第2話 彷徨える猶太人の真実

文字数 4,027文字

 兵庫県立医科大学附属病院精神科・特異診療部の教授、紫合鴉蘭の執務室において強制的且つ詐欺的な手法で…現代に蘇った奴隷制の如き内容の誓約書等に、署名させられた来栖龍人。
 彼の繰り言とも云える

は、指導教授に引き摺られるように向かった鴉蘭の病棟研究室に到着するまで続けられた。

「ホンマ……他人(ひと)のことを、何やと思っとるんや。
 こないな無茶な誓約書が、日本国憲法において罷り通るとでも思っとるんかっちゅうねん。
 横暴にも程があるがな、兵庫県立医科大学附属病院は……何を考えとるんや……」

 龍人を従え自身の病棟に向かう歩みを進める鴉蘭の顔は涼しげな笑みを浮かべ、部下である龍人の声に何の痛痒も感じていない様子で告げる。

「来栖龍人君、そもそも研修医等と云う存在に……基本的人権なんてものは存在していないような物なのだよ。
 指導教授は神であり法であり、研修医はその信徒であり……ある意味で云うと奴隷の如き存在であると認識しておこうか。
 いやぁ君は運が良い、着任初日から医学界の真理の深淵に触れられるだなんて……良い経験が出来たと思って、僕に感謝してくれ給えよ」

 爽やかにアッハッハッと笑う鴉蘭に、軽い殺意を覚えた龍人は……神を名乗る不遜な指導教授に不満をぶつける。

「紫合教授、私も医学の道を志す人間なので……指導医と研修医の立ち位置については理解しとるつもりなんですが、それにしても私に対するこの扱いは……あまりにも理不尽過ぎてはいませんか?
 何の説明もなしに、こないな書類に署名させられて……医師の守秘義務を大幅に越える罰則規定に、署名宣誓させらる守秘義務って何ですのん?」

 チラリと龍人を見た鴉蘭は、やれやれと云う風に首を振り、龍人へと説明を始める。

「う〜ん、このような衆目を集める場所で話すのもどうかとは思うが……君にも一応『知る権利』はあるので、僕の病棟研究室に到着するまでの間に概要だけは説明しておこうかね?
 兵庫県立医科大学附属病院の精神科特異診療部には、

のだよ。
 そして日本全国の大学附属病院においても、特異診療部と云う名称の診療科名称は唯一無二の存在だと云うことを覚えておき給え。
 当科の概要についてその存在を認知しているのは、歴代の内閣総理大臣と厚生大臣……そして兵庫県立医科大学附属病院の歴代院長と、僕を含む歴代の特任教授……そして君だけと云うことだ」

 突如として始まった鴉蘭の壮大かつ荒唐無稽な話に、龍人の目は白黒するばかりだった。
 そして兵庫県立医科大学附属病院の別館にある、精神科・特異診療部の札が貼られた扉の前に到着した龍人に向かって鴉蘭は、満面の笑みで扉を開いて…彼の部下となった研修医に芝居掛かった台詞で告げる。

「さぁ、詳細については我が研究室の中で説明しようか。
 ようこそ来栖龍人君……知の奇妙な異世界(ワンダーランド)へ!」

 指導教授に聞き取られぬよう小声で『アホくさ』と呟いた龍人であったが、鴉蘭は片眉を上げて『ぅん?』と聞き返して来るので……これ以上の声を上げるのは止めにした。
 精神科・特異診療部の研究室内は、先刻に見た執務室とは違って調度品も設備も整えられた研究室であった。
 最奥にある大きな窓を背に『紫合鴉蘭教授』と名札(プレート)の置かれた木目も鮮やかで重厚な木製(マホガニー)の机とその机に見合う肘置きの付いた事務椅子、その両脇には大量の資料が詰め込まれた書類棚(ファイルキャビネット)が鎮座している。
 精神科の研究室にしては豪華に過ぎる、各種実験器具の備え付けられた実験台も完備されている。
 そして梱包から出されたばかりのようだが、教授の物よりは簡素な事務机の上には『来栖龍人』の名札が設置されていた。
 これが『知の奇妙な異世界』と云う割に、ごくごく普通の研究室であるよなぁと龍人が拍子抜けしたような顔をしているのに……鴉蘭はニヤニヤと人の悪い笑顔で話し掛ける。

「来栖龍人君、それではこれから本題に入ろうかな?
 少し話が長くなるのだけれども、御手洗いに行かなくても良いかね?」

 自身の椅子に腰掛けながら、小学生に聞くような質問をする鴉蘭に、龍人は多少ムッとした表情で応える。

「そないな心配は必要ありませんよ教授、それよりも……今後の私の業務についてお聞かせ戴けると有難いんですけど」

 フフッと笑って鴉蘭は、龍人に自席に着席するよう促す。

「さて……来栖龍人君には、そもそもの我が研究室の成り立ちから説明しなければならないだろうね」

 じっと龍人の眼を見る指導教授に、龍人はどうぞと云った表情で一つ頷く。

「時に……来栖龍人君、君は『彷徨える猶太人』の伝説をご存知だろうか?」

 一体全体……我が指導教授は何の話を始めたのだろうと不審に思いながら、龍人は自身の知り得る知識の中から鴉蘭に応える。

「えぇ……確か……キリスト教の伝承やったと思いますが……自分が磔にされる十字架を背負うて、イエス・キリストが刑場であるゴルゴタの丘?に歩かされていた最中、イエス・キリストに向かって暴言を吐きかけたとか、唾を吐いたとか云う罪で……イエス・キリストから呪われてしもた男の話やったかと……思います」

 世界史については学生時代に得意科目であった龍人がなんとか回答を終えると、鴉蘭はニコリと笑顔になって……その両手をパチパチと叩き鳴らす。

「ご名答、流石に同期生の中でも

だけのことはあるね。
 では……彷徨える猶太人が、イエス・キリストから受けた呪いの内容については知っているかな?」

 下らない雑学について褒められても嬉しくはないよな……等と思いながら龍人は素直に知っている範囲で応える。

「そうですねぇ……確か、イエス・キリストが再臨するまで……いや……最後の審判の日までやったかな?
 そして……その日まで死ぬことを許されんと、定住も許されへんまま世界を放浪させられるような呪いやったかと…………
 違いましたか?」

 満足そうに頷いた鴉蘭は、笑顔で龍人に告げる。

「いやいや……まさしくその通りだよ。
 来栖龍人君、君は本当に素晴らしい研修医だ。
 基本的な知識を持ち合わせているのといないのでは、これからの話に割く時間が大幅に変わるからねぇ」

 全く以て理解不能な会話の流れに、龍人は苛立ちを隠さず鴉蘭に問うた。

「その宗教問答が、私の業務と何ぞ関わりがあるんですか?
 現在の科学技術の粋を集めた医学と、埃を被った黴臭い宗教論に関連があるとは思えませんのやけど」

 龍人の苛立った問いに、鴉蘭は指をパチリと鳴らして……そのまま人差し指を龍人に突き付ける。

「それだよ来栖龍人君……科学技術と宗教論の融合、それこそが兵庫県立医科大学附属病院の精神科特異診療部で行う我々の業務、その設立目的であり開設理念なのだよ。
 因みに君は彷徨える猶太人が、実在していると聞いたら信じるかな?」

 口を大きくポカンと開けた龍人は、すぐさま恐るべき思考に行き着いた。
 この……眼の前でニヤニヤ笑いを浮かべた教授を名乗る男、彼が

だとしたら?
 新任の研修医を嘲笑う……もしくは兵庫県立医科大学附属病院を首席で卒業したことを鼻に掛ける、生意気な研修医の鼻っ柱をへし折ろうとする陰謀ではないのかと、疑心暗鬼に駆られた龍人は辺りをキョロキョロ見回す。
 そんな龍人の姿を見て鴉蘭は、プッと噴き出し龍人に声をかける。

「安心し給えよ来栖龍人君、君が考えているような騙し討ちなんて……医大の附属病院で起こる筈がないだろう。
 それに……僕が偽医者で、この病院の精神科に入院している患者だとは恐れ入った。
 君は医師よりも、探偵小説の作家になったほうが儲けられるんじゃあないかね?」

 クツクツと笑う鴉蘭に、龍人は『何で俺が考えてることを読み取っとるんや……』と驚愕に細い両の目を見開いた。

「若者は悩んで成長するモノだからねぇ、来栖龍人君……もっと悩んでグングン成長し給えよ。
 そして話を戻すけれど彷徨える猶太人の実在について、早く答えてくれないかな?」

 はぁ……と溜め息のような返事をした龍人は、鴉蘭に常識的な答えを返す。

「現実的に云うと不可能な話ですやろ、イエス・キリストが処刑された年が西暦30年頃やと捉えると……彷徨える猶太人も現在の年齢は1900〜1950歳程度となりますやん。
 宗教上の伝説が真実やったと仮定しても、人間の躰は2000年近くもの長期間に渡って生体活動を行うなんて不可能やと思われますね。
 細胞分裂が頭打ちになるか……全身の細胞が癌化して、人間としての肉体を保つことは無理なんと違いますやろか?」

 龍人の発言をウンウンと頷きながら聞いていた鴉蘭は、更なる質問を龍人に重ねる。

「医学界の今後における研究課題も踏まえた、常識的且つ至極真っ当な意見だよねぇ。
 しかし来栖龍人君……その彷徨える猶太人が

に変質していたとしたら、約2000年の永きに渡る生体活動は可能かと思うかい?」

 益々以って困惑し、この紫合鴉蘭を名乗る教授が狂っているのか……それとも来栖龍人と云う研修医が精神に異常を来してしまったのか、自分自身にも判断が付かなくなってしまう龍人だった。

「そうだね、ここまで来てしまうと……医学部でお勉強だけしていた研修医には、及びもつかない話になってしまうだろうね。
 よし!事前に与える情報は、これぐらいで良いだろう。
 それでは来栖龍人君……これから君に兵庫県立医科大学附属病院精神科・特異診療部に居る唯一の患者を紹介しよう。
 くれぐれも……先刻に交わした僕との会話を忘れないようにね」

 そう言い終えると、紫合鴉蘭教授は自らの研究室の扉を開けて……満面の笑みで来栖龍人を誘う。
 しかしその時、来栖龍人の胸中を去来するのは『この扉を出たら……俺は二度と

には戻れなくなるのではないだろうか』と云う、名状し難く恐ろしい狂った考えのみだった。
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