第4話

文字数 4,794文字

 老人が扉を閉めると、男は暗闇に取り残された。足音が遠のいていく。電気を灯し、部屋を見渡した。六畳ワンルーム、フローリング敷き、窓がひとつ、ベランダはない、洗濯機と冷蔵庫の置き場を差し引けば、実際は五畳ほど。掛け布団が一枚。ユニットバス。備えつけのキッチンには電気ケトルがぽつんと静かに置かれていた。電気ケトルには染みになった味噌が付着している。以前に宿泊していた者が味噌の入った椀へ湯を注いだ際、味噌が飛び散ったのも知らずにそのまま放置されたのだろうと、男は興味なさそうにケトルを眺めていた。清掃人が隅から隅まで掃除した保証はない。鍋やフライパン、まともな料理器具は用意されていない。エアコンが設置されているので男はほっとし、こわばっていた両肩がほんの少し、軽くなったように感じられた。すると部屋の蒸し暑さが気になりはじめ、忙しなく視線を走らせると、棚に置かれていたリモコンを見つけ、急いで手に取り電源を押した。しばらく使われていなかったらしいのか、突然ふきだした埃臭さが鼻にまとわりついてくる。男は手で鼻を覆い、少しのあいだ、その場をやり過ごした。
 エアコンの効き目は遅くいつの時代のものだとうんざりする気持ちと部屋の手狭さによって、數十分も経たぬうちに、男は都内で借りているマンションの一室のことを頭に思い浮かべ、望郷の念に駆られるのだった。だからといって、部屋を抜け出して、ひとり下山しようなどと思えるほどの信念はなかった。やはり、老人に頼み込んで下山を手伝ってもらうべきだろうかと、玄関に立ち、靴を履いて、ドアノブを回したところで、男の動きはぴたりと止まってしまう。半開きの扉の先からはまっ暗な夜と微かに見える雨足がのぞいており、黒い絵の具が垂らされているように街がある。傘をさした老人がゆっくりと歩いている様子を浮かべてみても、周囲を形作る街並みの姿はなく、その足取りがどこへ続いているのか、男には皆目検討のつけようがなかった。それに老人の言葉が思い出される。夜の闇のどこかに潜んでいるであろう浮浪者を背後に感じ、男は身震いした。途端に疲れが優先してくる。それ以上の優柔不断にも勝り、休息を求めずにはいられなかった。ひと晩寝るだけなのだから文句を言っても仕方がないと、自分を慰めた。
 隣人は出かけているのだろうかと耳をすませるが、隣室から物音はしない。部屋の沈黙を助長するように、時計の針がチクタク鳴っている。針は午後七時をさしていた。男は濡れた服とズボン、生乾きになってきたパンツを脱いでしまい、ばらばらに並んだハンガーにそれぞれの衣類をかける。ようやく自分の職務を自覚しはじめたらしいエアコンが運んでくる風は、疲労感の募った裸身に心地よく、男は促されるように大の字になってしまうと、そのまま目をつむり、やがて眠りについていくのだった。

 …。
 くしゃみをした勢いで、男は目を覚ました。ずぶ濡れになってきて、エアコンのかかった部屋で裸のまま眠ってしまうなんてどうかしている、疲れの所為だろうと、気怠いため息が口から漏れた。時計の針は午後八時。時計に向けられていた視線が異変に気がづき、呼吸をするようにゆっくりと玄関のほうへ微調整されていく。
 女がひとり、立っている。黒髪のロング、さらさらとした艶のある髪が山町のイメージと重ならない、陽に焼けてはいるが薄く化粧をしているので肌白くも見える。頬がこけ痩せすぎた印象だが、上下ともに密着するほどのタイトな衣類に身を包んでいて、それもやはり老人同様、灰色に統一されていた所為か、SF映画にでも出てきそうな神秘的なたたずまいに思えた。ブラジャーをしていないのだろう、小さく膨らんだ胸のあたりに隆起がふたつ浮かびあがっている。男に恐怖がなかったのは、女の外見に見惚れてしまっているからだろう。ビー玉みたいな瞳で見据えられると、ついつい目をそらさずにはいられない。
 しかし、その気恥ずかしそうな目が神経質につり上がったのは、女の手に見慣れた財布が握られていたからだ。ズボンを乾かすとき、ポケットから抜いた財布をその辺に放り投げたのを思い出し、男は後悔した。
 「復住一行。平成……年生まれ。住所、東京都……区。写真よりはいい男ね。財布から免許証、抜いちゃった。お札は濡れてちゃもったいないから、洗濯バサミで干しているから。部屋の扉、空いてたから……不用心ね。それにしても変な名前。いったりきたり、またいって……」
 「馬鹿にされるのは慣れているさ。そんなことはどうでもいい、強盗なら力づくで追い返すぞ。町中に警備員だっているんだろ」
 立ち上がった男は、小学生のときに習ったきりの空手の構えを思い出し、応戦しようとした。
 「押し倒してくれるのかしら。そんな姿じゃ格好つかないけどね」
 女の唇の端が微かに歪んだ。男が視線の先を追っていくと、自分の下腹部にたどり着き、そこに植えつけらている萎んだ根っこを目のあたりにする。そのあまりに哀れな姿を男は自ら恥じ、まっ青になりながら、急いで床に落ちているタオルを拾い、腰へ巻かずにはいられなかった。
 「小さいのね」
 「エアコンの所為で……縮んだだけだ。普段はもう少しましだから」
 表情をいっさい崩さない女を前にして、男は己の恥を見透かされないように小さく叫ぶしかなかった。
 ……強盗にしては行動に無駄がありすぎる。さっさと仕事をこなし、出ていくべきが得策なはずなのに。
 警戒の色を濃くしていく男を哀れに思ったのか、女の唇が微かに開き、ほこりを吹き払うように小さい吐息が出ていった。。
 「迷い人が町に来たって聞いて、世話係として派遣されてきたの」
 どうやら老人の言っていた人物らしいが、迷い人と知っていてあえて挑発的な態度で接してきたのかと思うと、釈然としない気持ちが男に芽生えていた。
 「世話係って、大袈裟な。ぼくは明日、下山するんだ。着替え持ってきてくれているんだろ。早くくれないかな。見てわかるだろ、寒いんだ」
 女はせっかちねと呟いた。玄関に置いていたボストンバッグを持ってくると、男の前に投げ、どうぞと言う。男は中腰になりながら女を上目遣いに睨みつつも、ジッパーをつまみボストンバッグを開けた。中身はメーカーの違うカップラーメンが数種類、パックに保存された米、賞味期限があと半年ほどで切れてしまう魚の缶詰、インスタント味噌汁、ポケットティッシュ、歯ブラシと歯磨き粉、腕の長さほどのホースが一本(用途不明)、それからきれいに折り畳まれた上下灰色の衣服。
 「この町では灰色が流行のカラーなのかい。それにしても、一夜を過ごすにしては豪勢な食事だな」
 「おもてなしは大事だから。着替えたら」
 「お言葉には甘えておくとしよう」
 用意された衣服を見につけようとしたが、ズボンを履こうにもタオルを捲り上げ、女に裸体を見せなければならない。前を向きながらであれば、また縮みこまったままのペニスを女にさらすことになる。男のプライドが許さなかった。だからといって、後ろを向き、尻でも見せれば、無防備になってしまう。手の内を明かされているとはいえいささか気が引けた。ほんの数秒、身動きせずに考えごとをしていると、女の視線が刺さってくるので、男はこほんと咳払いしその間を誤魔化すと、考えを改めた。明日になれば、こんな町ともおさらばなのだ。決心し、ペニスの一本や二本、見せてやるさと男は腰のタオルを投げ捨てる。自然を装いながらも素早く上下衣類を着用した。上衣は通気性のいいポロシャツで申し分なかったが、ズボンを履いたとき、チーズの仕掛けられた罠に捕獲されてしまうネズミと自分とが重なった。畳まれていてわからなかったが、ズボンにしては特殊すぎる形状だったのだ。股下からくるぶしあたりまではスリムにフィットするが、鼠蹊部に沿って臀部を覆うように半円球型に空洞が広がっている。広がった空洞の部分だけ、プラスチックのボウルみたいに硬質化しており、固定され、変形しない。若干の弾力はあるが、手で押すと少しへこむ程度。見た目はピエロのだぼだぼズボンに似ており、ズボンに備わったサスペンダーを両肩に通せば、男とピエロに大差はない。パンツを履き忘れ、空洞の中ではペニスが丸見えになっている。男は怒りに任せ、サスペンダーを払いのけるとズボンを脱ごうとした。ところが、溶接されてしまったみたいに脚部とボウル部分がぴたりと固定されており、びくともしなかった。
 「おいおい……冗談はよしてくれ……なんだいこのふざけた格好は。ズボンだって脱げやしないし」
 男はわざとピエロがおどけるしぐさを真似てみせたが、女の唇は無関心に結ばれたままだった。ガラス玉をゆっくり転がすみたいに、そのふざけた格好を爪先から首筋まで視線を這わせる。搬入されてきた資材を検品する検査官のような抜け目のない目つきだった。
 「ズボンがさ、脱げないんだ……脱ぐのを、手伝ってくれないか……頼むよ」
 部屋には自分と女だけなのだ、どれだけ情けない態度で接しようがいっこうに構いやしない、それにこの女なら受け入れてくれるに違いないと、懲りもせず他人の優しさに頼ってしまう、そんなことこの際どうだっていい、男はそう思い、求めるように女へ近づいていく。
 「近づかないで!」
 音を立て降ろされるシャッター。案内係なのだから、案内される側に親切であるべきではないか、快く了承してくれるとばかり期待していただけに、男は唖然とする。パンツを履き忘れたのは失敗だった。女が玄関のほうへいってしまうので、不安になってその背を掴もうかとしたが、また拒絶されてはばつが悪いので思いとどまった。ズボンを履いているとはいえ、ペニスをむき出しにしたままだし、告発されても文句を言えないのだ。状況からして、男に刑罰が科せられるのは目に見えていた。告発したいのはこちら側という気持ちも喉につっかえていたが、機嫌を気にするばかり、女の背へかけた声がか細くなる。
 「まさか……こんな格好のまま……置いてきや、しないよね」
 「明日の朝、迎えに来るわ。似合ってるわよ、その格好」
 女は部屋から出ていくときふり返って、小さく笑う。扉の閉じる音が部屋に充満した。女の許しに安堵したのだろう、ふたつの隆起を思い出し、男は軽い興奮が漲ってくるのを下腹部のあたりに感じた。顎先を下に向けると、縮こまっていたペニスが段々と角度を上げている。同時に、それまで我慢していた尿意が近づいていきたので、急いでトイレへ駆け込んだ。便座を前に男は愕然とした。ズボンが邪魔して、便器を見落とせないどころか、尿を放出できないのだ。そのまま放出してしまえば、尿がズボンの中に溜まってしまう。
 ……ペニスを完全に勃起させて……垂直からの放出を……しかし高さだけあっても角度が……自爆する可能性は否定できない……
 迷っている暇はなかった。男は中途半端にぶよぶよした硬さのペニスに手をかけ、女の隆起を目に浮かべた。だがそのとき、ペニスを握った手の形を見て、ひらめいたのか、駆け足に部屋へいくと、ボストンバッグに入っていたホースを取り出し、また便座の前へ戻った。ペニスの先端をホースの穴に挿入し、簡易ロングペニスの増設に成功する。勢いに任せてとはいかないが、ちょろちょろと便器のなかへ沈んでいく体液の音に男は安堵するのだった。開放感のおかげだろう、男は尿を放出しながら、明日、下山するとなると、もうあの女に会うこともないのだなと、なんだか残念な気持ちさえ脳裏に浮かんだ。すると萎えはじめていたペニスがまた息を吹き返しでもするように、角度を取り戻し、ホースを流れる尿が勢いづいた。
 ……このピエロのような格好も出会いの記念になるんだったら悪い気はしないではないか。
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