第10話

文字数 3,430文字

「ごめんなさい。みっともないとこ見せちゃって」
「いえ、そんな……」
 それ以上、口から言葉が出てこなかった。会話べたなうえに思考回路がショートしたせいもあるが、自分の声が頭の中で奇妙に響いて不快だった。眩暈のあと、血の気がひくような感覚はじわりと続いていたのだが、どうやら耳の調子もおかしくなってきたようだ。
 さっきの毒気にやられたのか……いや。
 たぶん、そればかりが原因ではない。店に入る前から、私は自分の体調が万全でないことに気づいていた。酒が進めばマシになるかと思っていたが、どうも今日はそういうわけにいかないらしい。
「また来てくれたのね」
「ええ。……でも、今日じゃない方がよかったかな」
「ううん、そんなことない。うれしいわ。……さっきのは気にしないでね」
「……訊かない方がいいんでしょうね」
 ひとり言のように呟く覇気のない私を眺め、微かに逡巡の表情を見せたあと、サオリは「そうね」と呟いた。
「サオリちゃん! どうもお!」
 闘志あふれる声が、弱った鼓膜を直撃する。おまけに唾も飛んできた。
「こないだ俺とさ、うしくらで飲んだの覚えてる? いやあ、なーんか情けねえとこ見せちまってさあ。いつもはどんだけ飲んでもあんな風になることないんだけど、風邪ひいちまったみたいで。すんごい熱出てさ。ほら、俺ラグビーやってんじゃん? たぶんそんとき、体冷やしちまったんだろうなあ。あんな熱でたの久しぶりでさ、ホント参ったよ。もっと早く来てサオリちゃんに会いたかったんだけど、俺、ここ分かんなくてさ。こいつに案内させて、やっと来れたんだよ。今日は俺、ぜってえあんな風になんねえから」
 俺はその辺の石ころじゃねえんだとばかりに、峰岸がまくし立てる。サオリは「そう」と言って視線を店の端から端へと這わせ、「大変だったのね」と付け足した。
「やー会いたかったよー。あんときは超たのしかったもんなあ。ずっと気になってたんだよ、俺」
「ありがとう、峰岸さん。今日もゆっくり楽しんでいってね」
 サオリは微笑んで、黒づくめの男の方へ目配(めくば)せをして頷いた。
「でもこんな店あるなんてぜんっぜん知らなかったよ。ちょ……」
「ごめんなさい。すこし、失礼するわね」
 なんとかしてゲインを狙おうとする勇猛果敢な闘士をいなし、サオリはカウンターから離れていった。はっとなって私はサオリの姿を目で追いかけた。
 まさか、レイカと延長戦でもするつもりなのか。
 サオリは白髪の男のテーブルに向かい、親しそうに挨拶をすると隣に腰を下ろした。店はさきほどのアクシデントなどなかったように賑やかさを取り戻していた。そして、この場にはすでにレイカの気配はないように思われた。

「なあ、おまえ何やらかしたんだよ」
 私たちの前から誰もいなくなると、峰岸が私に囁いた。彼もすこしは私のことを心配してくれているのかもしれない。
「なんもしてないです、俺は……」
「けど、普通じゃねえだろ、あれ。あんなおっかねえの、いままで見たことねえぞ」
「俺もわけが分からんです」
「ひょっとしておまえ、もうサオリとデキてんの?」
「んなことあるワケないじゃないですか。俺だってここ来んの、二回目なんですよ」
「だよな。でもま、あのブッサイクとサオリじゃ、相手んなんねえけどな」
 峰岸はげらげらと笑ってグラスを空けると顔を横に向け、サオリの姿に目を留めた。     
 ブサイク? レイカが?
 サオリ贔屓が故の誹謗かと思ったが、峰岸がレイカに関心を抱く素振りは終始なかったから、実際彼にはレイカがそんな風に見えるのかもしれない。目に特殊なフィルターでもついているのか。それとも見た目の華やかさではなく、内面のことを言っているのだろうか。
 いや、ただ単に好みの問題だろう。
 鳴り出したカラオケの音に、私は顔をしかめる。疫に憑りつかれて(いびつ)な増幅装置と化したそれぞれの頭部器官は、さして気にならないはずの音を呪いの反響へと変え、私自身を傷つけた。

 そんな中でもカウベルの響きが不思議と耳に届く。何気なく振り向くと、着物姿のマダムが入り口に向かうのが見えた。私はカウンターに向き直り、自分のグラスを見つめながら絶え間のない音の洪水に耐えた。カウベルがふたたび鳴る。おそらく満席を理由に断ったのだろう。程なくして、うぐいす色をした着物姿が私たちの前に立った。氷の欠片だけになった峰岸のグラスを手に取りながら、私のほうを向く。
「トオルちゃんね。また来てくれてありがとね。で……」
「俺は峰岸」
 ぶすっとした、低い呟きが突き刺さる。
 知らねえ! 俺のせいじゃねえから、と私の中の誰かが吠えた。
「峰岸ちゃんね。あたしがここのママやってます。こないだはどうもね。峰岸ちゃん、なんか風邪ひいちゃったんだって? タイミング悪かったねえ。あたし二人とももうこんな店来ないかと思ってた」
 ママはそんな意味のことを小鳥のさえずりのように早口でしゃべった。私にはまだ、こちらの会話が聞き取れないことがある。特に今日は耳の調子も良くない。
「風邪はきつかったけどな。でもこいつが、どうしても行きてえって言うもんでな」
 背中をぼんぼん叩かれて、私は(むせ)た。口から魂が飛び出た。三立方センチメートルくらい。私の気分は悪くなる一方だった。いっそ幽体離脱でもできたら楽になれるかなと考えた。
「サオリちゃんのこと、お気に入りだもんねえ」
 いつの間にかそばに立っていたマヤが、微妙に曖昧な言い方をする。
 絶対わざとだろう、マーヤ。ちゃんと主語を……というか余計なこと言わないでくれ。
 マヤの茶化しに切り返そうとしたラガーマンを制し、ママが身を乗り出した。
「ねえ、トオルちゃん大丈夫? なんか顔色悪くない?」
 大袈裟に問いかけて、心配そうにこちらを覗きこむ。おそらく、私は相当生気のない顔をしているのだろう。「大丈夫です」と答えたものの、本音ではもう帰って休みたいと思っていた。昨日までの疲れも貯まっていたし、今日は酔い方もすこぶる悪い。身体の怠さはひどくなる一方で、ただ椅子に座っているだけのことが苦痛になってきた。
「なんで風間ばっかモテんだよ。納得いかねえ!」
 言いたいことは分かる。だけど峰岸さん、頼むからいちいち大きな声を出さないでくれ。
 たいして取り柄もない私をめぐり、女と女が激しい争いをする--そんなことはあり得ないのだ。これまでもそうだったし、これからもきっとそうだろう。しかも、私には身に過ぎる華をもつおんなが二人、出会って間もないというのに、だ。おとこ冥利に尽きる、などと鷹揚にかまえる気にはとてもなれない、が……。
「それはねーわ。はははっ」平然と言い放ち、マヤが笑う。
 上等だ。きみは純で淡いおとこ心を、いつもいつも挫いてくれるな、きっちりと! だが、きみは正しい。無念ではあるが。
 身体の不調は内面にも影響を及ぼすものだ。私の内なる声はすっかり雑でいい加減なものになってきた。
「じゃあ、さっきのあれは何なんだよ?」
 峰岸はまだ不服そうだった。しょせん彼は彼の利益を追求しているに過ぎないのだろうが、彼は私が口にできない疑問を代弁してくれていた。
 そう、いったい俺は、何に巻き込まれたというのだ。
「さあねえ。つまんない意地の張り合いじゃない? 違った。トオルちゃんの引っ張り合いか! チギれるまでだって。ねえ? ああ、怖い怖い」
 言葉とは裏腹に、マヤはワクワクが止まらないといった顔をした。ママが「よしなよ」と一睨みするが、まったく意に介する様子はない。
「あのふたり、昔っからあんな感じだったらしいよ。いわゆる”インエン”ってやつ?」
「いんえん? それを言うなら因縁じゃねえの」
 いまだご機嫌ななめの峰岸ではあったが、そこはすかさず突っ込んだ。
「えー、なに? いんねん? あれ、”いんねん”って読むの? ずっと”いんえん”だと思ってたよ。なんだ峰岸ちゃん、かしこいんだね!」
「バカ言ってんじゃねえ。常識だっぺ」
「あたしバカだからさあ、結構いろんなこと間違ってんだよねえ。こないだまでずっと、なんだっけ、ヒグチって人のこと、ユグチって思ってたし」
「あ? ってあの”木へんに通る”、みたいな樋口?」
「たぶん……」
「なんだそりゃ。わけ分かんねえ。なんでそれがユグチになんだよ」
「わかんねーよ。なんか似たような字があんじゃね?」
 それから峰岸とマヤは、”樋”に似た漢字をめぐり、ああだこうだとやり始めた。
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