第4話

文字数 2,361文字

 部材の耐震試験についての計画書を読み直していると、ひょろりと背の高い男が部屋のドアを開けて入ってきた。向かって来る上司の中川をモニター越しに捉えながら、またいつもの小言かなと身構える。彼は私の前で立ち止まると、やはりいつもの神経質な面持ちで「風間君、ちょっと」と後方を手で指した。身体を傾けると、中川の後ろにいたのは峰岸だった。

 峰岸とは、会社のレクリエーションでソフトボール大会があったときに知り合った。私の部署は人数も気概も足りずで、ソフトボールには参加しなかった。すると、どこから聞きつけたのか彼らの部署からお呼びがかかり、私は助っ人として駆り出された。私たちは二回戦で気合いの入った若手ぞろいのところにボロ負けを喫したが、一回戦では女子供も混じった和やかなムードで試合が進み、最後は私のサヨナラホームランで勝利した。
 大会のあとにはバーベキューが催された。自身が不甲斐ない成績に終わった峰岸は、顔馴染みのいない私を捕まえては皆の前で褒め称え、労ってくれた。多くの社員たちと同様に、彼もまた家族を連れて来ていた。私は少し挨拶を交わした程度だったが、彼の妻とまだ幼い二人の子供たちが楽しそうに過ごしていたのを覚えている。
 それから顔を合わせると峰岸は声をかけてくるようになり、ときには軽く飲んだりもした。その度に、おじさんラグビーチームに加わってくれと誘われ、私は「ラグビーは、ムリです。膝も良くないし」などと言って断ってきた。

 中川は私たちに視線を残しながら自らのデスクへと戻っていった。峰岸は手ぶらだった。彼の部署はかなり離れた別の棟にあり、私たちと仕事で関わる機会もほとんどない。わざわざ足を運んできたのはきっと、霧の晩のことについて話すためだろう。果たして、彼はあれから風邪をひいてしばらく会社を休んでいたと言う。
 実をいえば霧の夜が明けた日の昼休み、私は峰岸の様子を窺いに彼の部署を訪ねていた。
「休みです」
 ひとり部屋に残っていた黒縁眼鏡の女は、振り向きもせずにそれだけ言って、猛烈なスピードでキーボードを叩く手を止めなかった。どうにも取り付く島がない。さらに問いを重ねる気も失せて、私はその場を引き揚げた。以来、峰岸のことはすっかり忘れてしまっていた。

「すんごい熱が出てな、起きらんねえんだよ」
「いやあ、大変でしたね。俺も心配してたんですよ」
「なあ。俺さあ、おまえにすんごい迷惑かけたんでない?」
「いえいえ。俺はちょっと肩を貸しただけですから。そんなの気にしないでくださいよ」
 峰岸が珍しく小声でしゃべるので、私も合わせて声の調子を抑える。
「そっか……」
 彼は、作業着のポケットに右手を突っ込んだまま周囲を見渡した。部屋の中ではキーボードを操作する不規則に規則的な音と、様々な機器の放つ振動音がわずかに響くのみで、それ以外の音は聞こえない。私は腰を上げた。
「ちょっと、出ますか」
「わりいな」
「大丈夫です」
 私たちは屋外に設置された自動販売機脇のベンチに腰掛けた。風もなく、青空はどこまでも広く、はるか遠くに小さな雲がひとつ、忘れ去られたように佇んでいる。気持ちのよい小春日和だった。
「俺、ぜんっぜん覚えてねんだよ」
 峰岸はあの晩ことを説明するよう促した。かいつまんで事の次第を話す間、彼はおとなしく「うん」「そうか」と相槌を打っていた。しかし最後に、店の女と手伝いの男が彼を代行タクシーで連れ帰ったところになると「うーん」と唸って腕組みをした。
「なんか俺、気付いたら家の前でへたり込んでんだよ」
「……え?」
「てことはそいつら、俺を放り出してピンポンダッシュしやがったってことか? 顔あげたら(かあ)ちゃんがよ、すんげえおっかねえ顔して俺のこと睨んでんだよ。けど俺の顔みて、『どしたの?』って心配してさ。真っ青で、死人みてえな顔してたってよ。家入ったらなんかもう、ブルブルブルブル震えだして止まんねえの。熱はかったら四十度は超えてたな」
「ええ! 俺は峰岸さん、ただ酔ぱらってただけかと……。やっぱりもっと早くタクシーでも呼んでもらえばよかった」
「んだよ。ったぐよー……てが助けてもらっといて、んなこっと言えねえべ」
 峰岸は、うーんと伸びをして立ち上がった。それから尻の上で手を組み、しばらく身体をぶらぶらさせていた。話は終わりかなと思い、私も腰を上げかけたところで、峰岸がうつむき加減に低い声を出した。
「けど、その女--誰だっけ」
「マーヤ? か……サオリさん?」
「違う。そうそれ、そっち。サオリ! すんげえいい女だったろ」
「ですね。あんな別嬪さん、そうそういないかも」
「だろお」
 峰岸がニヤリとした。
「なあ、風間あ。今度よお、もっかいそこ、連れてってくんね?」
「は? 俺がですか?」
「だって俺、場所分かんねえし」
「いやあ、俺も覚えてるか自信ないっすよ。こっちも酔ってたし。ここら辺のことあんまり知らないし。それにほら、すごい霧だったじゃないですか……てか、懲りないですねえ、峰岸さん」
「バカおめえ、かーぜひいちまったんだもんよ。仕方ねっぺ! ……なあ、行こうぜ」
「はあ……じゃあ、こんど、時間のある時に」
「っしゃ! 次こそリベンジじゃあ!」
 どこまでも青い空に向かって峰岸は吠え、がっつりと拳を握った。
 何にリベンジするつもりなのか知らないが、また面倒なことになった。私は溜息をついた。酔っ払いに肩を貸すくらい訳はない。晩飯ついでに一緒に飲むのもたまにはいい。しかし、私はああいう類いの店に通う趣味はないし、上下関係という名で縛られた”濃い”付き合いも御免被りたかった。”やや横柄だが面倒見のよい、家庭とラグビーを愛するごく普通の会社員”という瓶容器が割れ、なにか得体の知れない中身が這い出てくるような気がした。
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