第12話

文字数 964文字

 壁の黒い染みが蛛に見えると言って、彼女はあくびをした。

 僕たちは交互に曲を選びながら、曖昧な構成を正したり、歌詞を訂正したりしていた。彼女はそのたびメロディを鼻歌で歌った。時々ぼそぼそと歌詞をこぼすと、僕は漏らさずそれらを集めて白紙に積み重ねていった。もう何時間も続けていて、その一連の作業はまるで動物園をいちから作っているようだとこっそり考えていた。しかしその場合、彼女もまた動物であるということを僕は忘れずにいた。

 レコーディングはあっけなく終わった。多少楽器の録音に手間取ったが、全体を通してみればスムーズだった。ドラムは知人に依頼し、ベースは自分で演奏した。なにより彼女の歌がたった一回で終了したことには僕はもちろん、ヨシダも目を丸くしていた。
 彼女は完璧に歌いきった。
 
 僕はガラス越しに歌う彼女を見つめ、スピーカーから聞こえる彼女の歌声を聞きながら、彼女が行っていることは、誰が作ったわけでもなく本来的に存在している歌を、必死に思い出そうとしていることなのではないかと考えていた。
 そしてそれこそが表現と呼ぶに最も相応しいと今でも思っている。


 ヨシダは、ミックスは知り合いに頼むよ、と言った。いつもなら自分でやりたがったが、今回は手に負えないと彼は言った。僕は笑いながらありがとうと言った。

 レコーディングを終えて、ヨシダも含めた僕たち三人は打ち上げという形で近くの居酒屋に入った。席につくと彼女は真っ赤なコートを壁にかけて僕の隣りに座った。
 久しぶりに楽しく酒を飲んだ。彼女も笑っていたし、ヨシダも楽しそうだった。その空間だけを綺麗に切り取って、ポケットに入れて持ち歩けたら素敵だな、と思った。

 僕は随分と酔っ払っていて、ビールの入ったグラスを倒して彼女の洋服を濡らしてしまった。彼女は笑いながらおしぼりで洋服を拭いた。そして濡れた袖を捲って、クリーニング代よろしくね、と笑った。

 その瞬間、袖からのびる、細くて白い腕が傷だらけであることに気付いた。彼女は僕の視線には気付かず笑い続けていたが、笑うたびに左腕の傷が微動するのを視界の隅ではっきりととらえていた。

 僕たちがふらふらになりながら外に出ると、綺麗な月は冷たい風に身を縮めていた。僕はそいつにタバコの煙を吹きかけてみた。

 胸が張り裂けてしまいそうだった。
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