第20話

文字数 2,708文字

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 男が後に知ったところによると、この町のコーヒーはすべてカフェインレスで作られており、不眠症を回避するための処置だという。有意義な取り組みだと関心したのは、遅刻のひとつやふたつで、糸で吊るされた人形をみすみす放棄するのはもったいないだろうと、町の視点から考えたからだ。
 ……連日、カフェに通い詰めていると店員の顔もおぼえてきてしまう。夕方シフトの顔ぶれ、にきびを潰した跡のある坊主頭、丸眼鏡の小男、土偶を思わせる女。もう常連と言われてもよさそうなのに、愛想の、あの字もないほど味気のない接客。無理もない。コーヒー一杯で閉店間際までいるのは、ぼくくらいなものだ。地蔵になって、何時間も町の風景を眺めていると、思考停止するのはそう難しい作業ではなかった。
 一週間が経ち、さらに数日したいまもサニーはカフェに現れてはいなかった。男ははじめ、スパイとしての顔を疑い、この場で拘束されることを恐怖したが、それは一時間経ち、二時間経っても、いっこうに起きる気配はなかった。
 慎重になりながらも、ふたりだけの船出を約束した青年の眼差しにひと筋の希望を信じて、さらに数日、こうしてカフェ通いをしている。
 ……店員のいらっしゃいませという声。客が来たらしい。もう誰が来ようが特別な意味をもたない。忠犬は主人の帰りを疑いもなく待つそうだが、ぼくが待つのは、待つという行為そのものに自分を生かす理由があるからだ。かりそめの希望。そうとわかっていながらも、待つことが船出の錨を上げる唯一の方法なのだからしかたがない。
 「コーヒーをお持ちしました」
 カップには半分ほど残った黒い液体。追加で注文したおぼえはないと、男は店員のほうを見上げた。
 「きみは……」
 思ってもいない来客に、心が騒ぎ出す。
 「相席してもよろしくて?」
 「どうぞ」
 音もなく、引かれる椅子。無音が聞こえそうなくらいの静かな着席。忠犬が待ち望んだ瞬間。
 「やあ、奇遇だね」
 静かな口調で、あくまでも期待していなかったそぶり。
 「奇遇も重なると、必然になるらしいわよ」
 細めた目つきに映るコーヒーカップ。匂いを嗅ぎ、上目遣い気味に男を見る。あの夜にも見た、ビー玉のような瞳。サバトの場にいたのは、やはり女だったのだろうか、男はコーヒーを飲むふりをして、目をそらした。女もコーヒーを口にする。唇に自ら吸い込まれていく黒い液体。男は釘づけになった。
 互いのカップがテーブルに置かれ、少しすると、水面は波を立てなくなった。
 「カフェにはよく来ているのね」
 見張られるだけの痕跡は残し過ぎていた。男は落ち着きを取り戻そうと、置いたばかりのコーヒーカップを手に、残りを口にした。
 「コーヒーを飲むくらいの楽しみ、邪魔しないでほしいな」
 空になったカップを、意味ありげに音を立てソーサーへ置いた。退席を促すチャイムと察したらしく、女は無言のまま立ち上がろうとする。
 「なにもきみを悪者にしているわけじゃないよ。まあ、座りなって」
 どうかしていると、男はすぐに反省した。
 ……映画みたいに敵と対峙する場面。主演俳優の強者の目つき。敵対者の狼狽える姿が見所なのだ。
 巻き戻しボタンが押され、同じ動きで女は着席しなおす。
 「友人と待ち合わせていたんだけど、どうも急用ができたようでね」
 「あら、友人ができたのね。あなたもこの町が気に入ってきた証拠じゃない」
 なにか探られはしないか、不安を隠すための間。間を持たせるための追加注文。店員は聞き間違いと捉えたらしく、反応なし。もう一度、声をかけ、ようやく反応する。店員のやや驚いた表情。コーヒー二杯目の奇跡。テーブルに運ばれるコーヒー。淹れたてをすぐ口にする。熱さに敏感な舌。
 「猫舌ってのは嫌になるね」
 水の入ったグラスに手を伸ばし、水面に浮かんだ氷を遊ばせる。グラスの縁を唇につけ、水をひと口。舌で転がして、熱を冷ます。
 「どんな友人なのかしら、興味あるな」
 探られることを拒む誤魔化し、鼻の痛みを気にするそぶり。さらにひと口。氷を噛み砕く。
 「あなたの友人だから、さぞかし愛らしいペットみたいな女の子なんでしょうね」
 コーヒーを吹き出しそうになって、男は急かされながら床のほうへ顔を向けた。息を整え、飲み込む。釣り針が引っかかって、視線から表情、顔の筋肉までを釣り上げられるように、男は女に向きなおなければならなかった。
 「いやだな、女の子なんて。ぼくみたいなおじさんに誰がよってくるってんだ」
 「おじさん、か」
 「……なんでもかんでも……お見通しみたいだな」
 すでに握られているであろう弱みを突きつけられたくなくて、惨めだとわかっていても、怒りを抽出する。この場を逃れられるのなら安いものだと、男の口調が少し怒気を含んだ。
 不機嫌面が面白いのか、女の広角が微かに上がった。
 「なにも恥ずかしがることないじゃない。あのひと、四十過ぎなんだし」
 知りたくもない事実は覆面を引っぱがし、男の足もとに投げ捨てられた。それよりも、一部始終を見られていたのかという羞恥心と屈辱感が押しよせ、男はこの場から一刻も早く離れたい気分になってしまった。
 「よりにもよって……」
 ふるえる指先でコーヒーカップを手に取ると、水面には強風が吹き波が立て続けに起きていた。味のしないコーヒー。
 「それで……」
 言いかけ、なにがそれで、なのか、男は自分で困惑してしまう。
 「……お腹が減ってきたな。カレーライスでも食べるか。きみもどうだい」
 「あたしは遠慮するわ」
 晩飯どきにはまだ早かったが、なにかしておかなければ、鼓動の速さで心臓がそのうち破裂してしまいそうであった。男は店員にカレーライスを注文する。
 「きみも、あんなところにいくんだね」
 カレーライスはまだかと、厨房付近への目配りに余念がない。
 「動物って、飼育するからペットになるのよね。観察も飼育の一環じゃないかしら」
 「まるできみが飼育員側みたいな言い方だ」
 コーヒーはすでに半分飲み終わっている。
 「そんなことより……」
 女はズボンの内側に手を忍び込ませると、もぞもぞ動かしだした。嫉妬でも妬いているのだろうかと、男の緊張が別の方向へ変わっていた。テーブルの下に潜り込み、観察者を志願したかったが、ピンク色の風船に押し込んで、慎重にことのなりゆきを見守った。
 「あなたの友人から渡してくれって」
 取り出されたのは、半分に折られたノートの切れ端が数枚。ズボンの内側にポケットが縫われていることをはじめて知った。大したことのない手品の種に、ピンク色の風船はどこかへ飛んでいってしまう。
 切れ端を広げる。
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