第9話

文字数 3,294文字

 サオリの視線が突き刺さる。
 咎められるべきは火遊びなのか。それとも、まんまと餌食になる未熟さなのか。サオリは横目でこちらを見つめながら店の奥へ入っていった。黒づくめの男は他の客と距離を置き、カウンターの末席に腰を下ろした。すぐに着物姿のマダム--おそらくスコッチミストのママなのだろう--が男の方に寄っていく。
「お目当てのひとが来たわ」
 ゲーム開始の笛に備えよと峰岸に匂わせて、レイカが唇の端をあげる。瞳に灯る火は穏やかさを装ってはいるが、抑えきれない高揚が唇のすき間から漏れてくるように思えた。ユミがうしろを向いて棚からウイスキーのボトルを探し出し、カウンターから離れていく。峰岸は「お」と目を輝かせ、待ちわびたヒロインの到着にひとり(とき)の声を上げた。
「おお! やっと来たか!」
「ふふ、ずいぶんご執心だこと」
「んなことねえけど、ちょい迷惑かけちまったし。とりあえずマイナスからのスタートだかんな。ゲイン、ゲインで今日はぜってえプラスに持ってかねえと」
「あのひと、ひとすじ縄ではいかないかもよ」
 峰岸のグラスを取りながら、女が無情に男の尻を叩く。
「だったら逆に燃える」
「そう。やってみるといいわ」
「ふ。言っとくけど俺は逃げねえ男で有名だかんな。こないだも一九〇くらいあるこんな奴がよ、すんげえおっかねえ顔でドドドドって突っ込んでくんの止ーめてやったべ。引きずられっかなと思ったけど、カンペキに止めたね。だな、四、五回は止めた。試合終わってからそいつも『あーれには参った!』なんて言ってたし。『あんな簡単に止められると思わなかった』ってよ。まあ、何回もやられてんのに、何も考えねえで突っ込んでくんのもバカなんだけど。要は逃げるスポーツだからな、ラグビーってよ」
 峰岸は鼻を膨らませて止めた男の大きさを身振りで示しながら喋り、そして自らを鼓舞するように大きく笑った。
「ふうん。ラグビーって分からない。ボールはおかしな形してるし、へんな棒が二本あって、点の数え方も一点ずつじゃないんでしょ。いきなりゲームが止まったり、押し合いへし合いするのも意味不明。それに--」
 レイカが素人きわまりない疑問--全ラガーマンとそのファンを敵に回さぬよう願う--を口にする中、主役はゆっくりと私たちのもとへやってきた。艶のある仄かなブルーに包まれた女は、まず私に親しげに微笑みかけ、そしてワインレッドの女のすぐ横まで詰め寄ると彼女を見上げた。鼻ひとつ分サオリより高い位置の瞳を私たちに向けたまま、レイカは素知らぬ様子で続ける。
「なんでボールを横に--」
「あちらがお呼びよ。セイコさん」
 ばっさりと切り落とすようにサオリが言の葉を遮った。コンマ何秒かの沈黙。
「--投げるの?」
 セイコと呼ばれた女は、なに事もなかったように前へパスを出した。場の気圧がずしりと重くなった。
「えー……と」
 受けたボールをどうしたらいいのかと峰岸が口ごもる。唖然とするだけの私はラグビーどころではないし、ホイッスルを吹いてくれるはずのユミちゃん審判はもういない。空気ガン無視のマヤも不敵な笑みを浮かべ、カウンターの端で観戦者を決めこんでいる。
 サオリは顔色ひとつ変えず、抑制のきいた、しかし確固とした意志に満ちた口調で追い打った。
「聞こえて? セイコさん」
「どなたとお間違えなのかしら。遅れていらしておいて、ずいぶんなモノ言いね。ほかをあたってもらえますこと? イズミさん」
 レイカもまた身じろぎ一つしなかった。彼女の不思議な爪の模様と煙草だけが、なにか別の意志を持つもののように動いて見えた。レイカはセイコ、サオリが……イズミ?
「あら、失礼。見ず知らずの誰かさん、ここを代わっていただけるかしら」
「レイカ」呟きと忍び笑いがカウンターの端からとどく。
「おことわり」
 どこかの歌劇団みたいに大袈裟な言い回しで拒絶の意志を表明すると、みずからをレイカと名のる女がなまめかしく腰をひねって向きを変える。瞳を揺蕩(たゆた)う虚ろな情念が一気に燃え上がり、その目で青白い焔に包まれる女を見下ろした。
「……って言ったら?」
 挑発と冷笑をこめてレイカが口元を歪める。サオリは口を引き締め、レイカから目を外すことはない。傲岸不遜と清廉潔白の視線がぶつかり合い、激しい火花が散る。
 いま、なにが起こった?
 穏便にことが運ぶ期待と、その期待値は高くなさそうな不安はあったものの、ここまで対極の状況を頭に思い描くことは出来なかった。まるで漫画やアニメの世界ではないか。
 オンナとオンナは互いの目で会話を--いや、会話などと生ぬるいものではない。二人の女戦士は最重要拠点をめぐり一歩も引けぬ、熾烈な戦闘を繰り広げていた。峰岸ならスクラムに例えるかもしれない。
「それとも、そうね。ショーヘーに選んでもらう?」
 レイカが嘲笑うように顎をあげる。
「そんなことさせないわ」
「じゃあどうする? ショーヘーの腕が千切れるまで引っ張り合ってみる?」
 妖しい炎に包まれた瞳の女悪魔が、血の渇きにうち震えるように囁く。むかしどこかで見聞きした話に例えているのかもしれないが、冗談ではない。出来ることなら今すぐここを逃げ出したくなった。
 こんなこと、ふつう起きるか? ……いったいこの店はなんなのだ。そうだ。これはきっとドッキリかサプライズ、もしくは茶番に違いない。
 願いも空しく、オンナたちからはさらに凄まじいオーラが立ち上る。めらめらと揺れながら赤く暗い渦と青白い渦となって、互いを巻き合う。それは私たちの眼前にまで迫り、蛇の舌のようにちろちろと首筋を舐めた。私は声が出せなかった。峰岸もただ目を白黒させてことの成り行きを見守っている。
「いいえ」
 かわいそうな風間翔平にとって理不尽極まりない提案を却下し、サオリは張りつめた表情をやや緩めて言った。
「少しまわりを見てから言ったほうがいいわ、レイカさん。相変わらず気が短いのね」
 そろりと店内を見渡してみる。入ってきたばかりの体調の悪そうな白髪の男がユミに支えられてゆっくりと店内を歩いてくる。うしろに続く若い華奢な男と瞬間、目が合った。彼らは空いていたテーブルへと案内され、店のテーブル席が全て埋まった。
 ふと身の毛がよだつモノを感じ、奥の方のテーブルに目をやる。暗がりの中に女の顔が浮かんでいた。ふたつの目がじっとこちらを見据えている。ぞっとした。だが黒づくめの女--あくまで見える範囲だが、いま流行りなのだろうか--を取り囲む者たちによって、その姿はすぐに見えなくなった。
 プロレスラーばりの怪力の持ち主は今はいない。彼ほどではないにしろ屈強そうな男は何人かいるが、カウンターではみな私たちと同様の顔付きをしていたし、それ以外はさしてこちらを気にかける様子ではない。
 黒づくめの男。彼がサオリの切り札なのだろうか。しかし男は店のママと思しき女のひそひそ話を黙して聞くばかりで、こちらに関心があるようには見えなかった。言うまでもないが、こんな修羅場に関わりたい男などこの世にはいない。
 サオリ陣営の包囲網によって、レイカがどれほど不利な状況にあるのかは分からなかった。

 未来永劫続くのではないかというくらい二人は睨み合っていた。だが幕切れはあっけなく訪れた。ぷつりと糸が切れたようにレイカは目線を外し、くすりと笑って顔を上げる。それから敗者らしからぬ堂々とした態度で一歩を踏み出した。カウンターの中ですれ違う互いの肩は激突寸前のニアミスだったが、サオリは微動だにしなかった。なにひとつ譲れるものはないとばかりに姿勢を保ち続ける。
 悠然と歩を進め、くの字に折れたカウンターを曲がったところでレイカは立ち止まり「またね、ショーヘー」と軽やかに言い、慈しむような笑みを浮かべた。戸惑いながらぎこちなく口角をあげ、私は彼女の退場を見届けた。黒づくめの男を一瞥してレイカは店の奥へと消えていった。オーラの残骸だけが、所在なげにあたりを揺れる。
 サオリはふっと細い息を吐き、硬い表情を崩して私に向き直った。その顔は見てわかるほどに青ざめていた。
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