第5話

文字数 5,089文字

 わたしには終わった話でも、あなたには始まりに過ぎない。どこかで聞いたような、ありふれた台詞かもしれないが、人の関心なんてそれぞれだし、互いの立ち位置を主張しあっても栓のないことだろう。
 ゆっくりと走る前の車に合わせて、私は適度な距離を保ちながら運転をする。猛烈な勢いで私のうしろに迫ってきた車が、ヘッドライトが見えないほど車間距離を詰めてきて、ときどき車体を左右に振る。
 峰岸が未練を引きずるのはよく分かる。彼にしてみれば、物語はまだ始まってさえいないのかもしれない。対向車が過ぎると、自動車というよりも小ぶりの箱という方がしっくりくる車は、イライラを爆発させたような音を浴びせながら私と前の車を追い抜いていった。
 私だって「ほんとうに興味ないのか」と問われて、「ない」と言い切れるほど無欲な人格者なわけではない。ないが……いや、考えるのはよそう。きっと明日からの試験は忙しくなる。
 大通りとの交差点で、けっきょく私たち二台はさっきの小箱に追いついた。さらに前にはダンプトラックがいて、もはや小箱にしか見えない車に黒煙を吹きかけながら、鉄壁のブロックを()めていた。信号が変わり、規制など知ったことかとばかりに煤煙を撒き散らす鉄の塊を先頭にして、四台の車がのろのろと直進をする。孤高に聳え立つ電光掲示板は、どうやら非常事態の宣告には飽きたらしい。甘酸っぱい恋愛ごっこを繰り広げる女の子たちのアニメ画を、ひっきりなしに映していた。
 確かにあのサオリという女には、男を惹きつけてやまぬ何かがある。

 あの日、私がほぼ独身状態であることを的中させたあとも、サオリはずっと私についたままだった。微妙にかみ合わなかった会話も徐々に波長が合ってきて、私たちは他愛のないおしゃべりを弾ませていた。
 そんなときに限って邪魔というのは入るもので、突如として奥の方から怒声が上がる。カウンターの端にいた男が椅子を倒して立ち上がり、目の前にあるものを手でなぎ払った。ガラスの弾ける音があたりに響く。
「ぶっ殺すぞンんのヤロウ!」
 それ以外は男が何を叫んでいるのか聞き取れなかった。カウンターに拳を振り下ろし、転がった椅子を蹴り飛ばす。そしてフロア側へと身体をひねろうとした瞬間、隣の巨漢が--キンちゃんは知らぬ間に席を移っていた--制御不能と思しき男の胴を、左腕でむずと抱え込んだ。さらに右手でもって男の喉元を締め上げる。抵抗も空しく、男はすぐにおとなしくなった。圧倒的な力による拘束が解かれると、マヤが戻した椅子に身体をがくりと落とす。ゆっくりと腰が折れていき、別の意味で制御を失った男は最後に、慈悲深き大きな手に包まれながらカウンターに突っ伏した。隣のプロレスラーは左手を抜き、何ごともなかったようにその巨大な背中をふたたび私たちに向けた。
「あのひと酔っちゃうと、時々あんなふうになるの」
 唖然とする私にサオリがそんなことを言っているところへ、カウンターから薄黄色のスーツを着た女がやって来る。そしてサオリの耳元で何ごとか囁いた。サオリはわずかに眉間を寄せ、この場にいる誰かに向けて手厳しいひと言を投げた。
「いいわ、放っておけばいい」
 用事を告げに来た女は、どうしたものかという顔をした。
「ユミちゃん、ちょっと」
 カウンターから声がかかり、ユミちゃんはカウンターとサオリを交互に見やってから、「はあい」と返事をして戻っていった。サオリは俯き加減に、透けるように白い顔を黒髪で半分隠し、細い声で呟いた。
「しつこいのは嫌い」
「いるんでしょうね、けっこう。そういうお客」
 こちらからはよく見えなかったのだが、あのイカレ野郎の姿が気になって、あんなのを相手にしなければならないとしたら、仕事とはいえ彼女も大変だろうな、などと心配したりして、私はかなり間抜けなことを言った。
「そうね。わたし、おとこ運ないし」
「僕も、おんな運はまったく無いです」
 ほのかに自嘲を含むような笑みを浮かべ、サオリは落ちたままの髪の間から目線を起こした。
「わたしたち、運のないもの同士なのかしら」
「う……ん。かもしれません」
 男運のない女が、ほんの少しだけ口角を上げた。
「でも、じゃあ……今夜のことは?」
 髪をたおやかにかき上げて、試すような眼で問いかけた(ひと)は笑みを浮かべ、回りが鈍くて女運のない男の、粋で気の利いた返し歌を待った。
「出会ってしまったのかもしれません。その……」
「その?」
「その--」
「運命の人に?」
「そうです」
 大真面目を気取り、私はサオリを見つめた。彼女もまた、同じように私のことを見ていた。そしてふたり同時に--私の方がわずかに遅れて--噴き出すと、腹を抱えて笑った。そんな歯の浮くような戯れも、なぜかここでは、この日だけは許される気がした。「さあ。機は熟したの。分かるでしょ」とでも言うように、サオリは瞳の中に私の姿を収めながら身体を浮かせた。そして私の隣に腰を下ろし、その身をすっと寄せた。
「すてき。たとえ嘘でも」
「嘘じゃない」
 私は酔っていたのだ。真実でも嘘でも、相応の覚悟を要するはずの言葉を、私は思わず口にしていた。
「いいの。今だけでもこうさせて」
 拙い私の嘘を包み込むように囁いて、サオリが私の肩に頬を乗せた。腕を絡ませ、身を任せる。それは長いような、短いような、甘く苦しい拷問の時間だった。他の客や店の女たちの視線が私たちを串刺しにする。でもそんなことはもう、どうでもよかった。薄暗いはずの照明でさえやけに眩しいのがもどかしく、私は強く彼女を抱きしめてしまいたい衝動に身を持て余した。そして、この時間がずっと続けばいいのにと、あらぬ何かに願った。

 しばらく止んでいたカラオケの伴奏が響くと、サオリはまどろみから覚めたように身を起こした。
「ね、踊りましょ。風間さん」
 彼女の、ひんやりとした細い指が伸びてくる。見惚れるほど美しい放物線を描き、真珠色にかがやく爪の先が私の手の平をなぞる。何もかもをかなぐり捨てたくなって、私は誘われるままに立ち上がった。
 ねこ背で痩せた坊主頭のメガネ男が、ひとり舞台さながらに米米クラブの”SEXY POWER”という歌を熱唱していた。歌はお世辞にも上手いと言えるものではなかったが、私は宙を舞うような気分でサオリと踊った。彼女は私の首に手を絡ませて私を見つめ、私はしなやかに揺れる彼女の腰に手を当てた。
 たまらず引き寄せると、女の身体はするりと私の中に落ちた。白いドレスの、滑らかにすべる感触が手に心地よかった。柔らかな胸のふくらみが肋骨を優しく圧した。おんなの匂いが頭の芯まで痺れさせた。求め合うように妖しく腹部が擦れ合い、オンナの息遣いに身体が震える。それはまるで、どこか儚い世界から訪れたモノの、ぬるくて甘美な(いざな)いだった。いっそこのまま冥界まで連れられてもいいと私は思った。いや、むしろ連れ去ってもらいたいと強く望んだ。
 しかし、永遠に続く夢はない。演奏が終わってなお、私たちは抱擁を続けていたが、やがてサオリはそっと私から身体を離していった。いまいちど私を見つめ、それから彼女は私の手を取ってソファーへと導いた。彼女もまた、元の丸椅子に落ち着いた。

 ほどよく興が覚め、ふたり言葉少なに向き合っていると「代行が来たよ」とさっきのユミちゃんの声がした。何のことかと思ったが、すぐに思い当たって私は血色を失った。
 峰岸のことをすっかり忘れていた。あせる私の視界の端に、カウンター席から立ちあがる巨体が映りこむ。大男は血の通わぬ者の表情でこちらへずかずかとやって来ると、横になっている峰岸の身体をソファーからひょいと持ち上げた。担がれた峰岸の腕が、中身の抜けた着ぐるみみたいに揺れる。とんでもない怪力の持ち主はひと言も発することなく身体の向きを変えて歩き出すと、そのまま店を出て行ってしまった。目の前で起きたことの意味が理解できない私は、その様をただ眺めていることしか出来なかった。
 はっとなってソファーから身体を引き剥がす。フルラウンドを終えたところのボクサーのように腰が重かった。どれほど楽観的に考えても楽しいとは思えぬ未来予想図が錯綜する中、なんとかしなければ、という思いだけが私を峰岸救出へと駆り立てた。
 しかし、私は大きなキンちゃんのあとを追うことは出来なかった。
 見れば、白い華奢な手が私の腕を掴んでいる。振り払おうとする私の腕を強く握り、サオリは私を見上げながら「覚悟もないのに、無謀な挑戦をしてはだめ」とでも言うように首を振った。
「お疲れさまー。あたし、あがりまーす。あっ! トオルちゃん、あの人ちゃんと送ってっから。またねー!」
 上着を着込んだマヤがバタバタと店を出て行った。まだ事態が呑み込めずにいる私の喉からは「ああ」と気の抜けたような音しか出てこなかった。
「大丈夫よ。心配しないで」
 振り絞った勇気のやり場が見つからず、宙ぶらりんのままでいる私の身体を、サオリはなだめるようにソファーに沈めた。
 こういう店だから時々トラブルは起こる。店はそんな時のために大男に来てもらっているのだとサオリは言う。いわゆる用心棒とか警備担当、といったところか。それにしてもちょっと乱暴過ぎやしないかと思ったが、そういう稼業への知見などゼロに等しい私には受け入れる以外の選択肢がない。
「無口だけど、ああ見えてけっこう優しいし、いろいろ助けてくれるのよ」
 サオリが話している間にも何名かの客が店を出て行き、見渡せばいつのまにか客は減っていた。にわかに時間のことが気になり、私は腕時計を見て「えっ」と驚いた。時はすでに午前様だった。そう、宴は終わったのだ。
「明日も仕事?」
「ええ。僕も、そろそろ帰ります」
「そう。……残念だけど」
 勘定は思っていたより高くなかった。そして峰岸を送ってもらったことは、マヤのついでだから気にしなくていいと言われた。酔ってタガの外れた男はカウンターに伏したままだった。またあの大男が--”キンちゃん”は、いくらなんでもチャーミングすぎると思うのだが--戻ってきて始末をつけるのだろうか。
「また来てね。風間さん」
 帰り際、サオリは控えめに手を振って名残り惜しそうに微笑んだ。

 いくぶんましになったとはいえ、外の世界はまだ薄く掠れていて、視界もぼやけたままだった。そして街は、朽ち果てて永久にその営みを止めてしまったがごとく静まり返っていた。寒さはあまり感じない。茫として滲む街灯を見ながら、私は霧に煙る夜道をふわふわと歩いた。

 部屋の明かりを灯けると途端に震えがきて、憑き物が落ちたように意識が明瞭になった。だが、そこには現実があった。私しかいない、無味乾燥な部屋。霧のもたらす不思議な力も、ここまで及ぶことはないのだ。しばし立ち尽くしていた私は大きく息を吐き、空調機を暖房にして浴室へと向かった。
 思いがけないことばかりが起こる一日だった。もしかして今夜、俺はマジで別の世界に迷い込んだのかもしれない。……まさか。どっかの太郎さんじゃあるまいし。
 面倒なので歯を磨きながら熱めのシャワーを浴びる。それにしても、と私は思った。
 乙姫様のもてなしは、いささか過ぎてはいなかったか。
 しまった、と悔やんだ時には遅かった。長らく触れることのなかった人肌の感触を思い出すと、再生される映像はもう止められなかった。「待ってました!」とばかりに招いてもいない客が押しかけてきて、私の中で猛烈に暴れ出す。ひさびさに大暴れをした挙句に飛び出していった客は、ちょっとした屈辱と不甲斐なさを私に刻みつけていったが、混沌とした不浄の沼に落ちていた、冷静に処理をおこなう頭の回路も蘇らせてくれた。
 そうだ。あれはただ単に、亀を助けたお礼だったのだろう。それが”たまたま私”であっただけで、考えてみれば他の誰にでもあり得た話なのだ。勘違いをしてはいけない。不相応な期待などしてはいけない。男たちに一時の夢を見させること、それが彼女の仕事なのだから。
 そう得心すると、歪に膨らみかけた胸の疼きも収まった。

 身体を拭くのもそこそこに、私は身につけるものをつけてベッドに潜り込んだ。偶然だったにせよ、思わぬ褒美がもらえて役得だった。それにとても楽しかったな、と素直に思えた。
 霧の夜には思いがけぬことが起こるものだ。
 今宵のことは淡い夢だったことにしておこう。
 付け足し程度に峰岸のことが浮かんだが、すぐに何もかもが泡となって消えていった。

 玉の手箱だと? 冗談ではない。
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