第9話
文字数 1,416文字
彼女が町を歩きたいと言った。
それはたぶん水曜日の昼下がりだったと思う。
駅前の大通りから、中途半端なビルが立ち並ぶ横を通り抜け、商店街をくぐって、小学校の前まで歩いた。そこで小さな喫茶店に入った。確かフランス語か何かの名前の店だったと思う。髭を生やした皺だらけの男がカウンターでカミュだとかの小説を読んでいるような店だった。
僕たちは真っ黒いコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。彼女はしばらく何も喋らなかったが、何かを境に突然喋りだした。それは疑問ばかりで、僕は精一杯答えた。
そんな穏やかな記憶がある。
「ねぇ」
彼女はコーヒーにたっぷりとシロップを溶かしてから言った。
「なに?」
「あの人たちは何について話してると思う?」
彼女の視線の先を追うと、二十代くらいの男女が公園のベンチでこちらに背を向けて座っているのがわかった。
「さぁ、何だろうね。何か楽しい話でもしてるんじゃないの?」
「そう。じゃあ、あっちは?」
そう言って視線を別の方向に変えた。
若い女が三人で何やら楽しそうに笑い合っていた。
「あっちも何か楽しい話でもしてるんだよ」
「ふぅん」
彼女はそう言ったきり黙った。そして真っ黒いコーヒーが渦を巻く様子を覗いていた。
「ねぇ」
また彼女は言った。
「なに?」
とまた僕は言った。
「なんで人は集まりたがるの?」
「集まりたがる?」
僕は彼女が言っている意味がうまく掴めなかった。
「だからさ、何で友達を作ったり、仲間を作ったりするのかってこと。同じ考えを持ったもの同士で集まるのは何で?」
「それは、同じ考えを持っているからだろ」
「答えになってない」
「何て言うのかな。自分の考えが正しいって認められたいんだよ。自分も相手も。認め合いましょうっていう約束があるんだよ、そういうところには」
「ふぅん」
と彼女は言った。
「みんな淋しいんだろうね」
少し笑って言ったら、
「なるほど」と彼女は言った。
「私ね、そういうのを見てていつも思うことがあるの」
「何?」
「ああやって楽しそうに話してるんだけど、実はそれぞれ別の言語を話してるんじゃないかって」
「別の言語?」
「そう。あの人たちはとても楽しそうで、すごく理解し合っているように見えるけど、実はそれぞれが別々の言語で話してて、本当はこれっぽっちも分かってないの。ただ分かったふりをしてるだけ」
時計は午後四時半をさしていた。
「例えば、私があなたこのコーヒー不味いねって言うとするでしょう?そうするとあなたは私に、そうだね今日は雨だから傘を忘れないようにしないとねって言うの。私が言ってること分かる?」
「まぁまぁ」
正直に言った。
「みんな実はそれぞれの言語を持っていて、それぞれの方法で話しているのよ」
僕はその意見についてしばらく考えてから言った。
「でもそれって随分悲しくない?」
「そんなことはないよ」
と彼女は言った。
「悲しいのはそのことにも気付いてないことよ」
僕たちは冷めてしまったコーヒーをしばらく眺めていた。ぬるいコーヒーも悪くない、と僕は思う。
「犬とサイレンよ」
と彼女は突然言った。
「犬とサイレン?」
僕にはちっとも理解できなかった。
「そう、犬とサイレン。犬は救急車のサイレンが聞こえると、オオカミの鳴き声と勘違いして遠吠えするって言うでしょう?私たちも誰かの知らない言語に何かを感じて、自分の言語を返すのよ」
「うん」
「大事なのはそういうことよ」
と彼女は言った。
それはたぶん水曜日の昼下がりだったと思う。
駅前の大通りから、中途半端なビルが立ち並ぶ横を通り抜け、商店街をくぐって、小学校の前まで歩いた。そこで小さな喫茶店に入った。確かフランス語か何かの名前の店だったと思う。髭を生やした皺だらけの男がカウンターでカミュだとかの小説を読んでいるような店だった。
僕たちは真っ黒いコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。彼女はしばらく何も喋らなかったが、何かを境に突然喋りだした。それは疑問ばかりで、僕は精一杯答えた。
そんな穏やかな記憶がある。
「ねぇ」
彼女はコーヒーにたっぷりとシロップを溶かしてから言った。
「なに?」
「あの人たちは何について話してると思う?」
彼女の視線の先を追うと、二十代くらいの男女が公園のベンチでこちらに背を向けて座っているのがわかった。
「さぁ、何だろうね。何か楽しい話でもしてるんじゃないの?」
「そう。じゃあ、あっちは?」
そう言って視線を別の方向に変えた。
若い女が三人で何やら楽しそうに笑い合っていた。
「あっちも何か楽しい話でもしてるんだよ」
「ふぅん」
彼女はそう言ったきり黙った。そして真っ黒いコーヒーが渦を巻く様子を覗いていた。
「ねぇ」
また彼女は言った。
「なに?」
とまた僕は言った。
「なんで人は集まりたがるの?」
「集まりたがる?」
僕は彼女が言っている意味がうまく掴めなかった。
「だからさ、何で友達を作ったり、仲間を作ったりするのかってこと。同じ考えを持ったもの同士で集まるのは何で?」
「それは、同じ考えを持っているからだろ」
「答えになってない」
「何て言うのかな。自分の考えが正しいって認められたいんだよ。自分も相手も。認め合いましょうっていう約束があるんだよ、そういうところには」
「ふぅん」
と彼女は言った。
「みんな淋しいんだろうね」
少し笑って言ったら、
「なるほど」と彼女は言った。
「私ね、そういうのを見てていつも思うことがあるの」
「何?」
「ああやって楽しそうに話してるんだけど、実はそれぞれ別の言語を話してるんじゃないかって」
「別の言語?」
「そう。あの人たちはとても楽しそうで、すごく理解し合っているように見えるけど、実はそれぞれが別々の言語で話してて、本当はこれっぽっちも分かってないの。ただ分かったふりをしてるだけ」
時計は午後四時半をさしていた。
「例えば、私があなたこのコーヒー不味いねって言うとするでしょう?そうするとあなたは私に、そうだね今日は雨だから傘を忘れないようにしないとねって言うの。私が言ってること分かる?」
「まぁまぁ」
正直に言った。
「みんな実はそれぞれの言語を持っていて、それぞれの方法で話しているのよ」
僕はその意見についてしばらく考えてから言った。
「でもそれって随分悲しくない?」
「そんなことはないよ」
と彼女は言った。
「悲しいのはそのことにも気付いてないことよ」
僕たちは冷めてしまったコーヒーをしばらく眺めていた。ぬるいコーヒーも悪くない、と僕は思う。
「犬とサイレンよ」
と彼女は突然言った。
「犬とサイレン?」
僕にはちっとも理解できなかった。
「そう、犬とサイレン。犬は救急車のサイレンが聞こえると、オオカミの鳴き声と勘違いして遠吠えするって言うでしょう?私たちも誰かの知らない言語に何かを感じて、自分の言語を返すのよ」
「うん」
「大事なのはそういうことよ」
と彼女は言った。