第9話 責任の所在

文字数 4,354文字

 配属初日の研修医、来栖龍人がその精神的な激務を終える時その労苦を労うのは、患者であるアハスエルスの申し訳なさそうな表情だけであった。

「来栖さん……来栖龍人さん、本日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げて謝意を示すアハスエルスに、龍人はぎこちない笑顔を作って応える。

「い……いや、アハスエルスさん……顔を上げて下さい。
 紫合教授の仰る通り……私が軽率な振る舞いをしてしまったことで、患者である貴方にもご心配をおかけし……大変申し訳ありませんでした」

 内心の懊悩を深く隠して、龍人はアハスエルスに軽く手を挙げた。
 そのように常識的な大人の対応になどまるで斟酌しない紫合鴉蘭の声が、龍人とアハスエルスの二人に流れる穏やかな空気を打ち破る。

「来栖龍人君、そんな社交辞令じみた挨拶なんか止めておき給え。
 どうせ明日もまた、アハスエルス氏とは面談することになるのだから……無意味な行動に時間を浪費するのは愚の骨頂だよ。
 君にはこれから本日の最終業務として、血液検査と体質変化の有無について調査をしなければならないのだからね」

 ややもすれば龍人が吸血病に感染してはいないかと、大いなる期待を含んだ鴉蘭の声に、龍人のこれまでの日常を破壊し尽くした激動の一日がもたらした精神的緊張(ストレス)が爆発した。

「紫合教授っ!
 アンタは……アンタって人はっ!
 アンタの部下である俺が、こないな目に()うとるのに……何が血液検査やっ!何が体質変化の有無やっ!
 アンタ……絶対に俺の窮状を喜んどるやろ!?
 この……人でなしっ!!」

 龍人の剣幕にも鴉蘭はキョトンとした顔で新任の部下を眺め、龍人が何に怒っているかも理解していない様子だ。

「来栖龍人君、きっと君は疲れてるんだよ。
 いやはや仕方がないなぁ、医学部の実習などでは体験不可能な知識の荒波に放り出されると……人は怒りっぽくなってしまうのだねぇ」

 成る程成る程と、満足そうな笑顔で頷く己が指導教授に……龍人は怒りの感情を通り越して呆れ果て、魂が抜け落ちてしまうような盛大な溜息を吐いた。

「判った!判りましたよ!
 それやったら早いトコ俺の血液検査でも体質変化の有無でも何でも、チャッチャッと調べて下さいよ。
 ほんでからこの頭のおかしい病院から、俺を解放したってくれませんかね?」

 龍人の哀願にも似た声に、鴉蘭はすげない返答を返すのみだった。

「来栖龍人君、君は何か考え違いをしているのじゃあないのかね?
 吸血ウィルスに感染しているかも知れない人物を、簡易検査が終わったからと云って市中に解き放つ訳がないだろう。
 検査完了後に君は、強制的に入院させられるに決まっているのだよ」

 己が指導教授の冷た過ぎる言葉に龍人は、アハスエルスの血に塗れた衣服を示して哀しげな声を上げた。

「この格好はどないするんです?
 背広(スーツ)

になったんは仕方(しゃあ)ないけど、このままの格好で明日までおらなアカンのですか?」

 龍人の問いに鴉蘭はフフンと鼻で笑いながら、教え子の杞憂を一掃する。

「大丈夫だ来栖龍人君、この病院には無駄に多くの凡庸な医師や各種技師が生息しているんだ。
 探せば一人ぐらい君と似たり寄ったりの、ナナフシみたいな体型の人間も居るだろう。
 階上(うえ)に上がったら僕が、ぬす……借りてきてあげようじゃないか」

 所々で不穏な台詞を吐く鴉蘭と共に、龍人はまた明日の面談を約束して、アハスエルスの病室を辞去し研究室へと向かう帰途へ着いた。

「あのぅ……紫合教授、もう一点だけ質問をしても宜しいでしょうか?」

 道すがらに尋ねる龍人に、鴉蘭は鷹揚に頷いて応える。

「どうしたんだい来栖龍人君?
 今夜の我々に時間だけはたっぷりとあるのだからね、質問があるのならばしてみると良いよ。
 僕に答えられる内容であるのならば、答えてあげようじゃあないか。
 僕の好きな食べ物の話かい?
 それとも僕の好きな女性のタイプとかかな?」

 能天気な鴉蘭の応えを凡そ無視して、龍人は己が指導教授へ質問をぶつけてみる。

「紫合教授はこの病棟の構造について、外部からの侵入を防ぐための措置が施されていると仰いましたよね?
 と……なれば、アハスエル氏は何者かに害される恐れがある、もしくはアハスエル氏の身柄が外部の何者かに拐かされる可能性があると云うことなんでしょうか?」

 龍人の問いに鴉蘭は、ニヤリと笑って教え子の肩をバシンと強く叩いた。

「うん、君の指摘はいちいち良い所を突いてくるねぇ。
 そう……アハスエルス氏はいくつかの組織に、その身柄を狙われていると考えて貰っても差し支えないよ。
 先ず第一にヤフシャ・ハマシアハ……イエス・キリストとその一党が挙げられるね。
 先程の面談で君も聞いていただろうが、アハスエルス氏と同様にヤフシャ・ハマシアハが吸血ウィルスに感染している吸血鬼であるのならば、ヤフシャ・ハマシアハは

だろうね。
 まぁ医学的には死んでいる状態の人物を『生きている』と断定することは、医学者としていかがなものかと思われるだろうが……便宜上こう表現するしかないのが両刀論法(ディレンマ)的で歯痒い所だ。
 閑話休題(それはさておき)………ヤフシャ・ハマシアハは、ゴルゴタの丘でアハスエルス氏を『再臨した暁にはお前を縊り殺す』と脅していたぐらいだから、確実に彼をを弑するつもりなんだろう。
 そして僕が知り得る範囲では、他にもキリスト教国各国は間諜(スパイ)からの報告を受けて、彷徨える猶太人が実在していることを把握しているようだ。
 特に先の世界大戦で執拗に日本本土を空襲し、焼け野原へと変えてしまった亜米利加合衆国のアハスエルス氏への執念は中々の物だよ。
 彼等は日本人を殲滅(ジェノサイド)したとしても、アハスエルス氏を確保したかったみたいだね。
 軍事大国の亜米利加合衆国だから、不老不死の秘密を解き明かし……不死の兵士を集めたかっただけなのかも知れないが。
 戦後処理において有形無形の圧力が日本国政府にはあったようだけれども、無能傀儡集団である戦後政府も何とかアハスエルス氏の情報を漏洩することなく守り切ったみたいだよ。
 残るは和地関(バチカン)市国の羅馬(ローマ)加特力(カトリック)の勢力なのだが、こちらはあまり荒事には及ばないと思われるね……日本国内の加特力教会を活用して、アハスエルス氏の身柄引渡しを要求して来ている程度の物だ」

 サラリと重大な言葉を吐いた鴉蘭に龍人は、内心に沸き起こった恐怖を押し隠して尋ねてみる。

「紫合教授、これまでにヤフシャ・ハマシアハの勢力はこの建屋を探り当てて攻めて来たりはせんかったんでしょうか?
 それに太平洋戦争末期に亜米利加軍が引き起こした各地での空襲が、アハスエルス氏を確保するための殲滅作戦だと云うのは…まさかホンマのことやないですよね?」

 龍人の問いに鴉蘭は珍しい物を見たような顔で、さも当然と云わんばかりに応えを返す。

「昭和23年現在、ヤフシャ・ハマシアハが目覚めただの目撃されただのと云った情報は、世界中のどこの国や地域でも確認されてはいないからねぇ。
 アハスエルス氏を我々が患者として匿っている期間内に、ヤフシャ・ハマシアハとその一党がこちらに感付いている気配も履歴も存在してはいないよ。
 亜米利加合衆国による空襲の真説については、

アハスエルス氏を狙ってのことだと考えてくれても良いかな。
 凡そ落城しつつある大日本帝国の軍事拠点を狙う

の理由で、効率至上主義の亜米利加合衆国大統領が経費を使ってまで日本全土を焦土と化し、更には新型の原子爆弾を広島市や長崎市に落とす必要はなかったのじゃあないかな?
 多分……関西以外で西日本のいずれかにアハスエルス氏が隠されている、と云う僕の偽情報がちゃあんと亜米利加合衆国の間諜に伝わったからこその結果であったのかも知れないね」

 相変わらずの軽い調子だが、聞き捨てならない内容であったため、龍人は鴉蘭に対して質問を重ねる。

「紫合教授……貴方が………貴方が亜米利加合衆国を誘導した

で、広島と長崎に原子爆弾が投下されたと仰っているんですか?」

 教え子の問いに鴉蘭はコクリと頷いて応える、まるで何の罪悪感も抱いていない風情を保ったままで。

「結果的には、そう云うことになるのかも知れないな。
 流石の僕も新型爆弾があれ程の殺戮兵器だとは思ってもみなかったのだけれども、亜米利加合衆国の科学力と兵器開発力には驚いてしまったよ」

 愕然とした表情で龍人は、鴉蘭の顔を睨みつけてなじった。

「広島と長崎……両市で22万人近い人々が亡くなったんですよっ!
 そんな軽薄な物云いで、片付けてエエ話ではないんと(ちゃ)いますの!?」

 龍人の激昂にもどこ吹く風、鴉蘭は心を波立たせることなく龍人に告げる。

「来栖龍人君、君は一つだけ間違っているようだね。
 原子爆弾を投下し広島市と長崎市に住む無辜の非戦闘員である数多くの市民を殺したのは僕じゃない、実行したのは亜米利加合衆国軍であり、その作戦を指示した亜米利加合衆国大統領であるハリー・S・トルーマンその人だろう?
 もしかしたら僕の流した情報『彷徨える猶太人アハスエルスは関西には居ない』と云う情報が、亜米利加合衆国軍の作戦に影響を与えた可能性はあるかも知れない。
 しかしながら彼等の国威発揚行為でもあった、原子爆弾の投下作戦自体が止められた訳ではないのだよ。
 1945年8月6日までの間に30万人近い民間人が、各地の空襲で焼夷弾に焼き殺されたんだよ。
 広島と長崎の22万人の死者だけを、特別扱いしてしまうことには違和感を覚えるね。
 僕の両親も妹も甥も姪も東京で骨も残せない程に焼き殺された……軍属でも何でもない僕が広島市と長崎市の人々が亡くなった責任を負わなくちゃならないのかい?
 もし責任を負う者が居るとするならば、それはこの戦争を始めてしまった人間と……戦争を止められなかった人間じゃあないのかな?
 違うかい?来栖龍人君?」

 澄み切っていながらも虚無しか感じさせない、紫合鴉蘭の醒めた目線と声音に……来栖龍人は俯き呟くように謝罪するのみ。

「紫合教授……申し訳ありません。
 恐ろしい話を聞いて、取り乱してしまいました」

 龍人の謝罪する声が聞こえたのか聞こえていなかったのか……鴉蘭は突如パァンと手を打ち合わせて言った。

「ま……何にせよ、僕はこの神戸で独り生き残ってしまったんだ。
 君も戦火を逃れられたのであれば、己が為すべきことを見定めて……無意味に生きないようにするだけじゃないかな?
 取り敢えず君が早急に為すべきことは、吸血ウィルスに感染しているのかいないのか……検査を受けることだと僕は思うよ」

 冷や水を浴びせられたように身震いしながら、龍人は研究室へと向かう昇降機の扉を、指導教授と共に無言でくぐった。
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