第10話
文字数 3,362文字
男は見せたくもない姿をさらしてしまったなと気を病んで、横目に女の顔色をうかがったが、女の表情からはなにも読み取れない。ただ、男にそんなことを気にしている暇はなかった。次の一手が頭をよぎっていた。
……直談判。もうこれしかない。あの老人なら知っている。なにも知らないとは言わせない。問題は警備員をどう躱すかだ。警棒相手に格闘して勝てる見込みはない。ぼくがあと十歳若ければ、運動神経にものをいわせて、空手のブランクを埋めるだけの活躍を見せつけてやれるのだが。
合唱広場へたどり着くと、男は観客席の最前列に老人がいることを確認した。いつもどおり、最前列のまん中、定位置である。
歌を唄う番がやってくると、なに食わぬ顔でステージへ上がる。
男には算段がひらめいていた。唄い終え、グループ揃ってステージから降りるのを見計らい、そのまま老人の目の前に飛び降りる。一足一刀の間合いにまで詰めよれば、警備員も無茶な手出しはできないだろうというわけだ。
だが、眼前に広がった光景を目のあたりにし、額から冷たい汗が流れた。
昨日までは老人の隣席にも年長者たちが座っていたはずなのに、いま、そこには、老人を挟んで、左右に複数人の警備員が座っているのだ。腕を組み、皆、似たような顔つきで機嫌悪そうに。その後列席に他の年長者たちが座っている。
男はその異変にまったく気がついていないといったふうに装い、ずっと観客席の奥の景色だけを見続けながら唄った。景色がずいぶん遠くに感じられる。
童顔が無線機で情報を共有したのだ。口止め料なんて、その場限りの口約束だけでなんの役にもたっていない事実が男を落胆させ、今朝がたの自分の行動が迂闊だったと悔いた。鉄壁に等しい布陣を敷かれては、老人に直談判を試みたところで、すぐ取り押さえられてしまうのが目に見えている。
けっきょく、そのままひと歌唄い終えて、ステージを降りてしまう。
「歌、うまくなったじゃない」
同情を含んだ女の声。このときばかりは、砂漠で喉の渇きを訴える舌先に一滴の水を恵んでもらった程度の潤い。
男には全員が唄い終わるまで観客席で待機していなければならないことが耐え難い拷問のように思えてしかたがなかった。明日が刻一刻と迫っているのだ。
とうとう、我慢できず、まずは隣席の者に、
「スマホ貸してください」
と、懇願したが、頭上にクエスチョンマークを出され、曖昧に笑われてしまう。男はそれを言葉の通じない外国人に話しかけられたときに見せる照れ隠しに似た反応だと思い、今度は、席を立ち上がると、また隣にいる者に同じ懇願を繰り返した。駄目なら、また隣、また隣へと。餌をねだって歩く猿に似ていた。
だが、男が呪文を唱えるたび、住人たちは気味悪そうに無視するか、合唱の邪魔だと人差し指を口もとで立て、沈黙を促す者もいた。なかには話に耳を傾ける女性もいたが、男の下腹部を覆っているタオルの一部分だけいも虫が潜んでいるのを目にすると、頬を赤く染め、はじめから話を聞いていないといった様子で合唱のほうへ視線をもどしてしまう。
そんな小さな騒ぎが起こっていることに最前列の警備員たちがようやく気がつくと、そのひとりが男へ近づいてき、舌打ちを鳴らして警棒をちらつかせた。
「おっと、これは、マナーがなっていなかったな。住人の皆さんともお別れが近いのでね、ご挨拶と思っただけですよ、ははは」
男はぎこちなく笑い、適当な相槌を打って自分の席へ戻ったように見せはしたが、警備員の姿が席にもどったのを確かめると、すぐに、今度は身を屈めながら、後列へと歩み、オウムの繰り言のように、住人たちへ順に呪文を繰り返すのだった。女は呆れた様子で止めようともしない。
「スマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマ……」
了承を得てもいない味方に裏切られるたび、声はだんだんと掠れ、小さくなる。
そんなひとり芝居も二度目までは注意だけで許されたが、三度目になると業を煮やした警備員が、警棒で男の肋骨のあたりを強めに小突いたりするので、それ以上の深追いは身の破滅につながると、地面から生え出した草の根が、足を絡みとってしまう。
そして、男は席から立ち上がる気力を失い、女と並んで、ステージから聞こえてくる合唱に耳を傾けて、ただ時間が経っていくのを待つばかりであった。
……今、何時だろうか。陽の昇り加減から察するに、午前も十時はとっくに過ぎているな。すると、明日の日の出までもう二十四時間も残されちゃいない。チクタク、チクタク……
陽が頂上に昇りだす頃には、全員が唄い終え、合唱広場をあとにしていく。
「さあ、あたしたちも帰りましょう」
女が立ち上がるも、男は駄々っ子みたいに、憮然とした態度で席から立とうしない。女は静かにため息を吐いた。
「ぼくには……帰る場所があるんだ」
言いながら、男は虎視眈々と狙っていた、老人に話しかける機会を。
女は察しているらしく、それ以上、声をかけようとはしなかった。残酷な真実を知らせるもっともやさしく、卑怯な方法でもあった。
観客席がまばらになってきたところで、年長者の団体が席から立ち上がる。それを見逃すまいと、男の目は老人を捉えて離さない。しかし、拳を両の膝の上で握ったまま、席から立ち上がろうとはしなかった。視線だけが挑戦的に一定方向へ注がれているばかりだ。
老人の周囲を三人の警備員が囲っており、迂闊に近づける雰囲気ではない。暴風域に飛び込んでいって、みすみす自殺志願者になるつもりにもなれなかった。
老人の後ろからは年長者たちが列をなす。背の曲がったその一群を横目に見送ることしかできない。そのとき、老人が錆びたブリキ人形のような動作でぎこちなく首をちょうど九十度、横に向け、男のいるほうへ視線を送ってよこすと、男の視線と老人の視線が宙で一致した。
老人の眼窩は深く、瞳の奥でなにを語っているのかわからない。谷の底の暗闇からただじっと見つめらている。
息を呑むより早い、ゼロコンマ秒の時間。
男は居ても立っても居られなくなり、席から立ち上がっていた。警備員たちは警戒するが、老人が制すので、その場で鼻息を荒く吹かしているだけだ。
立ち上がったはいいが、それでも挑んでこない男に敗北を宣言したのか、老人の口もとがだらしなく開き、歯茎を見せながら、にんまりと、微笑んだ。
それから、正面に向き直ると、行列を引き連れ、合唱広場から去っていく。
去っていく老人の姿に目をあてられず、男は時を失ったように立ちすくむ。女はその肩にそっと手のひらを乗せてやった。
男の唇はわなないていた。確信したのだ。まんまと老人の用意した鳥かごに閉じ込められてしまったことに。
「馬鹿な、こんなことをしてただで済むと思っているのか……いまに捜索願いが出されて、警察がぼくを見つけるに決まっている」
「だれに希望を託しているのかしら」
「だれって……そりゃ……」
……会社が探してくれるか……無断欠勤し、あげくいなくなった者にくだす判断などひとつしかない。同僚たちは……オンライン勤務、便利な世の中になった。出社する必要のない個人専用オフィス。画面越しに顔合わせはするけれど、熊さんがいつだって見張っている。いつも画面の端に位置するぼくの特等席。画面がひとつ少なくなったからといって、誰も気づきはしない。ピエロの役なんて、誰でも務まるのだから。友人たちは……SNSの返事が遅いことなんて、ざらにある。数ヶ月でも、一年でも、そんな連中ばっかりだ。Mは……叶いもしない希望は絶望に塗りたくった金メッキみたいなものだ。独身男が家族のいない部屋で孤独を深めたあげく、自殺に至るという話をニュースで見かけるようになったが、ぼくはそうじゃない。この手にスマホさえあれば……
自分の手のひらを眺めながら声の出なくなった男に、女の同情が集まる。
……直談判。もうこれしかない。あの老人なら知っている。なにも知らないとは言わせない。問題は警備員をどう躱すかだ。警棒相手に格闘して勝てる見込みはない。ぼくがあと十歳若ければ、運動神経にものをいわせて、空手のブランクを埋めるだけの活躍を見せつけてやれるのだが。
合唱広場へたどり着くと、男は観客席の最前列に老人がいることを確認した。いつもどおり、最前列のまん中、定位置である。
歌を唄う番がやってくると、なに食わぬ顔でステージへ上がる。
男には算段がひらめいていた。唄い終え、グループ揃ってステージから降りるのを見計らい、そのまま老人の目の前に飛び降りる。一足一刀の間合いにまで詰めよれば、警備員も無茶な手出しはできないだろうというわけだ。
だが、眼前に広がった光景を目のあたりにし、額から冷たい汗が流れた。
昨日までは老人の隣席にも年長者たちが座っていたはずなのに、いま、そこには、老人を挟んで、左右に複数人の警備員が座っているのだ。腕を組み、皆、似たような顔つきで機嫌悪そうに。その後列席に他の年長者たちが座っている。
男はその異変にまったく気がついていないといったふうに装い、ずっと観客席の奥の景色だけを見続けながら唄った。景色がずいぶん遠くに感じられる。
童顔が無線機で情報を共有したのだ。口止め料なんて、その場限りの口約束だけでなんの役にもたっていない事実が男を落胆させ、今朝がたの自分の行動が迂闊だったと悔いた。鉄壁に等しい布陣を敷かれては、老人に直談判を試みたところで、すぐ取り押さえられてしまうのが目に見えている。
けっきょく、そのままひと歌唄い終えて、ステージを降りてしまう。
「歌、うまくなったじゃない」
同情を含んだ女の声。このときばかりは、砂漠で喉の渇きを訴える舌先に一滴の水を恵んでもらった程度の潤い。
男には全員が唄い終わるまで観客席で待機していなければならないことが耐え難い拷問のように思えてしかたがなかった。明日が刻一刻と迫っているのだ。
とうとう、我慢できず、まずは隣席の者に、
「スマホ貸してください」
と、懇願したが、頭上にクエスチョンマークを出され、曖昧に笑われてしまう。男はそれを言葉の通じない外国人に話しかけられたときに見せる照れ隠しに似た反応だと思い、今度は、席を立ち上がると、また隣にいる者に同じ懇願を繰り返した。駄目なら、また隣、また隣へと。餌をねだって歩く猿に似ていた。
だが、男が呪文を唱えるたび、住人たちは気味悪そうに無視するか、合唱の邪魔だと人差し指を口もとで立て、沈黙を促す者もいた。なかには話に耳を傾ける女性もいたが、男の下腹部を覆っているタオルの一部分だけいも虫が潜んでいるのを目にすると、頬を赤く染め、はじめから話を聞いていないといった様子で合唱のほうへ視線をもどしてしまう。
そんな小さな騒ぎが起こっていることに最前列の警備員たちがようやく気がつくと、そのひとりが男へ近づいてき、舌打ちを鳴らして警棒をちらつかせた。
「おっと、これは、マナーがなっていなかったな。住人の皆さんともお別れが近いのでね、ご挨拶と思っただけですよ、ははは」
男はぎこちなく笑い、適当な相槌を打って自分の席へ戻ったように見せはしたが、警備員の姿が席にもどったのを確かめると、すぐに、今度は身を屈めながら、後列へと歩み、オウムの繰り言のように、住人たちへ順に呪文を繰り返すのだった。女は呆れた様子で止めようともしない。
「スマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホ貸してくださいスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマホスマ……」
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そんなひとり芝居も二度目までは注意だけで許されたが、三度目になると業を煮やした警備員が、警棒で男の肋骨のあたりを強めに小突いたりするので、それ以上の深追いは身の破滅につながると、地面から生え出した草の根が、足を絡みとってしまう。
そして、男は席から立ち上がる気力を失い、女と並んで、ステージから聞こえてくる合唱に耳を傾けて、ただ時間が経っていくのを待つばかりであった。
……今、何時だろうか。陽の昇り加減から察するに、午前も十時はとっくに過ぎているな。すると、明日の日の出までもう二十四時間も残されちゃいない。チクタク、チクタク……
陽が頂上に昇りだす頃には、全員が唄い終え、合唱広場をあとにしていく。
「さあ、あたしたちも帰りましょう」
女が立ち上がるも、男は駄々っ子みたいに、憮然とした態度で席から立とうしない。女は静かにため息を吐いた。
「ぼくには……帰る場所があるんだ」
言いながら、男は虎視眈々と狙っていた、老人に話しかける機会を。
女は察しているらしく、それ以上、声をかけようとはしなかった。残酷な真実を知らせるもっともやさしく、卑怯な方法でもあった。
観客席がまばらになってきたところで、年長者の団体が席から立ち上がる。それを見逃すまいと、男の目は老人を捉えて離さない。しかし、拳を両の膝の上で握ったまま、席から立ち上がろうとはしなかった。視線だけが挑戦的に一定方向へ注がれているばかりだ。
老人の周囲を三人の警備員が囲っており、迂闊に近づける雰囲気ではない。暴風域に飛び込んでいって、みすみす自殺志願者になるつもりにもなれなかった。
老人の後ろからは年長者たちが列をなす。背の曲がったその一群を横目に見送ることしかできない。そのとき、老人が錆びたブリキ人形のような動作でぎこちなく首をちょうど九十度、横に向け、男のいるほうへ視線を送ってよこすと、男の視線と老人の視線が宙で一致した。
老人の眼窩は深く、瞳の奥でなにを語っているのかわからない。谷の底の暗闇からただじっと見つめらている。
息を呑むより早い、ゼロコンマ秒の時間。
男は居ても立っても居られなくなり、席から立ち上がっていた。警備員たちは警戒するが、老人が制すので、その場で鼻息を荒く吹かしているだけだ。
立ち上がったはいいが、それでも挑んでこない男に敗北を宣言したのか、老人の口もとがだらしなく開き、歯茎を見せながら、にんまりと、微笑んだ。
それから、正面に向き直ると、行列を引き連れ、合唱広場から去っていく。
去っていく老人の姿に目をあてられず、男は時を失ったように立ちすくむ。女はその肩にそっと手のひらを乗せてやった。
男の唇はわなないていた。確信したのだ。まんまと老人の用意した鳥かごに閉じ込められてしまったことに。
「馬鹿な、こんなことをしてただで済むと思っているのか……いまに捜索願いが出されて、警察がぼくを見つけるに決まっている」
「だれに希望を託しているのかしら」
「だれって……そりゃ……」
……会社が探してくれるか……無断欠勤し、あげくいなくなった者にくだす判断などひとつしかない。同僚たちは……オンライン勤務、便利な世の中になった。出社する必要のない個人専用オフィス。画面越しに顔合わせはするけれど、熊さんがいつだって見張っている。いつも画面の端に位置するぼくの特等席。画面がひとつ少なくなったからといって、誰も気づきはしない。ピエロの役なんて、誰でも務まるのだから。友人たちは……SNSの返事が遅いことなんて、ざらにある。数ヶ月でも、一年でも、そんな連中ばっかりだ。Mは……叶いもしない希望は絶望に塗りたくった金メッキみたいなものだ。独身男が家族のいない部屋で孤独を深めたあげく、自殺に至るという話をニュースで見かけるようになったが、ぼくはそうじゃない。この手にスマホさえあれば……
自分の手のひらを眺めながら声の出なくなった男に、女の同情が集まる。