第7話
文字数 2,828文字
居酒屋を出て、街路樹がとめどなく葉を落とす中を私たちは歩き、大通りから脇道を二回ほど折れたところに店を見つけた。何度か間違えたが、どうにか辿り着くことができた。疲れのせいか、こめかみあたりが少し疼く。
「おお、こんな処にあんだ! そりゃ分かんねえだろ」
気合を入れるように声を張り、峰岸は店へと突き進んだ。彼の背を追う私の眼に、ほのかに灯る黒地の看板が映る。小さく”Lounge”とある下に、筆記体で”Scoth Mist”の文字が、琥珀色に浮かんでいた。ラウンジ・スコッチミスト。
「いらっしゃいませー」
カウベルが鳴り、応じる女たちの声が響く。
「あれえ。今日は”お二人とも”、お元気で!」
前よりはいくぶん露出の抑えられた、赤地にチェック柄のドレスを纏 った女が私たちを出迎えた。
「いきなりかよ! ははっ、言ってくれんじゃん」
お見舞いの一発を受けて立つ峰岸の声が、まだ賑わいのない店内に反響する。私たちはカウンター席へと案内され、マヤ、ユミ、そしてレイカの三人がカウンターの中に並んだ。レイカに見覚えはなかった。
「サオリちゃんは?」
峰岸が店内を見回した。先客は一組しかおらず、彼らは着物姿のマダムと身を寄せあい、ひそひそと話しこんでいる。サオリはまだ来ていないということだった。
「なんだ。俺ら、早く来すぎちったかな」
峰岸の前に立ったマヤが、ほら来たとばかりに冷やかしのギアをあげる。
「えーなになに。さっそくサオリちゃん目当てなの? ね、ねぎ--」
「峰岸さん」
三人官女の中央--残念ながら盃を乗せる台は掲げていない--に立つユミが、間髪いれずに訂正してマヤを睨む。よくあることなのだろう。
「そうそう! ネギシちゃんだよ!」
相変わらずの調子である。
「こら。”み”ねぎし、な。目当てっつうか、こいつがまた行きてえって言うもんだから仕方ねえだろ。だったら俺も、この前のことサオリちゃんに詫びとくかってことで」
「峰岸ちゃん、ずっと寝てたもんねえ」
「俺、そんな寝てた?」
「そりゃもう、ぐっすりと」
「あちゃー。サオリちゃんの前で?」
「死んでんのかと思ったよ」
「おい! ヒトを簡単に殺すんじゃねー」
峰岸が鼻息を荒くしてふんぞり返る。不敵な笑みを浮かべる女たちの目が妖しく光った--気がした。ユミに促されて乾杯をするまで、私は一言もしゃべらなかった。
「峰岸ちゃんさあ。サオリちゃん、サオリちゃんて言うけど、このまえ送ってったのあたしなんだからね」
迂闊 なマヤの牽制に、峰岸は俄然色めき立った。
「あーっ! 俺をゴミみてえに捨ててったのって」
「いや、だってああしなかったらヤバかったし。ぜったい奥さんとかいる家じゃん。もし出てきちゃったりしちゃったら--」
「だったら起こしてくれりゃいいだろ」
「だからー、ぜんっぜん起きなかったんだってば! こっちだって大変だったんだかんね。免許証見て、住所探して。でもお金とかちゃんとあったでしょ」
「知るか! 凍死したらどうすんだよ」
「生きてんでしょうよ」
「あんなあ。言っとくけど俺、あのあと風邪ひいて大変だったんだかんな」
「それはお気の毒さま。ってお店来たとき、もうひいてたんじゃないの?」
「ふざ--」
「ストォップゥ!」
中断の笛を吹いたのはやっぱりユミだった。
「まだ来たばっかでしょお。ちょっとやめてよお。さっきからトオルちゃん困ってんじゃん」
一斉に集まる視線に、思わぬ大抜擢を受けた地味な主人公よろしく私はうろたえた。
ちょっとやめてよ! こっちに話振らなくていいのに。
それに、少なからず責任は私にもあるのだ。しかし彼らが私に向けた注意は一瞬で、取るに足らぬ駒はすぐに忘れ去られ、みな主戦場へと戻った。
それにしても峰岸さんとマーヤ、初対面でいきなりこれはないだろう。こっちは仕事で疲れているというのに、酒だってちっとも旨くない。どうも気が進まなかったのは、きっとこんな展開を予感していたからだ。でも彼にはこれも店に馴染むきっかけ、そしてただのストレス発散なのかもしれない。考えてみれば--ラウンジとか、スナックとか、クラブといった店の違いは分からないが--ここはそういう場所なのだ。私のほうが相応しい客ではないのだろう、たぶん。この前は状況が普通じゃなかったし。
次々に投げ捨てられる言葉の骸 が累々として山をなす麓 で、ぼんやりとそんなことを思いながら私はグラスを傾けた。いきなりドスンと何かが落ちてきて、口にしかけたグラスの中身が飛んだ。水滴が私の頬を冷やす。
「なっ? 風間!」
バカでかい声が、遅れて耳を直撃する。私の肩に、むっくりとした毛深い手が載っていた。
あらら、彼らの話にまるで身が入ってなかった。
仕方なく私は「ええ、まあ」と曖昧に返事をした。
「え、マジかよ」
「ええっ、マジで!?」
峰岸が口元を引きつらせて身体を引く。ドン引きなんですけど、という顔をマヤもする。
やば。予想外の反応だ。
「え、なんですか? すみません。ぜんぜん聞いてませんでした!」
峰岸は呆れ、それから真面目なのか不真面目なのか分からない顔を私に近づける。
「ボーっとしてんじゃねえよ。だからおまえさ、幽霊とか見えんの?」
「は?」すっ頓 狂な短音と疑問符が飛び出た。
なんだよ、あわてて損した。つまんない話だな……。でもまあいいや、乗ってみっか。
「ああ、そんなんだったら、あそこにもいますよ」
私は身体をひねって店の入り口--カウベルの辺り--を指さす。
「ほら、あそこ」
「え」「ヤダ、やめてよ」
マヤとユミが同時に声をあげ、視線を泳がせる。と、ころん、とカウベルが笑い、店の扉がすっと開かれた。
「ぎゃあああ!」「うおっ」「ひっ」
マヤの絶叫が店を揺るがし、峰岸が仰 け反って椅子をひっくり返しそうになり、ユミが両手で口を覆う。顔をのぞかせた男がぎょっとして動きを止めた。内側のドアノブに手をかけ、半身になって何ごとかと目を見開いている。ひそひそ話の客たちも顔を上げ、着物のマダムはこちらを振り返り、顔をしかめた。
「タイミング良すぎ……。てか悪すぎ」
呟いてユミがため息をつく。
「おったまげたあ。トオルちゃんマジやめてよね!」
マヤはひと睨みすると「ごめんねー。びっくりさせちゃったあ?」と、動きを封じられ、おどおどするばかりの客を迎えに行った。
「オレ、入ってよかったの?」
疑問と戸惑いと安堵に、若干の不満を加えた声が聞こえてくる。おどけて宥めるマヤの嬌声が続く。私だって驚いたのだが、ともかく苦笑しながら恐縮して詫びた。女たちが用意を整えに動く。
「なあ、おまえ、トオルちゃんて呼ばれてんの?」
峰岸がニヤニヤしながら私を見た。
「なんだっけ。バブルの頃だよな。サラサラヘアーで、真ん中分けで。トゥレンディーってやつ。ただしイケメンに限る」
「ちょっと……分かんないです」
マヤはそのまま私たちから離れ、峰岸の前にユミが、私の前にはレイカが立った。
「おお、こんな処にあんだ! そりゃ分かんねえだろ」
気合を入れるように声を張り、峰岸は店へと突き進んだ。彼の背を追う私の眼に、ほのかに灯る黒地の看板が映る。小さく”Lounge”とある下に、筆記体で”Scoth Mist”の文字が、琥珀色に浮かんでいた。ラウンジ・スコッチミスト。
「いらっしゃいませー」
カウベルが鳴り、応じる女たちの声が響く。
「あれえ。今日は”お二人とも”、お元気で!」
前よりはいくぶん露出の抑えられた、赤地にチェック柄のドレスを
「いきなりかよ! ははっ、言ってくれんじゃん」
お見舞いの一発を受けて立つ峰岸の声が、まだ賑わいのない店内に反響する。私たちはカウンター席へと案内され、マヤ、ユミ、そしてレイカの三人がカウンターの中に並んだ。レイカに見覚えはなかった。
「サオリちゃんは?」
峰岸が店内を見回した。先客は一組しかおらず、彼らは着物姿のマダムと身を寄せあい、ひそひそと話しこんでいる。サオリはまだ来ていないということだった。
「なんだ。俺ら、早く来すぎちったかな」
峰岸の前に立ったマヤが、ほら来たとばかりに冷やかしのギアをあげる。
「えーなになに。さっそくサオリちゃん目当てなの? ね、ねぎ--」
「峰岸さん」
三人官女の中央--残念ながら盃を乗せる台は掲げていない--に立つユミが、間髪いれずに訂正してマヤを睨む。よくあることなのだろう。
「そうそう! ネギシちゃんだよ!」
相変わらずの調子である。
「こら。”み”ねぎし、な。目当てっつうか、こいつがまた行きてえって言うもんだから仕方ねえだろ。だったら俺も、この前のことサオリちゃんに詫びとくかってことで」
「峰岸ちゃん、ずっと寝てたもんねえ」
「俺、そんな寝てた?」
「そりゃもう、ぐっすりと」
「あちゃー。サオリちゃんの前で?」
「死んでんのかと思ったよ」
「おい! ヒトを簡単に殺すんじゃねー」
峰岸が鼻息を荒くしてふんぞり返る。不敵な笑みを浮かべる女たちの目が妖しく光った--気がした。ユミに促されて乾杯をするまで、私は一言もしゃべらなかった。
「峰岸ちゃんさあ。サオリちゃん、サオリちゃんて言うけど、このまえ送ってったのあたしなんだからね」
「あーっ! 俺をゴミみてえに捨ててったのって」
「いや、だってああしなかったらヤバかったし。ぜったい奥さんとかいる家じゃん。もし出てきちゃったりしちゃったら--」
「だったら起こしてくれりゃいいだろ」
「だからー、ぜんっぜん起きなかったんだってば! こっちだって大変だったんだかんね。免許証見て、住所探して。でもお金とかちゃんとあったでしょ」
「知るか! 凍死したらどうすんだよ」
「生きてんでしょうよ」
「あんなあ。言っとくけど俺、あのあと風邪ひいて大変だったんだかんな」
「それはお気の毒さま。ってお店来たとき、もうひいてたんじゃないの?」
「ふざ--」
「ストォップゥ!」
中断の笛を吹いたのはやっぱりユミだった。
「まだ来たばっかでしょお。ちょっとやめてよお。さっきからトオルちゃん困ってんじゃん」
一斉に集まる視線に、思わぬ大抜擢を受けた地味な主人公よろしく私はうろたえた。
ちょっとやめてよ! こっちに話振らなくていいのに。
それに、少なからず責任は私にもあるのだ。しかし彼らが私に向けた注意は一瞬で、取るに足らぬ駒はすぐに忘れ去られ、みな主戦場へと戻った。
それにしても峰岸さんとマーヤ、初対面でいきなりこれはないだろう。こっちは仕事で疲れているというのに、酒だってちっとも旨くない。どうも気が進まなかったのは、きっとこんな展開を予感していたからだ。でも彼にはこれも店に馴染むきっかけ、そしてただのストレス発散なのかもしれない。考えてみれば--ラウンジとか、スナックとか、クラブといった店の違いは分からないが--ここはそういう場所なのだ。私のほうが相応しい客ではないのだろう、たぶん。この前は状況が普通じゃなかったし。
次々に投げ捨てられる言葉の
「なっ? 風間!」
バカでかい声が、遅れて耳を直撃する。私の肩に、むっくりとした毛深い手が載っていた。
あらら、彼らの話にまるで身が入ってなかった。
仕方なく私は「ええ、まあ」と曖昧に返事をした。
「え、マジかよ」
「ええっ、マジで!?」
峰岸が口元を引きつらせて身体を引く。ドン引きなんですけど、という顔をマヤもする。
やば。予想外の反応だ。
「え、なんですか? すみません。ぜんぜん聞いてませんでした!」
峰岸は呆れ、それから真面目なのか不真面目なのか分からない顔を私に近づける。
「ボーっとしてんじゃねえよ。だからおまえさ、幽霊とか見えんの?」
「は?」すっ
なんだよ、あわてて損した。つまんない話だな……。でもまあいいや、乗ってみっか。
「ああ、そんなんだったら、あそこにもいますよ」
私は身体をひねって店の入り口--カウベルの辺り--を指さす。
「ほら、あそこ」
「え」「ヤダ、やめてよ」
マヤとユミが同時に声をあげ、視線を泳がせる。と、ころん、とカウベルが笑い、店の扉がすっと開かれた。
「ぎゃあああ!」「うおっ」「ひっ」
マヤの絶叫が店を揺るがし、峰岸が
「タイミング良すぎ……。てか悪すぎ」
呟いてユミがため息をつく。
「おったまげたあ。トオルちゃんマジやめてよね!」
マヤはひと睨みすると「ごめんねー。びっくりさせちゃったあ?」と、動きを封じられ、おどおどするばかりの客を迎えに行った。
「オレ、入ってよかったの?」
疑問と戸惑いと安堵に、若干の不満を加えた声が聞こえてくる。おどけて宥めるマヤの嬌声が続く。私だって驚いたのだが、ともかく苦笑しながら恐縮して詫びた。女たちが用意を整えに動く。
「なあ、おまえ、トオルちゃんて呼ばれてんの?」
峰岸がニヤニヤしながら私を見た。
「なんだっけ。バブルの頃だよな。サラサラヘアーで、真ん中分けで。トゥレンディーってやつ。ただしイケメンに限る」
「ちょっと……分かんないです」
マヤはそのまま私たちから離れ、峰岸の前にユミが、私の前にはレイカが立った。