第13話 聖典の冒涜

文字数 4,299文字

 来栖龍人は突然に発せられた、指導教授の紫合鴉蘭の大声での賞賛に、驚愕しビクリと身を震わせた。
 一方のアハスエルスはと云うと、未だに自分自身の内にある思索の淵をさまよっているかのようだ。

「ゆ……紫合教授、いきなりそないな大声を出しはったら……吃驚(びっくり)しますやんかぁ。
 もう……寿命が縮まるかと思ったわぁ………」

 情けない表情で情けない声を上げる龍人に、鴉蘭は満面の笑みを崩さず言葉を続ける。

「いやいや来栖龍人君、君は流石に兵庫県立医科大学を主席でご卒業された逸材だよ。
 僕がアハスエルス氏からの言質を得て、その着想に至るまでに数年の時を要したのに対し、君は

の二日でそこまでの仮説を立てられるなんて……素晴らしい、何て素晴らしい研修医なんだ君は!
 指導教授としての僕の指導の優秀さを加味したとしても、君の発想と着想…それと応用力には目を見張るモノがあるねぇ」

 龍人への賞賛に自画自賛の言葉を忘れない鴉蘭に、龍人自身は驚きながらも『いやいやアンタ……俺に対して別段指導とかしとらんやんか!?』と内心の突っ込みは入れずにはいられないのであった。

「はぁ……ありがとうございます、ところで私の推論が

正しい方向性を示しているのであれば、狂犬病ウィルスと住吸血虫ウィルスの融合と同定は可能なんと(ちゃ)いますの?」

 龍人の問いに鴉蘭は、難しい顔を作って応える。

「来栖龍人君、それこそが一番の難点なのだよ。
 昨日も言ったが、アハスエルス氏をアハスエルス氏たらしめている吸血鬼感染症ウィルスについて、僕はまだ特定が出来ていない。
 彼の血液や臓器からは、件のウィルスが何故か検出されないのだね……これが。
 アハスエルス氏を治療するために必要不可欠な要素としても、君に課した使命を是非とも果たして貰いたいのだ。
 因みに、日本で採取可能な狂犬病ウィルスと住吸血虫ウィルスでは、試験管の中であっても動物実験の結果であっても融合は不可能だった。
 これは中東……それも古代猶太ナツレト市近郊の荒野でのみ、結合可能な特殊性を持った奇跡の配合であったのかも知れないね」

 鴉蘭の言葉に龍人は戸惑いながら、次の言葉を続ける。

「と……なれば、この悪魔的な奇跡の融合を果たしたウィルスを保持している可能性を持つ者は……この病室に居るアハスエルス氏と、恐らくは現存する最古の保菌者であるところのヤフシャ・ハマシアハの二名のみ、と云うことになるのですか…………?」

 龍人の問いに鴉蘭は大きく頷き、笑顔で応える。

「と……云うことだね、来栖龍人君。
 それではそろそろアハスエルス氏を、思索の海から救い出してみてはどうかな?」

 成る程、アハスエルスと云えば……未だに考え込むように下を向いてままだ。
 龍人は彼を驚かさぬよう、細心の注意を払って声を掛けてみる。

「あの……アハスエルスさん、考え事をされている最中に申し訳ないのですが……先程の私の話に、何か引っかかる部分でもあったのでしょうか?」

 深い眠りから目覚めたような表情で、アハスエルスは龍人の問いに応える。

「あぁ……来栖さん、申し訳ありません。
 貴方の仰った言葉を、私とヤフシャ・ハマシアハ……そして古代猶太民族の過去に照らし合わせて考えていたのです。
 貴方の発言におかれましては、多分……いえ恐らくはヤフシャ・ハマシアハの謎と私自身にかけられた呪いの核心を突いているような気がします。
 ヤフシャ・ハマシアハ以後の『

』の記述ではなく、それ以前の古代猶太民族の歴史書としての側面を持つ『

』の記述にこそ、内包されている秘密があると私は考えます。
 神であるヤハウェが創り給うた最初の人間アダムは、その(よわい)を930年も重ねたそうです。
 そしてカインに殺害されたアベルを除くと、セツは912年、エノシュは905年、ケノシュは910年、マハラルエルは895年、イエレドは962年、エノクは365年、メトシュラは969年、レメクは777年、ノアは950年、セムが600年と…現在に生きる人間の寿命から比べると長寿にも程がある程度に長命であったと云えます。
 もし……神が特に選んで創り出した人間

が、長命であったのならば……言い換えると神の恩恵と云う名の

に罹患した人々だけが、不老不死の如き状態に据え置かれていたのかも知れません。
 アダムからアベルを経由するこれらの人々は、アダムとイヴの間に産まれた直系の子孫と呼ばれています。
 彼等が長命であった理由が、神の創り出したる吸血鬼ウィルス感染症の

としての役割を担っていたとするのであれば……来栖さんの説が、古代猶太民族の持つ風土病としての吸血鬼ウィルス感染症症候群(ヴァンパイア・シンドローム)が、数少ない人々の間で受け継がれていたと仮定することが可能なのかとも想起されます。
 それにアダムの最初の妻であったリリスについても、ここで言及しなければならないのかも知れません。
『夜の女』と呼ばれたリリスは、アダムとの交わりで数多くの悪霊リリンを産み出したと伝えられています。
 リリスの伝承については、エドムの荒廃について語られた次の一節にのみ記されています。

『荒野の獣はジャッカルに出会い 山羊の魔神はその友を呼び 夜の魔女は、そこに休息を求め 休む所を見つける』

 もしかするとアダムに、神の創り出した最初の人間に……不老不死の誘惑を植え付けた者こそが

リリスであったのかもと不穏な想像に駆られてしまいます。
 それを何故、どうしてヤフシャ・ハマシアハが強奪したのか……それを成し得たのかが謎として残るのですが………」

 自身の思いつきから始まった仮説が、アハスエルスの記憶と結びつき、古代の神聖……と思われていた一民族の伝承を汚してしまったのではないかと云う畏れに、龍人はその身を震わせる。
 そんな部下の姿を横目で見ながら、鴉蘭はクツクツと笑い声を上げる。

「来栖龍人君、昨日から君には……為すべきことを為すように……と伝えていたじゃあないか?
 今この瞬間に、君が為さねばならぬこととは何だい?
 古代猶太民族の聖典を、汚してしまったような発言を悔いることかい?

 違うだろう?

 君は君にしか為せない事柄を、ただ思うがままに為す……それだけじゃあないのかい?

 ねぇ………来栖龍人君」

 悪魔が誘う狡猾な誘惑の言葉にも似た鴉蘭の囁くような台詞に、龍人はヨロヨロと夢遊病者の如き歩調でアハスエルスの許へと歩み寄る。

「アハスエルスさん、貴方の治療に関して……私から一つ提案があるのですが……聞いて戴けますでしょうか?」

 己の源流(ルーツ)でもある、古代猶太民族の隠された秘密に触れてしまい、畏れ慄くアハスエルスではあったが……龍人の蒼白で尚且つ真摯な表情に、気圧されたように居住まいを正した。

「どうしたんですか?
 来栖龍人さん、貴方が医師として私を呪いから解き放って下さるのであれば……話を拝聴するのにやぶさかではないですよ」

 アハスエルスの返しに、隠そうとしても湧き上がる怯懦さを押し殺して龍人は自身が受け持つ担当患者に告げる。

「アハスエルスさん、これから私が話すことは……決して貴方の意に沿う言葉ではないのかも知れません。
 ですから私の発言に対して、貴方が拒絶しようが私は構わないと思っています。
 前置きとしてそれを覚えて置いて戴いた上で、私は貴方に今後の治療方針について一つの仮説と一つの提案をさせて戴きます。
 先ず……仮説から述べます。
 紫合教授から聞き及んでおられるとは思いますが、貴方の躰に潜む吸血鬼ウィルス感染症は……貴方の肉体に1900年もの永きに渡って定着していたことから、貴方の肉体に完全に同化してしまい、抽出することすら叶わず貴方の一部として融合されてしまい、完全なる親和性を以て肉体の一部と成り果ててしまって、更には貴方の肉体を通常の人間とは乖離した存在にさせているようです。
 ですから貴方の血液や組成物を用いて、ウィルスに対抗するワクチン等は作成不可能だと言わざるを得ません。
 ですから……今後の治療方針についての提案とは、アハスエルスさん自身が媒介者(ベクター)となり、新たなウィルス感染者を生み出すことで……ウィルスを無毒化したワクチンを作成する必要があると私は考えます。
 この作業については、人間ではなく当方で飼育可能な天竺鼠(モルモット)を用いようと考えています。
 そして私共が事前に貴方と約束したいのは………

 一つ…貴方の許可なくして、感染者を絶対に増やさない。

 一つ…この天竺鼠についての所有権はアハスエルスさんに属し、我々がワクチンを作成するための検体以外はこの病室から持ち出さない。

 一つ…この治療が成功裡に終わり、貴方が1900年余りの呪われた生から解き放たれた暁には、新規ウィルス感染者である天竺鼠にも同様にワクチンを投与し……不老不死の連鎖は必ず止める。

 以上を治療方針に係る遵守事項としてアハスエルスさん、紫合鴉蘭教授、そして私、来栖龍人の連名にて文書化し…原本をアハスエルスさん、複写を紫合教授と私の三名にて所持する。
 この内容を以て、今後の治療方針とさせて戴きたいのです。
 如何でしょう?アハスエルスさん」

 静まり返った病室に、来栖龍人の声だけが陰々と響く。
 アハスエルスは物憂げに眼を閉じ、暫し無言で俯くのみ。
 やがて両眼を見開いたアハスエルスは、静かなそして決意のこもった声で龍人へと告げた。

「了解しました……来栖先生。
 私が感染源となり、最初で最後の吸血鬼ウィルス感染症症候群(ヴァンパイア・シンドローム)の患者を生み出しましょう。
 それと……もう一点だけお願いがあるのです。
 もし……願いが叶うのであれば、もう一本だけワクチンを作って戴きたいのです。
 それを用いてあの悪魔を、ヤフシャ・ハマシアハをこの世界から消し去ってしまって、それから私と天竺鼠にワクチンを投与して貰いたいのです。
 宜しく……宜しくお願いします」

 頷いた龍人は、絞り出すような声でアハスエルスに告げる。

「ヤフシャ・ハマシアハについては、その行方すら把握出来ない状況の中で、ワクチンの投与が叶うと云い切れませんが……我々に出来得る限りの努力はいたします。
 これで……宜しいでしょうか?」

 龍人の真意を確認したアハスエルスは、鴉蘭の方を見遣って語る。

「では……紫合先生、その懐に隠しておられる天竺鼠を私に………」

 両掌を差し出すアハスエルスに、鴉蘭は歩み寄り天竺鼠をそっと載せた。
 優しい眼で天竺鼠を眺めて、その頭をそっと撫でたアハスエルスは……大きく口を開いてその背に…………噛み付いた。
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