第17話

文字数 4,392文字

 …。
 夜、男は約束どおり合唱広場へ赴いた。時刻は九時ちょうど。繁華街からも灯は消えている。途中、警備員に出会すこともあったが、サニーの助言に従えば問題なかった。
 合唱広場は閑散としている。頭上に設置されたライトは誰もいないステージを照らしている。歌に熱心だからと、唄う連中の熱狂に触れないよう身構えていたので、男はいささか拍子抜けしていた。それにしても、殺風景を見せたいがために、呼びだしたのだろうかと、男は怪訝に眉をひそめた。肝心のサニーもいない。
 「すみません、遅れてしまい」
 背後から、夜に似つかわしくない声。
 ふり返り、男がまず目にしたのはサニーの下腹部。ズボンごしだというのに、剥き出しているくらいに、剥き出しの本能。見覚えのある姿に同族嫌悪をおぼえたが、その代物に「りっぱ」とルビ付けしていた。
 「いや、構わないんだが……」
 「復住さん用にと思って、知り合いに分けてもらってたんですよ。はい、これ」
 サニーはボウルから手のひらサイズの箱を取ると、なかからプラスチック包装されている錠剤をひと粒つまみだし、男に手渡した。
 「なんだい」
 「ぼくの姿見れば、わかるでしょ。どうです、まるでエベレストだ。バイアグラ、即効性のあるやつで、持続時間も長いっていう特注品です。通常、発注して頼める代物じゃないですよ」
 夜の陰に隠れたサニーの笑顔は妖怪じみていた。
 「まさか、息抜きって、互いの自慰行為を見せつけようとかいうんじゃないだろうな……馬鹿な男子高校生じゃあるまいし」
 「そんな発想、よく思いつきますね。気持ち悪い。そうそう、これ被ってください」
 姿に似合わないまっとうなことを言うので、男は納得のいかない様子だったが、サニーは気にかけるわけでもない。悪役レスラーみたいな黒一色の覆面を被り、同じものを、男にも渡すと、被るように促した。
 男は躊躇したが、議論をする空気でもなかったので、黙って覆面を被る。それから、ついてきてくれと言われるので、背中を追っていくと、普段、衝立代わりになっているステージの裏側へ(表向きわかりもしない秘密の通路を通って)案内される。
 ライトは行き届いておらず、夜のカーテンが降ろされていた。ライトの明るさがまだ視界に残っており、暗さに慣れない。
 「おい、どこいったんだい」
 サニーの姿が暗闇に溶けた。呼びかけにも応答なし。男は行き場を失い迷子になる。
 人間の感覚器官のうち、どれかひとつでも欠けると、その部分を補うために、他の器官が鋭敏になることがある。視界が遮られれば、距離感を測ることができるのは音。暗闇のなかで男の耳が捉える、妙な音。
 ……じゅ、じゅ。
 ……じゅ、じゅ。
 ……じゅ、じゅ。
 掃除機で空気と液体を一緒くたに吸引する音。
 ……じゅ、じゅ。
 ……じゅ、じゅ。
 ……じゅ、じゅ。
 一箇所からではない、所々から。その音はなぜか、男を奮い立たせる行進曲のようにも聴こえてくる。
 男の目がようやく視界を取り戻してくると、うっすらとした暗闇のなか、目の前に人影がある。
 覆面姿に男は戦慄し、空手の構えでいる。
 「あ、ぼくですよ」
 恐怖を一蹴する魔法。久しく聞いたように響く。サニーは三角形に曲げた両腕を腰にあて、天空を仰いでいた。
 男は返事をしようとしたが、慌てて声を殺す。自分の意思と反して、いも虫が蠢いてしまう、不思議に思ったが、目の前の光景に息を呑み理解した。
 サニーの下腹部へ飛び込むように、アルファベットの小文字hを描いた形で、ひとの姿が見える。ボウル部分に溜まった水で洗顔しているみたいに、顔を上下している。その度に聴こえる、じゅ、じゅ、空気と液体が吸引される音。
 覆面から垂れ下がった長い髪が乱れ、洗面台からはみ出している。男は氷を噛んだように、身体が強張ってしまう。まさか、と思い。青ざめながら、その顔が見える位置まで歩を進める。サニーのペニスを口に咥える横顔。
 「いまさっき出会った娘でね、けっこう相性がいいんですよ」
 唇の上にほくろがない。やや肥満気味。別人だった。
 会話を聞かれたくないのか、サニーは小文字hの耳を両手で塞いでしまう。小文字hは子猫のように上目遣いを向けていた。サニーは男を前に毅然でいたいらしいが、その表情は火で炙られたバターのように恍惚としてきている。
 「復住さんも好みの娘、見つけたらどうです」
 サニーの後ろには空白地帯と呼べる、他になにもない一面のアスファルトが広がっていた。そこには黒い覆面を被った幾人もの男女が組になって、アルファベットの小文字hを描き、じゅ、じゅ、と空気と液体を吸引する音でオーケストラを奏でていた。なかには、吐息を荒々しく漏らし、いまにも歓声をあげんばかりの勢いの者もいた。
 男の隠れた興奮はすっかり冷めきり、嫌悪と恐怖、困惑とがミキサーにかけられ、淀んだ色の感情が目、鼻、口から流れ落ちそうであった。ペニスはとうに意気消沈し、うずくもっている。
 「悪魔崇拝の儀式だっていうのか……」
 「仰るとおり、サバトですよ」
 声はときどき吐息混じりに乱れた。
 「とはいえ、悪魔を讃えようって……わけじゃない。ちょっとした自己鍛錬みたいな、もんです。この町の男たちって、我慢を、強いられている……でしょ。勃つタイミングとか忘れてしまう……みたいで、インポテンツの、一種でしょうね、だからバイアグラ使って……勃ち慣れしとかなきゃならないんですよ。神聖な儀式で役に立たなかったら……一生もんの、恥ですしね」
 「許されているのか、こんなこと」
 「こんな空間ある、ことじたいが、招待状を配られているよう、なもんですよ。 ストレスは破壊、の呼び水だってことを、上の連中はよくわかって、いるんだな。ばれていたとしても、火遊び程度にしか……見てないでしょうね」
 話しているうちに、恐怖心が薄らいできたらしく、男のいも虫が再び蠢きだしていた。
 「だけど、毎朝、顔あわせするってのに気まずくなりはしないか。表と裏の世界で豹変してしまうってのは」
 「そのための覆面なんですよ。その場の当事者であったとしても、知らぬふりの条件さえ整っていれば、当事者かどうかなんて、誰にもわかりっこ……な、いんだから……それに、目の前の相手が……共犯者かもしれない……そう、思うとときめきが芽生、える、じゃありません……みんな、平静な顔してますけど、心では、どんな淫乱なこと、考えて、んだか……いまのところ、いい、よ。ほら、もう一度、やって、ごらん」
 耳を塞いでいるので、唇の動きだけで小文字hの上目遣いに願望を注ぐ。小文字hも了承しているのか、まばたきを繰り返した。
 「そう……なんでもかんでも、気難しく、なら、ないでください……この、町に、いるあいだの……気晴らし、なんで、すから。楽し……だ、も……勝ちで……」
 サニーの両手は小文字hの耳から頭へと移っており、後頭部から自分のペニスへと押しつけている。どこへいこうというのか、濁音まじりの小さな叫声。小文字hの口の端から徐々に姿を表す白蛇。にゅるにゅると滑り落ちていく。
 男は目をそらし、この場から去ろうとした。
 その動きを止めた袖を掴む小動物の手。突然の出来事に男は動揺してふり返った。幼女にも似た背の低さ。覆面を被った所為で、見た目だけでは判別できない少女の趣。平らな小山に建てられた小さな小屋が二軒。男はまだ凶器にすら触れていないのに、罪悪感をおぼえた。
 「安心して、成人しているから」
 擬似少女のもつれたような話し方。疑いたくなる鼻づまりの幼稚な声色。
 ……ぼくよりみっつ年上のM。彼女も幼い容姿の持ち主だった。夜中にふたりで歩いていれば、嫉妬まじりの国家権力に声をかけられるなんてことは希じゃない。いつも遠慮がちに弁明するぼくとは違って、容姿差別だと自分の主張を展開して、国家権力を辟易させていたM。だけど、ふたりだけのときは、ひとまわりも、ふたまわりも幼くなってしまうM。どっちがお兄さんで、お姉さんなのかわからなくなる。目の前にいる擬似少女もまた、その性質の持ち主なのかもしれない。だけど、自分のなかでまだ残っている倫理観が引き止めてくる。Mに刻まれた傷を癒したいがための自慰行為の役目を押しつけるつもりなんて、毛頭ない。
 「おじさん、落としていたよ。ラムネ」
 わざと言っているのだろうかと、男は擬似少女の狙いがわからなかった。その手には、いつの間にか手からこぼれ落ちている、バイアグラ。
 「男のひとだけの専売特許なんて、ずるいよね」
 「いや、そんなもの使うつもりはない」
 「それに平気で嘘もつく。嘘ついたあとで、平気な顔して開き直りもする。あたしの赤ちゃん、もういないの」
 なにも食べていないのに、男は嘔吐の気配をすぐそこに感じ、甘酸っぱい胃液が口内に広がっていた。
 「するの、しないの」
 上目遣いはそのままに、うつむき、恥ずかしがる様子を見せつけ、媚びを隠そうともしない。
 「そんな話のあとで、どうかしているよ、きみは」
 嫌悪感を優先した口調だった。話を途切れさせるように、擬似少女はバイアグラを口にしていた。音を立て、飲み込んでしまう。
 「勝手にしてくれ」
 男は袖から擬似少女の手をふり払った。帰り道を探すはずの足が引き止められたのは、甘酸っぱいはちみつを頭から垂れ流されるような錯覚をおぼえたからだ。
 擬似少女のほうへ向き直る。視線の先にいない、やや下へ向け、赤ん坊のように座っている。脱皮した下半身、毛のない新鮮な魚の艶やかさ(目を細めれば剃り残しを確認できる)、突き出された同じ標高の山がふたつ、中央に掘られたトンネル、トンネルを忙しなく掘り進む怪物の姿をした二本指。
 覆面の穴から覗く宝石色に輝く、メドューサの瞳。擬似少女の発する、子猫が人間を誘う弱々しい愛らしさ。
 ……なぜぼくは未だに、許される保証もない十字架を背負っているのだろうか。ある日、突然、スマホにMからの着信。そんな奇跡が起きるまでの十字架。背負う必要もないのに、背負わされことを信じようとして、何度も裏切られ。
 男は下腹部にかけてあるタオルを脱ぎ捨て、太古の記憶を手繰りよせると自ら石化を解く。足取りは重く、ちから強く、獲物を定めていた。
 狩られることを欲し、擬似少女は立ち上がって小文字hの片割れとして待ち望んでいる。
 擬似少女の頭を両手でつかみ、導こうとした。擬似少女もまた自ら導かれようとしたが、先へ進まない、進ませてくれないことに、新たな興奮を感じていた。
 太古の記憶などがあてにならないほど、現代人としての自覚に目覚めていた男の視線はもはや擬似少女の頭部には向けられていない。
 暗闇の先。
 いつか見た、部屋の光景。初秋の風に揺さぶられる長く黒い髪。女がいた。
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