夕凪の雷

文字数 29,135文字

 あの日、下駄箱に隠した夕凪は、いつしか空に浮かんで雷をつくった。


【夕凪の(いかずち)


「立ち止まる その足元を 見ていたの」

 北海道札幌市の市役者で掲示されていた多くの詩。そのひとつが健介の目に留まった。納税の手続きが済むのを待っている間、その詩を眺め続け、意味を考えた。一体どういう意味なんだろう。
『小学生川柳コンクール:入賞作品』
 よく見ると、並んだ数多くの詩の上にそう書かれていた。ここにある詩の全ては小学生が書いたのだ。思わず目を凝らして一通りを見てみるが、その詩だけが一際、特別な何かを放っていると健介は思った。
『青葉優音』
 詩の作者の名前だった。この小学生は、一体どこで、どのタイミングでこの詩をつくり出したのか。そして、一体どんな人物なのか。健介は少し知ってみたくもなった。


《3年後》

『過去最大の被害となった東日本豪雨の復旧作業が今も続いており、行方不明者の情報提供を呼びかけています。繰り返します。過去最大の…』
 カーラジオがなん度も災害のニュースを繰り返している。
 9月の終わり、季節外れの台風が上陸した日本では、過去に例を見ないほどの被害が相次いでいた。健介の出張先である東京都練馬の営業所も被害にあい、しばらくの間は営業停止となってしまった。
 3ヶ月前、健介は練馬の営業所に出張になり、車を使って東京までやってきた。営業所には過去にも2回ほど訪れたことがあったが、長期での勤務は初だった。だが、それも台風の影響で打ち切られることになる。
 北海道の実家に住む母と息子が心配になった健介は、車で直接帰ることにした。電車は多くの路線が運行を停止していたため、どちらにせよ車以外で帰る選択肢がなかった。
 車のキーを回し、エンジンをかける。‘70年製のトヨタカローラのエンジン起動音が、狭いガレージに響く。アクセルを踏み、健介はゆっくりと車を発車させた。
 街は台風の被害が顕著で、あちらこちらに瓦礫や倒木が散乱していた。あの日から3日が経ち、今はかなり整備されたものの、その台風の脅威を健介は改めて感じた。
 信号待ちの間、携帯で息子からの返信を確認する。『わかった。気をつけてね』とだけの短い分だったが、健介はそれだけで嬉しかった。

《1日前》

「今日はひとりなの?」
 アイス屋の主人が、カップにアイスを盛り付けながら優音に訊ねた。優音(ゆうね)はカウンターに寄りかかり、前のめりになって答える。
「うん。ひとりで食べるアイスは最高。それも朝9時のね」
「同感だ」
 優音はあたりをキョロキョロと見回す。家族が自分をつけてきているのではないかと、常にそのことを気にしていた。
「ねえ」優音はカウンターを叩く。
「なんだい」
「私、なんで今ここにいると思う? 家から超離れたこんな辺鄙(へんぴ)な場所に」
「なんでかな」
 優音は身を乗り出し、耳打ちの姿勢になる。主人が耳を近づけると、小さく言った。「家出してきたの…!」
「なんと。家出?」
「そう。抜け出してきてやったよ」
 優音は自慢げにそう言った。主人はあまり関わらないほうが良いのではないかと思い、「へぇ」と無難な相槌を打った。
 優音は主人からアイスを受け取ると、ジャケットのポッケに手を入れ、財布を取り出した。
「いくら?」
「440円だよ」
「うーん…」
 優音は古銭入れの中を何度も掻き回すが、何度見てもそこには300円しか入っていない。困った優音は最終手段に乗り出した。財布をポッケにしまい、アイスを指差す。
「私のウインク、このアイスと同じくらいの価値あると思う?」
 無邪気にそう訊く優音に、主人は思わずキョトンとするが、とりあえず「…あるんじゃないかな」と、そう呟いた。
 その瞬間、優音は主人にウインクをすると、そのまま全速力で駆け出して行った。
「あ! おい、ちょっと!!!!」
 主人は慌てて追いかけようとするが、彼が店の外に出たときには、もうすでに優音の姿はなかった。
「なんてこった…」

 都道を走り続けた健介は、昼に国道沿いのファミリーレストランに立ち寄った。平日だからか人が少なく、窓際の席で健介はゆっくりと昼食をとった。
 そのあと健介は、ファミリーレストランの駐車道を挟んで隣にあるオモチャ屋に寄った。何か息子への土産を買おうと考えていたが、時間がなく、今日まで買えていなかった。12歳になった息子にオモチャなんてと思っていたが、いざ入ってみると意外に見るものが多く、健介の世代に流行っていたゲームなどが多く取り揃えられていた。
 息子であるヒロヤとは、出張で東京にきて以来3ヶ月は会っていなかった。昔から仕事ばかりで息子と過ごす時間を大事にできていなかったと、健介は常にそのことばかり悔やんでいた。ヒロヤの母親は彼が5歳のときに他界し、今まで健介とヒロヤ、そして健介の母の3人で暮らしてきた。彼の親は自分だけだとわかっていながらも、息子との時間を第一に考えてやれなかったことが、健介にとって最大の後悔だった。
 健介はそこで古いゲーム機を購入し、息子のためにプレゼント包装をしてもらった。せめてもの罪滅しではなかったが、息子にできることはなんでもしてやりたかった。
 車に戻り、後部座席にゲーム機を置く。車を発車させる前に、健介は携帯で天気を確認することにした。すると外から何やら声が聞こえ、健介は窓の外に目を向けてみる。レストランのすぐ隣にあるスーパーから、誰かが走って来るのがわかった。何かに追われているんだろうか。
 自分には関係のないことだと、健介は再び携帯に目を向ける。すると、いきなり助手席のドアが勢いよく開けられ、走ってきた少女が乗り込んできた。
「誰!?」
 健介は驚き、反射的に聞いた。勢いよく助手席に座ったその少女は、膨れ上がった手提げカバンを抱え、急かすようにして言った。
「車出して! 悪い奴らに追われてんの!」
「なに? 悪い奴ら?」
「良いから、早く!!」
 仕方なく、健介は車を出すことにした。訳がわからなかったが、とりあえず道路に出て車を走らせる。
 少女は後ろを振り返り、追っ手がいないことを確認すると、「ふう! 危なかった〜」とため息をついた。健介はいきなり車に乗り込んできた少女に当然ながら訊いてみる。
「どういうつもりなんだよ。というか君だれ?」
「助かったよ、ありがとうね。私、優音。色々あって逃げてた」
 健介は隣に座る優音に目を向けてみる。目元のはっきりとしたボブカットの少女で、かなり走ったのか、汗をかいて息を切らしている。健介は困惑するが、一旦、冷静に訊いてみることにする。
「悪い奴らに追われてるってどういうことなんだ。いきなり乗り込んできて」
「頼れる人を探してたの」
 優音はそう言うと、手提げカバンをひっくり返す。手提げからは大量のジュースやパンが転がり出る。
「もしかして…万引きしたのか??」
 優音は間をおいてから言った。「仕方なかったんだよ」
「なんてことを…! 返しに行くぞ!」
 健介は慌ててUターンできる場所がないか、あたりを見渡す。しかし優音はそれを阻止するように言った。
「それはできないよ! ここの道でUターンできる場所はだいぶ先だし、いちいち戻ってたら目的地につかないよ?」
「うーん…クソッ!」
 健介は彼女からそう言われ、戻ることを諦めた。その代わりに、「もう絶対するんじゃないぞ」と厳しく忠告した。
 あまりに突然の出来事だったため、健介は幻でも見ているかのようだった。さっきまでずっとひとりだったのに、今は助手席に人が乗っている。それも、全く知らない会ったばかりの人が。
 何から訊けば良いのか健介は迷っていたが、優音は先に訊いてきた。
「今からどこに行くの?」
「…北海道の実家だよ」
「おお! 北海道! いいね。私も連れてってよ」
「そんなこと言ったって…そもそも、なんで急に人の車に?」
「家出したの。ずっと放浪してて」
「家出??」
 健介は再び優音に目を向ける。まさかとは思ったが、自分がそんな子供を拾ってしまうとは思いもよらなかった。まっすぐ実家に帰るつもりだったのに、なぜこんなことになったのか。「なんで家出を?」
 優音は健介の方を向き、余裕のある口調で話し始める。「私の中学校が台風でペシャンコになっちゃって、通学すらできなくなったの。それでせっかくだから、どさくさに紛れて家出した。ずっとあんなクソみたいな家から出たいと思ってたしね」
「意味がわからないな。その…中学校が潰れたって? 家がなくなったんじゃなく?」
「そうだよ。今頃、多分行方不明者扱いになってる」
「嘘だろ。急いで帰らないと! わかった。俺が君を家まで送り届ける」
「いや!! それはやめて!!!!」
 優音が急に高い声を張り上げるので、健介は耳が痛くなった。片手で耳を押さえ、横目で優音を見る。「でっかい声出さんでくれよ」
 優音は健介と目を合わせて、はっきりと言った。
「あんな家もう絶対に帰らない。私、もう決めたから。この車から降りない」
「ふざけないでくれ」
「ふざけてない。本当だよ。ずっと一緒に居させてもらう」
 優音がきっぱりと言い張ると、健介は「嘘だろ…」と声にならない声を出した。優音は手提げカバンから出したおにぎりをひとつ手に取り、包装紙を剥がし始める。
「北海道っていい場所じゃん。連れて行ってよ」
「ダメだね。急に乗り込んできて、俺があっさり『いいよ』とでも言うと?」
「なにがダメ? 私、身寄りのない子供なんだよ。あなたは私を助けてヒーローになれるチャンスだよ」
 優音はおにぎりを頬張りながら言う。健介はその物言いに思わず呆れてしまう。
「いい加減にしてくれ。君は移動手段を探してただけだろ。それに、俺が君をさらった誘拐犯みたいになってしまう。絶対に面倒が起きる」
「そんなことにはならないよ。地元は台風でメチャクチャになって、私が居なくなったことなんか誰も気にしてないだろうから。それにちゃんと私があなたを悪い奴じゃないって証明するし、一緒にいさせてよ」
「残念だけど、そこの信号で降りてもらう。あとは自分で帰るんだね」
「いや!!」
 健介は車を赤信号で停止させる。駄々をこねる優音に降りてくれと頼むが、優音は一向に動こうとしない。そればかりか、こんなことまで言い始める。
「ここで私を下ろしたら、あなたは道端で女児をポイ捨てしたことになるよ?」
「女児って…」
「それで本当にいいの? 知らない場所で、女の子をひとり置き去り?」
「う〜む……」
 健介は何も言えなくなり、これは巧妙に仕組まれたひとつの計画であることを思い知る。言葉巧みに大人を納得させ、自分の言う通りにさせる恐ろしいものではないかと。
 信号はあっという間に青になってしまう。健介は優音に見つめられ、結局車を出してしまった。
「もう好きにしてくれ。俺は知らん」
「やったね!」
 大変な荷物を拾ってしまったな、と健介は思った。今までの38年間の人生で、こんな突拍子もない出来事は初めてだった。気持ちの整理がつかないが、その一方で、今の状況をなんとか受け入れようとしている自分もいた。
 車は首都高速に入った。健介はいよいよ馴染みのある街から遠ざかる感覚を覚える。隣にいる少女と共に。
「本当に身寄りがなかったのか?」
 健介は優音に訊ねる。優音は2つ目のおにぎりを食べ終え、包装紙をビニール袋に放り込んだあと言った。
「そうだよ。昨日に家を抜け出して、それからホームレスしてた」
「家に帰る気がないっていうならしようがないけど…着いてくるなら『旅行』っていうことにしてくれよ。連れ去り事件にされたら困る」
「大丈夫だよ。そもそも街は台風のあと片付けで一杯一杯だから、私のことなんか頭にないはず」
「そんなはずないけどな。まあ、とりあえず車から降りる気がないっていうんなら、俺のいうことは絶対聞くんだ。勝手なことしたらすぐに放り出すからな」
「はぁい」
 優音は愛想良く返事をした。しかし健介は、それで本当に自分が言ったことを飲み込んだとは到底思えなかった。
 しばらく走り続け、健介はサービスエリアに寄った。何度も訪れたことがあるSAで、健介はどこに何が売っているかなども全て把握していた。
「お腹減った」と優音が言うので、健介はフードコートでラーメンをご馳走した。
 2階の窓際の席に座り、正面に座る優音がラーメンを啜る様子をぼんやりと眺める。彼女の親は今頃どうしていて、彼女は一体どのタイミングで家出しようと思ったのか、そんなことばかり考えてしまう。
 優音は着ていた緑色のハンティングジャケットを脱ぎ、椅子にもたれかかった。
「あなたは食べないの?」
「俺はいいよ。昼は済ませたし」
「ふぅん」
 健介は窓の外に顔を向ける。愛車であるカローラが他の車に比べて一段と小さく感じた。
「ようやくまともな食事できた。ラーメンおいしい」
「それならよかった」
 優音はどんぶりを両手で持ち、スープを全て飲み干した。「おおっ」健介は思わず声が出てしまう。優音はどんぶりを勢いよく置くと、口元を拭って「へへっ」と舌舐めずりをした。
 満腹になった優音は元気が回復し、さらに口数が増える。目の前にいる健介に次々と質問する。
「なんで実家に帰るの?」
「俺はもともと東京の営業所に来てて。そこが台風で閉鎖になって仕事もしばらくなくなったから、もうそのまま帰ろうと思ってな。息子にも会いたいし」
「息子いるの? 何歳?」
「12歳になったばっかりだ」
「私と一緒だ」
「へえ。そうなんだ」健介はここで初めて優音の年齢がわかり、なぜか安心する。自分が予想していた通りの年齢だったからだ。
「会ってなかったの? 息子とは」
「うん。俺は仕事ばっかりで、昔からあんまり相手にしてやれなかった。今回だってそうで、3ヶ月会ってなかった」
「3ヶ月ねぇ…」
「申し訳なくてな。寂しい思いさせたんじゃないかって」
「だから後ろにプレゼントがあったの?」
「気づいてたのか」
「そりゃもう!」
 優音は得意げにそう言い、足を組み替える。健介の目に映るその12歳の少女は、幼なげでもあり、どこか大人びてもいる。そのクールな顔立ちとは裏腹に、本当によく喋る子だな、と健介は思っていた。
「俺なんかに着いてきてどうするつもりなんだ? 退屈だぞ」
「退屈なとこなんかない。それに、私はもう決めたから。何がなんでも着いていく。で、あなたの実家に住まわせてもらう」
「なんてこった」
 2人は車に戻り、再び高速道路を走り始めた。次第に日が傾き、窓から日光が差し込むようになっていた。優音はご機嫌な様子で鼻歌を歌い始める。そんな優音を、健介は横目でチラッと見た。
「地元…台風の被害にあったんだな。大変だったんじゃないか?」
「ああ、私の地元って田舎だから。メチャクチャになることはわかってた。仕方ないよ」
「でも中学校まで行けなくなるなんてな。よっぽどだよ」
 優音は少し間を置き、考えを巡らせるように外に目を向ける。そして健介に視点を戻した。
「こんなこと言ったら不謹慎かもしれないけど、私はあの中学校が潰れたときに、ちょっとだけホッとした」
「…なんと」
「学校がなくなったら良いなぁって毎日思ってた。そしたら、本当にそうなった。死人が出なかったことが救いよね」
「うーん…」
 なんと言えば良いのか。健介は困ってしまう。
「ボロっちいまま放置しとくからあんなことになるんだよ。当然だよ」
「でも、どさくさに紛れて逃げたしたってのがよくわからんが…。家庭事情を知らないからなんとも言えんけどね」
「あんな狭い街に閉じこもってるようじゃダメなの。あんなめんどくさい親と家にいるより、あなたとドライブしてたい」
「北海道までのな」
「乗せてくれて感謝してる。これであんな街とおさらばして遠くまで行ける」
「感謝してくれるのはいいけど…」
「お礼は体で払う」
 優音は健介の目を見つめ、無表情でそう言った。健介はそれを聞いた瞬間、耳を疑った。たった今、12歳の子供がとんでもないことを口にした。
「いい加減にしろよ。いいか、次そんなこと言ったら絶対に降ろすからな! そんなこと2度と言うなよ」健介は優音の方を向き、人差し指を立てて忠告する。さすがの彼も、これに黙っているわけにはいかなかった。
「はぁい」
 優音は不貞腐れたように、気のない返事をした。
 
 高速を降り、車は東北自動車道に入っていた。その頃にはもう夕方の6時になっており、あたりは薄暗くなりかけていた。
「今日はどっか泊まるの?」と優音が訊く。健介がハンドルを切りながら、「そうだな」とあたりを見渡す。
「もう今日は結構走ったし、そろそろ泊まる場所探すか」
 しばらく走り続け、東北自動車道を外れる。途中でコンビニに寄り、優音がトイレに行っている間、健介は携帯を使って手頃なホテルを見つけ出した。
 優音が手を拭きながらトイレから出てきた。「見つかった?」「すぐ近くに見つけたよ」
 2人が車でそのホテルに着いた頃には、すっかり日が沈んであたりは真っ暗になっていた。地下駐車場に車を乗り入れ、エレベーターを使ってエントランスまで上がった。
「大人1人と子供1人です」
 簡単にチェックインを済ませ、2人は広いロビーを抜けてエレベーターに乗った。全面ガラス張りの窓からは、このあたりの夜景が一望できた。だんだんとエレベーターが上昇し、下がっていく街の景色に、優音は気分が高揚する。
「すごーい!! めちゃくちゃ良い!」
「そうか? あんまり来たことないんだな」
 エレベーターは最上階まで到着する。広いエレベーターを降り、紅いカーペットが敷かれた廊下を抜けて『803』の札がある部屋まで向かった。
 健介がカードをかざすと部屋のドアが開く。優音は真っ先に部屋に入ると、荷物を持ったまま廊下を走り抜け、部屋に2つあるシングルベッドの窓側に飛び込んだ。
「気持ちいい! マジでふわふわ」
「結構広い部屋だな。景色もいいし」
「幸せ。昨日まで路上だったのに、急にいい生活になった」
「やれやれ…」
 健介は、家に帰ったらまずこの少女について一から説明しないといけないことを、今になって気がつく。家に待つ母親と息子に一体なんと説明しよう。いきなり着いてきたこの見知らぬ12歳の子供を。
 優音はベッドに寝転がり、部屋のテレビを見始めた。テレビは連日台風のニュースで持ちきりだった。倒壊した建物や氾濫した川がどのチャンネルを付けても流れている。
 健介は旅行カバンを開けてパジャマを取り出していたが、思わずそのテレビに目を向ける。
「今年のは大変だったな。本当に」
「このへん、私が住んでたところ」
 優音はテレビの側まで行き、表示された地図の「被害レベル6」の紫の地点を指差した。関東地区では最も被害があったらしい。「友達の家の屋根も飛ばされてた」
「東京でもそんなことがあるんだからな」
「あなたの家は大丈夫だったの?」
「うん…俺の住んでたところは会社からちょっと離れてて、そのあたりは無事だったんだよ。途中の道路が浸水して、スーパーには行けなくなったけど」
「私の家も大丈夫だったけど、ぶっちゃけ流されて欲しかった」
「なんてこと」
「だってそうだもん。あいつらが困ってるところ見たかった」
 優音はそう言うと、リモコンでテレビを消した。白いベッドに寝転がり、深く深呼吸をする。
 健介は腕時計で時刻を確認すると、財布を取り出して優音に呼びかけた。「もう7時半だ。下のレストランに行くか?」「あ! そうだ! 行こう行こう!」
 優音は飛び起きてベッドの上に立ち、反動をつけたあとジャンプで飛び降りた。

「うーん。どれにしようかな」
「まだなの?」
 メニュー表を見ながら、健介は何を頼むべきか決めかねていた。彼自身もあまりホテルのレストランなどに来たことがなく、そのメニューの多さに戸惑っていた。
「伊勢海老もいいけど…高いよなぁ、やっぱり」
「私はグラタンのセットだけど」
「じゃあ俺もそれにするよ」
 メニューが決まると、優音は「すいませーん!」と手をあげ、大きな声で店員を呼んだ。自分じゃこんな威勢よく声は出せないな、と健介は思った。優音は健介と違い、恐れを知らない性格だった。
 届いたメニューを食べているとき、健介はふと思い立って、優音に訊いてみた。
「名前、なんていうんだっけ」
 優音は料理から顔をあげ、スプーンを持ったまま答える。
「今日言ったでしょ。優音」
「じゃなくて、フルネームだよ」
「フルネーム? 青葉優音」
「ああ…」
 その瞬間、健介は聞き覚えがあることに気がつく。一体どこでこの名前を耳にしたのか、記憶を少しずつ遡ってみる。
 健介が思い出そうとしているのを遮るように、優音は彼に訊ねた。
「なに? 私の正体を突き止めて家に送り返そうっての? そうはいかないから」
「いや、そんなんじゃないよ。今更そんなことしたって意味ないだろうし、好きにしたらいい」
「ありがと。そうするつもり」
 優音はそう言いながらコップを手に取り、水を喉に流し込んだ。コップを置いたあとジャケットの袖で口を拭うその姿がどこか子供っぽく、大人びた口調の彼女にそぐわないと健介は感じる。
「じゃあ私からも訊くね。あなたの名前はなに?」
 優音は健介の目を見ながら、スプーンでグラタンを掬った。
「横井健介だよ」
「健介って言うんだ。思ってたのと違った」
「なんだと思った?」
「孝次郎とか一郎とか、『ろう』がつく系の名前だと思ってた」
「よくわからないな…それ。でも、息子の名前の候補は『進一郎』だった」
「そうなんだ。息子の名前はなんなの?」
「『ヒロヤ』だよ」
「ヒロヤくんね。あなたが決めたの? その名前」
「いや、妻が提案した。そっちの方が合ってるって」
「へぇ〜。え、奥さんとはいつ結婚したの?」
「25歳…かな。妻はそのとき24歳だった」
「可愛かった?」
「…自分で言うのも変だけど、うん。可愛いっていうか綺麗だった」
「その…奥さんとは週何回?」
「なんだって??」
 健介は優音がしたとんでもない質問に思わず耳を疑う。優音はわずかに恥じらいを浮かべながら、もう一度質問する。
「だから、新婚のとき奥さんとは、週何回

の?」
「そんなこと訊くなんて信じられない」健介はすっかり呆れてしまう。しかし優音は本気で知りたがっているのか、真剣な顔つきだった。声のボリュームをわずかに落とし、さらに喋り続ける。
「いや、新婚の夫婦の頻度…普通に知ってみたくて」
「なんだよ頻度って。ハグの回数とか?」
 健介はわかりきっていたが、あえて的外れなことを言ってみる。優音は上手く誤魔化そうとした健介を睨みつけるようにして、声を少し大きくして言った。
「SEXのこと」
「おい…ちょっと」
「子作りって言った方がいい?」
「頼むよ、場所をわきまえてくれ」
 優音のこの言葉に、少なからず周りが反応したような気がした。健介が慌てて周囲を確認すると、そこには家族連れやカップルもたくさんいた。親子でどんな話をしているんだ? と、そう言っているように感じられた。
「その話は部屋でするよ。ここでは別の話しよう。な!」
「教えてほしいのに。いじわる」
「なんて子供だ」
「私は子供じゃない。子供扱いしないでよ!」
「わかったわかった」

 最上階の部屋に戻り、2人は寝る用意をした。優音は部屋のクローゼットからホテルのマークがついた寝巻きを取りだし、「お先に」と言ってそのまま風呂場に行った。
 健介はカバンからいくつかお気に入りの本を取り出して読もうとするが、どうしても『青葉優音』という名前が気になってしまい、文字が追えなかった。
 しばらくして寝巻き姿の優音が、髪を拭きながら戻ってきた。
「入っていいよ」
「ああ、ありがとう」
 健介は風呂に入っている間もそのことを考え続けた。自分に馴染みがある名前でないことは明らかだったが、なぜか断片的に、その名前が記憶に刻まれている。
 風呂から上がって部屋に戻った健介は、パジャマのままベッドに座り込んだ。隣のベッドの優音は、もうすでに布団を首までかぶっていた。もう寝ているのかと健介が思った瞬間、優音が「ねえ」と話しかけていた。
「なに?」
「あのね…いや、やっぱりいい」
「どうした?」
「明日言うよ」
「気になるな」
 健介はベッドに横向きに寝転ぶ優音に目を向ける。優音は健介のベッドに背を向ける形で寝転がっており、健介からは表情が見えなかった。目を開けているのか、それとも閉じているのかさえ健介はわからない。
 ふと、頭に思い浮かんだ記憶があった。健介は思い切って訊いてみる。
「詩を書いてた?」
 しばらくの沈黙があったが、優音はしっかりと言った。「うん」わずかに優音が頷いたのがわかった。
 健介はやはりそうだったと、静かに驚いた。数年前のあの日、市役所で見た詩の作者が、今目の前にいる。なぜこんなことが起こるんだろうと健介は考えたが、偶然という言葉以外出てこなかった。
 もっと優音に質問したかったが、すでに彼女は寝息を立てているようだった。

 翌朝、早くに健介は優音から叩き起こされた。すでに窓から白い光が入り、外は鳥が飛び回っている。優音はすでに着替えており、歯ブラシを咥えたまま洗面所から走ってきた。自分が使っていた枕を手に取り、ベッドにうずくまる健介を枕で叩き続ける。
「お腹減った。朝ごはん食べに行こう!」
「早いな…いま何時?」
「6時だよ」
「もうちょっと寝てもいいんじゃないか」
「私はもう十分寝たし。バイキング行こうよ」
「仕方ないな」
 健介は着替えをして、財布だけを持って優音と一緒に部屋を出た。昨日と同じエレベーターを使って1階まで降り、朝食バイキングのエリアに行った。
 トレイを手に取り、2人で一通りメニューを選んだ。優音はウキウキとした様子で料理が並んだテーブルを巡回していたが、健介はあまり食欲がなかったため、2種類のパンと牛乳だけを取った。
 窓際の席で向かい合わせになって食べている最中、健介は優音に例のことをいくつか質問してみた。
「本当に詩を書いてたのか。札幌の市役所に掲示してあったやつだよな」
「そうだよ。なんで知ってるの? ってなった」
 優音はコッペパンにイチゴのジャムを塗りながらそう言った。
「数年前に偶然その詩を見かけたんだ。思い出したよ。『青葉優音』はその名前だった」
「あれは私が小4で書いたやつだよ。学校からコンクールに応募した川柳が入賞して、それが本に載った」
「本? それはすごいな」
「それを記念してなのかわかんないけど、北海道の市役所に飾られたって聞いた。本当だったんだね」
 優音はそう言ってパンをかじった。飄々(ひょうひょう)とした様子で、自慢げに語る素振りは全く見せなかった。
 健介はどういう偶然が重なってこんなことになったのだろうと、ただそれに驚いていた。目の前にいる少女は、自分が思うより遥かに優れた才能が備わっているのだろうか。さらに質問してみたくなる。
「コンクールっていうのはどこが主催してたのかな」
「どこがっていうか、詩人の佐々井さんっていう人が主催してたコンクールなんだよ。私、少4のときに地区で唯一それに選ばれて、本人に会ってきた」
「すごいな。全国規模なんだろ?」
「そうね。その中から20人くらいの受賞者の枠に入ってた。その人の本に載ったんだけど、ずっと前に無くしちゃった」
「本に載るなんてな。なかなか無いよ」
「『夕凪(ゆうなぎ)(いかづち)』っていう名前の詩集。34ページに私のが載ってて、よく覚えてるよ」
「夕凪の雷…」
 2人は朝食を終え、部屋に戻って荷物をまとめ、ホテルを後にした。
 昨日とは違い、よく晴れた風のある日だった。北海道まで車を走らせる道中、健介は優音から『佐々井紀久』という人物について詳しく聞かされた。
「授賞式で本当に会って、握手してくれた。そのときは有名な人に会ったっていうだけでテンション上がってたけど、私にもすっごい優しくしてくれて、いい人だったの」
「知らなかったな。そんなに有名だったら、名前ぐらい聞いたことあると思ったんだけどな」
「調べたら出てくるよ、絶対。パソコン借りていい?」
 優音は後部座席に立てかけられた健介のノートパソコンを指差して言った。
「ああ、いいよ」
「ありがとう」
 優音はシートベルトを外し、シートの間を抜け、裸足のまま後部座席に行った。健介はバックミラーで優音が後部座席に勢いよく座り、パソコンを手に取ったのを見た。数十秒後、後ろからパソコンのタイピング音と優音の声が聞こえた。「パスワード設定してないのね」
 またしばらくして、優音がパソコンを持ったまま助手席に戻ってきた。「ほらこれ見てよ」とパソコンの画面を健介に見せる。
「ほう」
 画面には佐々井紀久の写真とプロフィールがまとめられていた。写真に映る細身の人物は講演会かなにかで撮影されたのか、マイクを持って誰かに話しかけている。気品の漂う、落ち着いた印象のある人だな、と健介は感じる。
「北海道出身なんだな」
 ハンドルを握ったまま、チラチラとその画面を見る。ふと、プロフィールの最後に書かれている一文に目が留まった。『享年42』
「亡くなってるのか」
「2年前にね。私が会った1年後だった。心臓の病気で亡くちゃった」優音は再びパソコンの画面に視線を戻した。
「42歳って本当に若いな」
「本当だよね。唯一私を認めてくれた人だったのに、そんなにすぐいなくなるなんて」
「表彰式で会ったときはどんな感じだったんだ?」
 健介は少しだけ気になり、訊いてみた。
「私のことをすごい褒めてくれた。今までにない詩を見たって言ってくれて、私が褒められた経験は今までにそれだけ」
「そうか。でも確かに君のだけは他のと違ってた気がする。素人だけど、普通じゃないなって思ったよ」
「本当? そんなこと言われるなんて」

 近道となる道が台風で通行禁止になっていたため、健介は急遽ルートを変更した。海沿いに続く道路を車で飛ばす最中、優音は窓から顔を出して海風を感じていた。
「気持ちいい…! 海なんて何年ぶりだろ」
「気ぃつけてくれよ」
「大丈夫だよ」
 太平洋は台風の影響か、波が大きくうねりをあげている。巨大な波が岩礁にぶつかる音があちこちから聞こえてくる。
「海は好き?」
 優音は訊いた。健介はチラッと海に目を向けてから、「うーん」と首を傾げる。
「嫌い?」
「というか、昔は好きだった。でも高校生のときにサーフィンで溺れかけて、それ以来苦手なんだよ」
「溺れかけたの?」
「友達数人に助けられて、気がつくと砂浜に横たわってた。それ以来、海は泳いでないね」
「へぇ〜なんか大変だったね。でも家族で海に行ったりするでしょ?」
「息子が小さいときはよく連れて行ってた。でも俺は海が苦手だから、妻は代わりにヒロヤと泳ぎに行ってくれてた」
 健介は話しながら、自分の書斎に家族旅行の写真を飾っていたことを思い出した。ビーチで3人並んでいる、数少ない家族写真だった。
 優音はカバンの中から赤い縁のサングラスを取り出してかけた。窓を全開にして、髪を靡かせる。そして「似合うかな?」と振り返った。健介は「似合うよ」とだけ言って車を加速させた。
 
 昼になり、2人は海が見えるレストランのテラス席でランチをした。丸い木製のテーブルに向かい合わせになり、イタリアンのコースメニューを味わう。こじんまりとした店で、家族で経営しているのだろうと健介は予想した。
 店の女性店主が2人のもとにパスタを届けにきた。その際に、店主は笑顔で健介に言った。
「親子でお出かけですね」
 健介は一瞬のあいだ動揺して、優音に目を向ける。しかし、そのときにはもうすでに「そうです」と優音が答えていた。「パパと一緒にドライブデートを」
「いいですねー」店主は健介の方を見て微笑んだ。「賢そうな娘さんで」
 健介はとりあえず「そう…ですね。はは」と愛想笑いをした。店主が去っていくと、慌てて優音に言う。
「勝手に親子になってるじゃないか」
「周りからそう思われてるだけ。私たち、親子で十分通るんだよ」
 優音は相変わらず、余裕に満ちた口調で話した。幼なげな見た目とは対照的に、喋るその様子は成熟した女性のようで、健介はそのギャップにいまだに慣れなかった。自分が今話しているのは本当に中学生なんだろうか、と。
 優音は不慣れな手つきでフォークにパスタを絡め、口に運ぶ。トマトソースが唇を赤に染めた。優音は手元の紙ナプキンで口元を拭いた後、健介に話しかける。
「奥さんは? 今も元気なの?」
「ああ…」
 健介は食べる手をとめた。「妻は息子が5歳のときに亡くなった」
 優音もそれを聞いた途端に食べる手をとめ、俯く健介を見つめた。「そうなんだ」と小さく呟く。
「訊いて悪かった?」
「いや、いいんだ」
 優音と健介は再び食べ始める。少しの間沈黙ができてしまい、その間に健介の耳には他の客の笑い声や話し声が大きく聞こえた。
 沈黙を破るように、優音は顔を上げて訊ねる。
「奥さんのこと…好きだった?」
「…それはもちろん、大好きだったよ。自分の唯一の理解者だった」
「どこでプロポーズしたの?」
「言わないとダメかな…?」
 健介はそのストレートな質問に思わず笑ってしまう。優音もそれに釣られて笑った。「教えて」優音は健介の方に身を乗り出した。
「プロポーズなんて無かったな。2人でなんとなく結婚しようって言い合って、本当にそれだけだったかな」
「そうなの? それって普通なのかな」
「どうかな。でも普通じゃない気がする。そういうドラマチックなのが苦手だったんだよ。2人とも」
「ドラマチックねぇ…」

 食事を終えた2人は再び車に乗り込み、道路をさらに北上し始めた。海沿いの長い道路を走り続け、やがて風も弱まってきた。
 優音は車内にあったスナック菓子を頬張っていた。健介がヒロヤのためにまとめ買いしたものだったが、優音はどうしても食べたいと言った。
「昨日、奥さんと週何回やってた? とか訊いてゴメンね」優音はスナックを頬張りながら言う。
「いきなりあんなこと訊くんだからなぁ。そんなこと知ったってなんにもならないだろ」
「半分は冗談だったんだよ」
「じゃあ、もう半分は本気?」
「う〜ん…まあそうかな。何回

子供ができるとか、そんなこと今まで一切教えられてこなかった。詳しいSEXのしかたとか」
「…どう答えればいい? 俺の身にもなってくれよ」
「親子じゃないからこんな話ができるんだよ。実親とだったらまずありえない」
「君はませすぎだ。早くに大人の世界に入りたい気持ちはわかるけど、もっと子供でいる時間を楽しむべきだ。今しかないんだしな」
「そんなこと言ったってねー」
 優音は手に付いたスナックのカスを祓い、袋の底に溜まった最後のスナックを口に流し込んだ。ボリボリと咀嚼しながら袋を丸め、足元のゴミ箱に入れる。
「もう食べ終わったのか」
「処女ってどういう意味なの?」
「え?」
「いや、だから処女ってよく聞くけど、どういう意味なのかなって思って」
 優音はシートに座り直し、唐突に訊いた。健介はまた厄介な質問をされ、今度はどう対応しようかと、運転しながら必死で考える。
「処刑される女の人って意味だと思ってたけど、違うんでしょ」
「今にわかるようになるよ」
「大人ってすぐそういうこと言うよね。逃げてる感じがする」
「逃げてなんかないよ。ただ」
「ただ、何よ。言ってみて?」
「いや…やっぱりそうだよな。逃げてるんだよ、子供から。よくないことだって気づくべきなんだ」
 健介は横から視線を強く感じた。目を合わせることもできたが、今はなぜか合わせようとしなかった。彼女と目を合わせた瞬間に自分の弱い部分まで全て見透かされそうで、今はそれが怖かった。
「でも…そういうことは俺以外の人が教えてくれるから」
「そうかな」
「そうだよ」
 
 道路沿いのガソリンスタンドに立ち寄り、そこで健介が給油している間、優音は車から降りてあちこちを歩き回っていた。何時間も同じ姿勢で体が硬直していたため、少しでも動かしたかった。
 スタンド内を一周回ったあと、優音は車に戻ってきた。同じタイミングで健介は給油を終えた。
「北海道にはどうやっていくの?」
「フェリーで行くよ。青森からのフェリー」
「明日になる?」
「そうだな」
 再び車に乗り込み、自動車道を走る最中に優音はまたパソコンを借りて調べものを始めた。靴を脱いでシートの上にあぐらをかき、カタカタとキーボードを叩いている。
「やっぱりだ」
「なにが?」
「佐々井さんのお墓。北海道の札幌市にあるんだって。私ずっとお参りしたいと思ってたんだよね。ちょうど良かった。昨日はそれが言いたかった」
「寄れる場所なら寄ってやってもいいけど」
「お願いしたいな。お花買って行こうっと」
 健介は横目にパソコンの画面を見てみた。優音は地図を開いていると思っていたが、何やらWebサイトをスクロールしている。そして「ほら、これ見てみてよ」とパソコンを持ち上げ、健介の顔のそばに持ってきた。
「これは?」
 画面には本の表紙が写っていた。青と白が上下に分割されたデザインで、真ん中に『夕凪の雷』の文字があった。
「これか。佐々井さん? が出した本っていうのは。ここに君の詩が載ってるんだよな」
「そう。本人から直接もらったのに、どこ行っちゃったんだろう」
「どういう意味なんだろうな。夕凪の雷」
「最初の見開きのページに佐々井さんの詩が載ってて、そこから取ってるタイトルだよ」
「詩?」
「『あの日、下駄箱に隠した夕凪は、いつしか空に浮かんで雷をつくった』」
「なんと。覚えてるんだな」
「覚えてるよしっかりと。夕凪がつくり出した雷。夕凪の(いかづち)
 優音は健介と目を合わせた。健介には、優音のその大きな目が言葉以上になにか具体的なメッセージを放っているように思えた。まっすぐに見つめる、その目の奥が。

 3時ごろ寄ったパーキングエリアには小さな遊園地があり、優音はどうしても遊びたいと言って聞かなかった。先を急ぎたかった健介だったが、優音の主張に負けてしまい、「30分だけだぞ」と言って3,000円を渡した。
 遊園地の外で健介は優音を待ち続ける。しかし、30分以上経っても優音が帰ってくる気配がない。心配になった健介は遊園地の中まで優音を探しに行った。
 しばらく園内を探し続け、ようやく遊園地の隅にあるジェットコースター乗り場で優音を見つけた。何やら係員4〜5人と揉めているようだった。健介は慌てて駆け寄る。
「マジで意味わかんない! 納得できない」
「そんなこと言ったって君…」
 優音は憤っているのか、高い声で係員を責め立てている。係員といったい何で言い争っているのか見当もつかなかったが、声をかけてみる。
「おーい! そろそろ行くぞ」
「あっ! パパー!!」
 優音が振り返ったと同時に健介に駆け寄り、彼に正面から抱きついた。「うわっ! なんだ?」
「親御さんですか?」
 係員のうちのひとり、恰幅のいい男が健介に訊いた。健介は体にまとわりつく優音を一瞬見たあと、「…まあ、はい」と答えた。「うちの…娘がなにか」
 係員から聞いた話によると、優音はジェットコースターに乗ろうとして200円を出したが、ジェットコースターは特別招待券が無いと乗れないことを知って(わめ)き出したという。係員が事情を説明するも聞く耳を持たず、しまいには無理やり乗ろうとして下されたのだと聞かされた。
 健介は優音の代わりに頭をさげ、優音を駐車場まで連れて帰った。優音を乗せてそそくさと車を発車させ、再び自動車道を走り始める。
 車を運転しながら、健介は優音に厳しく注意する。
「小さい子供じゃないんだから、大人を困らせるようなことしちゃダメだろ」
「私はどうしてもあれに乗りたかったのに、あいつら聞いてくれなかった。私悪くない」
「30分って言ったのに1時間経っても戻ってこないし」
「遊園地とか30分で制覇できるわけないよ。そんで、コースターで締めくくろうと思ってたのに。サイアク」
「こっちのセリフだよ。親の責任になるんだぞ、ああいうのは。親でもないのに」
「融通が利かない大人はキライ」
「よく言うよ。やめてくれよ駄々っ子みたいな」
 健介は予定よりも時間が押してしまったため、速度制限のギリギリまで車を飛ばす。優音はシートの上であぐらをかき、不満を発散させるかのように喋り続ける。
「そもそも1回乗るのに200円とか高いでしょ。そんな大したアレでもないのに。それに特別招待券ってなんなの? あのボロっちいコースターはそんな高貴な乗り物なわけ? クラシックのコンサートかよって言いたくなる」
「乗りたがってたくせによく言うぜ。口だけは達者なんだから」
「なんか、子供だからって理由でタメ語使ってくるのも嫌。人見て態度変えるのってよくないよね」優音は貧乏ゆすりをしながら、早口で喋る。
「ちゃんと敬語使ってくれる大人だっているだろ」
「私は少なくともそんな大人に出会ってこなかったんだよね。中学校の教師だって偉そうだったし、そいつらに媚び売ってたクラスの連中もキモかった」
「口が悪いぞ。それに媚び売ってたわけじゃないだろ」
「あなたにはわかんないよねー。あんなクソみたいな教室にいたら、そりゃ誰だって性格歪むよ。というか、私の地元にいたやつらなんて元からバカばっかりだし。抜け出して正解」
「いいからもう黙って、静かにしてくれよ。よく喋るその口!」
「ゴメンね。喋らずにはいられないの」
「生意気なその喋り方をやめない限り、この先には連れて行ってやらないからな」
「ふん」
 優音は不機嫌な面持ちでそっぽを向いた。優音はその後もへそを曲げたままで、2人が今日泊まるホテルに着くまで態度は変わらなかった。
 ホテルの部屋に辿り着き、優音は真っ先にベッドに横になった。健介に背を向け、わざとらしく寝息を立てる。
「拗ねてる?」と健介は訊いた。優音は彼に背を向けたまま、間をおいてから言った。
「拗ねてるんじゃないし」
「じゃあなんで不機嫌なんだ」
「嫌なこと思い出してたの。昔の嫌なこと。ほっといてよ」
「全くもう…ご機嫌斜めかよ」
 その後も優音が機嫌を直す気配がなかったため、見かねた健介はホテルのプールサイドにあるカフェでディナーをしようと誘った。優音は最初は渋っていたが、健介が部屋を出ようとすると、起き上がってついてきた。
 夜のプールサイドは人で賑わい、カラフルな照明があちこちを照らしていた。プールサイドには南国風のカフェテリアがあり、2人はカフェのカウンター席についた。
 健介は日替わりのディナーセットとワインを注文し、優音はハンバーグのセットを注文する。
「温水プールなんだってな。やっぱり若い人が多い」
 健介は背後にある広いプールに目を向ける。浮き輪やゴムボートに乗る若者、そして家族連れが多くいた。プールを照らす照明が周期的に赤や青に色が変わってゆく。優音はチラッとそちらに目を向けるが、興味なさげに視線を戻す。
「ナイトプールなんてチャラい奴しかいないでしょ。あそこのカップルとか、部屋戻ったら絶対エッチしてる」
「またそういうこと言う」
「だってそうなんでしょ? そのために来てるようなもんでしょあの人ら」
「悪いことばっかり覚えて、俺みたいに今からろくな大人にならないぞ」
 優音はそこで水の入ったコップから口を離し、健介と目を合わせる。「ろくな大人になれなくてもいいよ。それにあなたは良い大人じゃないの」
「そうかな」
「私みたいなホームレスを拾って、わざわざ面倒まで見るなんて。なんだかんだ言って優しい」
「まあ、途中で見捨てるわけにもいかなくなったしな。不本意だったに決まってるけど」
「不本意? いつもと同じじゃないってこと?」
「…そうだ。ガレージから車を出して、またいつもみたいに平坦な旅路になるんだろうと思ってたら君が乗ってきた」
 優音は結露したグラスを触りながら小さく頷いた。
「人生って不思議なこともあるもんだって思ったよ。全く予期しないところで、急に誰かと出会う。全く、なんの予兆もなく」
「それが嫌だった?」優音は少し笑ってそう訊いた。健介は「いや」と首を横に振り、否定する。
「若い頃は毎日が同じことの繰り返しだった。同じ制服を着て、同じ電車に乗って、同じ学校に登校する。なんの変化もない同じような日を何年も、毎日だ」
「タイムループだね。同じ日を何千回も経験するループ」
 優音は人差し指で小さく円を描いた。健介はしばらく考えたあと、「そうだな。まさに」と頷く。
「ちょっとでも日常に変化が起きてほしいって思いながら、この年まで似たような日を繰り返してきた。でも思い通りに変えられたことなんてなかったな。家庭を持ってからも」
「でもあなたには奥さんがいたでしょ。それに息子もできて、理想の家庭じゃない?」
「どうだろうな…難しい。少なくとも、息子がそう思えたかどうか」
 しばらくして、また優音が健介に訊ねた。「今日のこと、怒ってない?」
「どうして?」と言うように、健介が優音の顔を見る。しばらく優音がなにも言わないまま目を見続けるので、健介は答えた。
「怒ってなんかないよ」
「本当に?」
「本当だよ。でも、なんであんな事でいちいちムキになるのかがわからない」
「それはさあ」優音は体を健介の方に向け、カウンターに片肘をついた。「我慢できなかったの。あれに限らずだよ。いつも子供だからってあんな言い方されて、ムカついちゃって」
「なんで素直になれないんだ?」
「素直に大人の言うこと聞く子供じゃなくて悪かったね。私がいい子に育ってたら今頃こんなところにいないよ。あんなボロっちい車に拾ってもらって、こんなおじさんについていこうなんて思わないね」
「ボロっちいって言うなよ。あれはレトロカーっていうことにしてくれ。それに38っておじさんに入るのか」
「おじさんだよ十分」
 話の途中で注文したメニューが到着する。優音は自分の前に置かれた豪華な料理を見て、思わず「すごい!」と両手を口元に当てて喜んだ。優音のその純粋な喜び方が、健介にとっては新鮮だった。料理ひとつでここまで無邪気に喜ぶ子供の姿を見たのは久しぶりだった。
 
 食事を終えた2人の間に、束の間の静寂があった。何気なくカウンターに目を落としていた健介は、カウンターに書かれた小さい文字に気がつく。鉛筆で書かれたその『コーク』という文字を指でなぞってみた。
 店の前を2、3人の水着姿の子供が通り過ぎる。優音はそれを目で追った。
「孤児だったの」
 優音がそう言った瞬間、健介は顔を上げて彼女の顔を見た。優音は走っていく子供から目を逸らし、頬杖をつく。
「親が3歳のときに私を施設に預けて、それ以来ずっと

だった。7歳でやっと養子に選ばれたけど、結局逃げ出しちゃったし」
「…里親だったんだな」
「うん。あんな施設にもう戻りたくなかったし、口うるさい里親の世話になるくらいだったら、いっそ街を出てやろうと思って」
 今まで知り得なかった優音の生い立ちを本人の口から聞いた健介は、その瞬間に、今まで見てきた優音の印象が自分の中で変化したことに気がつく。ただ淡々と自分の過去を語る優音の瞳が、どこか物悲しさを秘めている気がした。
 
 翌日、2人はホテルを出てフェリー乗り場に向かった。青森の津軽海峡フェリーまでは2時間の道のりで、優音は漫画を読んだり歌ったりを楽しんでいた。昨日とは打って変わって元気を取り戻しているようで、健介はどこか安心する。
「音楽かけていい?」
「音楽? いいよ。でもCDなんてそんな…」
「いっぱいあるじゃん。ほら」
 優音は足元にある透明のCDケースを引っ張り上げ、膝の上に乗せた。勢いよくケースの蓋を開け、中の大量のCDを物色する。
「うわぁすごい! なんか色々あるね。うわぁ! これなに!?」
 優音は目についた一枚の古いCDを取り出す。ジャケットにはプールの中で泳ぐ赤ん坊がいた。優音はまじまじとそのCDを眺める。
「裸赤ちゃんだ」
「そのジャケット知らないか? 俺が昔によく聴いてたアルバムだよ」
「全然知らない。ねぇ、これかけてみていい?」
「いいよ。かけてくれ」
 優音がプレイヤーにCDを差し込むと、数秒後に音楽が流れ始める。つまみでボリュームを上げ、狭い車内に激しいサウンドが響き渡る。
「いいねぇ。最高」優音はカバンから取り出したサングラスを掛け、窓から手を出して音楽に乗る。手に風を当て、スピードを感じた。健介は優音のその様子を、運転しながらときおり微笑ましく眺めた。

 フェリー乗り場に着いたのは昼過ぎだった。フェリーの当日チケットを買い、車を預けてから船内で昼食を取ることにした。
 大きなタラップを渡り、巨大な車両甲板へと車を運び入れる。デパートの駐車場より何倍も大きい地下空間に、優音は心を躍らせる。
「フェリーなんて生まれて初めてだ!」
 車を停車させ、エレベーターを使って船の甲板へと上がった。
 船が出発するまでの間、優音はコンビニで健介に勝ってもらった使い捨てカメラを取り出し、甲板からの風景を何枚も撮った。
「あなたも撮ってあげる」
 優音は健介に甲板の先に立つよう促した。「息子に見せるためにね」
「いや、いいよそんな」
「いいからいいから」
 嫌がる健介を無理やり柵の近くに立たせ、一枚写真を撮った。

 船が出航し、港が遠くなってゆく。よく晴れた日で、船内にも丸い窓から光が差し込んでいた。優音は掛けていたサングラスを頭にずらし、健介と船内のレストランメニューを選んでいた。
「何にしよっかなぁ〜」
「あんまり高級なものはやめてくれよ」
「じゃあうな重とウニにする」
「ウソだろ。一番…」「す・い・ま・せーん!!」
 健介が言い終わる前に、優音は大声で店員を呼んだ。その飛び抜けて明るく無邪気な声に、健介は思わず笑ってしまった。と同時に、幼い頃の息子が似たようなことをして自分を困らせていたときのことを思い出す。あのときは元気いっぱいに走り回る息子に手を焼いていたが、そんな息子といる時間が何よりも幸せだった。
 優音が自分に懐いてくれたからここまで自由に振る舞うのか、それとも誰かれ構わずこんな自由奔放な態度をとるのか、それは健介にはわからなかった。しかし、優音といるこの時間は、気がつくと窮屈ではなくなっていた。
 食事を終え、再び船の甲板に出る。2人で外向きに並べられた椅子に座り、海を眺める。そのときにふと、健介は気になっていたことを優音に訊ねてみた。
「なんで両親は娘を施設に預けたのかな。両親の顔って覚えてないのか」
 優音は海に目を向けたまま首を縦に振る。
「施設からは若い両親だったって聞いてる。10代で私を産んで、育てられないから預けたって感じ?」
「なんと」
「でも詳しく教えてもらったことなんてなかったよ。私が興味なかったからかな、親のこと。施設生活が長すぎて、親っていう概念もなかった」
「概念ねぇ。施設はどんなところだった? 俺は知らない世界だから…」
「知らない方がいいよ。ご飯だって美味しくないし、寝る部屋はみんな一緒で、ひとりになれる時間なんてない。私を産んだ親を恨んでるわけじゃないけど……でも、あの2人のせいなの」
 カモメが一羽、2人の目の前を通り過ぎる。健介はそれを目で追うが、カモメはそのまま上空に飛び去ってしまった。
「だから、あなたの娘になろうと思う。あなたの家で暮らすことにする」
「……」
「いいよね? もうあんな里親のところに戻りたくないんだよ」
 健介はここで安易に了承していいものなのか迷った。東京からここまで連れてきてしまったものの、その後のことはあまり考えていなかったのだ。だが、自分以外に頼れる大人がいない以上、力は尽くしてやりたかった。
 気がつくと健介はまた昔話を始めていた。いつもの手帳に挟んでいる家族の写真を取り出し、始めて人に見せた。
「いつの写真?」優音は写真を手に持ち、じっくりと眺める。
「10年前かな。みんな写真を撮る習慣がなかったから、昔の写真はそれとあともう一枚ぐらいしか残ってない。元々は書斎に飾ってたんだけどな」
「いい写真だね」
「ああ。思い出すよ。息子と妻もちゃんといる」
 優音はそこで健介と彼の家族に関することをいくつか訊いた。縁もゆかりもない家族のことでも興味があったのだ。健介は当時を思い出しながら話した。
「息子は俺よりも強いと思う。母親を亡くしてるのに」
「家ではいつも2人だったの?」
「いや、俺の母親と3人で暮らしてた。本当は親である俺がいつもそばにいてやりたかったんだけど、俺は昔から仕事ばっかりで…ヒロヤのことは母さんに任せっぱなしだったな」
「後悔してるの?」
「……そうだよ。昔からそうだった」
「息子が大事だから?」
「もちろんだ。命よりも何よりも大事だった」
 
 フェリーが到着した頃には、もうすでに日が傾きかけていた。健介は優音を連れて車両甲板に戻り、そこから船を出した。
 函館市の空気を吸い、健介はようやく地元の空気感を思い出す。両親に連れられ、何度も訪れた函館の情景が一気に目の前に広がる。
「空が広いね」
 優音が車のフロントガラスから空を見上げて言う。健介も同じように前屈みになり、空を見上げてみる。秋の高い空に浮かんだ鱗雲を突き抜ける飛行機雲が見えた。
「そうだな。やっぱり本州の感じとはちょっと違う」
「ここから家までどのくらい?」
「4時間ちょっとかな」
「お墓に寄りたい」
「あ、そういえば言ってたな。場所どこなんだ?」
「調べる! また借りるよ」
 優音は助手席から立ち上がり、後部座席に行って健介のパソコンを開いた。ほどなくして、健介の隣にパソコンを抱えた優音が戻ってきて画面を見せる。
「場所出てきたよ」マップに佐々井紀久の墓地がある場所が示されている。
「家の近くじゃないか。このあたり行ったことあるかもな」
「家に帰る前に寄ってよ。お花も買っていく」
「わかったよ」

 街に夕陽が差し込む頃、車はすでに札幌市についていた。優音はスーパーで花を買い、小高い霊園までの道をナビゲートする。
「すごい場所だな…高級な墓地があちこちに」
「あ! 見えてきたよ。あれじゃない?」
 優音が指差す先に、その大きな霊園はあった。坂道を超えた先にあるその霊園は街全体が見下ろせる高さにあった。
 適当な場所に車を停車させ、写真で見た墓地まで歩いていく。夕陽が差し込む墓地のあちこちに墓石の影が長く伸びている。
 墓地の奥に一際大きく(そび)え立つ墓石がある。墓石には大きく『佐々井家』の文字が彫られていた。
「見つけた。これだよ」
 優音は墓石のそばに歩み寄り、手に持っていた菊の花を花瓶にそっと差した。そして、その場でしゃがみ込んで手を合わせ、そっと呟く。
「お久しぶりです。数年ぶり」
 優音は墓の前で目を閉じた瞬間、数年前のあの日の記憶が一気に頭を駆け巡った。市民会館の大ホールで行われた表彰式の記憶を誰よりも鮮明に覚えていた。舞台に上がり、彼とマイクで話をした忘れがたい記憶。
「亡くなるには早すぎるよ…また会いたかった」
 しゃがんだままそうつぶやく優音を元気づけるように、健介は「天国で見てくれてるよ」と声をかけた。
「本当に?」
「本当だよ。見てくれてる」
 2人が夕陽の差し込む方角に目を向けると、空からの風が柳を静かに揺らした。広大な空はオレンジ色に染まり、鱗雲は徐々に薄くなっていった。
 
 墓地をあとにした2人はその後、下道を30分走り続け、ようやく自宅に到着した。あたりに田んぼや畑が広がる簡素な住宅地で、ここは健介が幼少から育ってきた場所だった。すっかりあたりは暗くなり、田んぼから微かにカエルの鳴き声が聞こえてくる。
「着いたな。長い旅だった」
 健介は自宅の庭に車を停め、車を降りて後部座席から荷物を取り出した。
「ここが家なの?」
「そうだよ。もう車の旅は終わりだ」
 優音が車を降りたと同時に玄関のドアが開き、パジャマ姿の少年が姿を現す。
「父さん…!」
「ああ、ヒロヤ!」
 健介は息子の姿を見た瞬間に顔がほころび、思わず抱きしめたくなった。手に持ったカバンを下に起き、玄関のそばまで行く。ヒロヤもスリッパを履いて父親に歩み寄った。
「久しぶりだな。元気か?」
「うん、元気だよ。台風は? 大丈夫だったの」
「ああ、なんとか大丈夫だった。心配かけて悪かったな」
 健介はヒロヤの両肩を掴み、頭を撫でた。3ヶ月会わないうちにまた身長が伸びたのではないかと、その瞬間に思う。
 ヒロヤは車の影から姿を現したショートヘアーの少女と目が合う。見つめあったのは一瞬だったが、お互いにその時間がずいぶんと長く感じた。
 ヒロヤは咄嗟に言う。「あの子は……?」
 健介は振り返り、ヒロヤに優音を紹介した。優音はヒロヤを前にしてどんな顔をしたらいいか分からず、彼から目を逸らしてしまう。
「この子のことだけど…東京で知り合ったんだよ。身寄りがないらしくて、今日からここに泊めてやっていいかな」
「ああ…」
 ヒロヤは優音を見たまま頷くが、その表情からから、まだうまくその言葉が飲み込めてないと健介は勘づく。そしてもう一度振り返って優音に目を向ける。そのときの優音が、わずかに恥じらいのある表情を浮かべたことに健介は少し驚いた。
 家の中には健介の母親である俊子(としこ)が晩御飯を用意して待っていた。健介が「ただいま」と顔を見せた瞬間、俊子はいつもの笑顔で「おかえりなさい」と言った。健介が優音を紹介すると、俊子は「あらそう。大変だったわねぇ」とあっさりと状況を受け入れ、優音の分まで晩御飯を用意した。
 健介は優音と出会った経緯や、優音が置かれた状況を家族に詳しく説明した。2人は優音を拒絶する様子は微塵も見せなかった。
「まあそういうわけで。今後どうするかはまた考えていくから。とりあえずはしばらくこの家に住まわせてやってよ」
 健介がそう言うと、ヒロヤが小さく「いいよ」と言った。その一言が健介の今までの不安を消してくれた。道で拾った見ず知らずの少女をいきなり家に連れてきたにもかかわらず、あっさりと受け入れてくれたことが嬉しかった。
 食事の後に健介は手土産をヒロヤに渡した。「ゲーム機だ!」ヒロヤの喜ぶ姿は何年も変わらずそのままだった。
「ありがとう。嬉しいよ」
「いや…むしろ、ごめんな。こんなことぐらいしかしてやれなくて」
「何言ってんだよ。いいよ、ありがとう」
「なあヒロヤ……本当に、ごめんな今まで。父さんは昔から出張ばっかりで、おばあちゃんと2人きりにしてばっかりで」
「どうしたの急に」
「いや、ずっと謝りたかったんだ。寂しい思いさせたんじゃないかって」
 ヒロヤは黙ったまま、静かに父親を抱きしめた。健介も同じ力で抱きしめ返した。ああ、こんなに大きくなったんだなと健介は心で呟いた。
「ベッドがないからヒロヤと一緒に寝てくれ」と言われ、優音は風呂を上がったあと、2階にあるヒロヤの部屋に行った。
 一方、1階のリビングで健介は3ヶ月ぶりに会った母親と言葉を交わしていた。
「あの子も大変だったんじゃない? ほら、最近だって色々あるでしょ。虐待とか、育児放棄とか…」俊子は編み物をしながら、ときおり息子の方を向いて話す。健介は新聞を読みながら、「いや、あの子はそんなんじゃないよ」と返す。
「随分と長い間、施設にいたんだって。抜け出してきたのは里親の家らしいけどな。あの歳で苦労してたんだなって思うよ」
「でも、私の周りにも昔そういう人はいたわよ。私はそうじゃなかったけどね。親と血が繋がってないって言ってたけど、でも本当の親と思ってる…みたいなこと言ってたかしら」
「まあ、人によって合う合わないはあるだろ。あの子の場合はまあ…極端に合わなかったのかな。分からないけどな」

「…何歳?」
 ヒロヤは自分のパジャマを着て髪を拭く優音に訊ねてみる。普段、自分だけが過ごす空間に優音がいる状況が新鮮でたまらなかった。
「12歳。あんたもだよね」優音は肩にタオルを掛け、ベッドの上のヒロヤと目を合わせる。
「知ってるの?」
「あんたのお父さんから聞いたよ。ドライブ中に」
「本当に東京から…?」
「本当に本当。東京の下町からね」
「へぇ」
 優音はドライヤーで髪を乾かしたあと、ヒロヤが眠るベッドに潜り込んだ。ヒロヤは優音のためのスペースをつくっていた。同じ枕に頭を乗せ、横並びになる。
 電気を消すも2人はなかなか眠ることができず、布団の中でしばらく話をした。お互いに慣れていなかったためどこかぎこちなかったが、不思議と会話が途切れることがなかった。
「フェリー初めて乗った」
「どんな感じだった?」
「車庫? みたいなのがすごかった。写真も撮ったから、明日見せる」
「フェリーなんてしばらく乗ってないな」
「そのフェリーで、お父さんがあんたの話してたよ」
「僕の話?」
「そう。大事に思ってくれてるから大丈夫。いいお父さんだね」
 優音はそう言い、ヒロヤに背を向け、掛け布団を首まで被った。そんな優音の後ろ姿を、ヒロヤはしばらく見続けた。

 それから優音にとって新しい生活が始まった。優音が健介の一家に馴染むのにさほど時間は要しなかった。後先のことを考えずに車に乗り込み、スーパーの店員から逃れるようにしてあの土地を離れた優音は、今や遠く離れた北海道にいる。地元の誰も自分がここにいることを知るはずもないと余裕になっていた優音だったが、ヒロヤと一緒にスーパーで鍋の具材を調達している際、スーパーの高い位置に設置されたテレビの映像が目に留まった。
『東京都ではなおも行方不明者の捜索が続いています。洪水の被害にあった地域では児童20人余りの行方がわからなくなり…』
 氾濫した川の映像と共にアナウンサーが情報を繰り返す。優音は買った飴を舐めながら何気なく見ていたそのテレビに、自分の地元が写っていることに気がついた。
「戻ってやらないよーだ」とテレビに向かって言い、「行こう」と商品をカゴに詰めていたヒロヤを呼んでレジに並んだ。
 家までの帰り道、優音とヒロヤは橋の上で家族連れとすれ違った。優音はすれ違いざまにその家族連れを目で追った。父親に肩車をされた小さな子供が、母親と「遊園地に行きたい」と笑顔で話している。
 優音は家族連れから目を離し、わけもなく河原に目を向けた。休日の河川敷は少年野球が行われており、甲高い掛け声が響いている。
「帰ったら一緒にゲームやろう」ヒロヤが優音の方を見て言った。優音は河原からヒロヤに視線を移す。「いいよ。あのゲーム気になってた」
 2人は自宅に戻り、晩御飯の鍋が出来上がるまで、健介がヒロヤのために買ってきたファミコンで遊んだ。テレビの前で夢中になってコントローラーを操作する2人の姿が、健介は昔の自分を見ているようで懐かしかった。同時に、一人っ子であったヒロヤに新しい遊び相手ができたことに喜びを感じた。日頃からいつもひとりだったヒロヤが、この頃はいつも優音と一緒にいる。同じ年齢同士、打ち解けあっている2人の姿が健介にとっては微笑ましかった。
「もう会社はやめようと思う」
 健介は食事中、ずっと言いたくても言えていなかったことをヒロヤに話した。「どうして?」ヒロヤが訊く。
「今の会社じゃ休みも取れないし、今ならもっといい技術職につけそうなんだよ。知り合いの人が勧めてくれててな。退職金も出るだろうから」
「そうなんだ。良いんじゃない?」
 俊子が健介のコップに酒を注ぎながら言った。「38なんてまだ若いんだから、まだまだチャンスはあるわよね。でも今の仕事だって大学から憧れてようやく就けた仕事なんでしょう?」
「まあそうだけど、10年以上続けてようやく分かることだってあるよ。大学の頃はまだ働いたことすらなかったし、未来なんて想像できてなかったからな」
「誰だって最初はそうじゃないの。頑張ったら今から何にだってなれるわよ。優音ちゃんもね」
 優音は「そうかなぁ」と言って鍋のうどんを啜った。

 食事の後は、4人でソファーに座ってテレビを見た。何気なく付けたテレビには子供の成長を描いた家族ドラマが映っていた。ヒロヤが持つ皿からスナック菓子をつまみながらそれを見ていた優音は次第に顔が曇り、しばらくすると鼻啜りをしながらその場を離れた。そのときの優音が涙を拭っていることに気がついた健介は、廊下に出た優音の様子を見に行った。
 優音は冷たいフローリングの床に座り込み、手のひらで涙を拭いていた。健介は「どうしたんだよ」と優音のそばに寄った。優音は目の周りを赤に染め、鼻啜りをもう一度した。
「もう…耐えられない」
「なにが」
「あの映像を見続けるのが耐えられない。昔から大の苦手だった。幸せそうな家族の映像」
 優音は膝を抱え、身を小さくした。そして健介の目を見た。「私には親もいないのに」
 健介はそんな優音になんと声をかけるべきかわからなかった。親のいない子供の気持ちを、自分は心から理解することができただろうか。優音の肩を摩りながら、何度も自問する。

 その夜、優音とヒロヤはまた同じ寝床についた。狭い布団の中で体と体が触れ合い、毎日ヒロヤ一緒に眠るうちに、優音はある感情が芽生えていた。今日はヒロヤに気づいて欲しいとばかりに、優音は彼の手を握ってみた。
「どうしたの?」ヒロヤが隣に顔を向ける。優音はヒロヤの脚を何度か突いた。
「毎日こうやって一緒に…普通に寝るだけなの?」
「え…?」
「私たち、もう子供じゃないでしょ。たまにはそういうことするのも」優音は布団の中で、さらに強くヒロヤの手を握った。初めてそんなことを言われ、ヒロヤは驚いていた。
「…私だってそういういうことに興味ないわけじゃない。わかるでしょ」
「本気? 冗談で言ってないよね」
「やろうよ」
 優音は両手でヒロヤの頬に触れ、体をくっ付ける。まっすぐに目を見つめられ、ヒロヤはしばらく考えたあと「うん」と頷いた。
 2人は寝転んだまま体を密着させ、目を閉じてキスをする。しばらく唇を付けたり離したりを繰り返しているうちに、2人の中で次第に何かが高まっていくのを感じた。
 優音は唇を離して、囁くように言う。「ベロ入れて」
「ごめん……やったことないから」
「緊張しないで」
 2人は起き上がって向かい合い、さっきよりも深くキスした。風呂上がりの熱がまだ2人の体には残っていた。
 優音はあぐらをかいたままパジャマを脱ぎ始める。それを見てヒロヤも慌ててTシャツを脱ぎ、ズボンを脱いだ。優音はあっという間に下着姿になり、ヒロヤと向かい合わせになった。
 優音は大きく深呼吸をすると、気がつくと涙が溢れ始めていた。ヒロヤは「どうしたの?」と訊くと、優音は鳴き声をあげて涙をこぼす。ヒロヤはなぜ泣き始めたのか理由がわからなかったが、咄嗟に目の前の優音を抱き寄せた。優音はヒロヤの腕の中で嗚咽して泣き続けた。
「大丈夫だから」
 ヒロヤが言ったその一言を最後に、優音の意識が朝まで途絶えた。

 翌朝、優音はドアをノックする音で目を覚ました。起き上がり、隣にヒロヤがいないことに気がつく。部屋に入ってきたのは健介だった。
「ああ…」優音は顔を上げ、目を擦った。健介は優音の前に座り、顔を覗き込むようにした。優音は眠たげな顔のまま健介に言った。
「昨日のことはもう忘れて」
「昨日のこと? どうして」
「もう嫌なの…あんな子供みたいに泣くのは。昨日もヒロヤの前で泣いちゃって、我慢できなかった」
「生きてたら誰でも泣きたくなることはあるよ。大人だってそうだ。我慢するより泣いた方がいい。ごめんな、俺も気持ちをわかってやれてなくて」
「私だって……親に大切にされたかった。肩ぐるまされて遊園地にも行きたかった。家族が欲しかったから、他の幸せな家族を見るのが嫌だったんだよ」
 優音はそう言ってもう一度涙を拭いた。「よしよし」と健介は優音の肩を優しく撫でた。
「この家族だってそうだよ。ヒロヤは大事にしてくれる親がいるし、ばあちゃんもいるし。私はしょせん血も繋がってない他人」
「そんなことないよ。みんな大事に思ってる。だからこの家に住まわせてるんじゃないか。血は繋がってないけど、そんなこと関係ない。俺たちが家族だ」
「…本当に?」
「本当だ。優音が望むなら養子の申請をしてもいい。寂しい思いなんかさせないよ」
「ありがとう…」
「俺は仕事とか、他にもいろんなことで思い悩んでてな。東京からこの家に帰るまでの道のりが憂鬱だった。でもそんなときに優音が乗ってきた。明るくておしゃべりな君がな。なんでかわからないけど、気がつくと元気づけられてた」
 優音は俯いたまま、静かに頷いた。健介は言った。「また俺に元気をくれよ」
「みんなは?」優音はようやく顔を上げ、あたりを見回した。この部屋にいないとわかっていながらも、なぜか部屋を見回してしまった。
「下で優音を待ってるよ。行こう。朝ごはん食べるだろ」
「……うん」
 健介が立ち上がると、優音は彼に両手を伸ばして言った。「おんぶして」
 健介は優音をおぶって部屋を出た。朝日がさす廊下を抜け、1階へと続く階段を一段一段、ゆっくりと丁寧に降りる。優音はその瞬間が今までのどんな時間よりもゆっくりと長く感じた。優音は目を閉じて、健介の背中で揺られるこの時間がいつまでも続いて欲しいと願った。

 その日の夕方、優音は買い物の道中にヒロヤと立ち寄った書店で『夕凪の雷』と書かれた青い表紙の本を見つけた。本の帯には『佐々井紀久 死後3年:特別再発行』と書かれていた。優音が亡くしたきり見つけられなかった大切な本だった。
 レジで本を購入し、ヒロヤと一緒に近くの小高い岡の公園に行った。2人でベンチに腰掛け、優音は本のラップを剥がした。
「懐かしい…」
 優音は本の1ページ目を捲る。そこにはやはりあの詩が書かれていた。

『あの日、下駄箱に隠した夕凪は、いつしか空に浮かんで雷をつくった』

「どういう意味なんだろうね」
 ヒロヤが本を覗き込んで優音に訊く。優音は「わからない。でもわからないままでいいんだよ」と言った。そして優音はこの本の著者との出会い、そして彼との思い出を語り始めた。
「また会いたい? その人に」ヒロヤは訊ねる。
「うん。でも、もうこの世にはいない。でも会ってきたんだよ」
「会った? 本当に?」
「本当に。ちょうど空には夕凪が見えた。夕凪がつくった雷もね。綺麗だった」
「雷?」
「そう。夕凪の(いかづち)
 そのあと優音は本の34ページを開いた。いくつかの短い詩の中に、優音が書いたその詩はあった。

 家に帰って食事を終え、優音はヒロヤと一緒に風呂に入った。スポンジで体を洗い合い、同じ湯船に浸かる。
 風呂から上がった2人はドライヤーで髪を乾かし、いつものように同じベッドに横たわった。外では雨が降り始めていた。
 昼間、2人は現像した写真を壁に飾った。船の上で撮ったものが多く、青い海原と鳥の写真がたくさんあった。そして、その中には甲板に(たたず)む健介の写真もあった。
「いい感じ」優音は壁一面に飾った写真を見て満足げな顔をした。
「ホントだ。父さんもちゃんといる」

 部屋の電気を消し、スタンドの灯を点す。すぐに寝てしまうより、2人はこの時間を楽しみたかった。優音は仰向けに寝転がるヒロヤに覆い被さり、彼の(ひたい)と頬、そして唇にキスした。そしてヒロヤの隣に寝転び、その体をそっと抱きしめる。
「私、あんたと結婚する。そしたらずっとこの家にいられるし」
「僕と結婚しなくてもこの家にいられるよ」
「いや、普通にあんたと結婚したい。あんたが好きだから」
「ありがとう優音」
 そのとき、部屋ドアをノックする音が聞こえた。ヒロヤが「入っていいよ」と言うと、健介が「新しいゴミ箱持ってきたよ」と部屋に小さなゴミ箱を置いて出て行こうとする。そんな父親をヒロヤは引き留めた。
「待って父さん。一緒に寝てよ」
「わかったよ」
 健介は優音とヒロヤの間に寝転がり、2人を両脇に抱えた。
 ヒロヤと優音は健介に抱きついて眠りについた。今の健介にとって、自分の腕で眠る2人が何よりも大切だった。
 スタンドの灯りの下では、開かれた本の34ページが照らされていた。

『立ち止まる その足元を 見ていたの』
 
 
 









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