第8話

文字数 3,604文字

 それまでほとんど口を開かなかったレイカは、まわりから一歩引くようにして佇んでいた。(そむ)けたはずの眼がいつの間にかまた釘付けにされている、そんな立ち姿の彼女は、重厚なワインを思わせる色のドレスに包まれていた。分けた前髪をこめかみの両脇に垂らし、あとは後ろでまとめ上げている。退屈に彩られたような、そうともいえないような気怠さを漂わせ、ときどき煙草に火をつける。
 不遜という名で縁取られた目に浮かぶ瞳に、虚ろな情念の炎が揺れていた。その眼で見据えられれば、心の有りようは(おもむろ)に混迷と畏怖へと染まっていく。そして(ぬめ)る血のような唇は、開けば果てのない痴情に引きずり込む罠だ。ひとたび女がその気になれば、呪縛から逃れる術は、ない。
 誰しもが求めて止まぬもの。そのひとつは魅力に違いないが、強すぎるそれは翻って怖ろしいものだ。それでも触れてみずにいられないだろう。焼かれる予感に酔い痴れながら炎に舞う、闇夜の蛾のように。

「トオルちゃん、でいいの?」
 射すくめられた獲物との距離をそれとなく縮めながら、レイカは表情を和らげた。豊かなふくらみを見せつけるように身体を折り、カウンターに肘をつく。テーブル席とは違い、カウンターという絶対的物理的障壁が、必要以上の接近を阻んではくれる。それでもあるべき秩序を維持することは困難だった。
「いや、ホントは違うんですけど--」
「ホントを教えて」
「翔平。--風間翔平です」
 彼女は「ああ」とくちびるを開き、そういうことね、というように目を細めた。隣では峰岸がユミを相手に旅先の話題でもりあがっている。
「ここのひとたち、みんな古いし、女は面食いだから」
 私と似ているならトオルちゃんは面食われるほどのイケメンではないと思うが、とにかく私はおんなの退屈にふたたび置き去りにされぬ言葉を求め、土煙を上げるばかりの乾いた地を必死で掘った。
「そう呼ばれたことは今までないです。ここに来て初めて……マーヤに言われたんですよ。普通はショーヘーとか、子どもの頃はしょうちゃん、くらいですかね。レイカさんは--」
「レイカ」
 なにを間違えたか分からない。
「レイカって呼んで」
「……レイカはこのまえ、オ……」咳払いをした。「俺がこのまえ来たとき、いた?」
「いないと思う。わたしは来たり、来なかったり」
「そうなんだ」
「でも、これからはショーヘーに会いに来る」
 これはもちろん、間違いなく、いわゆる営業トークというやつだ。勘違いをしてはいけない。退屈を捨て、見返りに得たものを楽しむかのような目をして、レイカは私を見据える。
「迷惑?」
「いや。そんなわけない……けど、まだ会ったばっか--」
「ヒトメボレかも」
 私は腕を組んでカウンターの上に載せた。
 ひと目惚れ。そのひと言を、なぜそう簡単に口にするのか。いったいこの俺にどう答えろというのか。しかし、よく分かった。つまりは絶望的に経験値不足なのだ。だがしかし、これは経験でどうにかなることなのか。
「なんてね」
 がくっとカウンターから左肘が落ちる。レイカはくちびるに指を当て、くっくと笑った。カウンターのつまみ皿に手を伸ばし、容赦ない嘲りの洗礼に引きつる私との隔たりをさらに縮める。ぬらりとした漆のような光沢の赤いネイルには、金色の奇妙な模様が描かれていた。
「フジュンなこと考えてた罰。ほら、あーんしなさい」
 みずからの唇をなまめかしく開き、レイカがオンナの手つきでひと粒のチョコレートを私に突きつける。罪状は認めがたいものだし、このまま受け入れたらまるでバカではないかと内心憤慨したが、抗うのはもっとバカな気もして、けっきょく私は口を開いた。
 ほろ苦くて甘い毒を、レイカは指ごと私の口にねじ込んだ。私は馬鹿みたいに目を見開いた。汚れるのもかまわず、むしろ汚されるために、レイカはその麗しい食指をやさしく、きつく私の舌に圧しつけた。食い込む痛みが徐々に苦痛から恍惚へと変わり、抵抗の炎を鎮めていく。ひとしきり甚振(いたぶ)り終えると、ゆるりと離された同じ指が同じものをつまみあげ、オンナの唇がふたたび開かれる。まだ満たされぬ眼でこちらを見つめながら毒の粒を口に含んだレイカという名の夢魔は、穢れた私の劣情ごと味わうようにその指を舐ってみせた。
 女の指と爪の感触が残る舌に載ったままのチョコレートを、私は思い出したように砕いた。甘いと思ったのはあまかった。ほろ苦いどころではない。エクストリームにビターなそれは、紛れもなく、正真正銘の罰だった。
「にが--」
 思わず口に手を当てる。
「チョコは嫌い?」
「嫌いじゃないけど、でも、けっこう……。ぐっ、あと味にが!」
「かわいいねえ、ショーヘー」
 レイカは目を細めて私の反応を見ていた。たぶん、ではなく明らかに私は弄ばれている。この場に相応しくない者には相応しいあしらいだ。しかも屈辱にまみれながら悪い気はしないのだから我ながら情けない。いっそこのまま遊ばれてしまおうか。そうして私は堕落するのだ。訪れるべきではない地へ踏みこんだ罪と罰を、私は飲みこんだ。
「よく食べれたわね。ショーヘー」
「やっぱり……おかしいと思ったんだ。レイカのは?」
「さあ、どうかしらね。教えてあげない」
 いったい私は何連敗すればいいのだろう。レイカは愉快そうに笑みを浮かべた。
 その時ふと、私は不安に襲われた。レイカと私はただ二人、そこにいた。この空間だけが周囲から隔てられ、もしくは閉じられているような感じがしたのだ。しかしそんなはずはない。となりでは確かに、峰岸が立派な腹をさすりながらユミに話しかけている。
「ってことは、こんなかにいるってことだ」
「えーなんでよー。そんなわけないじゃん」
「こんなカニいるカニ?」
「……」
「おなかにいたら、タララバニ、……騒がにぃでよ、待つバカに。くっそ噛んだ、タ、ラ、バ、ガ、ニ」
「……あは、ほカニは?」
「今度どっかにカニ食いに行かにぃ?」
「わたしカニ駄目なの」

 今宵を謳歌しに集ってくる獅子たちの唸りは次第に増し、釣られるようにそれぞれの饗宴を彩る胡蝶が加わっていった。
 レイカは私のことを知りたがった。生まれはどこか。なぜこの地にきたのか。仕事や趣味、好きなスポーツはなにか。ゴルフの腕前は。休日は何をして過ごすのか。初めて店に来たのはいつか。その時ついた女は誰か。そして私も、やはりサオリが目当てなのか。
「いや、み……」
 口にしかけた固有名詞を寸前で引っ込めた。すでに先手を取られていた。サオリ目当てでミストに行こうと誘ったのは私であり、峰岸ではない。今さらそれを覆すのが良策とも思えない。普段からボーっと生きているからこういうことになる。
「ふふ。ホントは……なんでしょ」
 レイカが瞳の動きだけで私のとなりを示す。全肯定はできぬと抗議する道義心を抑え込み、私は小さく頷いた。ささやかな秘密が、私たちのあいだで共有された瞬間だった。女たちはみな賢い。
「ショーヘーはそんなヒトじゃない」
 私の耳もとまで顔を寄せ、レイカは甘美な恋の囁きのように呟いた。だが、その慰めを手放しに喜ぶ気にはなれなかった。まるで”そんなではない”という脱出不可の窮屈な塔に封じこめるための呪文のようではないか。そんなヒトとはどんな人なのか。私はそれほど潔癖なのだろうか。妻…………サオリ……。なんでもないひと言にこうも心を揺さぶられるのは何故だろう。だが、確かに……
 俺はこんなことを求めて来たんじゃないのに。
 スコッチミスト城の宴は高潮(こうちょう)を迎えようとしていた。熱い声が響き、笑いと嬌声がはじけては消える。もう小難しいことを考えるのは止めて、私もこの享楽に酔い痴れなければ、と顔を上げた。前に立つワイン色の女が揺れ、追って頭がくらりとした。
 まただ。
 しかし眩暈はすぐに治まった。酔いがまわったのか、それとも疲れのせいなのか。私はひとつ、深呼吸をした。
「どうかした? ショーヘー」
「ちょいクラっとなって。ここんとこ疲れてたから。でももう治ったよ」
「仕事?」
「うん……いや、レイカにこっ酷くやられたせいかも」
「ふふん。ならもっとイジメたくなる」
 レイカの目は本気なのか冗談なのかを語らない。
「よろしい、かかってきなさい。と言いたいとこだけど……勘弁していただきたいです、レイカさま」
「さあ、どうしようかしら。と言いたいとこだけど、よろしい。ゆるしてあげる。ショーヘーさま、まだお酒を飲まれても大丈夫かしら」
「大丈夫」
 空いたグラスに手をかけたレイカの視点が遠くに動いた。突如、ちらちらと揺れていた瞳の炎が豪と燃え上がる。その(たかぶ)りは一瞬だったが、鈍感な私でも気づいたほどだ。つられて振り向くと、扉を開けて入ってきた白いコートが目に映る。彼女は一人ではなかった。不気味な影のようにサオリの後についてくるのは、背の高い、身に纏うものすべてが黒づくめの男だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み