第3話

文字数 3,072文字

「お店に行くって聞かないのよ」
 横目で峰岸に視線を這わせながら、サオリはため息をついた。
「サオリさんは、峰岸さんとお知り合いなんですか?」
「ううん。”うしくら”って居酒屋あるでしょ。--峰岸さん、だったかしら」
「そうです」
 頷きながら、私は歓迎したくない答えを返されなかったことに安堵した。”うしくら”という居酒屋のことは知らないが、それは大した問題ではない。
「たまたま隣の席になって、ちょっとお話をしただけ」
 きっとそれは、どこにでもある話に違いない。
「わたし、ここで働いてるでしょ。峰岸さんに『仕事帰り?』って訊かれて、『これからなんです』って言ったの。そしたらいろいろと訊いてきて。別に隠すことじゃないし、このお店のこと話したら、いちど行ってみたいって」
 スコッチミスト。あとで教えてもらったのだが、それがこの店の名前で、”ミスト”だけでも呼ばれている。今宵にはぴったりの名前だが、いくぶんハマり過ぎの感もある。分かりにくい場所のためか、一見(いちげん)で入ってくる客は滅多にいない。
「それで、少しおしゃべりして『もう行かないと』って言ったの。そしたら峰岸さん、今から連れてってくれって、わたしの分まで払ってくれて……」
「さすがサオリちゃん! いいシゴトしてますねえ」
 マヤの冷やかしをサオリは一瞥で受け流した。私はぎこちない作り笑いで何かをごまかした。
「でもかなり酔ってたみたいで、途中座り込んじゃって」
 サオリは小さくため息をついた。
「『やっぱり帰ったほうがいいんじゃないですか?』って何度も言ったんだけど、どうしても行くって聞かないの。放っておくわけにもいかないし、でもわたしひとりじゃどうにもならないから、困ってたの」
「そうだったんですか」
 精いっぱい落ち着き払って答えたつもりの、私の胸の中はざわついていた。なぜこうも心が揺れるのだろう。私は見ず知らずの人に対して峰岸のように声をかけたりしない。しかし彼に呼び止められなければ、今ここに居合わせることもなかった。そして誰かと関われば、否応なくこの種のはなしに付き合わされる羽目になる。
「そこにたまたま、トオルちゃんが通りかかったんだ」
 マヤは呆れ顔で峰岸を見ていた。しかも彼女は私のことを、別の誰かと勘違いしているらしい。
「助かったわ。風間さんがいなかったら、わたしどうしようかと……」
 サオリはそう言って肩をすくめた。それから人差し指を唇にのせてくすりと笑い、私たちが遭遇した時のことを可笑しそうにしゃべった。
「ひどいわ、お化けだなんて」
 恨めしそうに、拗ねるように、やわらかく私を睨む。
「だって風間さん、道の真ん中でおかしな顔して止まっちゃうんだもの」
「だって峰岸さん、まさか女の人と一緒だと思わなかったし、それに……」
 言いかけて口ごもった。続きはなんだか、口にしてはいけない気がした。
「だってサオリちゃんさー、こんなすげー霧ん中でさあ、そんな真っちろな服着てたらさ、幽霊と思われても仕方なくね?」
 典型的な日本の幽霊の仕草をするマヤの視線につられて、私もサオリに目をやった。恐怖の影と、朧げな彼女の姿が再び脳裏を掠める。
「だって、こんな霧になるなんて普通、思わないじゃない」
 マヤの小さな悪意をすまし顔で跳ね返し、サオリは「ねえ、風間さん」と同意を求めた。
「ですね。僕もこんなすごい霧になるとは思いもしませんでした」
「ああっ! もうなんかやだっ!」
 ここに健全たる一人の男子がいることなど眼中にないのに違いない。マヤは無防備に脚を投げ出し、天井を仰いだ。
「あたしには『オレ、オレ』ってタメ口なのにさあ、サオリちゃんには『ボクモ、オモイマセンデシタ』って。なにそれー!」
 ぐうの音も出ないが何か釈然としない敗北に、私は苦笑いをした。サオリはただ女神のように微笑んでいた。
「もうね、あたしもそのヒトとおんなじ格好になっちゃいそう」
 マヤが姿勢を戻しながら、ソファーに横たわってたまに大きな寝息をたてる男のほうを指さす。峰岸に目をやって、三人でからからと笑った。

「二人並ぶとナントカ歌合戦みたいだね」
 重労働で醒めた酔いもまた程よくまわり、強張った身体もほぐれて、私は少し饒舌になった。彼女たちが互いを見合う。
「ふふ、そうね」
「ホントだあ。じゃあ、ナントカ歌合戦やっちゃう?」
 小躍りをするマヤのスカートの中はもう丸見えだが、なんだかあまり気にならなくなってきた。
「いや……歌は苦手で。このまま観客席でいいかな」
「わたしも。あんまり気分じゃないの」
「ええ!? じゃあ、あたし歌っていい?」
 ころん。からん。紅組歌手の執念をかき消すように扉のカウベルが鳴った。来客を告げるその音は、近くの私たちの席によく響く。
「キンちゃん」
 マヤがさっと席を立つ。のっそりと入ってきたのは、これまで見たことがないほど大柄な男だった。キンちゃんは挨拶代わりにマヤに顎をしゃくってみせた。丈足らずのアーミージャケットを開けていて、中はTシャツ一枚だ。ギロリ、と瞳だけ動かして店内を見渡すと、大男はカウンターまでのし歩き、空いていた椅子にその巨体を落とした。砲丸が着地したみたいな音と振動がした--気がした。隣の小男が気圧されたように自分の椅子を横へとずらした。
 マヤが挨拶をして私たちの席から去っていく。私は店の扉に取り付けられた、銅色をした拳大ほどの鐘鈴を見ていた。

「ねえ」
 二人きり--峰岸を除けば--になると、サオリは身体を折って私を見上げ、それまでとは違う、どこか甘ったるい口調で囁いた。
「今日はあんなところで、何をしていたの?」
 私はどぎまぎして視線を落とした。そこにはうっすら白く透けたレース生地が〇.三ミリ隔てた肉の息遣いがあり、おぼろげに沈む谷間が私の目を誘っていた。きっと何かが弾けてしまったに違いない。あらゆる言葉が頭の中で意味をなさなくなった。それを知ってか知らずか、彼女は好奇に満ちた、穢れを知らない子どものような目で私の顔を覗き込む。
「えっと、ちょっと飲んだ帰りで……」
「飲み会?」
「いえ」
「ひとりで?」
「そうです」
「あら。彼女とかいないの?」
「ああ。っていうか、もう結婚してて……」
 サオリは微動だにしなかった。そして霧の一粒ほどの表情の変化さえ見せなかった。視線はしっかりと私の目を捉えたままだったし、彼女の瞳から発せられる関心という名の光が失われていく様子もなかった。
 がっかりしたのはむしろ、私の方だ。あとほんのひととき、甘い戯れに酔い痴れたとしても、きっと罪に問われることはなかっただろうに。興醒めの事実をあっさりと自白させられて……いや、してしまったのだ。
「うそ」
 はっきりと、彼女は言った。”うそ”の二文字が、チェーンの外れた自転車を漕ぐみたいに頭の中で空まわりする。
「え」
「うそよ」
「そんなこと言われても」
「風間さんは結婚しているように見えない」
 --ちょっとこの人は、アレなのだろうか。美しいひとだけれど。
「けど、現に僕には嫁さんがいて--」
「でも、今はいない」
 サオリは私に言葉を継がせなかった。
 なんだって? なぜそれを知っている。まさか、監視でもされているのか……いやいやいやいや、そんなはずはない。理由がない。
「確かに……いまは単身赴任ですけど」
「ね、当たった。じゃ、独身みたいなものでしょ?」
 サオリは私のグラスを手に取ると、トングで挟んだ氷を中にころんと落とした。
「だいたい分かるの。そういうことって」
「へえ、すごいな」
 そんなものかと、素直に感心した。
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