第15話 研究室の密談

文字数 4,183文字

 アハスエルスの病室を辞した紫合鴉蘭教授と部下の来栖龍人は、兵庫県立医科大学附属病院・精神科・特異診療部の研究室へと戻って来ていた。

「時に来栖龍人君、君は何だって

約束をアハスエルス氏としてしまったんだね?
 それも……医科の長たる僕の許諾さえ得ずにだよ。
 君のあのような行動は、越権行為と受け取られても仕方のない身勝手な振る舞いだとは思わないのかね?」

 研究室に戻るや否や、指導教授からの叱責を受けて首を竦める龍人。

「しかし……紫合教授、私は貴方から課せられた、アハスエルス氏の許諾を得て天竺鼠(モルモット)吸血鬼感染症ウィルス症候群(ヴァンパイア・シンドローム)

したやありませんか?
 私の独断専行はあったのかも知れませんけど、結果的には歴代の諸先生方が成し得られなかった

を果たし遂せたんやから……一方的に謗られるモンでもないと思いますんやけど………」

 己が成し遂げた成果を無視し、権威主義的な面子に拘泥するような指導教授の物言いに、龍人は腹を立てながらも臆することなく返答する。
 緊張に顔を強張らせながらも、自分に向かって反論する教え子の姿を見て、鴉蘭は先刻までの厳しい顔から一転、ニンマリと笑って部下の肩をどやしつける。

「良い顔をするようになったじゃあないか来栖龍人君、やはり男児たるもの一つの大仕事を完遂させることで、大きく成長するモノなんだねぇ。
 いやぁ……僕ら先達が

偉業を達成するなんて、君の将来……前途は洋々たる希望の光に満ち溢れていると云っても過言ではないね」

 部下である龍人の言葉尻を捉えて、当て擦りのような台詞を吐く鴉蘭に、龍人は赤面しながら言い訳めいた謝罪に終始する。

「い……いえ……申し訳ありません紫合教授、先程は言葉の

と申しますか……私にそう云った他意もなく……諸先輩方に対しても……その……あの…………」

 しどろもどろに弁明をする龍人に、鴉蘭は笑顔を更に深くしてニヤリと笑った。

「アッハッハッ!
 冗談だよ、来栖龍人君。
 確かに君は良くやってくれた、これを快挙と言わずしてなんと言おうか。
 実際のところ、この60年に渡るアハスエルス氏との関係で、ここまで踏み込めた君を責める者なんて居やしないさ。
 僕がこの地位に就くまで、まともに会話すら出来なかった無能な先人達はさて置き、僕の成果すらあっという間に踏み越えて行った君の未来は、本当に栄光に満ち溢れているんだと思うよ。
 僕も君のような、秀でた部下を持てて鼻が高いよ。
 しかし……残念なのは、あの天竺鼠を氏の所有として確定させてしまったことかな。
 まぁ……それでこその許諾だったとは思うのだけれど、やはりあの天竺鼠はこちらで引き取りたかったよねぇ」

 喜びの反面……少しの悔しさを滲ませる鴉蘭に、龍人は申し開きをする。

「紫合教授、申し訳ありませんでした。
 しかしながらあの場ではアハスエルス氏を納得させるべき手段として……ああ言うしかなかったと判断しました。
 それで……誓約文書なんですけど私が至急に作成いたしますので、明日にでも内容の確認とご署名を宜しくお願いします。
 それと紫合教授、私の身分についてはどないな裁定を下されたんでしょうか?」

 おずおずと質問をする龍人に、鴉蘭は破顔一笑で即答する。

「そんなことを

気に病んでいたのかね君は、そんなの決まっているじゃあないか。
 

だよ、今後とも君には僕の右腕となって……共に吸血鬼ウィルス感染症症候群(ヴァンパイア・シンドローム)の解明とワクチンの開発に挑もうではないか。
 アハスエルス氏を呪いから解き放ち、ヤフシャ・ハマシアハをその不老不死から切り離すと云う使命に、科学者であり医師である僕達の全精力を注ぎ込もうではないか。
 ね、来栖龍人君?」

 いささか芝居じみた鴉蘭の台詞に、龍人はホッと安堵の声を漏らすと笑顔で応える。

「はいっ!
 紫合教授、今後ともご指導ご鞭撻の程を宜しくお願いします。
 アハスエルス氏のためにも、早急にワクチン開発に取り組みましょう!」

 勢いこんで決意を表明する龍人に、鴉蘭はニヤリと何事かを企むような笑顔を浮かべて言った。

「ふむ……来栖龍人君、君もなかなかに現金な男だねぇ。
 まぁ何にせよ、君が前向きにやる気を出してくれるのならば、僕にとっても都合が良……いや抗ウィルスワクチンの開発にも弾みが付くってモノだよ。
 ところで来栖龍人君、君は気付いていたかい?
 アハスエルス氏が本日の面談の後半から、君のを来栖

と呼び始めたことを。
 君が真摯な姿勢で氏を患者として尊重し、そして人として対等に……そして氏を、1900年以上の時を経た氏のことを

として取り扱ったからこそ、氏は名実ともに君を担当医師として認知したと云うことなのだろう。
 君はこれからも医師として、一人の人間としてアハスエルス氏と真正面から向き合い、氏を侮ったり化け物扱いしないように留意して、今後ともその距離感で、氏との信頼関係を深く強固な物としていかなければならないと云うことを、忘れないようにだけしてくれ給えよ。
 それと……もう一点、あの天竺鼠のことなのだが…………。
 あの鼠ちゃんと僕は、どうにもこうにも

ようなんだ。
 僕のように心清らかな善人に対して、彼女は理解不能なことに心を閉ざして警戒しているようでねぇ。
 来栖龍人君、僕の右腕として頼まれついでと云っては何なんだけれども……君があの天竺鼠ちゃんの世話係を受任してやってはくれないかな?
 申し訳ないが……頼んだよ」

 鴉蘭の頼みとも命令ともつかぬ言葉を聞きながら、龍人は心の奥底で『相性が悪いって……それはアンタがいたいけな小動物(モルモット)をあないな目に遭わせて、いたぶってしもうたからやないんかいっ!それにアンタも顔面に攻撃(アタック)を喰ろうて、ビビり倒しとったやん』と思いながらも、あの臆病で大人しい生き物と鴉蘭をこれ以上関わらせることの問題(トラブル)を考慮すると……依頼と云う名の命令を受諾することに異論はなかった。

「はい、アハスエルス氏への対応と、天竺鼠の件については了解しました。
 それと……吸血鬼ウィルス感染症症候群(ヴァンパイア・シンドローム)の抗ウィルスワクチンの開発に関してなんですが、検体の採取から実験の開始については明日以降からと云うことで宜しいんです?」

 龍人の言葉に含まれた内心の声を聞いたのか、やや疑わしい目つきで己が部下を見遣った鴉蘭だったが……少しの間を置いて応える。

「いや……明日は僕に

所用があってね、ここを留守にするので、検体の採取等については明後日からと云うことにしておこう。
 君は明日もアハスエルス氏の許へ行き、面談を続けておき給え。
 面談の内容については報告書(レポート)を作成の上、きちんと僕に提出するように申し伝えておくよ。
 それと、せいぜいあの忌まわし……いや可愛らしい鼠ちゃんとも友誼を深めておくようにね。
 検体採取の際に怯えた天竺鼠に噛み付かれて、君が吸血鬼ウィルス感染症症候群(ヴァンパイア・シンドローム)に感染したなどと云った話になれば……目も当てられない事態となってしまうのだから、くれぐれも注意し給えよ。
 ああ……そうそう来栖龍人君、君にはこれを渡しておかなければ、これは地下に降りるための水圧式昇降機(エレベーター)の起動(キー)および、アハスエルス氏の病室に入る扉の開錠符鍵(カードキー)だ。
 この二点については決して紛失しないよう、肌身離さず携行しておき給えよ。
 もし何なら文字通り

所持して貰っても構わないよ。
 その時は依頼してくれさえすれば、僕が手ずから君の掌にでも埋め込む処置をしてあげよう。
 予約はいつでもどこでも、気軽にして来なさい」

 クフフと下卑た笑顔とともに龍人へ二つの鍵を手渡す鴉蘭に、名状し難い恐怖を覚えた龍人は丁重にその申し出を断る。

「はぁ……お気遣いありがとうございます。
 せやけど、今のところは

に鍵を大切に保管しておきますので、このままの形で持っときますわ。
 私は別段、遠出するような用事もないし……自宅と病院を往復するだけの生活ですんで。
 あっ!紫合教授!
 今日こそ私は、自宅に帰れるんでしょうか?
 先程、紫合教授も仰っていたように、検査結果については

やったんでしょ?」

 龍人の哀願にも似た言葉を聞いた鴉蘭は、面白くなさそうな顔で部下に告げる。

「何だね君は、昨夜から自宅へ帰りたがってばかりいるじゃあないか。
 もしや来栖龍人君、君は見習いの研修医の身でありながら……自宅に女でも囲っているのかい?
 いや……研修医の薄給で女など囲える筈もないか、それなら君は女に囲われてでもいるんじゃないだろうね?
 聖職である医師たる者、そのようなふしだらな生活を送るなんて羨ま……けしからん話だよ君ぃ!」

 鴉蘭の自己完結した言いがかりじみた叱責に、龍人は慌てて否定の返答を返す。

「い……いえ、そんな訳ではないんですって。
 実は私、自宅にて妹と二人暮らしをしておりまして……配属初日から連絡もせず家に帰らなかったので、妹も心配しておると思いますので……その………」

 龍人の応えを、つまらんと呟いた鴉蘭は興味もなさそうにヒラヒラと手を振りながら告げる。

「何だねその理由は、全く以て

も何にもないじゃあないか。
 良かろう、来栖妹が心配の余り警察にでも通報すれば

だからねぇ。
 今日は一旦、帰宅し給え。
 しかしながら、昨日今日のことについては来栖妹にも口外無用だからね。
 守秘義務違反についての罰則規定を努努(ゆめゆめ)忘るることなかれだよ、来栖龍人君。
 それでは……恐らくは君に似たご面相の妹さんにも、僕から宜しくと伝えておいてくれ給え。
 それと……今後の職務についてだが、吸血鬼ウィルス感染症症候群(ヴァンパイア・シンドローム)の抗ウィルス開発で多忙を極める可能性が高いので、この病棟の宿泊施設を使用する頻度は上がることが想定されるね。
 妹さんへの通知と、君自身の生活に供する物品については遺漏なきよう取り揃えておき給えよ」

 鴉蘭のぶっきら棒な言い分に、龍人は呆れながらも了承の言葉を述べる。

「了解しました、紫合教授。
 それでは本日はこれにて失礼します、明日はアハスエルス氏との面談と報告書の作成……それに誓約文書の作成を行いますんで」

 既に龍人への興味を失ったように手を振るだけで返答する鴉蘭に、扉の前で深く一礼した龍人は二日ぶりの自宅へと向かう帰宅の途に就いた。
 
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