第27話 採血の時

文字数 4,140文字

 アハスエルスの膝の上で平時と変わることなく微睡むフルディの、愛らしくもあり……少しばかり諧謔性(ユーモラスさ)を秘めたその姿を前に、来栖龍人は緊張の面持ちで立ち尽くしていた。
 龍人の怯えとも緊張ともつかぬ感情を表すのは、その両手に掲げられた採血器具を乗せた医療用の角型盆(バット)が立てる、小刻みな震えによって引き起こされるカチャカチャと云う音であった。
 その龍人の隣では『此奴……何の騒音を立てているのだ?』と、片眉を上げて不審そうな表情の紫合鴉蘭が佇んでいた。
 そして龍人は青白く引き締まった表情を保ったまま、龍人はフルディの飼い主たるアハスエルスに声をかける。

「ア……アハスエルスさん、紫合教授からの指示にもありましたが……吸血鬼ウィルス(ヴァンパイア)感染症症候群(シンドローム)の抗ウィルスワクチンを開発するために、その……フルディから採血する許可を戴けますでしょうか?」

 恐れているのは決してアハスエルスからの拒否……ではなく、受諾された後の本番に対する怯懦の気持ちなのだろう……そんな龍人の気持ちを知っているのか、それとも何も考えてなどいないのか……アハスエルスは即答とも云える素軽さで、龍人に笑顔で応える。

「来栖先生、先程からの会話の流れからすると、そのお申し出を断る訳にはまいりませんね。
 私の目的とは、最大限に目指すべき目的とは……私自身の永きに渡る生を終了させること、そしてヤフシャ・ハマシアハの野望を潰えさせること……その二つを成すためには吸血鬼ウィルス(ヴァンパイア)感染症症候群(シンドローム)の抗ウィルスワクチンを開発することに他なりませんから。
 以前より私自身の肉体から、このウィルス株が抽出できなかったと云う事実……感染より1900年を経た私の体内に巣食うウィルスと云う異物は変異を遂げ果たし、私がヒトとしての存在から遠く離れ……吸血鬼としてヒトとは別個の生物として成立してしまっていることによる弊害としての事実が、このような事態を招いてしまっているのは、先日の紫合先生の言よりほぼ間違いないのでしょう。
 フルディの体内……吸血生物として若く、未だ哺乳類としての形質を多く残すフルディの体内では……吸血鬼ウィルス(ヴァンパイア)感染症症候群(シンドローム)のウィルスは盛んに増殖されているのでしょう。
 彼女から抽出されたウィルス株を用いて、動物接種法による技術で抗ウィルスワクチンを作成すると云うことが、今回の対策として最重要の施策だと思われます。
 ですから来栖先生、この子から検体たる血液を採取し……一日も早くウィルス株の特定とワクチンの開発をして戴きますよう、宜しくお願いします」

 軽く頭を下げてから、フルディの躰を両手で捧げ持つように龍人へ差し出すアハスエルスに対峙し……龍人は大いに戸惑いながらフルディの無毛の体躯を受け取りながら内心でボヤいた。

『ハアァァァァ……アハスエルスさんは手伝(てつど)うてくれへんのかいな……。
 ホンマに頼むでフルディちゃん、ちょっぴりチクッとするだけやから……どうか怒らんと大人しゅうに我慢しといてや。
 俺に噛み付いたりしようモンなら……一生物で恨んだるからなぁ……』

 フルディを興奮させぬよう優しく抱き上げた龍人は、なるべくならば穏やかな気持ちのままで採血の注射を行えるよう……フルディの背を柔らかく撫でながら声をかける。

「フルディ……ちょっとだけ痛いかもやけど……ガマンしてくれよぉ……。
 いやいや……酒精(アルコール)綿でちょっと拭いただけで、そないに警戒せんでも良いやんか?
 うんうん、大丈夫……大丈夫……(ほっそ)い針でチクッと刺すだけやからなぁ。
 チクッと刺したら……後はちょっぴり採血させて貰うだけやねんで、すぐに終わらして……あっと云う間にアハスエルスさんの膝に帰してやるからなぁ………」

 優しく少し掠れて震える声音と、青褪めて緊張と恐怖を綯い交ぜ(ブレンド)した龍人の表情に……アハスエルスは驚きに目を見開き、鴉蘭は口唇と肩をワナワナと震わせながら笑いを懸命に堪えているようだ。
 そんな周囲で見ているだけに過ぎぬ野次馬(ギャラリー)の存在は眼中にないような龍人は、右手に細い注射器(シリンジ)を構えて、左手はフルディの躰を保定……そして素早く右後脚付け根の皮を持ち上げると、研究室では最も細い27ゲージ(0.4mm)の針をスゥッと差し込んだ。

「ピイッ!」

 一瞬の痛みに小さな鳴き声を上げたフルディであったが、特に動物の本能を発揮して逃走しようとすることもなく……採血用の注射器に7mlの血液を採取するところまで龍人の希望通りに大人しくしていた。
 注射針の入射角を完全に逆行させて、何の抵抗もないままスルッと抜き出した龍人は……フルディの後肢付近の傷口を酒精(アルコール)綿で傷口を拭い去る。
 小口径の注射針による刺傷ではあったが、傷口から酒精(アルコール)綿を離すと……既にフルディの右後脚には何の痕跡も見られなかった。
 龍人は無事に採血の終わったフルディの体躯を左手で保定したまま、アハスエルスの差し出された掌の上へ……そっと壊れ物を扱うような手つきで受け渡す。
 その小さな躰が本来あるべき場所に収まったのを視認した龍人は、傍にあった医療用の角型盆(バット)から三本の真空式採血管(スピッツ)を取り出すと……手早く注射器(シリンジ)から移し替える。
 最初にクエン酸naが封入された、黒いキャップの抗凝固剤入り真空式採血管(スピッツ)へ2mlの血液を入れて素早く数度攪拌する。
 続いてEDTAが同梱された、紫色の抗凝固剤入り真空式採血管(スピッツ)へ同量の2mlの血液を入れてこちらも素早く数度攪拌する。
 最後に抗凝固剤の混入されていない、茶色の血清分離用真空式採血管(スピッツ)へ3mlの血液を入れて医療用の角型盆(バット)へと戻す。
 一連の作業を終えた龍人は、すぼめた口唇から大きく息をフゥッ吐くと……自身の成し遂げた成果物を恭しいと云っても過言ではない慎重さで、そっとアハスエルスの寝台の隣にある脇机に医療用の角型盆(バット)を置いた。

「アハスエルスさん、それにフルディ……ご協力ありがとうございます。
 取り敢えずは本日の採血については、これにて完了となります。
 しかし……終わってから云うのも何なんですが、フルディの大人しさには私自身かなり驚嘆しております。
 保定から逃れようとすることもなく、採血時にも暴れることをせず……ある意味で私の為すがままの状態だったので」

 その感想にアハスエルスはニコリと笑顔を浮かべると、龍人に自身の想定を告げる。

「そうですね……来栖先生の優しさがフルディの気持ちを穏やかにさせたことが、第一義として今回の採血を成功裡に導いたのだと思われます。
 それに私自身もフルディに働きかけて、彼女に採血の注射がある旨を繰り返し伝えていたことが功を奏したのかも知れません。
 どこまで伝わったのかは不明なのですが、フルディ自身の知能の高さで……自分に何が起こるのか、そして来栖先生

そこまでの害意がない旨を理解していたのかも知れません。
 何にせよ……来栖先生にもフルディにも……特に何の事案も起こらず安堵しました」

 アハスエルスの言葉にホッとした様子の龍人は、ようやく見せた穏やかな笑顔で応える。

「そうだったんですか……アハスエルスさんのお気遣いに感謝いたします。
 それに……フルディ自身の知能の高さと気性の穏やかさにも、直接接した私は驚きの念を禁じ得ないですね。
 元来が臆病で警戒心の強い天竺鼠(モルモット)と云う種族が、これ程までに大人しく採血に臨めるとは……本当に凄いことだと思いますよ」

 龍人の感想に回答したのは、アハスエルスではなく鴉蘭であった。

「フンッ!
 来栖龍人君、君は何を無駄なおしゃべりに時間を費やしているんだね?
 大切な実験動物であり検体の提供者であるフルディ嬢だが、その知能については……高かろうが低かろうがまるで無意味なんだよ。
 全く以って下らない駄弁だ、その畜生からの採血も終わったのだから……我々は早々に研究室へと戻って残る作業を行わなければならないのじゃあないのかね?
 君は本当にどうしようもない研修医だな、採血に際して『噛まれるかも知れない』と云う怯懦の精神から逃れられた安心感から解き放たれて……安堵の気持ちになるのも理解は出来るが、それとこれとは話が別物だろう」

 冷たく言い放つ鴉蘭に、それでも龍人は言い募る。

「そやけど紫合教授、吸血鬼ウィルス(ヴァンパイア)感染症症候群(シンドローム)の影響下で、感染者の知能が嵩上げされるとするのならば……それはそれで研究対象として、勘案するに能うべき事象やないんですか?
 このフルディが一般的な天竺鼠(モルモット)と比するに、かなりの高い知性を発露させとるんは確固たる事実やと思われるんですが……」

 龍人の言葉に鴉蘭は再度フンッと鼻を鳴らすと、龍人の言葉を遮るように否定する。

「そうだね、見るからにフルディ嬢には知能位階(レベル)の著しい向上が見受けられるようだ。
 しかしながらその恩恵に与るためには、吸血鬼ウィルス(ヴァンパイア)感染症症候群(シンドローム)に感染し……肉体を吸血鬼化することが必須条件となるのではないかな?
 それならば君のそのちょっとばかり足りていない脳髄の機能を向上させるために、先程まであれだけ怯えていた君が……フルディ嬢に噛み付いて貰えば良いのではないだろうか、そうすれば君は立ちどころに頭脳明晰で、役に立つ吸血鬼化した研修医へと変異するのかも知れないのだからねぇ」

 ニヤニヤと笑う鴉蘭のすげない言葉に、龍人は論理的破綻の図星を突かれて項垂れる。

「さぁ!
 吸血鬼ウィルス(ヴァンパイア)感染症症候群(シンドローム)の有効活用法については、今後の課題として頭に留めておくこととして……僕らは僕らにしか為し得ない事柄を達成するために尽力しようではないか。
 それではアハスエルスさん、我々は今から研究室に取り急ぎ戻って……フルディ嬢が提供してくれた検体を基に、吸血鬼ウィルス(ヴァンパイア)感染症症候群(シンドローム)の抗ウィルスワクチンの開発に着手したいと思います。
 次にお会いする時は、貴方に吉報が届けられることを願っておりますよ」

 そして鴉蘭は踵を返すと出口に向かって歩き出した、その後を追いながら龍人は大事な採血管(スピッツ)を載せた医療用角型盆(バット)を両手に抱えて……一度だけ振り返りアハスエルスに会釈をした。
 そのアハスエルスはフルディを膝に乗せたまま、いつもの寂しげな微笑みを浮かべて龍人に一礼すると……片手を挙げて軽く振った。
 
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