第4話 存在の立証

文字数 3,952文字

 呆然としたように驚愕で口を開く間抜けた表情の来栖龍人が、砂色の髪に砂色の髭で砂色の眼をした外国人男性であるアハスエルスに会釈し終え、その顔と再び対峙した際……患者の顔に浮かんでいるのは龍人が想像だにし得なかった笑顔であった。

「初めまして、来栖龍人先生ですね。
 私は、アハスエルスと申します。
 紫合先生の仰られる通り彷徨える猶太人と呼ばれている者です。
 今後は来栖先生も私の担当医となられるとのことで、宜しくお見知りおきを………」

 そう言って差し出されたアハスエルスの右掌を、龍人は反射的に握りながら挨拶を返す。

「宜しくお願いいたします、私は来栖龍人と申します。
 若輩者の研修医ですので、私のことは来栖でも龍人とでもお好きに呼んで下さい。
 因みにアハスエルスさんは日本語が堪能でいらっしゃいますが、来日してから長いのでしょうか?」

 龍人の問いに、アハスエルスは寂しそうな笑顔で応える。

「それでは来栖さん、確か……今は西暦で云うと、1948年でしたよね?
 私は1890年……明治23年に、土耳古(トルコ)国……当時は未だオスマン帝国でしたが……から神戸へと到着したので、かれこれ60年近くは日本国に逗留しております」

 そうですかと呟きながら龍人は、この外国人の言葉を反芻している。

 『60年やったら……赤児がこの姿となっても別に矛盾はないっちゅうこっちゃ、砂色の髪の毛と髭は60台にしたら若々しいけど、俺はまだこの患者が彷徨える猶太人やなんて信じてはおらんのやからな』

 自らに言い聞かせるような心の声で、自身を鼓舞し……龍人は更に質問をぶつけてみる。

「アハスエルスさん、申し訳ないが直載に言うと……私は貴方が『彷徨える猶太人』だと信じている訳ではないのです。
 確かに貴方の名前も聖書に記載された名前のようですし、その外見の若々しい佇まいと声の調子では、日本に60年も暮らしていたようには見えないのですが……。
 しかし貴方がご自身の来歴を詐称していないと云う証拠について、何か証明出来る物をお持ちではないですか?
 患者さんとの信頼関係については、指導医師である紫合鴉蘭からも聞き及んではいるのです……しかし流石に貴方の申し出だけで真実だと認定するには、お話の内容が内容だけに信じることが難しいのです」

 真摯な表情で頭を下げて、アハスエルスに謝罪する龍人。
 その姿を見ながら、アハスエルスは哀しげに微笑み……紫合鴉蘭は笑顔で大きく頷いている。

「来栖さん、そうでしょうね……私が貴方の立場でも、同じような疑念を抱いたと思います。
 私の半生は疑われて、怯えられて、憎まれて、そして……追い立てられるの繰り返しでした。
 ですから来栖さん、お気になさらないで下さい。
 千数百年に渡って慣れ親しんで来た、他者からの負の感情をいちいち気にしていたら……躰は死なずとも精神(こころ)が死んでしまいますからね。
 貴方が率直に初対面で私への疑念を口にしてくれたおかげで、私も貴方との関係の構築を始めやすくなりそうですよ」

 諦観の染み付いたようなアハスエルスの哀しみに満ちた微笑みに、ほんの少しだけ良心の呵責を覚えた龍人ではあったが……それでも科学技術の最先端を行かねばならない、医学者としての使命感から会話を続ける。

「ご協力を感謝します、ではアハスエルスさん……何かご自身の存在を証明でき得る

のご提示を戴けますか?」

 龍人の問いにアハスエルスは寝台の下に置かれた古ぼけた鞄を取り出し、その中から数点の書類や冊子を取り出した。
 そして革の表紙すらも剥げてボロボロになった冊子の頁を繰りながら、龍人に向かって話しかける。

「あれは……1890年9月16日のことでした。
 私はオスマン帝国軍に所属する軍艦エルトゥールル号に、私は軍属ではなかったものの雑役夫として乗艦していました。
 日本とオスマン帝国、この二国家間の親善目的で訪日したエルトゥールル号は9月15日に全日程を終了し、横濱港を出港してオスマン帝国へ帰還するために航海の旅路へと出立したのです。
 出港当初より海は荒れ、強風が吹く嵐の到来を予感させる天候でした……その日は無事に進み遂せたのですが、翌16日の深夜にエルトゥールル号は猛烈な暴風雨に見舞われました。
 和歌山県沖でエルトゥールル号は岩礁に衝突し、そして座礁時に蒸気機関が激しく浸水し……エルトゥールル号は水蒸気爆発を起こしました。
 その爆発によって船体は真っ二つに折れて轟沈してしまったのです。
 近隣住民により救助された69名を除く、587名の軍人及び民間人が死亡または行方不明となりました。
 私は救助された69名の内の一人として、この病院に収容され……現在に至る訳です」

 史実として残るエルトゥールル号遭難事件、その生存者の内の一人であると言うアハスエルスの言葉に、龍人は戦慄し名状し難い恐怖を感じた。
 アハスエルスが差し出す書類には、当時のオスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世の名が記され1889年の日付が記載された旅券が確かに存在していた。
 龍人の乏しい土耳古語の知識であっても、差し出された書類の劣化度合いから見て、アハスエルスが敢えてこの文書を偽造する意味も見出せず……彼が1890年に訪日したと云う事実については認めざるを得なかった。

「ありがとうございます、アハスエルスさん。
 貴方が1890年に来日したことは認めるに吝かではないのですが、貴方が彷徨える猶太人だと云う事実についての認定は不可能です。
 こちらについての証明は可能なのでしょうか、お教え戴ければ幸いなのですが?」

 龍人の重ねられる問いについて、アハスエルスは困ったような表情を浮かべる。

「そうですね……私が彷徨える猶太人だと名乗っても、ただの狂人の戯言に過ぎないと判定されても致し方ない事だと私自身も思います。
 これが私の存在証明における、手助けになれば良いのですが……」

 そう言うとアハスエルスは、鴉蘭に目配せをした。
 アハスエルスの意図を見て取った鴉蘭は、彼に懐から取り出した黒い革製の(ケース)を手渡す。
 その匣を受け取ったアハスエルスは、その中から一本の銀色に輝く外科医用のメスを抜き取った。
 アハスエルスは右掌にメスを握り込むと、何の迷いも躊躇もなく己の右頸部へと突き刺す。
 龍人がビクリと身を震わせる間に、アハスエルスは自身の頸に突き立ったメスを思い切り前へと送り出す。
 一瞬の間を置いた直後、鋭い刃先に切り裂かれたアハスエルスの頸部から血飛沫が噴水のように噴き出した。
 医療の素人が見ても理解出来る状況、彼は

のだ。
 慌てて駆け寄る龍人の眼の前で、アハスエルスはメスを右掌から取り落として膝を着き……そのまま力なく前のめりに倒れ伏す。
 噴き出す血潮を物ともせず、龍人はそのまま素手でアハスエルスの右頸部を圧迫し止血を試みる。
 しかし心臓から圧送される血流を、零れ落ちる生命を、その手が押し留めることなど不可能であった。
 ビュウビュウと龍人の両手から溢れる流血は、やがてその勢いを失い停止した。
 止血に成功したのではなく、ただ噴き出すべき血液がアハスエルスの躰から失われたことは一目瞭然だ。
 己が躰をアハスエルスの血液に塗れさせた龍人が、鴉蘭に向かって叫ぶ。

「紫合教授っ!
 何故……何故アハスエルスさんにメスなど渡したのですかっ!!
 患者にメスを渡すなんて……何でこないなことをっ!?」

 鴉蘭を睨み付けて叫ぶ龍人に、ニヤリと笑った鴉蘭が告げる。

「落ち着き給え来栖龍人君、ほら君が押さえているその手の下で……何が起きているか確認してみてはどうかな?」

 鴉蘭の言葉に従い龍人が目線を下にすると、その手の中でゾワゾワと

感触があった。
 驚きに手を離した鴉蘭の眼の前で、アハスエルスが自身で切り裂いた頸部の損傷が細胞を再生するような動きを見せて塞がって行く。
 傷口が完全に塞がった直後、閉じられていたアハスエルスの両眼がパチリと開いた。

「あ………あぁ…………」

 呆気に取られた龍人の前で、アハスエルスはゆっくりとその身を起こした。

「来栖さん……驚かして申し訳ありません。
 それにお召し物を、私の血で汚してしまって………」

 そう言いながらアハスエルスは床に落ちたメスを拾い上げ、これも床から回収した黒い革製の匣に収納すると……鴉蘭に手渡した。

「あ……あの……何で……生きとるん……や?
 アハスエルス……さん……アンタは……何者……なんや………?」

 自身の眼の前で発生した患者の自死と復活、医学的にあり得ない現象に直面した龍人は、アハスエルスに茫然自失の体で尋ねる。

「来栖さん……だからこそ私は彷徨える猶太人と呼ばれている者なのです。
 自分自身で死を選ぶことすら許されず、そして一つ箇所に定住することも許されずに……かれこれ二千年に近い歳月を『ヤフシャ・ハマシアハ』によってもたらされた呪いの中で、永劫に続く苦痛の時を過ごしているのです。
 古代羅馬(ローマ)帝国のユダヤ属州エルサレムにて靴屋を商っていただけの私を、他の猶太人と同様に死刑囚ヤフシャ・ハマシアハを嘲笑しただけの私を……奴は呪詛し、私に奴の背負った十字架以上の重荷を背負わせたのです。
 ヤフシャ・ハマシアハは、この世に顕現した悪魔だっ!
 気紛れに選び出した私を呪い、妻も子も故郷と共に喪失させた悪意の塊だっ!
 何が救世主だ……何が神の御子だ……奴の所為で私は……私は………私は……………」

 両手で顔を覆い、滂沱の涙を流すアハスエルスこと彷徨える猶太人……先刻とは違う意味で崩れ落ち両膝を床に着いた異国の男に、来栖龍人は掛ける言葉すら見出せずただその姿を見つめるだけであった。
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