではないかと思うほどの恥ずかしさだった。「もういや・・」とレイは両手で顔を覆い、悠人は部屋の鍵をかけなかったことを後悔した。恵美は再びドアを開け、「あんたら、生で最後までやっちゃダメだよ」と言って再びドアを閉めた。
「見ないで!!」レイは下着を履いたあと、悠人から離れた。悠人も同じように下着とズボンを元の位置に戻した。
「最後までっていうのは?」
 悠人はレイに聞いてみる。レイはまだ頬を赤らめたままだった。
「中出しのことだよ。膣内射精」
「僕はしてないよ」
「分かってるよ。ああもう・・せっかくいいとこだったのに、もう出来ない」
「どうして?」
「見られたから」
夕食の時間になり、悠人とレイは1階のリビングに降りて来た。恵美は先に席についており、後から来た2人に、意味ありげに微笑みかけた。
悠人を交えて4人で夕飯をとる最中、静子は悠人に聞いた。
「どう? お口に合うかな?」
「うん。美味しい」
 悠人は自分に振る舞われた豪華な食事を食べすすめ、レイはその様子をうっとりと眺めていた。そして恵美は、そんなレイの姿を眺めていた。
「悠人くん食べ方綺麗だね」恵美が言った。
「そうかな?」
「育ちがいいんじゃないの?」悠人のコップにお茶を注ぎながら静子が言った。悠人は「いや、そんなことないよ」と謙遜した。
「レイよりお箸の持ちかた綺麗だもん」
 レイはそう言って自分の箸を持つ手と、悠人の箸の持つ手を比べた。
 静子はレイに学校で居残りをしていた理由を聞いた。
「また揉め事でも起こしたの?」
「違うよ。習字の時間にクラスメイトの机に墨汁ブチまけて、それで向こうがブチギレてきたんだよ」
「それで喧嘩になったわけ?」
「簡単に言うと」
「それはあなたに非がある気がするけど・・」
 レイは食べる手を止め、首を振った。
「習字で好きな言葉を書くっていう時間だったんだよ。でもレイがキレさせたソイツはね、『愛歌』って書いてたんだよ。それをレイが真っ黒にした」
 レイは白い半紙が一瞬にして黒く染まった様子を思い出しながら説明する。墨汁のボトルを倒した瞬間のクラスメイトの顔が、レイは忘れられなかった。
「真っ黒にしたのはまずいでしょ」恵美が言った。
「そもそも何よ『愛歌』って。クソほどダサいし、絶妙にキモい。真っ黒になって正解」
「わざとやったの?」悠人は驚いたようにレイの顔を見た。
「いや、わざとじゃないよ。不本意なのに、『いちばん上手くかけたのに』とか言ってブチギレるの謎すぎよね。いちばん上手くかけたのがいちばんキショいわ! ってね」
「レイ、言い過ぎでしょ」静子はレイ宥めるように言った。いつも通りのレイの言動ではあったが、今日は一段と饒舌になっているように静子は思えた。そして、悠人に聞いてみた。
「本当に、いつもこんな調子なのよ。悠人くんどう思う?」
「でも・・もう仲直りはしたんだろ?」隣で再び食べ始めるレイに、悠人は聞いた。
「2人とも呼び出されて話聞かされたあと、無理やり握手させられた。でも、まだ腹の虫は治ってないから」
 話を聞いていた恵美は思わず吹き出した。レイはそんな姉のことをジトっと睨みつける。「あんたがキレるの意味わかんないでしょ。それで喧嘩になるのも子供っぽいし」恵美は意地になっているレイがおかしくて仕方がなかった。
「いや、でもレイの気持ちは分かる・・気がする。負けたくないって思う気持ちがね」
「ありがとう。もう、レイの気持ち分かってくれるの悠人だけだよ」
 
 悠人が帰ってから、レイはとあることを思い出した。悠人と2人で牛舎のある家に入ったときに見つけた、イベントのチラシのことだった。ネットで調べてみるとそのイベントは今でも開催されていることが分かり、悠人に「2人で行こうね」と言ったことを、レイはたった今思い出した。イベントの開催日が明日に迫っていた。
「ママ・・あのね」
「どうしたの?」
 レイはリビングで家計簿をつけている母親のもとに行き、あるお願いをした。
「悠人と一緒にお出かけしたいなぁって思って。前に一緒に出かけたいって話してて、それでね」レイはモジモジとした様子で話す。
「お出かけするの? 良いと思うよ」
「でも・・お金がなくて」
 苦笑いでそう話すレイに、静子は間を置いてから微笑みかけた。「いいよ」財布を取り出し、2万円をレイに手渡した。「2人で遊んでおいでよ」
 レイはまさか2万円も出してもらえるとは思っておらず、少し驚いた。喜びのあまり、レイは咄嗟に静子に抱きついた。
「ありがとう、ママ! 大好きよ」
「もう、この子ったら」静子は呆れ笑いをしながらも、娘であるレイをそっと抱きしめた。
「明日に行くよ。ありがとね」
「気をつけてね。怪我とかしないでね」
「それで・・1泊2日でも良い?」
「それはダメ。まだ中学生なんだから、ちゃんと夜までには帰って」
「はぁい」
 レイはすぐに悠人に明日一緒にイベントに行こうと電話をした。悠人もイベントがある日を覚えており、ちょうどレイにその話題を振ろうとしたが忘れていたのだった。悠人は翌日の9時にレイの家に彼女を迎えに行く約束をした。

 次の日になり、悠人は時間通りにレイの家にやって来てチャイムを押した。すでに支度を終えていたレイは勢いよく玄関まで走っていき、玄関のドアを開けた。
「行こうかレイ」
「うん! 行こ行こ!」
 2人は40分ほど電車に乗って、催しが行われている場所まで向かった。そこは小高い土地にある緑地公園で、何十メートルも続くバザーの道を抜けると小さな遊園地があった。
 2人は公園の道をゆっくりと歩きながら、道の両脇に並ぶ商店を見物した。それは悠人がいつか見た景色と重なって見えた。彼が朧げながら覚えている、沙奈と一緒に来たいつかの公園の風景とそっくりだった。
「なんか買っていこうよ」
 悠人は手作りの陶器茶碗が売ってる店の前で立ち止まり、すぐそばにあった食器を手に取った。レイもその場で立ち止まった。
「ママから今日のためにお小遣いもらったから、それで買おう」
「君のお母さんのお金じゃ申し訳ないよ。自分のお金で買うよ」
「別に気使わなくても良いのに!」
 悠人が陶器の食器を見ているあいだ、レイはその店のとなりに並べられた似顔絵に見惚れていた。
「似顔絵」
レイは思わずそう口にする。それに気がついた陶器屋の主人は「あそこで描いてもらえるよ。ほら」と店の向かいを指差した。
「描いてもらおっかなぁ」
「いいんじゃない?」陶器のコップを2つ購入した悠人は、新聞紙で包まれたコップをカバンに詰めてもらう最中、レイにそう言った。
「僕は適当に見ておくから」
「分かった!」
レイが似顔絵を描いてもらう最中、悠人は市を見て回った。昼が近づくにつれ人が増えていき、賑わいを見せるようになった。悠人の隣を、自分の似顔絵を抱えた幼い少女が通り過ぎた。
 悠人は公衆トイレの近くにあるひとつの白いテントを見つけた。テントの前には「山中院」と書かれた札が掲げられており、悠人はテントの側にあるサイドテーブルに重ねられたパンフレットに目を落とした。
「もし良かったら、どうぞー」
 テントの入り口前で受付をしていた係員がにこやかに声をかける。悠人は「もしかして・・」と心の中で呟き、白いテントの中に入った。するとそこには、白いYシャツを着たメガネの男が椅子に腰掛け、テーブルに手をついていた。
「いらっしゃい、沖悠人くん。なんだか君が来るような気がしてた」
 「山中」と書かれた名札を首から下げた男は、悠人を席に座るよう促した。自信ありげな表情で、全てを見透かしているように彼を見つめる。悠人は彼のその姿を見て、自分の中の何かが答えを導き出したような感覚になった。全てが何かによって計画されていて、自分はそのひとつの節目にたどり着いたのだろうと考えた。
「こんにちは院長。本当に、奇遇ですね」
「こんなこともあるもんだなぁと思ったよ。君と会うなんて」
 山中院長は笑みを浮かべ、「まあこれでも」と言って悠人にお茶を出した。悠人も苦笑いとも愛想笑いともつかない微笑を浮かべ、「どうも」とお茶を飲んだ。
「今日はどうしてここに? ひとりかな?」院長は聞いた。
「いや、今日は友達と来ました。2人だけで」
「君のことだから忙しいんじゃないかと思ったよ。沖くん、君はその歳で偉業を成し遂げていると、私は思う」
「大袈裟ですね。僕は他の同年代とひとつも変わりません」悠人はコップを机に置いた後、口に含んだ冷たいお茶を飲み込んだ。
「私は何十年も、いろんな人のいろんな人生を覗いてきて分かったことがあるんだよ。最近になってふと考えたんだけどね」院長は身を乗り出し、人差し指を立てた。
「なんです?」
「愛なんだよ。人が自ら愛する何かを語るとき、初めて1人の人間が見えてくるんだね」
「なるほど」
「その人の口から発せられることだけが本人を知る唯一の方法だったと、今になって分かったんだ。目の前で話してくれているその内容をよく聞くことなんだ、ってね。そう思わないか?」 
 院長はヤカンで悠人のコップにお茶を注ごうとした。悠人は院長に手のひらを見せ、それを断った。
「そのことに気がついたんですね」
「そう。こんな単純なことだけど、今になってより思う。何年この仕事をしてたのかって、そう思うね」
「でも、もう院長は引退してる」
「そうだね。今日だって彼の手伝いに来たんだ。頼まれたんだがね」
 院長はテントの奥で机を並べている、メガネの人物を指差した。悠人は彼が自分と面識のある人物なのかどうか、記憶を辿って思い出そうとした。そして思い出した。彼は山中院長の実の息子だった。

「悠人ー!」
 レイは袋に入れた似顔絵を抱え、まばらな人混みの中で悠人を探した。そして、ようやく彼と会うことができた。
「ごめんごめん」
「どこ行ってたの?」
「ちょっと知り合いの人と会っててね」
「勝手にどっかいっちゃったかと思った! ほら、これ見てよ」レイは袋から画用紙を取り出し、得意げに悠人に見せた。
「へぇー! こりゃすごいな」
 悠人はそのあまりの完成度に驚いた。鉛筆だけで書かれた似顔絵は、今にも喋り出しそうなほどだった。レイは「へへっ」と笑った。
 2人はその後もしばらくそこで買い物を楽しんだ後、長い遊園地へと続く公園の道を歩いた。レイは歩いている途中に悠人の手を握り、彼も握り返した。
「若そうな絵描きの人だったんだけどね、マジでモデルみたいだった。目めっちゃおっきいし、脚長いし。ベレー帽被ってて」レイは頭の上でベレー帽のシルエットを描いた。
「へえ、そんな人いるんだね。僕も見たかったなぁ」
 2人は遊園地の入り口近くまで来た。開かれた門の奥にはクルクルと回転するアトラクションがいくつも見えた。2人は手を繋いだまま遊園地の中に入った。色とりどりの絨毯が敷かれたような床が、遊園地の奥まで広がっていた。イベントの開催日だったため、遊園地のか中にはいくつもの出店があった。だが、どういうわけか人はまばらで、2人には回転する機械の音だけが大きく聞こえた。
 悠人はそのとき、何か不思議な感覚に陥った。まるで正夢のような、彼の頭の片隅にある不確かな風景が、現実世界に鮮やかに再現されたようだった。レイの手を握ったままゆっくりと歩みを進める。悠人は目の前に広がる小さな遊園地の光景に、ゆっくりと吸い込まれるかのようだった。
「うわぁ、こんな場所だったっけね」 
 レイは当たりを大きく見渡して言った。
「そうか、レイは来たことあったのか」
「本当に昔ね。もうあんまり覚えてないけど、ここに姉ちゃんとママと来たんだよ」
 2人はしばらく古めかしい遊園地の中を並んで歩いた。
遊園地内にある小さいレストランで食事をした後、2人は夕方になるまでそこで過ごした。
 あたりが次第に暗くなり始めたころ、2人は噴水の近くにあるベンチに座っていた。レイは「楽しかったね」と遊園地の門から出て行く人々を見ながら言った。
「あっという間だった」 
 悠人は穏やかな、また寂しげな表情を浮かべた。レイはその彼の横顔が愛おしかった。悠人のその透き通るような瞳に飛び込んでみたくなった。
「楽しい時間はあっという間だって、人間の心理だね」レイは言った。
「そう思う?」
「思う。永遠に続いて欲しい時間はいつだってあっというに終わっちゃう。悠人は前に動物になりたいって言ってたけど、動物ならこの感覚は分からないよ」
「そうかな。動物だって時間を忘れるくらい楽しいときはあるんじゃない」
「そう? じゃあ動物にしてあげるよ」
 レイがそう言ったので、悠人は驚いてレイの顔を見た。レイはいつものように自信に満ちた表情を浮かべている。
「目を瞑って」 
 レイは悠人の瞼に触れ、そっと目を閉じさせた。そして悠人の頭に軽く手を添え、囁くように語り出した。
「あなたは猫で、軒先に寝転んでる。猫の目線から見る家の柱はとてつもなく巨大に見えて、人間だとそうは思わないけど、廊下だって本当に長く感じる」
 悠人は目を瞑ったままレイの声に耳を傾ける。耳を抜けて、レイの囁きが脳全体に染み入るようだった。レイは続ける。
「あなたは軒先から塀にジャンプして、家族が車で出掛けていく様子を高い位置から見下ろすの。どこに行くのかも分からずに、でも無邪気に笑っているみんなの姿があって。ほら、聞こえてくるでしょ、笑い声が」
「うん」
「みんなが出かけた後も、何もない軒先でただ寝転ぶだけ。変わったことは何もなくて、みんながどこへ行って、何をしていたのかも分からない」
 レイの「目を開けて」の合図で、悠人は瞼を開いた。レイは優しげな顔で悠人を見ていた。「どう? 猫になった?」レイは悠人の頬に手を当てた。
「うん。一瞬だけど、なった気がした」
「みんなはね、遊園地に行ったんだよ。でも猫は分からない」
 2人はしばらくお互いの目を見つめあった。悠人はなぜか、目の前にいるレイを今すぐ抱き寄せたくなった。今ならレイは何でも受け入れてくれるだろうと悠人は思ったが、結局行動には移さなかった。

遊園地を出た後、2人は夕闇の街を静かに歩いた。駅まで続く緩やかな坂道を下る途中、レイは悠人に言った。
「ホテル行かない?」
「え?」
 俯いて歩いていた悠人は、思わずレイに顔を向けた。レイは困惑した彼の表情を見ながら、淡々とした口調で続けた。
「帰るのは明日ってことで、今日はどっか泊まってこ」
「だって、家に帰らないと両親が心配する。まだ中学生なんだし、まずいよ」
「独り立ちしたいって言ってたのは誰? これは大人への第一歩ってことで、2人で大人が決めたルールを破るんだよ」
 悠人はここでレイを止めるべきか否か、数分の間で何度も考えを巡らせた。しかし、結局悠人はレイが言うことに反対することができなかった。それに加え、彼の中のわずかな好奇心がレイの考えに賛成していた。
 気がつくとあたりは暗くなっており、2人は駅から少し離れた場所にある、看板が極彩色で彩られたホテルの前に来ていた。悠人はその建物がとてつもなく大きく、闇のように黒く感じた。レイに手を引かれて悠人は中に入り、レイはカウンターで手続きをするよう彼を促した。
「大人2人です」 
 悠人は未知の空間に怯えながらも、自分の声があまり震えていないことに驚いた。だが、自分の足と手は冷たくなっていることに気がついた。レイはそんな彼の背後でわずかな笑みを浮かべていた。
 鍵をもらい、2人はエレベーターを使って最上階の一室まで向かった。驚くほど静まり返った薄暗い廊下を抜け、部屋の扉を開けて中に入る。悠人とは対照的に、レイは慣れない空間でも落ち着きを見せていた。そして、見るからにオドオドとした様子の悠人を見て楽しんでいた。
「もう僕知らないよ。2人とも怒られまくる」
「大丈夫だよ。あんたって本当に心配性なんだから。ドキドキしない? こんな夜景の見えるホテルの最上階」
 レイはカーテンを開け、遠くまで広がる夜景をうっとりと眺めた。
「親以外とこんな場所・・来たことないよ。ベッドもひとつしかない」
 悠人は白い大きなダブルベッドに腰掛け、バッグを肩から下ろした。そして腰に手を当てて景色を眺めるレイの後ろ姿を見た。レイは身を翻し、悠人の近くまで歩み寄った。
「ここは2人だけの世界。誰にも邪魔されないし、何でもできる。お分かり?」
 レイは中腰になって悠人の顔を正面から覗き込むようにした。そして悠人の唇に人差し指を当て、指を彼の口の中に入れた。レイは人差し指を悠人の口の奥まで突っ込み、その直後に中指も同じように入れた。
 レイは指を口から引き抜いた後、その指を舐めた。レイはベッドに上がり、悠人の肩を掴んだ。そして、彼に囁いた。
「気持ちよくしてあげる」
 レイはそう言うと悠人の股関に手を当てて、その手を動かし始めた。彼の肩を掴んで顔を近づけ、手を動かしたまま尋ねる。
「どう? 気持ちいい?」
「うん・・」 
 悠人はそのとき、まるで風呂でのぼせたように顔が熱くなっていた。頬が赤くなり、悠人は自分の体温が高くなったことを実感した。
 レイは悠人のスボンの上から早いスピードで手を動かし続け、目の焦点が定まらない悠人を見て静かに笑った。
 悠人はこれ以上は耐えられないとレイの肩を掴んで「もうやめ・・」と止めさせようとしたが、声が出ていないことに気がつく。レイはまた手を動かしたまま言った。
「出そうになったら言って。そこにティッシュあるから」
「いや・・ちょっと」
 悠人はレイの肩を掴んだまま息を荒くした。そしてゆっくりと息を吐き出した。レイは手を止めることなく、彼に聞く。「イきそう? ティッシュ?」
「いや、いい。もう出たから」
 レイは手を止め、悠人から少し離れた。そして「はい」と引き出しの上にあったティッシュボックスを渡した。
「早かったね」 
 レイはバスローブ姿になって寝転がる悠人の隣に寝転んで言った。悠人は脱いだ下着を袋に入れ、替えがなかったため仕方なく着替えたのだった。
「パンツの替えないのに、最悪だよ」
 悠人はレイに背を向け、拗ねたような声を出した。レイはそんな悠人の肩と腰を優しく撫でた。
「あれ付けとけば良かったね。そこの引き出しにあったのに、ごめんね」
「いや別にいいよ」
「レイが履いてるやつあげようか?」
「何言ってんだよ」
 レイは自分のスカートを捲り、履いている下着を悠人に見せた。「ほら、花柄」
 悠人は起き上がって「知らないよ」と言いつつ、その下着を横目でじっと見つめた。今まで1回でも女性の下着をこんなにもしっかりと見たことがあっただろうかと、悠人はまたひとつ新鮮な感覚を覚える。
 レイはスカートを脱いで膝立ちになり、「よく見てて」と言って、下着の上から自慰行為を始めた。息を切らして、時おり高い声が漏れた。悠人はただ、手を動かし続ける彼女を見つめることしか出来なかった。
 レイは頬を手を動かし、真っ赤にしながら、時折悠人の目をチラッと見た。悠人は体が強張り、自分の魂が薄まっていくような気持ちになった。
「ヤバい・・出る」
「出る?」
「うん。もう・・」
 レイは高い喘いだ声を何度か出し、やがてその手を止めた。そして悠人を見て白い歯を見せて、恥ずかしげに笑った。「イった・・」
 悠人は圧倒され、言葉が出そうになかった。体全体の力が抜けた。息を切らしたレイの両肩が上下に揺れていた。レイは自分の股から手を離した。
「これで一緒の境遇だよ」
 レイは悠人と同じように脱いだパンツをビニール袋に入れ、全裸になった。そしてベッドの上に置かれているバスローブを纏い、悠人の隣に寝転ぶ。悠人はレイに背を向けたまま、静かに言った。
「レイ、君イカれてるな」
「ありがと」
「なんかもう、メチャクチャだ」
「悠人も別の境地に行ったね」
 時刻は深夜の1時を超えており、悠人は「もう寝るよ。眠れそうもないけど」と布団を被った。レイはそんな彼を後ろから抱きしめ、リモコンで部屋を暗くした。レイは悠人をしばらく抱きしめたあと離れ、彼の肩と腰をさすった。
「大丈夫。ぐっすり眠りな」
 悠人はレイの手が体をつたう感覚を感じながら、そのまま眠りにつこうとした。レイは悠人の隣で彼の体をさすり続けた。しかし悠人が眠ることでこの時間が終わってしまうのが耐えられなくなり、「やっぱり寝ないで!」と悠人の体を揺らした。「もっとお話しよう。ずっと喋ってたい」
 悠人は目を開け、体をレイの方に向けた。「どっちなんだよ。別にいいけど」
 2人は電気の消えたくらい部屋で、天井を見上げたまま話をした。窓の外には微かに街の光が点滅しており、悠人は時折その様子を伺った。
 レイは仰向けのまま頭の後ろに両手を回し、両足を交差させたまま話す。
「ねえ、死んだらどうなるんだろうって考えたことある?」
「考えたことない」
「1日で一体何人の魂が空に登ってるんだろうって思う。不憫に死んだ人の魂も、多分、数えきれないくらいあるよね」
「そうだね・・」 
 悠人はもう一度、窓の外に視線を移した。レイは天井を眺めたまま話を続けた。
「一瞬にして大量の人がこの世から消えるって、どういうことなんだろうって思った。それも数秒のうちに、考える暇もなくね」
 その話を聞いた悠人の体を、波が押し寄せるように鳥肌が立った。彼はゆっくりとレイの目を見てみるが、レイは意図的に目を合わせようとしなかった。
「それが目の前で起こったとしたら・・」
 レイの声がわずかに震えていることに悠人は気がついた。悠人は、レイの表情から、彼女の中で急激に何かが込み上げてきたのだと感じた。天井を見続けるその瞳が揺れているように感じた。レイが話していた列車の問題を、悠人は思い出した。
「・・何かあったの?」
「目の前で起きたんだよ」
 レイはその瞬間、何かに怯えるような顔つきになった。そして震える手で悠人の腕を掴み、「すぐ近くで・・! 誰も聞いてくれなかった」と声を大きくした。何かに救いを求めるように、レイは悠人の肩を掴んだ。
「大丈夫だよ、レイ」
 悠人は思わずレイを抱きしめた。急に何かを思い出したのだろうと、悠人はレイを落ち着けると同時に、自分自身を落ち着けようとした。過去に深い心の傷になるような何かを見たに違いないと悠人は感じた。
 レイは悠人を強い力で抱きしめ返したあと、起き上がって悠人にまたがり、彼をベッドに押し付ける。そして涙を浮かべ、悠人の両肩に体重をかけたまま大声で叫ぶように言った。
「あんなことさえなければ、レイはこんな歪んだ性格にならなかった! 本当に怖くて恐ろしくて、でも誰も分かってくれなかった!!!」 
 レイの赤く染まった目元から流れた涙は、悠人の顔に落ちて彼の目に入った。レイは崩れるように悠人に覆いかぶさり、大きな声を出して泣いた。悠人はまたレイを強く抱きしめた。
「大丈夫。泣きたいときは泣いていい」
「う・・うう・・・・」
 レイはその言葉に、今まで張り詰めていた緊張の糸が切れ、何度も涙を流した。悠人の肩が涙で濡れていった。
 やがて泣き止んだレイは、悠人の隣に横たわった。そして涙を拭き、鼻啜りをしたあと呼吸を整えた。
「ごめんなさい。昔のことだけど・・今でもたまに思い出して」
「謝る必要ないよ」
 悠人はあえて、レイに昔何があったのかを聞かなかった。ただ悠人はレイの肩を摩り続け、やがてレイは悠人に抱きついて寝てしまった。
 翌朝になり、レイより早く目覚めた悠人はカーテンを開け、夜明け前の空を眺めた。灰色と紫色の層を成した空が遠くまで広がっており、彼はしばらくその広大さに心を奪われていた。
 インスタントコーヒーを淹れ、レイを起こす。レイは両手で目を擦りながら静かに起き上がった。

 ソファーのベッドで寝ていた静子は、家の玄関が開く音に気がつかないほど深く眠りについていた。レイは鞄を下ろしたあと母親に歩みより、その場に座った。静子は「ママ」というレイの呼びかけで目が覚め、重い瞼を開けた。
「ママ。ごめんなさい・・1泊2日はダメって言われてたのに、レイ・・」
 静子はオドオドとしたレイの表情を見たあと、もう一度閉じ、小さな声で聞いた。
「楽しかったの?」
「うん。楽しかったよ・・」
「じゃあもういいよ。許してあげる。でももう心配かけないでね」
 静子は薄目を開けたまま優しげな表情を浮かべた。レイは彼女に毛布を被せたあと、自分の部屋に戻った。

 数日が経ったその日、悠人はレイとまたあの庭園にやって来た。あの日のように2人で木々の間を走り回り、芝生に寝転んだ。2人はホテルで一夜を過ごした日からさらに仲が良くなり、言い争いや喧嘩をすることもなくなっていた。悠人はレイに純粋な笑顔を見せるようになり、レイを何よりも大切に思うようになった。
 庭園の外にある小高い丘に登り、2人は同じ空を見上げる。涼しげな風が2人の髪を揺らし、2人はもう一度笑い合った。
「レイはあんたが好き。だから、一生一緒に暮らしたいと思ってる」レイは言った。
「僕も好きだよ。今まで恥ずかしくて言えなかったけど・・レイ、君が好きなんだ。本当だよ」
 悠人は少し頬を赤らめたまま、勇気を出してそう言った。レイは今まで悠人に見せることのない穏やかな表情を浮かべた。そして、彼の目を見たまま言った。
「結婚する?」
「でも・・僕らまだ中学生だし」
「関係ないよ。結婚しよう」
 レイは悠人の手を強く握った。そして、強く握ったその手を離そうとしなかった。
 手を繋いだまま2人は木漏れ日の道を下る。レイは枝の間に見える青い空を見上げた。そして前を向き、おもむろに話した。
「レイの人生の目的は、線路に縛られた人を助けることだった」
 下を向いたまま歩いていた悠人はレイの足元に目をやり、そのままゆっくりとレイの顔を見た。レイは相変わらず前方を向いたまま続ける。
「助けられなくても、助けたい。どうすれば正解に辿り着けるか、その答えを探したい」
「レイは優しい人だね」
「別に優しいわけじゃないよ。でも・・身動きができないまま死ぬなんてあんまりだから。それは何もあの電車に限った話じゃない」
 夕方になり、アルバイトを終えた恵美が家に帰ってきた。恵美は靴を脱いでレイが昔に作った鉄製のハシゴを登り、窓から部屋の中に入った。窓際のベッドにはレイと悠人が寝ており、恵美は2人の間に寝転んだ。
「姉ちゃん・・」レイは目を覚ました。恵美は何も言わないまま両脇にレイと悠人を抱え、2人のおでこにキスをした。
 恵美はレイと悠人を抱き寄せ、そのまま眠りについた。静子が仕事から戻って部屋を見た静子は、3人が並んで眠っていることを確認すると、そっとドアを閉じた。

 それからしばらくして、レイの家に悠人が来なくなった。レイはあの日の翌日、気がつくと部屋は姉と自分だけになっていたあの日から、悠人に会っていなかった。
「どうなってんの?」
 レイは悠人に何があったのかが分からず、彼の消息を確かめようとした。そしてしばらく前に悠人から教えてもらった番号に電話をかけるが、どういうわけなのか繋がらなかった。
 ふと、誕生日に悠人からもらった小説に紙が挟まっていることに気がつく。紙を引き抜き広げてみると、そこには悠人からのメッセージが書かれていた。

『僕はあなたを愛していますが、真相を打ち明けないまま関係を続けるわけにはいきません。僕は家に帰ります』

 それを見たレイは事態が飲み込めず、パニックに陥った。それはすぐに憤りに変わり、レイは紙を丸めて投げつけた。
「は!? アイツふざけんな!!!」
 レイは勢いよく部屋を出て、隣にある恵美の部屋のドアを乱暴に開けた。恵美は驚いて目を覚まし、パジャマ姿で憤りの表情を浮かべたレイを見た。
「姉ちゃん! 悠人の家行ったんでしょ!? 場所教えて」
「なんなの一体?」

 1階の部屋で眠っていた静子は、レイが階段を下る大きな足音で目を覚ました。部屋を出ると、着替えたレイが家を出て行こうとするところだった。
「レイ、どこに行くのよ」静子は思わず聞く。
「悠人の家に行くんだよ。悠人が変な書き置き残してて、直接会ってどういうことか確かめる」
「書き置き? 悠人くんが?」
「本当のこと言えないまま関係がどうとか、マジでどういうことか詰めてやる」
 そう言って靴紐を結びレイのそばに、静子は座り込んだ。そして、静子は娘のレイに全てを白状しようと誓った。
 靴紐を結び終えたレイを引き留めるように、静子は言った。
「ごめんなさい、レイ。悠人くんはね、私が頼んだカウンセラーなの」
 レイは思わず立ち尽くした。母親が言った言葉を頭の中で何回も再生させ、その意味を確かめようとする。

 自宅の裏にある公園に来ていた悠人は、いつものように池で釣りをしていた。早朝の冷たい空気を肺に取り込み、釣り餌を投げた。波紋が広がり、池に映った青空が層のように重なった。
 足音が聞こえ、悠人はやって来た道に顔を向ける。するとそこには、寝起きで髪を溶かさないまま駆けつけたレイがいた。
「やあレイ。まさかここに来るなんて」
「姉ちゃんに場所聞いた」
「せっかくだから一緒にやらないか? 朝からやるものいいもんだよ」悠人は釣り竿を左右に揺らした。
「どういうつもり? こんなことしてなんか楽しいの?」
 レイは悠人と少しの感覚を開けた場所で、彼に聞いた。悠人は「本当にごめんよ」と静かに言った。
「あんたは本当は最年少カウンセラーで、レイをカウンセリングするためにやって来たんだってね! でもわざわざママとグルになってそのことを隠してた」
 悠人はしばらく俯いたあと、レイの方を向いて「そうだよ」と答えた。レイは声の音量を上げ、彼に詰め寄った。
「すっかり騙されたよ。なんでこんなことしたのか教えてもらえる?」
「分かった」
 悠人は全てを打ち明けようと誓った。そして、レイに事の経緯を語り始めた。

《2年前》 

 悠人の母親は、日々部屋に閉じこもっている悠人の手を焼いていた。中学生になったというのに勉強もろくに手を付けず、身の回りの世話を家政婦である沙奈に全て任せている悠人を変える必要があると考えていた。
 悠人に「人の役に立つボランティアでもしなさい」と持ちかけたのはその時期だった。悠人はちょうどそのとき、駅で困っていたところを助けたのをきっかけに、精神科医の山中院長と親しくなっていた。山中院長にその相談をすると、彼は「沖くんはカウンセラーが向いてるんじゃないかな」と提案した。悠人はその後、夏休みを使って通信教育のカウンセリング資格を所得し、院長から紹介してもらったカウンセリングの会社でボランティアとして働くようになった。
 主に子供のカウンセリングを担当していた悠人は、気がつくと中学3年になるまでその仕事を続けていた。なんとなく始めたその仕事に、悠人は何故かやりがいを感じるようになっていた。
 そんな彼にある日、別のカウンセリング会社で働いていた有名女性カウンセラーである静子が連絡を入れた。静子は不思議な縁で悠人の母親と知り合い、「息子もボランティアでカウンセリングしてるの」と教えられたことから、彼に連絡をしたのだった。
「あなた、子供から人気があるそうね。噂は聞いてた。14歳のカウンセラーだって」
「あなたの噂も聞いてたよ。まさか母さんと知り合いなんてね」
 静子は彼を行きつけのレストランに連れて行き、他愛もない話をするとともに、彼にとある相談を持ちかけた。
「私、娘がいるんだけどね。14歳の」
「同い年だ」
「そう。それでね、あなたに娘をカウンセリングしてほしいなって、思って」 
 悠人は彼女が言った提案に少し驚いた。カウンセラーであるにも関わらず、どうして自分にそんなことを頼むのかと悠人は聞いてみた。すると、静子は近頃の心境を語り始めた。
「娘が反抗期でね。もともと大変な子ではあるんだけど、ますます私の話に耳を貸さなくなって。このままじゃ娘が危険なことに巻き込まれるんじゃないかって、それだけが心配で。あなたなら歳も近いし、娘と分かり合えるんじゃないかって思ってね」
「大変なことにならないためにも、僕がついてあげてたらいいの?」
「そう、話し相手になってくれるだけでもいいの。それで提案なんだけど、カウンセラーって言ったら娘は拒絶しちゃうから、逆にカウンセリングを受けに来た人っていう(てい)で娘と会ってほしいな」
「なるほど・・その子の名前なんて言うの?」
「レイっていうの。ちょっと変わってるでしょ」
 そうして、悠人はレイと会うことになった。カウンセリングを受ける姿を見せることでレイに疑われないようにするという作戦を考え、レイは悠人をすぐに受け入れたのだった。

「『人と話をすることで娘は変わることができる』って静子さんが言ってた。だから、騙してやろうなんて思ってなかったんだよ」
 悠人はそう言って吊り竿をまたユラユラと動かした。「でも、途中で変なことに・・」
 レイは悠人に本気で恋をしてしまい、悠人も全くその気はなかったが、レイに惹かれていったのだった。彼は仕事にも関わらず、レイとだんだん距離が近くなっていくことに葛藤していた。
「じゃあ今までレイに話したことも全部ウソなわけ??」
「いや、9割はホントの話だよ。過保護な親から離れたいと思ってるし、家政婦の人の話もホント。親と離れる時間ができるから、この仕事をしてるんだ」
「じゃあ最初にレイのことも知ってたんだ。名前も、この怒りっぽい性格も、癇癪持ちなことも」レイは徐々に声を大きくする。悠人は落ち着いた様子で話を続けた。
「君がずっと昔に経験したことも知ってる。ちょうど3日前に知ったよ」

《3日前》

 悠人はとある場所に向かう途中、レイに連れられて行ったホームパーティーで出会った秋子と偶然会った。あの部屋の主であり、悠人はあの日のことを思い出して恥ずかくなった。
「レイはすぐ謝ってくれたでしょ? 気分屋のそばにいるのは大変だね」
「いや・・」
 2人は喋りながら並んで道を歩いていき、とあるひらけた道に出た。ガードレールの向こうに、広大な電車の車庫を見下ろすことができた。ガードレールに寄りかかり、下に広がる線路を眺めている人物がいた。悠人は彼に歩み寄り、秋子もそれに続いた。2人は彼と同じようにガードレールに寄りかかった。
 メガネを掛けたその人物は口を開いた。
「あの日に・・昔ここで見たあの惨劇が、娘を変えてしまったよ。この場所だった」
 網目のような線路を見下ろしながらそう言った彼に、悠人は聞いた。
「レイのお父さんだね」
 彼は静かに頷いた。彼のメガネには寒々しい空と簡素な街の風景が写っていた。秋子は驚いたように口元を押さえ、「ホントに?」と彼をまじまじと眺めた。彼は遠い目をしたまま話し始めた。
「あの子が幼い頃に、一緒に遊園地に行ったんだ。あの子は母親と姉と行ったと思ってるけど、実際は僕とだった。そのあとだったよ」
「一体何が?」悠人は聞いてみた。
「帰り際のこの場所で見たんだ。無人の暴走した電車が、車庫を突き抜けて街に飛びだした様子をね。あの光景をレイはいまだに思い出すと言ってた。でもそれは僕も同じなんだ」
「その事故・・テレビで見た事ある。ここだったんだね」秋子は彼に言った。レイの父親は黙ったまま頷き、当時の光景を思い浮かべた。
「電車が家を次々に破壊して、気がつくと火事を起こていた。あんな恐ろしい光景は今まで見たことがなかったし、娘は怯えて泣いていた」
「レイは誰も話を聞いてくれなかったって言ってた」
「あのときレイは強いストレスと受けてね、不安定になっていたんだよ。でも目撃者として扱われるだけで、誰1人としてあの子の心の傷を理解しようとしなかった」
「でもそれはあなたも同じじゃないの? いまだに思い出すって・・」
「そう。でも娘にはその素振りは見せなかった」

 悠人は釣り竿の糸を巻き、小さな魚を釣り上げた。釣り糸から外し、悠人は魚を水に放った。
「あんたはレイに大丈夫だって言ってくれた。あのときは取り乱したけど、抱きしめてくれたのは悠人だけだよ」
「・・レイは偉いよ」
 悠人はまた釣り竿の針を池に投げた。レイは思わず涙が溢れ、急いで手で拭った。
「何にも知らなかったレイがバカみたいじゃん!! あんたがずっとそばにいてくれてたのに!」目元を赤くして大きな声を出したレイに、悠人は優しげな声で語りかけた。
「君は僕より賢いし、強いし・・別に僕が付いていなくても良かった」
「結婚するって約束したじゃん! いっそなら打ち明けてくれたら」
「・・・・自分の口からちゃんと説明したら良かったけど、レイに嫌われるのが嫌で出来なかった。こんな勇気すらない僕を笑ってくれ」
 レイは自分の感情が分からなくなり、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。そしてもう一度、悠人の目をよく見て言った。
「本の間に紙切れなんか挟んで・・そういやあの本、作者の名前が書いてなかった」
「僕が書いたからね」
「・・やっぱり。マジで、どういうつもりなの?」
「あれは僕が小学生の時に書いた小説で、もともとは誕生日にあげるものじゃなかったんだけどね」

《数週間前》

「こう見えて忙しいんでね」
 悠人はレイに会った初日、レイにそう言い残して彼女の元を去った。そしてその日の夕方に、いつもの少年に会うために電車に乗った。
「悠人くん、他にもカウンセリングしてる人いるの?」
 悠人を自宅の部屋に招いた勇二は、これから忙しくなると言っていた彼にそう尋ねてみた。勇二は悠人がカウンセリングを任されている小学生であり、悠人とは半年ほど前から仲が良くなっていた。
「うん。まあボランティアだからそんな偉そうなこと言えないけど、一応任されてる子がいて」
「どんな子?」
「同い年の女の子なんだよ」
「へぇ」
 勇二はそれを聞いて驚いた。彼は悠人に「女の子」についてたくさんの質問をした。どんな見た目なのか、どんな性格で、どんな喋り方なのかを詳しく聞いた。
 ある日、勇二は悠人に一緒に水族館に行こうと持ちかけた。悠人は彼の両親にも信頼されており、両親からも息子に付き添って欲しいと頼まれた。悠人は1週間後の休日に彼と電車で水族館に行く約束をした。
 勇二と出かける3日前に、彼は道で偶然あったレイの姉である恵美を家に招いた。悠人はそこでレイの誕生日が3日後であることを聞かされた。恵美から誕生日パーティーに誘われたが、その日は勇二との約束の日だったため、彼は「予定があるから行けないけど・・プレゼントだけ送るよ」とだけ彼女に伝えた。
 そして悠人は勇二と共に電車に乗って遠くの水族館まで出かけた。巨大な水槽の前でカメラのシャッターを切り続ける勇二に、悠人は聞いてみる。
「水族館はいつぶり?」
「3年ぶり。ずっと来たいと思ってたのに、結局ずっと来れなかった。だから今嬉しい」
「魚が好きなんだね」
「それもあるけど・・この青い空間が好きなんだよ」
「なるほど」
「涼しげで、落ち着くっていうか。青は優しさの色だから」
「そうなの?」
「勝手にそう思ってるだけだけどね」
 2人で水族館内のレストランで昼食をとるとき、悠人は勇二に、プレゼントについて相談をしてみた。
「前に言ってた女の子に誕生日プレゼントをあげようと思ってるんだよ。勇二くん、何がいいかな」
 勇二は「そうだねぇ」と自分なりに答えを考えた。そして、彼の中で一番の名案が浮かんだ。
「悠人くん小説を書いてたでしょ?」
「うん。何冊かね」
「それをあげれば良いんだよ。喜ぶよ」
「え?」

「初めは気が進まなかったけど、僕が小6のときに書いた『レイン』を見つけたときに、これにしようって思った。真っ青な表紙のファンタジー小説。青は優しさの色だって聞いて、何冊かの中から選んだ」
「びっくりだよ。さっきから次々と」レイはそう言いながら、自分の感情を整理する。
「勇二くんみたいな純粋で賢い9歳に出会ったことがなかった。僕が教えるはずだったのに、気がついたら自分が教わってたよ。青は優しさの色だって、僕もそう思う」
 悠人はそう言って晴わたった、高い空に目を向けた。レイも同時に空を見上げ、上空を飛ぶ鳥の群れを目で追った。
 レイは悠人を再び睨みつけ、目の下に皺を作った。「あんたにはビックリだわ。カウンセリング受けてたのも、全部やらせなのね」悠人は釣り竿を持ったままレイの方向に顔を向けた。
「いや、ある意味僕もカウンセリングを受けてたんだよ。あのとき気がついた」悠人は包み込むような眼差しをレイに向けた。レイは急いで目を逸らし、広い池に体を向けた。
「せっかく悠人と幸せになれると思ってたのに。こんなことじゃもう元には戻れないね」
「・・・・」
「知らない方がよかったよ。あんたがレイの希望だと思ってた」
「・・ごめん。本当に」
「もういい! 何にも喋らないで!」
 レイは声を荒げ、今まで抑えていた感情を目一杯ぶつけた。
「あんたは今まで何も話さなかった! ひどいよ! あんたなんか嫌い! 大っ嫌いだ!!」
 レイはそう吐き捨てたあと池のほとりに悠人を残し、その場を立ち去った。悠人は黙ったままレイの後ろ姿を、ただ眺めることしか出来なかった。

「良かったら娘をあげる」
 悠人はレイと仲が深まり始めたころ、静子にそう言われたことがあった。彼が「どうして」と聞くと、静子は「悠人くんならレイを大事にしてくれるだろうから」と言った。
 悠人はふとその事を思い出しながら帰路に着いた。その間に、悠人の脳裏を過去の断片的な記憶が次々とよぎった。
「お兄ちゃんがね、クラスメイトの女子から墨汁ぶちまけられて、習字が台無しにされたって言ってた。ウケるよね」勇二が面白おかしく話した兄のエピソードが、悠人が全く別の場所で聞いたもうひとつの話と繋がっているのではないかと、たった今気がついた。
 そして心が現在に舞い戻ったとき、彼の心の中には深い溝ができたようだった。仮に自分自身の口からレイに自分の正体を明かしたとして、それは悠人の中で、愛するレイに捨てられることを意味した。
 悠人は何も明かさないままレイと親密な時間を過ごしている罪悪感に耐えきれず、手紙だけを残してレイの元を去ったのだった。
 部屋の電気をつけずに、悠人はベッドに寝転んだ。雑念を取り払うように悠人はそのまま眠りにつこうとしたが、どうしても眠ることが出来なかった。
 そしてようやくウトウトと眠りに入ろうとしたとき、彼の部屋をノックする音が聞こえた。
 部屋に入ってきたのは家政婦である沙奈だった。悠人の視界に彼女が入った瞬間、彼の中でさまざまな感情の波が押し寄せた。いつもの暖かな微笑みを浮かべた沙奈は、悠人のそばに寄った。
「隣に寝ていい?」
 沙奈は囁くような声で聞いた。悠人は薄い目を開けたまま頷いた。沙奈は悠人の隣で横になり、彼と向き合った。悠人は小さく呟いた。
「・・こないだはごめんなさい」
 悠人がレイとホテルに泊まったその日、家では沙奈の送別会が行われていた。1週間前に約束したその日をすっかり忘れていた悠人は、次の日にレイと別れてからそのことに気がついた。「送別会だったのに・・」
 沙奈は静かに笑ったあと、彼の目を見たまま言った。
「良いんだよ。今こうして2人になれたから。寝てたのに、ゴメンね」
 悠人は小さく首を振った。沙奈が8年間過ごした悠人の隣の部屋から荷物がなくなっていたことに、悠人は底知れない寂しさを覚えていた。もう彼女が家に来ないと思っていた悠人は、今この瞬間、彼女が目の前にいることに涙が溢れそうになる。
「初めてこの家に来たとき、あなたは凄くちっちゃくて、可愛かった。もう中3なんて信じられない」沙奈は当時の彼の姿を思い浮かべながらそう言った。
「そうかな」
「そうよ。あなたは・・慣れない環境で戸惑ってた私に優しくしてくれて、敬語じゃなくて良いって言ってくれたじゃん」
「そうだったっけ」
「嬉しかったんだよ。今まで2人で、いろんな話したね」
「好きな人がいるって教えてくれた。まさかその人と結婚するなんて」
 悠人の言葉に、沙奈は照れたように微笑んで目を瞑った。そしてゆっくり目を開けた。「私、今すごく幸せなの」
 悠人は沙奈の瞳に、いっそう輝きが増したように思えた。大きな黒目の奥に、細かい光の粒が瞬いている。
「今まで辛くて苦しかったことも、今なら受け止められる気がする。彼はこんな私を選んでくれた」
 沙奈は悠人の透き通った目に涙が溢れていることに気がついた。沙奈は彼の頬に手を当てる。
「私が言うことはないだろうけど、あなたにも本当に大事な人を見つけて、幸せになってほしい。心から大切だって思える人」
「うん」
「今までありがとうね」
 沙奈は悠人に向けて手を伸ばした。悠人は手のひらを合わせ、その手を握った。沙奈は同じ力で握り返し、2人は笑い合った。
 次の日、悠人は沙奈が「部屋片付けてたら出てきた写真、置いていくね」と言ってベッドの脇に置いた封筒を開けてみた。それには遊園地のメリーゴーランドの前に佇む悠人が映されていた。悠人はその瞬間、忘れていた何年も前の記憶を鮮明に思い出した。あの場所だった。
 あの日、まだ悠人が小さいころ、彼は沙奈と一緒に緑地公園のイベントを訪れていた。そのとき2人は遊園地にも来ており、2人で心ゆくまで遊んだ。そして悠人は噴水前のベンチで沙奈がトイレから戻ってくるのを待っている間、とある少女に話しかけられていた。
「ひとりで来てるの?」
「いや」
「お母さんと?」
「まあ・・そう」
「レイはお父さんと」
「レイ?」
「私の名前」
 金色の髪を靡かせたその幼い少女の姿が、幼い少年の脳裏に強く焼き付いた。にも関わらず、悠人はそのことを今日まで忘れていたのだった。あの少女だった。

 それからしばらくしたある日の夜明けごろ、悠人のもとに静子から電話が掛かってきた。レイが突然『しばらく旅に出ます』と書き置きを残し、家を出て行ったと伝えられた。気がついたときには家にレイの姿はなく、静子は思わず悠人に電話をしたが、悠人の家にいないことを知って焦った。

 朝の特急列車の発車を待つレイは、座席に荷物を置いてトイレに行った。レイの当てもない旅が、この特急列車から始まろうとしていた。トイレで用を足したレイは、鏡で自分の顔を見て決心した。もう家には当分戻らない。
 列車の発車ベルが鳴り響き、ドアが閉まる。レイが座席に戻ると、そこには息を切らした悠人が座っていた。
「なんでここが分かったの!?」レイは自分の目を疑った。夢ではないだろうかと、目を大きく開いてみる。悠人は整えながら言った。「彼に教えてもらった」

《2時間前》

 レイが家を出て行ったことを聞かされた悠人は呆然とたち尽くしていた。「ケータイも電源を切ってるみたいで、場所が分からないの」と知らされ、悠人はどうすることも出来ない悔しさを噛み締めていた。そのとき突然、勇二から電話が掛かってきた。
「もしもし? 僕だけど」
「どうしたの?」
「今、遠足に行くためのバスをみんなで待ってるんだけどね。近くにあるバス停に金髪の女の子がいるんだけど、その子、もしや悠人くんが話してた子じゃないかって思って。だとしたら、こんな朝早くにどこ行くんだろうって思ってね」
「え? なんで分かるの?」
「金髪ロングなのと、悠人くんの本読んでたから。真っ青な表紙にでっかく『Rain』って、あれ僕も読んだやつじゃない?」
「それ本当? 場所どこ!?」
 勇二は、そのバス停は東京駅に直通のバス専用乗り場だと伝えた。悠人は急いで荷物をまとめて家を飛び出し、タクシーを捕まえてそのまま東京駅に向かった。
 東京駅に着いた悠人は、そこで駅のいろんな人に聞いて回った。
「金髪の15歳くらいの女の子を見ませんでした?」
「確か、東海道本線乗り場に歩いて行ったよ」そう答えたのは、白衣を身に纏った、メガネで恰幅のいい人物だった。
「特急?」
「そうだね」
「どうもありがとう!」悠人は礼を言い、すぐに乗り場に向かった。悠人は走りながら、その人物に見覚えがあることに気がついた。そして思い出した。あの日、「山中院」と書かれた白いテントの奥で見た、机を並べていた人物だった。
 悠人は一か八かで20分後に発車する特急の券を券売機で買い、ホームまで行った。そして停まっている特急に飛び乗り、レイの姿を探した。雲をつかむような話だった。途方もないことをしていることに気がつき悠人は諦めようとした。だがふと目を向けたその席に、レイのバッグと自分が小学生のときに書いた本が置かれていた。
 
「悠人、超能力でも使ったのかと・・まさか探してくれたの?」
「運が良かったよ。本当なら見つかるはずなかった。走った甲斐があった」悠人が言い終わる前に、レイは思わず彼に勢いよく抱きついた。そして、彼を強く抱いたまま「あんたなんか・・大っ嫌いだよ」と言った。
「もうあの仕事は辞めた。旅に出るなら、僕も着いて行くよ」悠人は言った。
「じゃあもう一生離れないで。死ぬまで一緒にいて」
「分かったよ。僕の大事なレイ」
 レイの目に思わず涙が溢れる。レイは悠人をしばらく抱きしめ、彼を離したあとに言った。
「2人でどこまでも行けるよ」
 悠人は小さく頷き、レイに初めて会ったときに尋ねられた質問を思いだした。
「レイが僕に聞いたあの問題の答えが、ようやく分かったよ」
「なに?」
「列車の分岐スイッチを、起爆装置に変えておくんだ。直前で列車を粉々に爆破して、誰1人死なせない」
「じゃあ、これから2人で電車を爆破しに行こう。跡形もなく、粉々に」
 悠人はレイの顔を見たまま頷き、レイは握ったその手を離そうとしなかった。


《終わり》


lay one's hopes on a person.






 








































 







ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み