第2話

文字数 3,647文字

「お化けか何かだと思ったのよね」
 そう言って女はくすくすと笑った。

 霧の中に浮かぶものは、この世のものとは思えぬ何かだった。車道の中ほど、私の四肢は緊急停止に見舞われた。膝が砕け散った。--砕けたかと思った。
 なんだあれは……。
 頸椎から、冷たくて気味の悪い虫が降りてくる。思わず息を呑んで目を逸らし、左足を半歩、じりと下げた。
「非常事態発生!」
 あらゆる器官がけたたましく警報を鳴らしていた。しかし、どこかから響く指揮官の声は「対象物を確認せよ」と無慈悲な命令を繰り返していた。じっとりと、いやな汗が滲んでくる。
 --どうする。どうする!
 いかに非情であれ命令には逆らえない。外食なんかするんじゃなかったと我が身の不運を呪いながら、私は唐突に訪れた暗黒の使者へと向き直った。
「--あれ?」
 当然だ。すべてを滅ぼす邪の化身、そんなものがここにいるはずはないのだ。街灯の明かりに照らされ浮かんで見えるのは、か細い、女性らしきシルエットだった。私の中で、ただ真っ白な時間だけが経過する。
「あせった……」
 呟いてようやく正気を取り戻し、私は車道を渡り切った。救援の到着に安堵したのか、峰岸はぐったりと街路樹にもたれ座り込んでいた。
「峰岸さん」
 彼に呼びかけながら何度か身体を揺すってみる。しかし峰岸は面倒そうに眉をひそめるばかりで、とても立ち上がれる状態ではなさそうだった。まったくもって、みごとな酔っ払いだ。
「あの」
 私が途方に暮れかけたところへ--我々とは無関係だと思っていた--霧に紛れるほど白いコートに身を包んだ女が、ゆっくりと口を開いた。
「わたしのお店が近くにあるんですけど……。その方を連れていくの、手伝ってもらえませんか」

 峰岸に肩を貸しながら、私は女の店へと導かれた。上背はさほどないが峰岸は立派な肉体の持ち主で、米二俵はあるんじゃないかというくらい重かった。四十を越えてラグビーに精を出すだけのことはある。しかしそんなことよりも私が気になって仕方がなかったのは、数歩先を行く白いコートの女のことである。
 歳は私と同じくらいか、少し上かもしれない。長い黒髪が揺れる女の足取りは滑るようになめらかで、私はそのうしろ姿から目を離すことが出来なかった。女は時おり私に振り返り「大丈夫ですか」と声をかけた。「大丈夫です」とカラ元気で答え、私はそのたびに奮起した。
「頑張って。お店はもうすぐだから」

 峰岸の身体をソファーに降ろすと、女は私にも腰を下ろすよう促した。躊躇ったが、久々に酷使した身体は悲鳴を上げていたし、おとなしく言葉に従った。コートを羽織ったまま、女も傍の丸椅子に腰を掛ける。峰岸はソファーの背にもたれ、天を仰いだままで起き上がる気配もない。
 予想していた通り、ここは適度に照明が落とされて艶っぽい衣装に身を包んだ女たちが、主に男たちを相手にして酒を飲ませる場所だった。奥二面の壁に沿ってくの字に折れたカウンターがあり、他の壁側にはテーブル席が設けられている。私たちが座っているのは扉近くのテーブル席だった。慣れているとはいえないタイプの店だ。この霧だというのに客の入りはまずまずで、彼らの好奇に満ちた視線が代わる代わるこちらに注がれているように感じ、私は落ち着かない気分になった。外の霧が入り込んでくるわけではないのだろうが、店の中はなんとなく薄ぼんやりとしていた。煙草の煙のせいかもしれない。
 女に視線を戻すと、白いコートは仄暗い店内でも目に眩しかった。先ほど目に映った巨大な負の影が記憶に蘇ってきて、私は目線を落とし、細かく頭を振った。
 あれは霧と、街の灯りが作り出した幻影だ。
 白く、淡い、幻のような女。霧に紛れる儚げな姿を描き直しながら、私は女の首をふわりと覆う、質の良さそうなファーを眺めていた。
「きつねなの」
 私の視線を意識してか、女はそう言って愛おしそうに白い獣の毛を撫でた。しばらくそんな動作が繰り返されたあと、ふっと気が抜けたように手の動きが止まり、まっすぐに女の視線が私の瞳を貫いた。横隔膜ごと胸の中身が飛び出すかと思った。その視線が伝えてくるメッセージが何なのか、私には分からない。ただ、呼吸は枯れ、鼓動も制御不能に陥りつつあることを身体だけが理解していた。わずか数秒、無言の熱線が私の脳髄を焼き尽くした。
「支度してきますね」
 なだめるように囁いて視線を落とし、女は立ち上がった。長い髪がふるりと舞い、甘い匂いが私の鼻腔を撫でる。
「ねえ」と背を向けて歩き出したところで女は足を止め、こちらを振り向いた。
「帰っちゃダメですよ」
 そう言って微笑みだけを残し、女はしなやかな足取りで店の奥へと消えた。

 身体に張り付くような赤いドレスから肌を露出させた--説教が必要なほど丈が短いスカートの--若い女がやってきた。均整の取れた肉付きの身が軽やかに動く。
「いらっしゃいませー」
 女はおしぼりを差し出すと、目線を合わせるように片膝をフロアについた。私は思わず視線を逸らした。
「ここは初めて?」
「はい。自分は初めてです」
「じゃあ、どうする? 店のウイスキーでいい?」
「ええ、それでお願いします」
「水割り? 炭酸で割る?」
「水割りで」
「そっちの人も?」
 どうすんのこれ? という表情で女は峰岸に目をやる。彼はソファーの背からズリ落ち気味に、だらしのない顔をして眠っていた。意識を失っているという方が正しいかもしれない。
「そう、ですね」
 とは言ったものの、脳内の電光掲示板には”不安”の二文字が大映しにされていた。
 俺たちはここにいていいのか。一刻も早く峰岸を家まで送るべきではないか。いや、彼はここの馴染み客で、こんなのはよくあることなのかもしれない。そもそもここは何の店だ。スナック? キャバクラ? もしぼったくりだったらどうしよう……。
「待っててね」
 女はそそくさとカウンターへと戻った。私は大きく息を吐いてソファーの背に身体を預けた。
 ひとまず様子を見るしかないか。ちょっと峰岸を休ませて、さっさと切り上げよう。
 赤いドレスの女は酒の用意をして戻ってくると、先ほどまで白いコートの女が座っていた丸椅子に腰を下ろした。慣れた手つきで水割りを二つ作り、峰岸と私の前に置く。そして「あたしももらっていい?」と媚びるように私を見た。そのスカートをどうにかしてくれと懇願する代わりに「どうぞ」と答え、私は平静を装った。
「ありがと! じゃあ、二人で乾杯しよ!」
 深いピンクの爪がちらちらと揺れ、酒と氷と水とがグラスの中で混ざりあう。
「あたしマヤでーす。よろしくー」
 そういえば白いひとの名前は聞かなかった。
「マヤさん」
「きゃは! やだもう。呼び捨てか”ちゃん”付け、マヤっち。マーヤでもいいよ」
「じゃあ……マーヤ」
 私はなにかむず痒い感触にもじもじしながらグラスに手を伸ばし、マヤは満足気にグラスを上げた。
「初めましてー! かんぱーい!」
 高い声が店内に響く。私も控えめに「乾杯」と言った。もう一つのグラスはテーブルに置き去りのまま、二つのグラスがかちりんと鳴った。
「二人はサオリちゃんのお友達?」
「いや。俺はさっき会ったばっかり」
 白いきつねのコートは、サオリ。
「ええっ! それで、なんで?」
「俺はそこの峰岸さんと--峰岸さんは会社の先輩で、サオリさんと一緒のところに俺は偶然会っただけで。だからなんでここにいるのか、実は俺もよく分かってない」
「へえ……。じゃあ、ホントに会ったばっかなんだ」
 唇の端を上げて低い声で呟くと、マヤは花びらでも舞いそうな笑顔で私を向いた。
「へえ! そっかあ。じゃあ、なま--」
「お待たせ」
 すぐ脇にサオリが立っていた。コートを脱いだ彼女は、胸元や膝下の肌が透けた、白いロングドレスに包まれていた。放たれる光沢の艶やかさは、きっと本物の絹製だからに違いない。
 サオリは微笑を湛えながら、じっとマヤを見下ろしていた。なんですか? という表情で見上げていたマヤは、はっとしてドタバタと隣の椅子に移った。まるで格上の縄張りに気付いた野生動物みたいだった。サオリが、空いた丸椅子にゆっくりと腰を下ろす。
「わたしも頂いていい?」
「ああ、もちろん」
 私が言い終えるより先に、マヤはグラスに氷を入れ始めていた。
「さっきはありがとうございました。あのひと、かなり重そうだし、疲れたでしょ」
「いえまあ、ちょい重かったけど、いい運動になりました。峰岸さんには今度ダイエットでも勧めておきます」
 私が笑うと彼女も顔を綻ばせ、なにかを思い出したように手を合わせた。
「そうそう忘れてた。わたしサオリです。なんてお呼びすれば?」
「風間です。峰岸さんは会社のせ--」
「風間さん--下も訊いていい?」
「翔平です」
「よろしくね、風間翔平さん。いい名前ね」
 私たちは三人で再び乾杯をした。峰岸は相変わらず、検視官でも来ない限りその四肢を動かすこと叶わぬ者のように、正体を無くしていた。
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