第7話

文字数 1,323文字

 「ジョンストン・スタジオ」という、押し付けがましい名前の練習スタジオに僕と彼女はいた。僕がギターを弾いて、彼女は歌った。
 僕は単純なコードを間違える程、彼女の歌声に圧倒された。

 彼女の歌は完成されていた。自分の作った歌がこれほどまでに力を持ち、激しく胸を打つとは思わなかった。
 もはやその歌は僕という存在をはるかに超越し、僕の脆弱な手の平から離れ彼女の歌になろうとしていて、事実彼女の歌として完成されていた。

 約三分ほどの曲を演奏し終わると、手の平は汗でじっとりと濡れていた。ただギターを弾いただけというのに、ひどく息切れしていた。そして演奏が終了しても、狭いスタジオの中には言い知れぬ空気が漂っていた。それは例えば、崇高だとかそういった言葉がすんなりと当てはまるようだと思った。

「大丈夫?」

 彼女は笑いながら言った。

「たぶん」

 僕は俯いたまま言った。

「君、今まで人前で歌ったことある?」

「あまりないかな。カラオケとかあまり好きじゃないし。それ以外で歌う機会なんてないでしょ?」

「まぁ、そうだろうね。君、まず間違いなく天才だよ」

 僕は彼女を見つめて言った。

「何言ってんの」

 彼女は笑った。

「私はごく普通の人間よ。ただのフリーター」

「残念だけど、君は歌という点においてはごく普通の人間とは遥かに掛け離れた存在だ。それ以外は知らないけど」

「そこまで言われると、さすがに照れるね。そんなに私の歌は上手かったかしら?」

 彼女は笑った。

「上手いとか下手とかそんなレベルの話ではないよ。君は歌を歌わないといけない人間なんだよ」

「ふぅん」

 彼女はそう言ったきり黙った。そして不思議そうにスタジオの中のドラムセットやらアンプやらを弄っていた。

「君、好きなミュージシャンとかいる?」

 僕は彼女の背中に向かって聞いてみた。

「いない。ってか知らない」

 彼女はすぐに答えた。

「そう。知ってるミュージシャンとかならいるだろう?ビートルズとかさ」

「あぁ、名前だけ」

「そっか」

「あと、アレも名前だけなら知ってる」

 彼女はシンバルを優しく叩きながら言った。

「誰?」

「ニルヴァーナ」

 それは意外な解答だった。僕は少し驚いて「なんで知ってるの?」と聞いてみた。

「さぁ、名前だけ知ってる」

 と彼女は言った。

「そう。カート・コバーンは僕も好きだよ」

 と言うと、

「誰ソレ?」

 と彼女は言った。


 僕たちはスタジオを出ると、別れた。また歌って欲しいと僕が言うと、気が向いたらね、と彼女は言った。そして、私が感動するくらいいい歌作ってきたら歌ってやるよ、と笑った。

 僕は一人ぼっちの駅のホームの喧騒の中で彼女の歌声を感じていた。すると、目の前の風景が形を変えていくのがわかった。向かいのホームで規則正しく並ぶ人間や、それを消し去るように横から飛び出してくる電車や、隣でヘッドフォンをつけて携帯電話を弄っている高校生や、その高校生を包む自動販売機の明かりや、尖った声のアナウンスや。そんなすべてがまるでひとつの物語であるように思えた。すべてが演じ合い、影響し合っている。ギリギリで秩序を保ち、調和する。
 すべてが彼女の歌のためだけにあるようだった。

 僕は三本ほど電車を見送ってから、家に帰った。
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