第6話

文字数 900文字

 彼女の声が離れなかった。朝起きて派手な部屋を見渡し、彼女が既にいないことに気付いた時も、一人で部屋を出て生暖かい朝に迎えられた時も、人間や車やらの混濁した空気の中を歩く時も、日曜の電車の中でも、一人きりの家に帰って来た時も。
 
 常に彼女の声があった。

 それは何かに例えることができるほど浅はかなものではなく、何か決定的なものであるように思えた。簡単に言ってしまえば彼女の声は唯一無二のものだった。そういった稀有の才能を持った人間が世の中には僅かにいることを僕は知っていて、そしてその僅かな人間がもうこの世界には存在していないことも知っていた。

 彼女は我々が見当もつかないようなとてつもない才能を、まるで洋服を着るかのように自然に身につけてしまっていた。

 僕は彼女の歌をちゃんとした形で聞きたいと思った。それに、そうしなければならなかった。彼女は無自覚のうちに内面に潜むその才能を誰かに気付いて欲しいと叫んでいた。だからこそあの夜に彼女は僕と寝た。そして裸のままで叫ぶように微かな声で歌ったのだ。
 僕はもはやその瞬間から彼女に取り込まれていて、逃げ出すことなどできなかった。例えあの夜の出来事のせいで彼女の才能を殺してしまっていたとしても。それでも彼女はやはり僕に救いを求めていたのだ。


 次の日曜に彼女に電話をかけた。何度かけても彼女はでなかったが、留守電に、君の歌を聞いてみたい、と残した。それから一週間たってようやく電話がかかってきた。彼女は、歌なんて歌えない、と言ったが、必死になって説得をすると、あなたが作った歌なら考えてもいい、と言った。意外な返答ではあったが、断るわけもなく了承した。歌ができたら連絡する、と言って電話を切った。

 僕は久しぶりにギターを手にとり、歌を作った。四六時中、歌のことだけを考えた。食事をするときも、働いているときも、ビールを飲んでいるときも、歯磨きをするときも、眠っている間も。僕は歌を作り続けた。やがてメロディが出来上がり言葉を乗せた。言葉は思ったよりも簡単に出来上がった。
 そして歌は完成した。スリーコードのとてもシンプルな曲だった。

 彼女はその歌を歌った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み