第十九章 勇人 2
文字数 4,875文字
それからというもの、島田は頻繁に勇人の部屋を訪れてくるようになる。
マジック画なる自作の絵を見せに来たり。あるいはこれといった用事もなく、ただ
絵は、なるほどつまらない。
それはもう正直、つまらない。
一見、どの絵もただただ真っ黒けなのである。
しかしよくよく見てみるとそれが地下水路の光景だと辛うじてわかってくる。
蓋のあいたマンホールから地上の光が、まるで月影のように地底の汚水に貼りついていたり。
そんな闇のなか、こうもり傘をさしてたたずんでいる人影であったり。
堆積したゴミの中州に群生する夜光のキノコであったり。
一面の闇のなかに、
たしかに手はこんでいる。
時間もかかるだろう。
が、説明がなければ何が何やらわからぬほどに抽象ぶっており。
とりわけそのぶった感じが、勇人には退屈でしかない。
それでも、少なくとも島田の訪問は勇人の日常に貴重な変化を与えることにはなった。
勇人はいまや消極的無職。
部屋でひとり、鬱々として時間を潰しているだけであったから、島田が面白おかしく話してくれる闇社会での武勇伝やら、オンナの話が新鮮でならない。
次第に島田が遊びに来るのを心待ちにするようにさえなっていった。
島田も、そんな勇人の退屈ぶりを気にかけたのだろう。あるとき、
「いま、人が足んねえんだけど。ちっとばっかし手伝いに来てみねえけ」
例のカジノ。609号室へ勇人を誘った。
アルバイトとして給料も出すという。
なんせ同じマンションのなかだ。かてて加えてこちらが暇を持て余しているのは隠しようもない事実なのであって、断る理由もなく。
というよりも、好奇心が勝ってしまったのが本音であり、下心でもあった。
驚いたのは、島田たちはマンションの玄関からエレベーター付近、そして609号室までの廊下を複数のカメラで監視していたことである。
いったいいつの間に仕掛けたのか。
それらはマンションの防犯用とは別のもので、たとえその設置個所を教えられても容易には見つけることができない。それくらい小型なカメラが、非常灯や消火栓を利用して巧妙にカモフラージュされてあった。
それらがとらえた映像はカジノ内のモニターですべて確認ができる。
客は会員制で、来店直前に必ずメッセージを入れるきまりだから、不審な者が紛れ込もうとすれば、すぐにわかるようにもなっていた。
そのうえドアは二重。
どちらもふたつずつ鍵が施され、鉄製で分厚い。
勇人が詰めるのは、この第一と第二のドアのあいだ。わずか二畳ばかりの
仕事はこれら防犯カメラのモニター監視と客の照合。および玄関のオートロックと部屋の入口つまり第一のドアの開閉。
いわば門番だ。
その後、第二のドアのなかに合図をして、勇人が確認した客だけをなかへ通してもらうと。
この厳重な仕掛けの理由は無論、警察対策。踏み込まれた際に、証拠隠滅の時間を稼ぐためであるとか。
となると、島田の頻繁な訪問は、勇人がそれを任せるに足る人物かどうか、その品定めの意味もあったのかもしれない。
現に島田は、それ以降とんと部屋を訪ねてこなくなったのだから。
カジノの営業はそこに住み込ませている島田の舎弟たちと、寄せ集めのアルバイトにまかせっきりとなり。
で島田当人はというと、九階に借りた別の部屋にたまに帰ってくるくらい。
勇人はといえば、日暮れとともにカジノの609号に詰め、夜明けとともに帰宅する日々となる。
仕事が単純なだけにすぐに客の顔は覚えたが、勝手のわるい密室のために、かえって暇をもてあましてしまう。門番がてらにクリアした携帯ゲームの数ばかりが増えていった。
たしかにギャラはいい。
だが勇人は経済的にせっぱつまっているわけでもなく。
また、期待していたような刺激も、それ以上は望めそうになかった。
やがて、何人かの常連が話しかけてくれるようになると、わずかだがそれだけが楽しみとなっていって。
密室の退屈が、人恋しくさせるらしい。
なかに目を引く女がいた。
黒髪のストレートを腰までのばした、脚の綺麗なひと。
表情や振る舞いがてきぱきとさわやかで。
そう、その風情。まるでサバンナのガゼルのよう。
彼女はそこで「姫」と名乗っている。
場が場だけに本名を明かすものはひとりもいない。
おそらくは島田だってそうに違いない。
でもだからといって「姫」はない。
大概がサトウやスズキといったありふれたものにするか、アニメキャラクターからの引用で済ますというのに。
そこからして姫は客のなかでも異彩を放っていた。
しかも、たかだか門番である勇人にさえ呼び捨てを許したから、自然「姫っ」と、やりとりがまぬけなコントになってしまうのである。
このカジノは紹介がなければ出入りができない。
そしてそのほとんどがその筋の者。もしくは関係者、という説明を受けていた。
ならばこの一見気さくな姫も、洒落にならない団体さんを背後にしている可能性がなくはないというわけだ。
なので決して深入りせずに、あくまで客と店員の一線を越えぬようにと、勇人は釘を刺されている。
実際、ここへ初めて姫を同伴してきたのは
組のトップのお抱え占い師だという噂があった。
真相はどうであれ、少なくとも
まもなく姫はひとりで遊びにくるようにはなったが、そうは言っても相手はお客。そっけなくはできんぞ。という心の隙をついて、姫はずけずけと勇人の中に踏み込んできたのである。
ドアからドアへのわずかな時間にちょっとした差し入れをくれた。
たしか、始めはそんな接触からだ。
それは流行のスイーツやキャンディといった他愛もないものだったが、そのさりげなさ、心遣いとして嬉しくないはずがなく。
ましてや相手は「姫」であるのだし。
自然、門番にとっては、ありがたき仕合せ、であっていい。
「おっ。ゾゾンビ」
監視モニターの上に投げ出しておいた携帯ゲームにも、姫は食いついてきた。
ゾンビ退治ゲームの古典『バイオハザード』を、ゾンビ側からの視点で作った。というより、パロったシュミレーション・ゲームで、ファンがクラウド・ファンディングを後ろ盾に開発したことで話題となった。洋館に侵入してくる特殊部隊をプレイヤー率いるゾンビ軍が全滅させるのが目的である。
それぞれ能力の異なったゾンビたちを、敵や地理的状況にあわせて配置したり、トラップを仕掛けたり、また敵が回復に使うハーブの園を、こまめに枯らしてまわったりと、戦略の意地のわるさだけが一部にウケた。
が、いかんせんミッションのことごとくが悪意に満ちた難易度で。
そのくせ、クリア時の爽快感はまったくなく。そこを有名ゲーム動画配信者に
ゾンビが人を食い殺すシーンが、やけに生々しかった。
絶命するまでがやけに長いし。
くわえてその断末魔の叫びは思わず耳をふさぎたくなるほど真に迫っており、倒した隊員の所持品から家族からの手紙や写真を見つけ出し、それをヒントに攻略するという仕組みなので進めれば進めるほどに苦いものがこみあげて、やるせないことこのうえなくなる。
結局、倫理的にも糾弾されて、糞ゲーとして世間から葬りさられてしまったのである。
まことにもってゾンビらしい最期ではないか。
しかしこのゲームの音楽を、先に触れたガッデム・ポイントの初代ベーシスト、ロロがつとめているのだから、ガッデムマニアにとっては見逃せない。
とりわけエンディング・テーマが語り草で、勇人はただそれを聴きたいがためにプレイしていたにすぎないのだが、案の定、あまりの苦さと難易度に挫折してしまっていたのである。
姫が見せた意外な好奇心に、勇人がついそんな事情まで口走ってしまうと、
「じゃそれ、クリアしてきてあげる」
そうすればその曲が聴けるんでしょ。と四の五の言わさずにソフトを奪って行ったのである。
なんでもゾゾンビの達人が仲間にいるという。
現に三日と要しなかっただろう。ラスボス戦直前のデータで姫がそれを返してきたのは。
「あとは君次第だな」
ありがたきしあわせ。
ガッデム・ポイント関連で勇人が聴き逃していたのは、このゾゾンビのエンディング・テーマだけなのであった。
かくして、我らがゾンビ軍団は現地対策本部の制圧に成功。
敵特殊部隊員のすべてをゾンビ化し、これを仲間に組み入れていた。
彼ら元特殊部隊ゾンビたちは持ち前のハッキングスキルで政府の陰謀をつかむことに成功する。
それによれば政府は洋館を町ぐるみで隔離。投入した特殊部隊ごと核実験を装って消滅させようと企んでいたことが明らかとなる。
真相を知った新生ゾンビ軍は、それまで各自の破壊衝動にまかせていた戦い方をあらためて一致団結。この事実をネットを通じて国際社会に暴露。
事の是非を世に問いかけたゾンビ軍団長の演説は哀しいかな人語として不明慮。対訳不能という有様ではあったが熱だけは帯びに帯びたことで大衆の琴線を刺激し、これが相次ぐ共感の炎上を誘爆して、ついに世論を動かすかに思えたのだが時すでに遅し。
小型核を搭載した遠隔操作ロボット軍がすでに町に押し寄せていたのである。
迎え撃つはゾンビ軍。
文字通りの棄て身の闘いを繰り広げ、特殊能力を持つボスゾンビや士官クラスを次々と失うがゾンビ軍最大の強味は雑魚ゾンビの無限発生にあった。この怒涛の人柱ならぬゾンビ柱によって、ついにロボット軍を阻止してのけるのである。
エンディング・ムービーは、勝利した雑魚ゾンビたちが累々たる仲間の屍骸を踏み越え、バリケードを破り、自由を求めて世界へと旅立つという紺碧の空が目にしみる印象的なシーン。
そのとき、
「ダディ!」
遠くから両手をひろげ、抱擁を求めて駆け寄ってくる青い目の少年。
少年はゾンビ退治に出たまま帰ってこない父を、ひとり町はずれに残って待っていたのである。
封鎖区画からぞくぞくと溢れだしてくる雑魚ゾンビの群れ。少年はそのなかに父の姿を認めるのだが、すでに父には人間だったころの記憶は無く…。
ギター・リフから始まる肝心の曲は、B級ホラーにありがちなデジタル・ロック調。
その方面で有名な誰かさんのにそっくりではあった。
拍子抜けがしたが、初めてロロの歌が聴けたのは収穫で。ベースの黒さとは対照的にその声は甲高く、妖しげな艶もある。
これで俄然ロロのソロ・アルバムへの期待が高まった。そのレコーディングが中断されて早三年。ファンは待たされ続けているのである。
これが馴れ初めとなって姫は勇人の部屋に入り浸るようになっていく。
もとより勇人の部屋はカジノの目と鼻の先。
同じフロアなのだ。
気づけば、どちらがそれを求めたというでもなくごく自然に、それはものの見事にそうなっていった。
それでも、姫の
おかげで異性としての一線は越える予感もなく、また関係を深める機会もないままに二人は字義通りの茶飲み友だちとなったのである。
そう「客と店員の一線を越えるな」という島田に差された釘が脳裏にあったのは事実だが。
それは博打で明かした朝、姫を送迎するバイクの男が現れるまでの束の間の付き合いだ。
たかだかそれだけだ。
姫は勇人の手によるコーヒーやスイーツ、ときに茶漬けなんぞを愉しみながら、他愛もない話に屈託もなく笑って過ごした。
この関係は「一線を越えた」といえるのだろうか。
警戒すべきは「男女の一線」ではないのか。
島田の差した釘は、暗にそれを匂わせたのだとも考えられるのだし。
もとよりその島田がここのところとんと顔を見せなくなってもいる。
ならば、この一線さえ固持すれば―。
「ともだち、ともだち♪」
そんな頃であった。
旧友のタイラから奇妙な宅配便が届いたのは。