第6話 母の名はミリアム

文字数 3,928文字

 アハスエルスの言葉に、やや怯んだ来栖龍人ではあったが……患者への理解を深める目的と己の知的好奇心を満たす欲求に耐えかねて、更なる質問をアハスエルスへと尋ねる。

「あの……アハスエルスさん?
 貴方の仰るイエス・キリストに係る過去の所業と、我々の知る史実や聖書に記されている創作されたイエス・キリスト像が大きく乖離しているようなのです。
 貴方に再びあの発作が起こるのか不明ではありますが、もし宜しければイエス・キリストことヤフシャ・ハマシアハの真実について、詳らかにご教示戴けますでしょうか?」

 龍人の問いにアハスエルスは、ふと考え込むような表情を浮かべたが……素直に首肯しながら立つに告げる。

「ええ、構いませんとも。
 しかし……これは膨大な分量のお話になると思うのですが、お時間は大丈夫でしょうか?」

 龍人が紫合鴉蘭の方を窺い見ると、指導教授は時間に縛られてはいない様子で……黙って深く頷き認可する。

「私共の時間については大丈夫です、アハスエルスさんさえ宜しければ、差し支えのない範囲でお教え戴きたいです」

 龍人の声を聞いたアハスエルスは大きく深い溜息を一つ吐き、龍人に向かってポツリポツリと過去を思い出すように告げる。

「さて……来栖さんと紫合先生の許可も戴きましたので、私の知る範囲でお話をさせて戴きますが、どこから話をしたものか……ですね。
 それではヤフシャ・ハマシアハについて、最初から私の知ることを伝えましょう。
 奴の誕生の瞬間から、そのペテンは始まっていたと云えます。
 ヨアキムの娘ミリアムは実父の誓願により、産まれ落ちた時から神殿に捧げられる供物になる運命であったと聞いています。
 神殿に捧げられると云えば聞こえは良いのですが、ここで云う供物とは神殿の司祭が、婚姻関係を誰とも結ばない誓いを遵守するための

として請け出された娘と云う意味なのです。
 それによってミリアムの父ヨアキムが、どのような利権を得たのかは判りませんが……ヨアキム自身が強欲かつ強権的な男であったと伝え聞いていますから、何らかの利益は得ていたのでしょう。
 そして13歳の年から神殿に捧げられたミリアムは数年に渡り、神殿に暮らす司祭達のために道具として過ごしたとのことです。
 そうした暮らしの中で当然の如く心を病んでしまったミリアムは、道具として使い物にならなくなり……16歳の時に神殿の補修で生計を立てていたヨセフと云う大工と婚姻を結ぶために、彼に払い下げられました。
 この時ミリアムは既に誰の子かも判らない胎児を、その腹に宿していたらしいのです。
 しかしながら神殿もミリアムの父ヨアキムも婚約者のヨセフも、自分達の体裁を取り繕う必要があることから……ミリアムは

と喧伝しました。
 こう考えるとミリアムは、当時の男達の欲望や見栄や体裁を守るために良いように利用された被害者なのかも知れませんね。
 やがてミリアムは臨月を迎え、一人の男児を産み落とします。
 それがヤフシャ・ハマシアハである、邪悪の権化が誕生した秘話なのです」

 ここまで話すとアハスエルスは龍人の眼をじっと見つめ、己の眼前に立つ担当医の返答を待っているようだった。

「なるほど……聖書に記されているような処女受胎の一節より、アハスエルスさん、貴方の仰るお話の方が……現代の医師として論理的整合性を以って受容が出来得る告発かと思われます。
 しかし……それだけではヤフシャ・ハマシアハがもたらした超常的な現象、アハスエルスさんの不老不死や我々の知るイエス・キリストの成し得た聖書に記されし奇跡等諸々の結果についての説明には足りないと思われます。
 もし……アハスエルスさんがヤフシャ・ハマシアハの誕生後の行状についてご存知ならば、私に教えて戴きたいと思います。
 あっ……それも無理強いはいたしません、アハスエルスさんが語ってくれるのならばと云う前提条件ではあるのですが」

 冷静さを装いながらも自身の知る聖書にて伝えられている、聖母マリアの逸話やイエス・キリストの誕生における定説と真逆の回答に、龍人は大いに狼狽しながらも……引き続きアハスエルスに問い掛ける。
 一方アハスエルスは龍人が己の語った過去の話を完全には信用してはいない様子だが、論理的な整合性については一定の理解を示したことに納得してか……引き続き記憶の引き出しから問いへの答えを紡ぎ出す。

「ありがとうございます……来栖さん、それでは引き続き私の昔話にお付き合いを戴ければと思います。
 呪われし赤児が誕生した後も、ヨセフとミリアムの夫婦はその子を養育し続けたそうです。
 巷間の噂では……口止め料として夫妻に毎月のように、神殿から金銭的な援助が行われていたとの話もあったそうですが。
 そのような環境下で男児はスクスクと成長し、成人となりました。
 しかしながらヤフシャ・ハマシアハは、肉体的には頑強でしたが……知能面では一般的な人より劣る、白痴の如き男であったそうです。
 幼き頃より言葉すら発せず、穏やかな性根ではありましたが……まるで独活の大木とも云うべき存在だったとのことです。
 母親が婚姻前に成した行為が元で、彼は周囲の人間から

殿

と揶揄され……嘲笑の対象であったとも聞いています。
 しかしミリアムは彼を

と呼び、理由については知る由もありませんが……他の六人の弟妹(きょうだい)より溺愛して憚らなかったそうです。
 そうして平和に穏やかに父ヨセフの大工仕事を手伝いながら日々を過ごしていたヤフシャ・ハマシアハですが、奴が30歳になった年に転機が訪れました。
 白痴の者であったヤフシャ・ハマシアハが突然に出奔し、行方不明となってしまったのです。
 ヨセフとミリアムの夫婦はヤフシャ・ハマシアハの行方を、懸命に捜索したとのことです。
 それが神殿からの援助が途切れることを恐れたからなのか……それとも我が子を愛するが故の執着だったのか……今となっては誰にも知り得ぬことなのですが………。
 そして両親が執念の捜索をしたからでしょうかヤフシャ・ハマシアハは、発見されることと相なったのです。
 しかし発見されたヤフシャ・ハマシアハは、その全てが別人へと変化していました。
 30歳になるまで発声することすら叶わなかった人間が、帰宅するなり街の人々を集め、弁舌も爽やかに『自分は神の御子だから、自分を神その人だと思い、畏れ敬うように』と告げ始めたのです。
 当初、街の住民達は『神殿の子は善良な白痴だったが……還って来た神の御子は悪質な詐欺師だ』と揶揄い嘲笑しました。
 そしてヤフシャ・ハマシアハは実母であるミリアムを連れて、布教の旅へと出立しました。
 ここまでがヤフシャ・ハマシアハの、今となっては知る者が私しかいない前半生の部分です」

 ここまでを語り終えたアハスエルスを見ながら、龍人はその話を反芻し……言葉には出来ぬ恐ろしさを感じていた。

 『確かにイエス・キリストが布教に出るまでの話は、何の資料もない……聖書にすら口伝が残されてはいない筈や。
 研究者の間でも、こないな珍説は出たことあらへんやろ……まさかイエス・キリストが精神疾患を(わずろ)うとったんか?
 いや待てよ……精神遅滞の症状が強く現れとるが、言葉を発せず肉体は頑強で、大工仕事の下働きぐらいは出来とった……となると、先天性の重度難聴の可能性も考えられるか。
 何にしてもイエス・キリストが、先天的に何らかの疾患を抱えて……30歳の時に起こった失踪事件から帰還までの間に、症状が劇的に改善された?
 う〜む……西暦20年代にそんなことが起こり得るんか?』

 険しい顔で考え込んでいた龍人であったが、ふと気付いたようにアハスエルスへ質問をしてみる。

「アハスエルスさん、産まれてから継続していた白痴状態から、劇的に恢復したことについて ヤフシャ・ハマシアハは何か言っていませんでしたか?
 そして行方不明になっていた期間は、どれぐらいの長さだったのでしょう?」

 アハスエルスは龍人の言葉に深く考えながら、質問への回答を述べる。

「来栖さん、実は今までの話については……私がこの呪われた躰となった後に、ヤフシャ・ハマシアハの住んでいたナツラトの街で聞き取った話ですので、奴から直接に聞いた話ではありませんが、それでも宜しいのですか?」

 龍人がアハスエルスの眼を見つめ、一つ深く首肯するとアハスエルスは語り出す。

「ヤフシャ・ハマシアハは失踪期間中のことについて『荒野を歩いていて神の啓示を受けた』だの『荒野で休んでいる時に神の奇跡の御業を賜わった』などと言っていたようですが、その時々で話している内容に齟齬があったらしく……まともに聞くものは少なかったらしいです。
 それにヤフシャ・ハマシアハが己を神の御子と言い出したことについては、奴が荒野で悪魔に取り憑かれてしまったのではないかと勘繰る人間まで現れました。
 そしてヤフシャ・ハマシアハが失踪していた期間ですが、奴の話を信用するならば……半年足らず、せいぜい4〜5ヶ月程度ではないでしょうか」

 ふむと再び考え込む龍人は、話をもう一度本筋に戻すことにした。

「ヤフシャ・ハマシアハは神から奇跡の御業を賜わったと仰ってましたが、我々の知るイエス・キリストも数多の奇跡を信徒に施したと云う伝説が残っています。
 ヤフシャ・ハマシアハが布教の中で、どのように奇跡を起こしたのか……知っている範囲で教えて戴けますでしょうか?」

 龍人の言葉を聞いたアハスエルスは、一瞬ギラリと両眼に怒りの焔を灯らせたように見えたが……心を落ち着かせるように両拳を固く握ると語り始めようとした。
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