第18話 面談の行方
文字数 3,200文字
「ところでアハスエルスさん、吸血鬼ウィルス感染症症候群 のワクチンの開発に成功し、貴方にワクチンを投与した際のことについてお話をしたいのですが………」
吸血鬼ウィルス感染症症候群 の病態作用である知能向上と云う、恐るべき効果を知覚した衝撃から立ち直るべく来栖龍人はアハスエルスに向かって問いかける。
「ええ……来栖先生、どのようなお話でしょうか。
私にお答え出来る内容であれば、喜んで回答させて戴きますが………」
若干の戸惑う素振りを見せながらもアハスエルスは龍人に向き直り、己が担当医に対して真摯な姿勢を見せる。
「実は……ワクチンの投与から、アハスエルスさんの病変が寛解に向かう状態変化の過程について……私にはどうしても知っておきたい事柄があるのです。
それはアハスエルスさんの肉体に蓄積された1900年と云う膨大な時間の経過が、
もし仮定される前者の如き状態となれば、貴方の肉体は古代猶太人であった年齢から一挙に1900年の歳月をその身に享けて……あっと云う間に塵も残さないような分子崩壊的な最期を迎えるでしょうし、後者の場合であったとすれば……恐らくは見た目上の年齢から再始動し、数十年の時を経て寿命を全うする余生が残されているのでしょう。
貴方ご自身の希望もありますが、やはり吸血鬼ウィルス感染症症候群 の治療とは
アハスエルスさん、貴方がどのような死を迎えようと……貴方を治療すると云う方針に違いはないのですが、やはり私共は医師であることが前提条件として存在しております故に、貴方への二律背反 の状況に陥ってしまうのです」
吸血鬼ウィルス感染症症候群 のワクチン開発と云う命題を与えられた時からの懊悩の根源であったのだろう、龍人の苦しげな表情を穏やかな顔で見つめるアハスエルスはその苦しみから若き医師を解き放とうと言葉をかける。
「来栖先生、貴方は優しい人だ、そして思いやりのある医師だとも云える。
しかしながら私のことを考えて戴くならば、私が生きてきたこの1900年の月日を考慮して欲しいのです。
1900年とは永い……本当に永い月日でした。
古代羅馬帝国の猶太属領エルサレムにおいて、私の係累も離散し……既に直系の一族が居るのか居ないのか私自身にも追跡不能の状態となっています。
こう言っては何だが私は、この世界にただ一人……真なる孤独を感じて生きているのです。
本来ならば遠い古代において一介の靴屋として活計 を立て、そして普通に子を成し……年老いて死んで行くだけの平々凡々たる人生を歩む筈だった、取るに足らない市井の人間が私アハスエルスだったのですよ。
ヤフシャ・ハマシアハの奸計に嵌り、永劫の生を享受してしまった私など……今この場で塵に還ったとしても、誰一人として悲しみ悼む者は居ないでしょう。
ですから来栖先生、私の人生を……この呪われた1900年を強制的に完了させることとなっても、何一つ気に病むことはありません。
むしろ私の喪われた人生を、囚われてしまった魂を解放することに対して、喜びを感じて戴いても結構な程ですよ。
もしも……唯一の心残りがあるとすれば、この子……フルディを見送ることが叶わない可能性があることだけでしょうかね」
1900年を諦観の中で過ごして来た者の凄みであろうか、フルディを膝の上で遊ばせながらのアハスエルスの独白に龍人は返す言葉は少なかった。
「アハスエルスさん……貴方はご自身の死を悲しみ悼む者など居ないと仰ったけれども、私は……私だけはこの1948年において、
それだけは……そのことだけは覚えておいて下さい」
絞り出すような龍人の悲痛な声に、アハスエルスは寂しげな微笑みを浮かべる。
「来栖先生、ありがとうございます。
先生のお言葉は私にきちんと届いています、けれども……それでもこの躰と云う牢獄に囚われ続けることに比すれば、死出の苦しみなど何と云うこともありませんよ。
ですから紫合先生と来栖先生には、一日でも早くこの吸血鬼ウィルス感染症症候群 の抗ウィルスワクチンを開発して欲しいと、心から願っているのです」
アハスエルスの願い、そして永き人生をして牢獄とまで言わせるアハスエルスの魂の叫びにも似た言葉に、龍人はキッと鋭い目線を己が患者に向けて決意も新たに宣言する。
「判りましたアハスエルスさん、若輩者の新米研修医である私ですが……紫合教授と一緒に抗ウィルスワクチンの開発を目指して精進します。
そしてきっとアハスエルスさんを、貴方の魂を1900年の軛 から解き放って見せましょう」
龍人の決意表明の声をアハスエルスは、眩しいモノを見るような目で眺めながら……優しく穏やかな表情で眺めている。
「来栖先生、先程も申し上げましたが……天竺鼠 と云う種の寿命とはどのぐらいの長さなのでしょう?」
少しだけ物憂げな顔をしたアハスエルスは、龍人に対して懸案事項への質問を寄越す。
「そうですね、天竺鼠の寿命ですか……平均的には5年から7年と云った所だと思われます。
特に健康で長命な個体でも、10年を超えることはほぼないと思われますね」
龍人の言葉にアハスエルスは、ほっと安堵したような雰囲気を醸し出す。
「もしかするとフルディは早期のワクチン開発に成功すれば、余生を
アハスエルスの言葉に、龍人は笑顔で頷いた。
「ええ……当病院の実験動物管理課では、生後60日以内の小動物を飼育しておりますので、フルディの寿命については凡そ
アハスエルスは笑顔で深く頷き、龍人に希望を述べた。
「もしワクチン開発に成功し、私が世界から消え去った日からは……来栖龍人さん、貴方がフルディを引き取って戴けないでしょうか?
お約束が戴けるのであれば……私にとって唯一の気掛かりである、この子の行く末についても安心できるのですが……」
ふうむ、と呟く龍人はアハスエルスに申し訳なさそうに告げる。
「私自身としては大丈夫なのですが、フルディを引き取ることを病院側がどう捉えるかが不明ですね。
それに……私の妹がどう言うか……確認してみないと………」
龍人の応えにアハスエルスは少し微笑んで、その言葉に対して更に質問で返す。
「来栖先生には妹さんがおられるのですね、私にもかつては妹がいたのですよ。
来栖先生の妹さんとは……どのような方かお伺いしても宜しいですか?」
アハスエルスの問いに龍人は、少し考えながら優しい表情を浮かべて回答する。
「そうですね……妹は、鞠江と云うのですが、私との血縁関係はないのです。
しかし……これが生意気で世話焼きの、そして私には厳しいことも言うこともあるのですが、私にとってはかけがえのない……私にとっては過ぎた妹ですね。
彼女も動物は好きだと思いますから、フルディを引き取るとなれば賛成するとは思われますけれど………」
龍人の応えにアハスエルスは破顔すると、自身も過去の記憶を思い返すように告げる。
「来栖先生、貴方と妹さんは大変仲が良い兄妹のようですね。
私もかつては遠い過去の話にはなるのですが……妹と、家族とは仲良く暮らしておりました。
フルディのことを貴方の妹さんが、快く受け入れてくれると嬉しいのですが………」
アハスエルスの過去を振り返る寂しげな微笑む横顔を見ながら、龍人はきっと鞠江を説得してやろうと固く心に誓うのだった。
「ええ……来栖先生、どのようなお話でしょうか。
私にお答え出来る内容であれば、喜んで回答させて戴きますが………」
若干の戸惑う素振りを見せながらもアハスエルスは龍人に向き直り、己が担当医に対して真摯な姿勢を見せる。
「実は……ワクチンの投与から、アハスエルスさんの病変が寛解に向かう状態変化の過程について……私にはどうしても知っておきたい事柄があるのです。
それはアハスエルスさんの肉体に蓄積された1900年と云う膨大な時間の経過が、
即座に再生されて貴方の身に降りかかる
のか、それとも一時的に停止されていた時間が現在の貴方を起点に再始動される
のかと云う根本的な命題を抱えていると私は考えます。もし仮定される前者の如き状態となれば、貴方の肉体は古代猶太人であった年齢から一挙に1900年の歳月をその身に享けて……あっと云う間に塵も残さないような分子崩壊的な最期を迎えるでしょうし、後者の場合であったとすれば……恐らくは見た目上の年齢から再始動し、数十年の時を経て寿命を全うする余生が残されているのでしょう。
貴方ご自身の希望もありますが、やはり
貴方の死
を指し示すモノだと云う認識を持っておいて戴きたいのです。アハスエルスさん、貴方がどのような死を迎えようと……貴方を治療すると云う方針に違いはないのですが、やはり私共は医師であることが前提条件として存在しております故に、貴方への
治療行為が貴方の死に直結している
との真実については看過出来ないと云う「来栖先生、貴方は優しい人だ、そして思いやりのある医師だとも云える。
しかしながら私のことを考えて戴くならば、私が生きてきたこの1900年の月日を考慮して欲しいのです。
1900年とは永い……本当に永い月日でした。
古代羅馬帝国の猶太属領エルサレムにおいて、私の係累も離散し……既に直系の一族が居るのか居ないのか私自身にも追跡不能の状態となっています。
こう言っては何だが私は、この世界にただ一人……真なる孤独を感じて生きているのです。
本来ならば遠い古代において一介の靴屋として
ヤフシャ・ハマシアハの奸計に嵌り、永劫の生を享受してしまった私など……今この場で塵に還ったとしても、誰一人として悲しみ悼む者は居ないでしょう。
ですから来栖先生、私の人生を……この呪われた1900年を強制的に完了させることとなっても、何一つ気に病むことはありません。
むしろ私の喪われた人生を、囚われてしまった魂を解放することに対して、喜びを感じて戴いても結構な程ですよ。
もしも……唯一の心残りがあるとすれば、この子……フルディを見送ることが叶わない可能性があることだけでしょうかね」
1900年を諦観の中で過ごして来た者の凄みであろうか、フルディを膝の上で遊ばせながらのアハスエルスの独白に龍人は返す言葉は少なかった。
「アハスエルスさん……貴方はご自身の死を悲しみ悼む者など居ないと仰ったけれども、私は……私だけはこの1948年において、
貴方を喪うことを悲しみ悼む人間
なのです。それだけは……そのことだけは覚えておいて下さい」
絞り出すような龍人の悲痛な声に、アハスエルスは寂しげな微笑みを浮かべる。
「来栖先生、ありがとうございます。
先生のお言葉は私にきちんと届いています、けれども……それでもこの躰と云う牢獄に囚われ続けることに比すれば、死出の苦しみなど何と云うこともありませんよ。
ですから紫合先生と来栖先生には、一日でも早くこの
アハスエルスの願い、そして永き人生をして牢獄とまで言わせるアハスエルスの魂の叫びにも似た言葉に、龍人はキッと鋭い目線を己が患者に向けて決意も新たに宣言する。
「判りましたアハスエルスさん、若輩者の新米研修医である私ですが……紫合教授と一緒に抗ウィルスワクチンの開発を目指して精進します。
そしてきっとアハスエルスさんを、貴方の魂を1900年の
龍人の決意表明の声をアハスエルスは、眩しいモノを見るような目で眺めながら……優しく穏やかな表情で眺めている。
「来栖先生、先程も申し上げましたが……
少しだけ物憂げな顔をしたアハスエルスは、龍人に対して懸案事項への質問を寄越す。
「そうですね、天竺鼠の寿命ですか……平均的には5年から7年と云った所だと思われます。
特に健康で長命な個体でも、10年を超えることはほぼないと思われますね」
龍人の言葉にアハスエルスは、ほっと安堵したような雰囲気を醸し出す。
「もしかするとフルディは早期のワクチン開発に成功すれば、余生を
普通
の天竺鼠として生きて……そしてただの天竺鼠として死ねる可能性もあるのですね」アハスエルスの言葉に、龍人は笑顔で頷いた。
「ええ……当病院の実験動物管理課では、生後60日以内の小動物を飼育しておりますので、フルディの寿命については凡そ
満額
が残っていると思いますよ」アハスエルスは笑顔で深く頷き、龍人に希望を述べた。
「もしワクチン開発に成功し、私が世界から消え去った日からは……来栖龍人さん、貴方がフルディを引き取って戴けないでしょうか?
お約束が戴けるのであれば……私にとって唯一の気掛かりである、この子の行く末についても安心できるのですが……」
ふうむ、と呟く龍人はアハスエルスに申し訳なさそうに告げる。
「私自身としては大丈夫なのですが、フルディを引き取ることを病院側がどう捉えるかが不明ですね。
それに……私の妹がどう言うか……確認してみないと………」
龍人の応えにアハスエルスは少し微笑んで、その言葉に対して更に質問で返す。
「来栖先生には妹さんがおられるのですね、私にもかつては妹がいたのですよ。
来栖先生の妹さんとは……どのような方かお伺いしても宜しいですか?」
アハスエルスの問いに龍人は、少し考えながら優しい表情を浮かべて回答する。
「そうですね……妹は、鞠江と云うのですが、私との血縁関係はないのです。
しかし……これが生意気で世話焼きの、そして私には厳しいことも言うこともあるのですが、私にとってはかけがえのない……私にとっては過ぎた妹ですね。
彼女も動物は好きだと思いますから、フルディを引き取るとなれば賛成するとは思われますけれど………」
龍人の応えにアハスエルスは破顔すると、自身も過去の記憶を思い返すように告げる。
「来栖先生、貴方と妹さんは大変仲が良い兄妹のようですね。
私もかつては遠い過去の話にはなるのですが……妹と、家族とは仲良く暮らしておりました。
フルディのことを貴方の妹さんが、快く受け入れてくれると嬉しいのですが………」
アハスエルスの過去を振り返る寂しげな微笑む横顔を見ながら、龍人はきっと鞠江を説得してやろうと固く心に誓うのだった。