第12話

文字数 4,087文字

 耳ざわりな音がした。

 瞼があき、闇が(おもむろ)に光で満ちてくる。その強さに追いつかぬ右の目を庇おうと布団を--つかむことが出来ず、枕で顔を覆った。不快な耳鳴りが、頭骨を波状的に締めつける。私は着のみ着のままで布団の上に伏していた。
 ぽとりと。
 それは落ちてきて、頸筋をそそっと這う。身体が跳ね上がった。部屋の明かりが眼に痛い。奇妙な感触の残るところを撫でてから、視線を落とす。冷え切った足もとを、小さな八本の脚がちろ、ちろと動いていた。その様子に見入っていると、なんだか目の前が揺らいでくる。
 脅かすなよ。調子が良くないんだ。
 それでも私は寛大な心でもって、このリトルモンスターを許してやった--つもりだった。
 ぷつりと蜘蛛の腹部が割れ、小さな(つぼみ)みたいなものが顔を出したかと思うと、するすると茎が伸び、やがて鮮やかな赤の花を咲かせた。みるみるうちに花は大きくなり、視界を覆いつくすほどになる。見えないところから蔓のようなものが伸びてきて、私の身体を絡めとった。身動きが取れない。視線を前に移すと、黒光る、巨大な四つの球体に私の顔が映っていた。彼の目に悪意はない。ただなんの躊躇いもなく、毛むくじゃらの触肢がこちらへと伸びてくる……。

 がばりと顔をあげた。私はベッドに腰かけていた。おぼつかぬ意識のまま、あたりを見渡す。花は咲いてない。蜘蛛の姿もない。部屋の中に変わったところは何もない。しかし網膜に映る景色は頼りなげに揺れていた。酔いが醒めていないのか、病にでも罹ったのか。いずれにしろ気分は最悪だ。
 だんまりを決めこむ空調機をひと睨みして、私はリモコンを操作する。フード付きの上着を脱ぎ捨てて、部屋の明かりを消すと毛布の下に潜り込んだ。
 硬い感触を覚えて手に取ると、携帯電話機の片隅が点滅していた。時刻は午前三時すぎ。メールの受信箱を開くと、送信者は”さおりさを”とある。

--サオリです。
  風間さん、今日はせっかくお店に来てくれたのにごめんなさい。体調はどうですか?熱など出ていませんか?
  実はみねぎしさんがお店に時計を忘れていかれました。連絡先が分からないので、風間さんからお返ししてもらえないでしょうか。体調が良くなられたら、一度お店に寄っていただけるとありがたいです。お手を煩わせて申し訳あ……

 私の意識はふたたび暗闇に落ちた。

 スコッチミストの前に、私は立っていた。扉を開けて中に入る。照明は薄暗く、人の気配が感じられない。うち捨てられたような虚しさだけが漂っていた。フロアのまん中で、私は所在なく立ち尽くした。
 バシャン。
 そう聞こえた気がした。不意に弱くなった光をもとめ、私は天井を見上げる。扉側の照明が一列、消えていた。眺めていると、さらに二列目、三列目と店の奥に向かって明かりは消えていき、最後にカウンターまわりの灯りがそっと消えた。
 消えゆく光の中に、なにかの影が映った気がした。が、その残像もほどなく霧消してしまう。真っ暗闇の世界に、私はひとり取り残された。誰かいないかと声をあげる。それは暗闇に飲まれるばかりで誰にも届くことはない。
 仕方がないので、私は出入口と思しき方を探り歩いていく。
 たぶん、この辺りだ。
 そう思い、腕を伸ばしたとき、出しぬけに脳みそを吹き飛ばされた。理解を絶する凄まじい魔の雄叫びに、私はよろめき耳をふさいだが、それは全く無意味だった。正体の知れぬ地獄の門番が与えてくる絶え間ない衝撃は、容赦なく脳髄を直撃し、揺さぶり潰していく。私は膝から崩れ落ちた。頭が破裂してしまいそうだった。
 あいつだ、あのカウベルだ!
 そう確信して、尻をつき後ずさりながら勢いをつけて身体を転がせた。カウンターと椅子の脚にぶつかって身体が止まる。呪いの絶叫はすっと止んだ。椅子を押しのけて、カウンターに寄りかかる。乱れる呼吸と思考に苛まれながらも、私は自分のおかれた状況を正確に認識した。
 閉じ込められた。
 おののく脳裏に、むかしの記憶がよみがえってくる。
 そうだ。俺は以前もこんなふうに、長いあいだ閉じ込められたんだ。……いや、ちがう。そんなはずはない。そんな経験は一度もない。……あれは夢だ。いまも夢の中だからそう思うんだ。
 しかしたとえ夢でも、この牢獄から抜け出すことは不可能だと、もうひとりの私が告げていた。どこの誰の仕業か知らないが、これは私を閉じ込めるという明確な意志のもとに準備された罠だ。現実でも夢でも、私はこの場から逃れることは出来ない。どうしようもない無力感が、私の身体を浸していった。

 どれくらいの時が経っただろう。ふっと、意識の灯が(とも)った。
 いや、かならず出口があるはずだ。あいつが睨みをきかす扉ではない出口が、きっとこの店のどこかに……。
 カウンターに触れながら慎重に中へ入り、私はうろうろと周囲を手探った。瓶容器らしきものを蹴飛ばして、冷やりとする。さいわい、呪いの鐘は反応しなかった。立ち止まったついでに、カウンター内に非常口があるはずない、と思いなおして引き返した。
 ケータイが照明の代わりになりそうだと気づき、手に取って開いてみる。画面は暗いままだった。電源ボタンにも反応しない。肝心なときに役に立たないと毒づきながら、なんとか店の奥--ちょっとしたキッチンや、女たちが身なりを整えたりする控室--と思われる場所に辿り着いた。あちこち探っていると衣擦れの感触があって、さらに腕を奥に突き出すと、円形をした金属を探り当てた。おんなの匂いが仄かにたつ衣装をかき分け、私は息せきって錠を外し、ドアノブを回した。

 細かな雨を落とす雲が、夜空を覆いつくしていた。それでも微かな月明かりが雲間から漏れて、この世界を照らしていた。難攻不落の監獄からはどうにか脱出できたようだ。
 しかし、ここはどこだ。
 私が立っているのは、だだっ広い石畳の上だった。暗くて周りはよく見えない。白っぽい石畳が整然と敷かれた道は、前方へと真っ直ぐに伸びていた。音もなく落ちてくる雨の中、私は石畳の上を歩いていった。どこに辿り着くのか見当もつかない。と、なにかに蹴躓(けつまづ)いて前方によろけた。ころころと転がってきたものが、私の足元をこえて動きを止める。
 女の生首だった。
 耳目にかけて半分欠けた頭。残った片目が虚空を見据え、なお不敵な笑みを口に湛えながら、それは転がっていた。
「マーヤ!」
 声が声になったか定かでない。思わず飛びのいてバランスを崩した。尻もちをついた私の横から、ふうっと何ものかの気配が近づく。身の毛がよだち横を見上げると、白い女の顔があった。ミストの暗がりに浮いていた、あの顔だ。身に纏っているのは、いわゆるゴスロリ調の黒服のようだった。私には目もくれず、ぞっとするようなあの眼つきで、女はマヤの首を見下ろしている。そして、すっと身をかがめたかと思うと、全身から凄まじい瘴気の渦を巻き起こした。私は顔を背け、目を開けていることができなかった。
 数秒後、私は巨大な獣の腹の下にいた。驚愕の声が喉に詰まり、このバケモノに押し潰されぬよう這い出るのが精一杯だった。長い鼻に尖った耳をもつ黒い獣の化身は、牙をむいたかと思うと、哀れなマヤの首を口先でつまみ、呑み込んだ。戦慄に凍る私の喉から、悲痛の叫びは出てこない。
 次は、俺の番なのか。
 頭がおかしくなりそうだった。金縛りみたいに封じられた身体は、ただ震えるばかりだ。そこへさらに、豪っという唸りとともに、突風が叩きつけられた。
 瞬く間に、もう一匹の巨大な化け物が、私を挟んで黒い巨獣の反対側に傲然として降り立った。獅子にも似た顔つきで、びきびきと放電の光を撒き散らしている。その白銀色に輝く獣の背には、長い総白髪の男が乗っていた。この男にも見覚えがある。私は逃げ出すことができない。腰を抜かすとはこういうことなのだろうか。
 彼らは遥か上空を睨んでいた。まるで私など目に入っていないようだった。黒い魔獣が号砲の唸りをあげ、彼らは同時に跳んだ。またしても起こる一陣の強風に目を細めながらも、ようやく立ち上がることができた私は、目で彼らの姿を追う。
 上空には、なにやらとてつもない大きさの、どす黒い何かがうねっていた。獣たちがそのうねりに向かって消えていく。やがて閃光と激しい炎が飛び交い始める。雷鳴と業火、咆哮と爆裂音が闇を切り裂き、下界のものたちを振るいあがらせた。

 私のそばに、猛烈な勢いでなにかが落ちてきた。ごうんと石畳が割れ、はじけ飛ぶ。白髪の男の胴体が半分に千切れ、横たわっていた。続けざまにもう一つが、どさりと落ちて地を転がる。獣化を解かれた黒服の女だった。左肩から先の腕はもぎ取られ、血が噴き出している。それでも女は無言で立ち上がった。無表情のまま白髪の男に寄って見やり、ふたたび上空を睨むと地面を蹴って舞い上がった。
 ぼた、ぼたぼたぼた。
 肉片や血が、小雨に混じり乱れ落ちてくる。決着がついたのか。見上げると、どす黒いうねりの中に、あらゆる善良なものを憎悪する赤い目玉がこちらを睨んでいた。
 この闇夜を席巻する、あれはいったい何なのだ。
 地の底から響くような、低く、おぞましい唸り声が、この世界の終わりを宣告した。同時に地面がズシン、と沈む。それから、ご、ご、ごごごごという地響きとともに激しい揺れが襲ってきた。とてもではないが立っていられない。歪んだ石畳が座布団のようにめくれあがり、近くの地面が轟音を立てて割れる。凄まじい爆発と破壊音が追い打ちをかけ、夜空を焦がす。
 いままさに、私は世界が崩壊するのを目の当たりにしているのだ。ふっと頭上が暗くなって、私は空を仰いだ。赤黒い炎の尾を引きながら落ちてくるのは、巨大な隕石だった。
 ちがう。
 数多(あまた)のぶつぶつの陰影。巨大な長い耳。それはゆっくりと回転しながらこちらへ迫ってくる。やがて、慈しみを湛えた細い目が、私の姿を捉えた。
 ほとけ……さまの……首?
 その大いなる慈悲に満ちた御大顔から逃れる術はない。悟りも諦めもない。全ては終わるのだ。
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