第23話

文字数 2,804文字

 ……けっきょく、Mの遅刻癖は最後まで治らなかったな。最後の、最後まで、ぼくはいつも待つ側だった。待つだけ、待って、許しては、裏切られ、許しては……その繰り返し。孤独には慣れてきたところさ。
 男は息が切れたように唄うのを途中で止めると、突然、その場で膝を落としてしまった。傘が覆い被さり頭から身を守られるような形のまま、しばらく動こうとしないので、童顔も町の守護者らしく、病人候補へ義務的に近づいていく。
 「おい、あんた」
 手は貸さず、あくまで自分の足で立てと言いたげに、男を見下ろしていた。それに従い、男はよろめきながら、なんとか立ち上がる。
 「……どうも、すみませ……」
 言い終わらぬうちに、傘が男から離れ地面へ吸いよせられていく。男の右拳がふり上げられていた。童顔の顔めがけてふり降ろされる渾身の一撃! ……のはずが、横へ空を切ったのは、童顔がとっさの反応で、上体をかがめていたからだ。元ボクサーの動きは健在のようで、その見事なボクシング技術で男のパンチもどきを避けると、空ぶった勢いで無防備になった横面へ左フックをぶち込む。
 テンプルを揺さぶられ、男の視界には無限の雨が四次元を漂いながら降り注いでいた。今度こそほんとうに膝から落ち、立ち上がることが困難になる。
 童顔は警棒を取り出すと、床でのたうち回るゴキブリへトドメを刺すように鉄槌をふり降ろした。潰れた胴体、分かれた半身、こぼれるクリーム色の粘液、それでも四肢は彼方へ逃げ出そうとじたばたしている。
 男も同じだった。打たれた衝撃で半分死んでいた意識が微かに呼び戻されると、自分を庇うために両手を盾にする。腕に警棒が打ち込まれると、稲妻が身体中を駆け巡り骨が悲鳴をあげる。
 童顔が頭を狙わないのは、男を殺してしまわないようにする配慮と、痛ぶって楽しむ自分へのご褒美だった。警棒が腕を打つたび、むかし見た放牧牛を思い出していた。乳のさらされた脂肪たっぷりの図体。パンチのひとつやふたつ、跳ね返すであろう鋼の肥満。あの肉体美になら、飼い殺そうにも飼い殺せない内側でいつも暴れたくてうずうずしている黒い悪魔を解き放ってもいいのじゃないか。お気に入りの警棒を誰かへ打ち込むと蘇る、牛への情欲。久しく味わっていなかった度重なる興奮はついに強固な我慢を溶解させ、雨合羽のなかで隠れているペニスを鉄の牙へ変貌させる資材となった。
 痛みで流れだす涙が男を完全に現世へと呼び戻していた。腕で自分を庇うのもそろそろ限界を感じてきている。しだいにふり降ろされる警棒の間隔が長くなっていることに気がつけたのは、そのおかげだった。
 次の一撃が天に向けられたとき、男はまともにあがらない腕の盾を解き、余ったちからを両膝にこめ、カウントダウンもなく、人間ロケットを発射させた。着弾先は、童顔の牙を芽生えさせるまるく肥えた根っこ。頭皮を被った頭蓋骨が、肉の詰められたクッション材にぶつかる感触。
 童顔は人間ロケットが着弾した箇所を手で抑え、腹痛を訴える姿勢になりながら、声にならない声で吠え、うめき、飛散させるイチゴ味の唾は雨で消えてなくなる。
 無駄なあがきだとわかっていただけに、まさかの幸運を得られたことは、男に疑問を投げかけた。だが、答え合わせはあとでいい! 自分でも信じられない黒い衝動が湧き出てくる。童顔にとり憑いていた悪魔が、今度は男へ乗り移ったとでもいうのか。男は童顔から警棒を引ったくると、散りばめられた憤怒の結晶をかき集め、ひとつの巨大な炎にし、噛み砕いた。
 まる見えの後頭部に打ち込まれる、かつての相棒。ずっとむかしに味わっただけの鋼鉄の痛み。小さな水たまりになった床へ崩れ、はじめのうちは軽い痙攣をしていたが、男の鼻息が落ち着いてしまうよりも早く、やがて、痙攣は止み、そして、動かなくなった。
 男は役目を果たした警棒を嫌悪する目つきで睨み、これ以上、汚物を触っていることに耐えられない吐き気を催した。警棒を河へ向かって投げると、縦回転しながら、綺麗な弧を描いて暗闇の底へぽちゃりと消えていった。
 ……雨が砂であるならば、童顔の姿はそろそろ埋もれている頃だ。陸を砂が埋め尽くし、目に見えるのはなにもかも砂だけになる。誰かに指さされる背後からの視線は、この先、一生、まとわりつき、有罪、有罪、有罪と裁判官のひっきりなしに叩かれる小槌の音が耳もとで鳴り続けることだろう。
 童顔の顔だけが男のほうへ向き、見開かれている瞳のなかには死者の静けさがあるだけだった。有罪、有罪、有罪。
 男は周囲を見渡し、他に誰もいないことを確認する。横たわる童顔の身体を、肩を支えに担ぐと、引きずりながら橋の柵まで運んでいく。布団を干すみたいに、童顔を柵に寝かせると、雨合羽を第一ボタンから順番にはずしていき、最後には脱がせてしまう。童顔の貧相な裸体が視界を遮ったとき、先ほど投げかけられた疑問の答えがわかった。灰色の服を着ていないどころか、下半身にあるはずのボウルまでもが装着されていないのだ。すると、頭蓋骨にぶつかった感触はむき出しのペニスの感触だったのかと、男の頭上に忌まわしい記憶が付着する。
 雨合羽には内側ポケットが備わっており、そこに無線機と、手のひらサイズの四角い物体……スマートフォンが入っていた。その目で見て理解できる正体は、男を戦闘による興奮状態から急速に引き剥がし、風と雨で濡れる肌寒さが、女の来ない夜へ呼びもどす。スマートフォンの電源を入れると、時刻は夜十時前。パスワードはかかっていない。アプリはカメラと写真、電話、他にはなにもない。充電は四十パーセントほど。電波はつながっていない。圏外と表示されている。外界に出たとき助けを呼べるように、充電の無駄遣いは避けねばならない(キャリア契約していて、電波がつながればの話だが)。男はスマートフォンの電源を切った。
 寒さしのぎに雨合羽を着用する(生ぬるい温もりが微かに残っている)。童顔の両足を持ちあげ、そのまま柵の上を滑らせると、音もなく暗闇の底へ吸い込まれていく。見開かれた瞳はなにかを語るようにずっと男のほうを向いていた。小さく波の打つ音が聞こえ、それまで存在していた誰かはもう存在しない。手向けとして、あとから無線機も河の底へ落とす。
 男は橋を離れ、堤防側へ周り、高架下をのぞいてみる。予想通り、異世界へ通じる入口であるかのように、円で縁取られた下水管の入口があった。
 男は下水道へ足を進める前に、もう一度だけ、橋に女が着ていないか確認してみた。もうひとりの自分がこちらを見ている。こちらを見ながら、柵からもやのかかったなにかを放り投げていた。男は見なかったふりをして、下水道へ入っていく。夜の明るさが遠ざかっていくのと同時に、もうひとりの自分のけたたましい声が、男を逃がそうとしなかった。有罪、有罪、有罪!
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