第2話
文字数 1,507文字
「このペットボトルはあんたのですかな?」
かさかさと枯れた木々の音ではない。不意に声をかけられ、動かないはずの身体がひとりでに飛び上がる。視線を声のほうへ向けると、半身ほど闇のなかに溶けて、傘をさした老人がいた。最初、男は目をこすり、地蔵でも立っていただろうかと不思議がった。全身、灰色一色だからか見間違ってしまう。灰色の身体ではなく、衣類を着用しているのだとわかり、ようやく人影だと認識し息を呑んだ。束の間、老人が幽霊の類ではないかと疑ったが、足は地面についている。傘からのぞく顔は陽に焼け黒々としているが、健康的というのではなく、鬱血してそうで半病人を思わせた。
声も出せずにいると、いつの間にか、鼻息がかかってきそうな距離に老人はいた。猫背気味に、眼窩の陰から男を見上げている。動いたか、動かないくらいの動作でペットボトルを男に渡した。幽霊でないことに安心したのか、ペットボトルを受け取ると、老人への挨拶も忘れ、残っていたぶんの水を飲み干してしまう。すると急に、ズボンが濡れていることに恥じらいを感じ言い訳がましく弁明した。
「ぬかるみで滑ってしまいまして……だからこれは、漏らしたとか、そういうことじゃ、ないんですよ。一応、言っておきますけど……」
神経質に、ひと言、ひと言、噛み締めながら話しかける。
「あんた都会から来たひと、じゃな。ここ数年で迷い人が増えましての。だから、雨の日なんかはこうして山を巡回しておるのですよ」
老人は聞かなかったふりをしてくれたのか、男の言うことに別段、珍しがるそぶりを見せなかった。その表情は、男と会ったときから微動だにしておらず、顔の皮膚を移植されたばかりの入院患者のような印象を与える。
「あの、車を置いてきてしまって。山のふもとあたりなのかな? 戻りたいのですが……」
「この雨ですからな。それにもう遅い。初心者が山の夜をへたに動くとろくな目に遭いませんよ。町に案内しますじゃ、今日は泊まっていきなさい」
男は老人の好意を少し迷惑がった。好奇心にそそられ登山ごっこをしたのは事実だが、キャンプまがいの宿泊までは望んでいなかった。快適とまでいかないまでも衛生的なホテルに泊まりたかった。東京から離れた辺鄙な田舎とはいえ、出張者用のビジネスホテルくらいはどこかにあるだろう。
「いえ、お言葉はありがたいのですが……その、この有様ですし。早く帰りたいんです」
迷惑がってはいないと証明するための半笑い。
「ああ、そう。それじゃあ、勝手にしなさい。わしゃあ、親切で言ったまでだから」
言い捨て、老人は背を向けてしまう。それまでの親切心がスイッチの動作も見えないまま切り換わっていた。
……どうも駆け引き上手のじいさんらしい。地域おこしの委員長にでも任命されていて、多少、強引にでも町のPR活動をしたいのかもしれない。この雨は客引きにはうってつけというわけだ。このまま見捨てられてはホテルどころではない。
男は急いで老人を追い、軽い謝辞を述べ、調子よく提案に従った。老人は男のへりくだった様子に気をよくしたのか、町へ案内することにした。
「明日、町の若いもんに言って、下山の手引きをさせるでな、まあ、そうびくびくせんでよろしい」
安心感を与えない、色のない一枚絵。長年、この土地で暮らしてきたのだろう、老人は土地勘に頼り、夜に遮られているはずの視界も関係なしにさっさと山道を歩いていく。男はまたぬかるみで滑ってしまわないかと内股になりながらも老人のあとを追っていく。会社の人間に見せられた姿ではないなと、早く下山したい気持ちでいっぱいだった。
「さあ、この先が町ですじゃ」
かさかさと枯れた木々の音ではない。不意に声をかけられ、動かないはずの身体がひとりでに飛び上がる。視線を声のほうへ向けると、半身ほど闇のなかに溶けて、傘をさした老人がいた。最初、男は目をこすり、地蔵でも立っていただろうかと不思議がった。全身、灰色一色だからか見間違ってしまう。灰色の身体ではなく、衣類を着用しているのだとわかり、ようやく人影だと認識し息を呑んだ。束の間、老人が幽霊の類ではないかと疑ったが、足は地面についている。傘からのぞく顔は陽に焼け黒々としているが、健康的というのではなく、鬱血してそうで半病人を思わせた。
声も出せずにいると、いつの間にか、鼻息がかかってきそうな距離に老人はいた。猫背気味に、眼窩の陰から男を見上げている。動いたか、動かないくらいの動作でペットボトルを男に渡した。幽霊でないことに安心したのか、ペットボトルを受け取ると、老人への挨拶も忘れ、残っていたぶんの水を飲み干してしまう。すると急に、ズボンが濡れていることに恥じらいを感じ言い訳がましく弁明した。
「ぬかるみで滑ってしまいまして……だからこれは、漏らしたとか、そういうことじゃ、ないんですよ。一応、言っておきますけど……」
神経質に、ひと言、ひと言、噛み締めながら話しかける。
「あんた都会から来たひと、じゃな。ここ数年で迷い人が増えましての。だから、雨の日なんかはこうして山を巡回しておるのですよ」
老人は聞かなかったふりをしてくれたのか、男の言うことに別段、珍しがるそぶりを見せなかった。その表情は、男と会ったときから微動だにしておらず、顔の皮膚を移植されたばかりの入院患者のような印象を与える。
「あの、車を置いてきてしまって。山のふもとあたりなのかな? 戻りたいのですが……」
「この雨ですからな。それにもう遅い。初心者が山の夜をへたに動くとろくな目に遭いませんよ。町に案内しますじゃ、今日は泊まっていきなさい」
男は老人の好意を少し迷惑がった。好奇心にそそられ登山ごっこをしたのは事実だが、キャンプまがいの宿泊までは望んでいなかった。快適とまでいかないまでも衛生的なホテルに泊まりたかった。東京から離れた辺鄙な田舎とはいえ、出張者用のビジネスホテルくらいはどこかにあるだろう。
「いえ、お言葉はありがたいのですが……その、この有様ですし。早く帰りたいんです」
迷惑がってはいないと証明するための半笑い。
「ああ、そう。それじゃあ、勝手にしなさい。わしゃあ、親切で言ったまでだから」
言い捨て、老人は背を向けてしまう。それまでの親切心がスイッチの動作も見えないまま切り換わっていた。
……どうも駆け引き上手のじいさんらしい。地域おこしの委員長にでも任命されていて、多少、強引にでも町のPR活動をしたいのかもしれない。この雨は客引きにはうってつけというわけだ。このまま見捨てられてはホテルどころではない。
男は急いで老人を追い、軽い謝辞を述べ、調子よく提案に従った。老人は男のへりくだった様子に気をよくしたのか、町へ案内することにした。
「明日、町の若いもんに言って、下山の手引きをさせるでな、まあ、そうびくびくせんでよろしい」
安心感を与えない、色のない一枚絵。長年、この土地で暮らしてきたのだろう、老人は土地勘に頼り、夜に遮られているはずの視界も関係なしにさっさと山道を歩いていく。男はまたぬかるみで滑ってしまわないかと内股になりながらも老人のあとを追っていく。会社の人間に見せられた姿ではないなと、早く下山したい気持ちでいっぱいだった。
「さあ、この先が町ですじゃ」