第8話

文字数 769文字

 それから僕たちは度々会うようになった。スタジオに入って、彼女は僕の作ってきた歌を歌うということを繰り返した。そして、何度も歌っているうちに彼女は歌というものを感覚的に理解し始めたようで、今まで以上に力を持った歌声になっていった。そこには彼女しかなかった。あらゆる存在は姿をなくしてしまって、色もない空間に彼女の歌だけがあった。 

 その姿を間近で見つめている僕はギターを弾きながら、小さな湖のようなものを思い浮かべていた。

 その湖は深い森の奥にあって、木でできた頼りないボートが浮かんでいる。そして僕はそのボートの上で水の上を跳ねて回る光を見ている。すると突然、水面に穴が開いて裸の女が勢いよく浮かび上がってくる。女は僕を見て少しだけ小さく笑うと、細くて透明な手の平を差し出し、何やらキラキラと光る石のようなものをボートに投げ入れる。僕がそれを見ていると、女はまた湖の中に潜ってしまう。僕は女が残していった小さな石のようなものと、湖に広がる波紋とを交互に見続けている。

 僕たちがスタジオ以外でも会うようになったのは、三ヶ月ほどしてからだった。歌を作っているところを見てみたいと彼女が言い出したのだ。僕にとってもその申し出はありがたいものだった。彼女が歌う歌をできるならば共に作りたいと思っていたからだ。
 そしてそれから彼女は僕の家に来るようになり、僕たちは二人で歌を作るようになった。僕が適当にギターを弾き、それに合わせて彼女が歌ったり、彼女が適当に歌う歌に僕がコードをつけていったりした。

 その日々を今思い返してみると、僕はとても嬉しい気持ちになる。あの頃の僕たちにはまだ何ひとつとして厄介な問題はなかったし、ただ歌を中心に置いて、それを取り囲むようにして生活していただけだった。その些細な日々こそを僕は大切にしていきたいと思っていた。
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